
【世界のスラム街】 “富裕層”に全てを奪われた地域「ビジャ31」<前編>
Slums in Argentina
アルゼンチンのスラム街「ビジャ」
財政破綻の常連国「アルゼンチン」
アルゼンチンは、第二次世界大戦に巻き込まれなかった数少ない国として戦後経済の発展を享受したが、その後の政府の放漫財政は累積債務問題とハイパーインフレをもたらし、政府は経済運営に関し苦境に陥った。1991年にカレンシーボード制(1ペソ=1ドルの相場固定制)を導入したことにより、長い間懸案だったハイパーインフレを脱却し、1995年のメキシコ通貨危機直後を除き、海外からの多額の資本流入によって高い経済成長率を達成した。
アルゼンチン国債デフォルト懸念は日本とは無縁の出来事か/一般財団ゆうちょ財団
アルゼンチンは20世紀の前半まではとても豊かな国でした。一時は、1人当たりGDPが世界4位になり、首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と言われました。
アルゼンチンの財政破綻に学ぶ、日本は大丈夫?(一色清の「今日の朝刊ウィークエンド」)/社会を知る | 就活ニュースペーパーby朝日新聞 – 就職サイト あさがくナビ
お金の返済ができなくなった
しかし、20世紀の半ばあたりから政策を失敗し、インフレがひどくなっていきました。通貨のペソの価値をドルに対して固定することにしてインフレを抑えようとしたのですが、今度は輸出が急減して国の借金が急増しました。財政を立て直そうとしたのですが、国民の協力が得られず、21世紀に入るころには、アルゼンチン国債とペソが暴落してしまいました。つまり、新たにお金を貸してくれるところがほとんどなくなり、ペソを買ってくれるところもほとんどなくなったのです。これによって、外国からの借金も返せなくなり、いわゆる破綻となりました。
アルゼンチンの財政破綻に学ぶ、日本は大丈夫?(一色清の「今日の朝刊ウィークエンド」)/社会を知る | 就活ニュースペーパーby朝日新聞 – 就職サイト あさがくナビ
富裕層は国外へ!貧困層は国内に取り残された
破綻後のアルゼンチンは、国民に大きなダメージを与えました。通貨安のために、物価が上がり、賃金が下がるという悪循環を強いられたのです。生活に必要な日用品はもとより、食品までもが大きく高騰するインフラに見舞われます。
繰り返される「国家破綻」アルゼンチンの事例に学ぶこと/Novel Era Limited.2015
混乱にますます拍車がかかり、暮らすことさえままならない国民はデモや暴動、犯罪などを繰り返しました。住むに堪えない治安の悪化は、イタリアやスペインに企業や人口を流出することとなり、国家を支えとなる医者などの知識人たちさえも、職を求めてアルゼンチンから移住していきました。貧困層のみが多く取り残される結果となってしまったのです。
繰り返される「国家破綻」アルゼンチンの事例に学ぶこと/Novel Era Limited.2015
今やデフォルトといえばアルゼンチン
アルゼンチンはこれまで何度もデフォルト(債務不履行)を起こしており、経済破綻の代名詞のようになっている。
アルゼンチンが経済危機を繰り返す最大の理由/Newsweek.2018
アルゼンチンのスラム街「ビジャ」

アルゼンチンの治安は中南米の中では安定している方ですが,ビジャ(Villa:スラム街)が多数存在し,麻薬関連犯罪,銃器を使用した殺人・誘拐等の凶悪犯罪が頻繁に発生しています。特に武装したグループによる強盗や窃盗等の発生率は近年も高い水準で推移しているため,十分な注意が必要です。
一般犯罪の傾向と邦人被害実例/Embajada del Japón en la Argentina
街の地図に現れず、道は未登録、たどり着こうとする救急車は迷い、電気も水道も支払われてない、多くの人にとっては存在しない場所。
アルゼンチン、貧困地帯Villas Miseriaの住民150万人に住居権を配布/Nambei News.2017
貧民街があるのはたいてい、高速道路が走る高架橋の下や線路沿いです。彼らは不法に家を建て占拠していることになりますが、貧民街でなくても市内の空き家や空きビルに入り込み勝手に住み始めてしまうこともあります。そのため、入り口にレンガを積み上げて封鎖し不法占拠されないように対策を取っている建物を目にすることもしばしば。
アルゼンチンの光と陰〜貧民街に暮らす人々〜/地球の歩き方.2019
なお,ビジャは高速道路周辺や,市の南部に集中する傾向にあります。
外務省海外安全情報/外務省 海外安全ホームページ
a.k.a ビジャ・ミセリア
(前略)貧困世帯が居住する地区は,アルゼンチンではビジャ・ミセリア(villa miseria ― 惨めな村)あるいはビジャと呼ばれている。
アルゼンチンにおける社会扶助政策と社会運動(p.205)/宇佐見耕一.研究双書.日本貿易振興機構アジア経済研究所.2005
アルゼンチンの都市の郊外に広がる“Villa miseria/ビジャ・ミセリア(窮乏の町)”は、ブラジルのファヴェーラやベネズエラのランチョに当てはまる貧民街である。1930年代の世界恐慌の際に生まれたこのスラムには、アスファルトが敷かれていない道の脇に窓もなければ水道設備もないバラックが並ぶ。誠実な人も多く住んでいるものの、ドラッグや暴力と犯罪が定着している地区であることは言うまでもない。
