日露戦争から繋がったロシアとの絆 ── 1枚のコインに刻まれた愛の物語

日露戦争から繋がったロシアとの絆 ── 1枚のコインに刻まれた愛の物語

The Prisoner of Sakura

時を超えて繋がる日露の絆

シネマトゥデイ/YouTube

 愛媛とロシア--。両国には日露戦争時代の松山が舞台となった「絆」の物語がある

四国見聞録:日露戦争時代の愛媛とロシア 捕虜と市民、深めた絆 自由に外出、道後温泉で入浴も /四国/毎日新聞.2019
「それなら日本に融資しよう」“日露戦争”で日本が勝てた理由【ロスチャイルド陰謀論】

日露戦争で日本が勝利……。大量のロシア人兵捕虜が日本の収容所に

The Great War/YouTube

日露戦争では、1904年(明治37年)2月 から1905年(明治38年)9月の間、国民が力を合わせて必死に戦い、多くの犠牲をはらいながらも日本は勝利しました。

なぜロシアと戦ったのか/記念艦「三笠」こどもページ

当時の統計によると、捕虜総数は79,367人といわれている。その内各収容所に入れられた捕虜は約72,000人(戦争終結時)である。一番多かったのが大阪浜寺の22,000人、習志野が15,000人、熊本6000人などで、松山は2,163人であった。多い時には4,000名を越える捕虜がいたそうである。将校となれば、総数1,431人中松山に315人と圧倒的に多く収容されていた(吹浦前掲書164頁)。

「坂の上の雲」から紐解く 地域産業活性化策に関する調査研究 報告書(pp8-9)/平成17年度マスターセンター補助事業.J-SMECA 中小企業診断協会
【戦争プロパガンダ④】気づいた時には終わっていた……。サイバープロパガンダを駆使したロシアがあっという間にクリミア半島を併合『ハイブリッド戦争』
当時の捕虜の扱いの取り決め「ハーグ陸戦条約」

当時の捕虜に関する国際的な規定の範例は、明治32年(1899年)に発効された「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦条約)です。

日露戦争と捕虜 ~国際ルールと実際/アジア歴史資料センター

日露戦争は、ハーグ条約を意識した戦争で、捕虜に対して「博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加フヘカラス」という一条があったそうです。

日露戦争時代の”ロミオとジュリエット” 映画「ソローキンの見た桜」を観た感想/たびこふれ.2019

最初のロシア兵捕虜収容所は「愛媛県の松山市」

eat愛媛朝日テレビチャンネル/YouTube

日露戦争時代、日本には多くのロシア捕虜収容所が存在した。

「ソローキンの見た桜」上映中!/まいぷれ[新居浜市]

 日露戦争時には日本各地にロシア兵捕虜の収容所がつくられたが、その中で最初に開設されたのが松山であった。

【松山編】松山に残るロシアとの絆 ー映画化により注目されるスポットを巡るー/いよぎん地域経済研究センター(IRC)

松山には明治37年(1904)に全国ではじめて捕虜収容所が設置され、延べ6,000人の捕虜が収容されたと言われている。

ロシア兵墓地/Yahoo!トラベル – Yahoo! JAPAN

(前略)松山での収容所は「大林寺」を筆頭に、寺院が収容施設になっている。法竜寺、雲祥寺、妙靜寺、正宗寺、妙丹寺また山越の8つの寺院などなどである。その他公会堂や民間の住宅も施設となった。松山は戦災を受けているので当時の施設がそのまま残っている所は少ないし、当時の面影を残している所も多くない。

「坂の上の雲」から紐解く 地域産業活性化策に関する調査研究 報告書(p.9)/平成17年度マスターセンター補助事業.J-SMECA 中小企業診断協会
松山に送られるロシア兵捕虜
南海放送チャンネル/YouTube

 日露戦争は、わが国の存亡を賭けたほとんど勝ち目のない戦いであり、松山からも多くの兵士が出征し、激烈な戦闘の中で命を落とした。

ロシア人墓地・松山/日本会議愛媛県本部

 その松山に、わが国ではじめてロシア人捕虜が連れてこられることになった。「国の敵」「肉親の仇」である自分たちに対して、松山の人々はどのようなむごい仕打ちをするのだろう、とおびえていた捕虜たちの予想は、上陸早々はずれることになる。

