アルゼンチンはかつて世界的な経済発展を謳歌していた豊かな国でしたが、1991年に導入されたカレンシーボード制度によってインフレは一時的に収束し、短期的には安定した通貨とインフレ率をもたらしました。しかし、長期的な視点から見ると、持続可能な解決策ではありませんでした。
その後、2001年に史上最大のデフォルトを宣言し、国内は深刻な経済危機に陥りました。貧困層が取り残され、経済的な格差が拡大し、都市部にはスラム街が広がりました。この記事では、アルゼンチン経済の歴史やスラム街の実情など、その背景や現状について解説しています。
Slums in Argentina
財政破綻の常連国「アルゼンチン」
アルゼンチンは20世紀初頭には非常に豊かな国であり、世界的な経済発展を享受していました。しかし、その後の経済状況は大きく変化しました。第二次世界大戦後も経済的な繁栄を続けたものの、政府の放漫財政や累積債務問題、そしてハイパーインフレが経済を苦しめるようになります。
1991年にアルゼンチン政府がカレンシーボード制を導入し、1ペソ=1ドルの相場固定制を採用したことで、ハイパーインフレは一度収束しました。この政策は、短期的には安定した通貨とインフレ率をもたらし、外国からの資本が流入しました。その結果、アルゼンチンは一時的に高い経済成長を達成しました。
お金の返済ができなくなった
しかしながら、1990年代後半から2000年代初頭にかけて、アルゼンチン経済は再び危機に陥りました。
いくつかの政策失敗によってインフレが悪化し、経済状況が悪化。通貨ペソの価値をドルに対して固定するカレンシーボード制は、一時的にインフレを抑える効果がありましたが、長期的な視点では持続可能な解決策ではありませんでした。
カレンシーボード制が導入されたことで、短期的にはインフレが抑制され、投資が増えましたが、経済の構造的な問題は解決されませんでした。固定相場制が続く中で、輸出が減少し、国の貿易収支が悪化しました。さらに、政府は財政支出を抑制できず、国の借金が急増しました。
21世紀に入るころには、アルゼンチン経済は破綻寸前の状態に陥りました。国民の協力が得られないまま、政府は財政を立て直すことができず、アルゼンチン国債とペソが暴落しました。
新たな資金を調達できなくなり、ペソの需要も減少し、アルゼンチンは外国からの借金を返済できなくなりました。結果として、2001年にアルゼンチンは史上最大のデフォルト(債務不履行)を宣言せざるを得なくなりました。
この危機は、アルゼンチン経済に深刻な影響を与え、多くの人々が失業や貧困に苦しむこととなりました。
富裕層は国外へ!貧困層は国内に取り残された
破綻後のアルゼンチン経済は、国民に大きな影響を与えました。通貨ペソが急激に価値を失い、インフレが加速したことで、物価は上昇し、賃金は低下しました。この悪循環は、生活必需品や食品などの価格が急騰し、国民の生活を圧迫しました。
経済的混乱と生活苦が重なり、デモや暴動、犯罪が増加しました。治安の悪化によって、アルゼンチン国内での生活が困難になり、多くの企業や人々が海外へと流出しました。
イタリアやスペインなどの国々には、アルゼンチンからの移民が増えました。また、国家を支えるはずの知識人たちも、医者をはじめとする専門職が、職を求めてアルゼンチンを離れました。
その結果、アルゼンチン国内では貧困層が取り残され、経済的な格差が拡大しました。
今やデフォルトといえばアルゼンチン
アルゼンチンは、過去に何度もデフォルト(債務不履行)を経験しており、それが経済破綻の代名詞ともいえるほど、国際的にそのイメージが定着しています。
2014年にもアルゼンチンは、債権者との交渉が決裂し、再びデフォルトに陥りました。これは、2001年のデフォルトに起因する債務再編問題が未解決であったためです。
地図に乗らないスラム街「ビジャ」
世界恐慌の際に生まれましたスラム街「ビジャ(Villa)」は、スペイン語で「シャンティタウン」または「スラム」という意味で、アルゼンチンでは「ビジャ・ミセリア(villa miseria – 惨めな村」とも呼ばれます。
主にアルゼンチンの都市郊外に広がっており、特に首都ブエノスアイレス周辺に多く見られます。
アルゼンチンのスラム街の総面積は330㎢にも達し、首都ブエノスアイレスの街よりも広いことが分かります。このような広範囲にわたる貧困地帯は、アルゼンチンの経済格差や貧困問題の深刻さを示しています。