インテルキャンパス:ブエノスアイレスを訪問/Inter.it.2013
無法地帯
そういうVilla(ヴィジャ,スラム地域)は警察も訪れるのをためらい,無法地帯(zona liberada)と呼ばれている。
アルゼンチン社会の悪循環――ビベサ・クリオージャと国の不統一(その二)―(p.174)/阿部 清司.千葉大学 経済研究 第25巻第2号(2010年9月)
(前略)Villa Miseriaと呼ばれる貧困地帯をひとまとめにすると、アルゼンチンのスラム街は330㎢になり、ブエノス・アイレスの街より広大になります。
アルゼンチン、貧困地帯Villas Miseriaの住民150万人に住居権を配布/Nambei News.2017
ビジャに多く住む人々「カルトネーロ」

大都会の大通り。炎天下の中を見事な肉体美の男たちが上半身裸で堂々とリヤカーを引いて、ダンボールを集めていく。
東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.2:物乞いして、何処が悪い!/webDICE.2010
段ボールを収集する人は一般的にカルトネーロとして知られている。
米国とメキシコ国境でのリサイクル活動/Our World.2012
カルトネーロ(cartonero)とはスペイン語で「ダンボール屋」を意味し、行政の清掃局とも清掃会社とも異なり、“勝手に”廃品回収をして生 計を立てる人々を指す。
ラテンアメリカ連帯経済の研究に学ぶ(上)/地域・アソシエーション研究所
破綻によって増加!
アルゼンチンが経済破綻を起こした際、「カルトネーロ」と呼ばれるダンボールを集めて小銭を集める人々が増えました。
アルゼンチンのカルトネーロ/Ameba
(前略)特に都市部では、一般人の中で脱落組がかなり出ており、その多くがダンボールを集めることで生計を立てるようになった。
東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.2:物乞いして、何処が悪い!/webDICE.2010
たくさんのカルトネーロがビジャで生活
多くのカルトネーロはビジャに住むが,彼らのバラック生活は本当に惨めである。
アルゼンチン社会の悪循環――ビベサ・クリオージャと国の不統一(その二)―(p.174)/阿部 清司.千葉大学 経済研究 第25巻第2号(2010年9月)
見かねた地方政府(例,ラプラタ市)が共同住宅を建てて収容する場合もあるが,そういうケースはまれである。
アルゼンチン社会の悪循環――ビベサ・クリオージャと国の不統一(その二)―(pp.174-175)/阿部 清司.千葉大学 経済研究 第25巻第2号(2010年9月)
スーパーモデル「Daniela Cott」
シンディー・クロフォードなどの世界的に有名なモデルを輩出する、
ゴミ拾いからスーパーモデルに!ダニエラ・コットのシンデレラストーリー/地球の歩き方.2009
Elite Model Look(エリート・モデル・ルック)。
アメリカの「Elite Model Managemento/エリート・モデル・マネジメント」 が主催する国際モデル大会ですが、
この大会の決勝を勝ち残ったモデルがDaniela Cott(ダニエラ・コット)です。
ゴミ漁りからスーパーモデルへ
15歳のとき、ゴミを漁っていたある夜、ガラスで手に傷を負ったのです。その手の傷の手当てをした女性が、デザイナーのマリーナ・ゴンザレスです。
ダニエラ・コットが人気モデルになった3つの理由/神と人のはざまで.2014
マリーナは、ゴミの中で血を流す少女の傷の手当をし、服をプレゼントします。思いがけず親切にされたダニエラは、後日、物乞いをしようと再びマリーナのもとを訪れます。マリーナはそんな彼女にまずシャワーを浴びることを勧めます。汚れを落とした彼女の美しさに可能性を感じたマリーナは、モデルエージェンシーに勤める友人に彼女を推薦します。
スラムのゴミ拾いからエリート・モデルに…アルゼンチンのリアルシンデレラストーリー/星野星子.2015
そして、知人のモデルエージェンシーに紹介し、アメリカのElite Model Managemento(エリート・モデル・マネジメント)が主催する国際モデル大会に出場し、優勝したのです。
ダニエラ・コットが人気モデルになった3つの理由/神と人のはざまで.2014
Daniela Cott era recicladora en las calles de Buenos Aires, pero su destino estaba en el modelaje. https://t.co/hFQj5v7eoH pic.twitter.com/SvwZL6Dh5u
— RevistaSoHo (@RevistaSoHo) June 8, 2017
スラムの英雄で伝説のサッカー選手! 「ディエゴ・マラドーナ」
マラドーナはスラム街で育った。「奪われた地域だ。電気も水もガスも何もかも奪われていた」と、皮肉を込めて当時の思い出を語っていたものだ。