ロシア人墓地・松山/日本会議愛媛県本部

 戦争の最中、松山は、帝国の品位をかけて捕虜優遇策をとった。

弁護士会の読書:マツヤマの記憶/福岡県弁護士会
時代は第一次世界大戦!音楽でがったドイツと日本の絆 ── 年末の風物詩「第九」のはじまり

官民あげてロシア兵捕虜を“おもてなし”

官民あげて観光客なみにもてなした。たとえば、朝はバター付・パンと牛乳入り紅茶。昼はバター付パンとスープ玉子付のライスカレー、紅茶。夕はバター付パンと野菜スープ、タンカツレツ、紅茶。

弁護士会の読書:マツヤマの記憶/福岡県弁護士会
市長が三等車で捕虜が一等車が捕虜

出迎えには地元の名士や関係者が多数出迎え、坊っちゃん列車の一等車に捕虜、市長以下は三等車だったといいます。

全国初・俘虜収容所/松山のいちばん
学校や協議会にご招待

日露戦争当時、愛媛県が「捕虜は罪人ではない」と訓告を発したことにより、松山市民はロシア兵を手厚く迎え入れ、交流も盛んに行われた。

ロシア兵墓地/ツーリズム四国

学校は運動会や競技会にロシア兵を招待し、市民も日常生活の中で温かくもてなしました。

愛媛県-あなたのまちと北方領土/北方領土問題対策協会

愛媛県では、「松山へも、ロシアの軍人さんが、たくさん見えていますが、それを見にいったり、わるくちをいったり、指ざししたりしては、お国のためによくありません」と小学校の児童に注意するなど、捕虜の取り扱いに気をくばりました。

愛媛県-あなたのまちと北方領土/北方領土問題対策協会
むしろ日本人よりも贅沢!?破格の待遇

当時巡査の初任給の日給が、1 日あたり 40 銭であった時に、日本政府は捕虜 になったロシア将兵の給養糧食に莫大な金額を費やし、食費だけで将校には 1 日あたり 60 銭、下士官以下には 30 銭を当てており、これは自国の兵卒の在営 時の食費が 1 日 16 銭にすぎなかったことを考えると破格の待遇であったと言え ます。

コラム 22-日露戦争における日本側の捕虜の扱い/一般社団法人 日本郷友連盟ホームページ
給料が支払われていた?

 日本政府から支出されたということではありませんが、日露戦争の際には、フランスがロシアの利益代表国になっていましたので、ロシア政府からフランスを通じて日本政府に捕虜になっていたロシア兵の給料が送られました。その給料を日本政府が捕虜に渡したわけです。関係記録としては外務省記録「日露戦役ノ際帝国ニ於テ俘虜情報局設置並俘虜関係雑纂」があります。

外交史料 Q&A 明治期 /外務省:

将校クラスの捕虜は自由な生活

食糧は当時の日本の将兵を上回る経費をかけ、将校クラスを中心に「自由外出」がとられたほか、道後温泉で集団入浴をしたり、遊廓にいったり、松山市内の商店街でアルコール類を購入したり、妻子をよびよせ借家に住んだり……とかなり自由な生活でした。

日露戦争時代のロミオとジュリエット/映画『ソローキンの見た桜』公式サイト

 捕虜将校には、自由散歩制度がとられていた。月水金は午前6時から正午まで、火木土は正午から午後6時まで。海水浴が許され、自転車で外出することも認められていた。

弁護士会の読書:マツヤマの記憶/福岡県弁護士会
ロシアにいた奥さんを呼び寄せて民家で暮らす

さらには、ロシア人将校の捕虜で、負傷したフォン・タイルという将校は松山の収容所にいたが、本国の妻がロシアからの来日をゆるされ、夫の看病にあたることができたといいます。この妻ソフィアが書いた「日露戦争下の日本」(小木曽龍・美代子訳)によると、戦争のさなかに日本の民家を借りて、収容所に通うことを許されました。そして、松山の町の人々は、お月見や温泉に夫人を誘って慰めました。

コラム 22-日露戦争における日本側の捕虜の扱い/一般社団法人 日本郷友連盟ホームページ
日露戦争の勝利を県知事が謝罪

やがて戦争に勝利し、戦勝の祝賀行列で市内がお祭りさわぎに沸き立てば「お国の傷病兵(捕虜)の心を傷つけて申し訳ない」と愛媛の県知事が夫人にわざわざ詫びに行ったといいます。