不動産の所有者は、空き家や空きビルが不法占拠されることもあります。これを防ぐために、建物の所有者や管理者は入り口にレンガを積み上げて封鎖し、不法占拠されないよう対策を取っていることがあります。
劣悪な環境
ビジャは市の南部に集中する傾向があり、高速道路の高架橋の下や鉄道線路沿いなど、都市の縁辺や利用されていない土地に形成されることが多いです。
ブラジルのファヴェーラやベネズエラのランチョと同様に、都市部に存在する非公式な住宅地域で、アスファルトが敷かれていない道の脇に窓もなく、水道設備もないバラックが並んでいる。
また、ビジャはほとんどの場合、地図に記載されておらず、道路も未登録のため、救急車や消防車が迷ってしまうことがたびたびあります。また、電気や水道の供給も不安定であり、正規の料金が支払われていない場合も多いです。
このような環境下で暮らす住民の中には誠実な人々も多くいますが、麻薬関連犯罪や銃器を使用した殺人・誘拐などの凶悪犯罪が頻繁に発生しています。
他に生きるための選択肢がない
彼らは不法に家を建て、占拠していることになりますが、貧困層の人々にとっては、選択肢が限られているためにそういった場所で暮らすことが現実的です。
上半身裸でリヤカーを引くダンボール屋「カルトネーロ」
大都会の大通りでは、炎天下の中で見事な肉体美の男たちが上半身裸で堂々とリヤカーを引いて、ダンボールを集めていく光景が見られることがあります。これらの人々は、一般的にカルトネーロとして知られています。
カルトネーロ(cartonero)はスペイン語で「ダンボール屋」を意味し、彼らは行政の清掃局や清掃会社とは異なり、自主的に廃品回収を行い生計を立てています。彼らはリヤカーを使って街を回り、捨てられたダンボールやペットボトル、アルミ缶などのリサイクル素材を拾い集め、それらをリサイクル業者に売却して収入を得ています。
破綻によって増加!
2001年にアルゼンチンが経済破綻を起こした際、失業率が急上昇し、多くの人々が生活苦に直面しました。この経済危機の影響で、かつて正規の仕事を持っていた人々の中にも仕事を失い、生計を立てる手段を求める人が増加しました。
そんな中、「カルトネーロ」と呼ばれるダンボールを集めて小銭を稼ぐ人々が現れました。特に都市部では、経済危機によって脱落組がかなり出ており、彼らは廃品回収を行うことで生計を立てるようになりました。
カルトネーロたちは、捨てられたダンボールやペットボトル、アルミ缶などのリサイクル素材を拾い集め、それらをリサイクル業者に売却して収入を得ていました。彼らの活動は、経済破綻によって生じた貧困の象徴とも言われています。
カルトネーロは、アルゼンチンの経済状況が徐々に改善しても、都市部で見られる現象として残り続けています。
たくさんのカルトネーロがビジャで生活
多くのカルトネーロは、貧困層が集まるビジャのバラックのような簡素な家屋で暮らしています。彼らの生活は貧困や衛生面での問題、治安の悪化など、さまざまな困難に直面しています。
一部の地方政府や団体は、カルトネーロの生活環境改善を目指して活動を行っています。例えば、ラプラタ市のような自治体では、彼らを支援するために共同住宅を建設して収容する取り組みが行われています。
しかし、残念ながら、こういったケースはまれであり、多くのカルトネーロは依然として厳しい生活環境に置かれています
ゴミ漁りから夢を掴んだスーパーモデル「ダニエラ・コット」
ダニエラ・コットは、エリート・モデル・ルックという国際モデル大会で優勝したモデルで、彼女の物語は非常に感動的です。彼女はもともとカルトローネであり、捨てられた段ボールやビンを集め、リサイクル業者に売って生計を立てる貧しい暮らしをしていました。
13歳の時に、彼女は親の仕事を手伝うことに決めました。その頃から、ゴミの中に捨てられた雑誌で高級インテリアの記事に目を留めていたといいます。15歳の時、ゴミを漁っていたある夜、ガラスで手に傷を負ってしまいました。
その傷を手当てしてくれたのがデザイナーのマリーナ・ゴンザレスでした。彼女はダニエラに服をプレゼントし、親切に接しました。ダニエラはその後、マリーナのもとを訪れ、シャワーを勧められました。
シャワーを浴びたダニエラの美しさに、マリーナはモデルとしての可能性を感じ、モデルエージェンシーに勤める友人に彼女を推薦しました。
そしてダニエラはアメリカのElite Model Managementが主催する国際モデル大会に出場し、見事優勝しました。