マラドーナはピッチ内外でずば抜けた存在、メッシが特別なのはピッチ上だけ――。近くて遠い2人の物語【現地発】/サッカーダイジェストWeb.2020
史上最高のサッカー選手と称賛され、移籍金の記録も打ち破り、成績不振だったイタリアのサッカークラブSSCナポリを、さらには、1986年のワールドカップメキシコ大会で母国のアルゼンチン代表を、優勝に導きました。
サンデー早起キネマ『ディエゴ・マラドーナ 二つの顔』/ひろたみゆ紀のサンデー早起き有楽町.ラジオAM1242+FM93.ニッポン放送.2021
貧しい家庭の子供が人気競技サッカーの一流選手となり、お金と名誉を手に入れる中南米の「成功物語」を体現した。
マラドーナさん死去 母国の貧困層支援に尽力 左派と親交「政治的偏り」批判も/毎日新聞.2020
A genius on the pitch and a flawed idol off it – Diego Maradona rose from the poverty of the Buenos Aires slums to become one of the greatest ever https://t.co/MZgd056lzz
— MailOnline Sport (@MailSport) November 25, 2020
都市の発展と引き換えの格差社会!『ビジャの歴史』
アルゼンチンで最初にビジャ・ミセリア(Villa Miseria)と呼ばれるスラムが誕生したのは 1930 年代であるが,一般に知られるようになったのは,急速な都市化が進んだ 1950 年代といわれる。その後も都市周縁部に拡大を続けたスラムは,次第に社会問題として認識されるようになっていった。
論稿 アルゼンチンで深刻化する麻薬問題とスラム 司祭の取り組み.LATIN AMERICA REPORT Vol.30 No.1(p.57)/渡部 奈々.日本貿易振興機構アジア経済研究所2013
1970 年代に入ると,都市のスラムは農村からの移住者とパラグアイやボリビアからの移民であふれた。国内の政情不安と経済停滞により,多くのスラム住民が失業と貧困に苦しんでいたが,その頃はまだ薬物の問題は存在していなかった。7 年間に及ぶ軍政時代の後,アルゼンチンは 1983 年に民政移管を果たし,スラム問題にも一筋の光 が差し込んだかに見えた。しかし,軍政の残した対外債務,インフレなどの経済危機や,人権問題 の解決を迫られていた新政府がスラムに目を向け ることはなく,民主化するアルゼンチン社会からスラムは取り残されていった。
論稿 アルゼンチンで深刻化する麻薬問題とスラム 司祭の取り組み.LATIN AMERICA REPORT Vol.30 No.1(pp.57-58)/渡部 奈々.日本貿易振興機構アジア経済研究所2013
その後,1990 年 代の新自由主義経済政策による市場経済の激化が 人々の生活を圧迫し,アルゼンチンにおける失業と貧困は深刻化した。人々が仕事を求めて都市に 流入した結果,スラムは数と規模の両面において さらに拡大し,スラムの生活様式にも変化が生まれた。その変化の最もたるものが薬物であり,スラムの若者たちの間では薬物使用がたちまち広 がり,スラムの治安は著しく悪化したのである。
論稿 アルゼンチンで深刻化する麻薬問題とスラム 司祭の取り組み.LATIN AMERICA REPORT Vol.30 No.1(p.58)/渡部 奈々.日本貿易振興機構アジア経済研究所2013
中でも、ブエノス・アイレスのスラム街「Villa 31」は最も象徴的で1929年のウォール街大暴落後の30年代から始まり、90年代に拡大、2001年のアルゼンチン金融危機の時に爆発的に増加しました。ブエノス・アイレスの最も高級な地区から近いラ・レコレタ空港に到着した外国人に衝撃を与える景観です。
アルゼンチン、貧困地帯Villas Miseriaの住民150万人に住居権を配布/Nambei News.2017
危機後のアルゼンチン社会では貧困層が急速に増加して, 国民の半分以上が政府の認める貧困線以下で生活していた.1998 年に比べて, 2002 年の一人当り所得は 22%も低下した.
2001 年アルゼンチン危機の解剖―国際政治経済学の基本命題に関連して/小野塚佳光.經濟學論叢.同志社大學經濟學會.2006
支援センターが誕生「キリストの家」
2008 年 3 月,ブエノスアイレス市の南端に位 置するビジャ 21 - 24 と呼ばれるスラム地区で 「キリストの家」(El Hogar de Cristo)が誕生した。 これは「スラムのための司祭グループ」によって造られた地区センターであり,スラムに住むパコ 依存症の青少年やその家族たちへの支援を行う場 である。現在 6 つのスラム居住区でキリストの家 が運営されており,そこで支援を受けた人数は 600 名を超えている。
論稿 アルゼンチンで深刻化する麻薬問題とスラム 司祭の取り組み.LATIN AMERICA REPORT Vol.30 No.1(p.58)/渡部 奈々.日本貿易振興機構アジア経済研究所2013
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