その後、ダニエラ・コットは、エリート・モデル・ルックに所属し、シンディー・クロフォードなどと並ぶ世界的に有名なモデルとなりました。彼女の成功は、偶然の出会いと親切な人々の支援によって人生が大きく変わることができることを示しています。
Daniela Cott era recicladora en las calles de Buenos Aires, pero su destino estaba en el modelaje. https://t.co/hFQj5v7eoH pic.twitter.com/SvwZL6Dh5u
— RevistaSoHo (@RevistaSoHo) June 8, 2017
スラムの英雄で伝説のサッカー選手! 「ディエゴ・マラドーナ」
ディエゴ・マラドーナは、アルゼンチンの貧しいビジャで育ちました。彼は後に、その環境について「奪われた地域だ。電気も水もガスも何もかも奪われていた」と皮肉を込めて語っていました。しかし、彼はその困難な状況を乗り越えて史上最高のサッカー選手の一人とされるまで成長しました。
マラドーナは、移籍金の記録を打ち破り、イタリアのサッカークラブSSCナポリを成績不振から救いました。さらに、1986年のワールドカップメキシコ大会では、アルゼンチン代表チームを優勝に導く活躍を見せました。
彼の物語は、中南米の「成功物語」として象徴的なものです。貧しい家庭の子供が、サッカーという人気競技を通じて一流選手となり、お金と名誉を手に入れることができました。
都市の発展と引き換えの格差社会!『ビジャの歴史』
アルゼンチンのビジャ・ミセリア(Villa Miseria)は、スラム地域の代名詞ともいえる存在です。1930年代に初めて誕生し、1950年代の急速な都市化に伴って一般に知られるようになりました。しかし、スラムの問題はその後も続き、都市周縁部への拡大が止まりませんでした。
1970年代からは、農村からの移住者やパラグアイやボリビアからの移民が都市のスラムに流入し、アルゼンチン国内の政情不安や経済停滞により、多くのスラム住民が失業と貧困に苦しんでいました。
1983年にアルゼンチンが民政移管を果たし、スラム問題に一筋の光が差し込んだかに見えたものの、新政府は対外債務やインフレ、人権問題の解決に追われ、スラム問題への取り組みが後回しにされてしまいました。
1990年代に入ると、新自由主義経済政策の導入により、市場経済が激化し、アルゼンチン国内の失業や貧困は深刻化しました。人々が仕事を求めて都市に流入し、スラムは数と規模が拡大し続けました。その結果、スラムの生活様式も変化し、薬物の問題が深刻化し、治安が悪化しました。
中でも、ブエノス・アイレスの「Villa 31」は最も象徴的なスラム地域であり、1929年のウォール街大暴落後の1930年代から存在しています。特に、1990年代から2001年のアルゼンチン金融危機時には、スラムの規模が急速に拡大しました。
この状況は、ブエノス・アイレスの高級地区に近いラ・レコレタ空港に到着した外国人に衝撃を与える景観となっています。金融危機後のアルゼンチンでは、貧困層が急増し、国民の半分以上が貧困線以下で生活していました。1998年に比べて、2002年の一人当たり所得は22%も低下しました。
支援センターが誕生「キリストの家」
2008年3月にブエノスアイレス市の南端に位置するビジャ21-24と呼ばれるスラム地区に「キリストの家」(El Hogar de Cristo)が誕生しました。この地区センターは、「スラムのための司祭グループ」によって設立され、スラムに住むパコ依存症の青少年やその家族たちへの支援を目的としています。
現在、6つのスラム居住区でキリストの家が運営されており、これまでに支援を受けた人数は600名を超えています。このような取り組みは、スラム地区に住む人々に対して、薬物依存症の治療や家族のサポートといった形で支援を提供し、地域社会の向上に貢献しています。
キリストの家は、貧困や薬物問題に苦しむ人々に希望と支援を与えることで、スラム地域の状況を改善しようとする一例です。こうした取り組みは、地域社会の連帯を高め、将来の世代がより良い環境で育つことを目指しています。
【世界のスラム街】「南米のパリ」ブエノスアイレスの貧困 ── 繁華街のすぐそばに広がるスラム街《ビジャ Part 2》