コラム 22-日露戦争における日本側の捕虜の扱い/一般社団法人 日本郷友連盟ホームページ

バーグ条約による博愛処遇で将校の妻子呼び寄せも16組もあったといいます。

全国初・俘虜収容所/松山のいちばん

捕虜のおかげで松山の街が活性化する

将校クラスはかなりの大金をもっていたので旺盛な消費を繰り返し、「捕虜景気」がわきおこり、町はずいぶんと活性化しました。

日露戦争時代のロミオとジュリエット/映画『ソローキンの見た桜』公式サイト

市民は概して親切に接したようだ。松山の湊町という繁華街には、捕虜目当てに長崎や神戸から商人もやってきて一時長崎町・露西亜町といわれたこともあるようだ。菓子屋、洋食屋、洋服屋、靴屋なども出現した。捕虜景気は地方都市にも大きな経済効果をもたらしたのである。

「坂の上の雲」から紐解く 地域産業活性化策に関する調査研究 報告書(p.9)/平成17年度マスターセンター補助事業.J-SMECA 中小企業診断協会

(前略)当時松山高等女学校(現在愛媛県立松山南高等学校)であったため、正宗寺に収容されていたロシア人が見学に行っている。テニスコートで女学生と一緒に写っている写真や、教員と一緒に並んで写っている写真が残っている(後略)

「坂の上の雲」から紐解く 地域産業活性化策に関する調査研究 報告書(p.9)/平成17年度マスターセンター補助事業.J-SMECA 中小企業診断協会

一般兵士は自由とまではいかなかったが温泉やスイミングを楽しんだ

下士卒の捕虜たちは、将校に比べて制約が多く、自由散歩も許されませんでした。しかし集団で、道後温泉で入浴したり、梅津寺での海水浴、石手川での水浴に向かったり、また1905年7月末には大街道の新栄座で(希望がようやくかなって)観劇を行っています。

松山のロシア兵捕虜の研究/立命館大学

また、県民有志も郡中(現伊予市)や砥部焼の窯元への遠足や、自転車競技大会などを催すなど、活発に民間交流を行いました。

誓いのコイン/坊ちゃん劇場
……現実的にはトラブルもあった

しかし、現実には、捕虜と収容所側、あるいは捕虜と市民との間のトラブルもありました。こうしたトラブルの原因は、日本語─ロシア語のコミュニケーションの問題、異なる社会にほうりこまれた捕虜側の戸惑いもさることながら、捕虜という身分によって自由が制限されていたことも挙げられるでしょう。

松山のロシア兵捕虜の研究/立命館大学

傷や病気のロシア兵を献身的に介護。ロシア兵「彼女たちはわれわれ兵士にとって天使……」

(前略)傷病兵に対しては赤十字の看護婦が献身的な介護をほどこした。ある捕虜の日記にはこのような記録がある。

ロシア人墓地・松山/日本会議愛媛県本部

 「彼女たちは、われわれ兵士にとって天使であり、慰めだ、ということである。患者の世話は肉親同様で、昼夜仕事に追われながらも、負傷兵のために労をいとわない。
嫌な顔をしたのを見たことがない(中略)これは義務感もさることながら、戦争がもたらした犠牲に対する憐憫の情からでもある」(F・クプチンスキー)

ロシア人墓地・松山/日本会議愛媛県本部

「マツヤマ!マツヤマ!」噂は広まりロシア兵が手を上げて投降してくる

「「松山!」「松山!」と手をあげて飛び込んで来る。「松山」というのは「降参」ということなのである。(後略)

「坂の上の雲」から紐解く 地域産業活性化策に関する調査研究 報告書(p8)/平成17年度マスターセンター補助事業.J-SMECA 中小企業診断協会

 当時、文明国として西洋にアピールすることが必要だった明治政府は、捕虜を人道的に扱うことを定めた「ハーグ条約」を順守し、比較的自由な生活を保障しました。中でも松山市民は彼らを厚遇し、盛んに交流したことから、「松山はいい」という噂が戦場にも広がり、ロシア兵たちが「マツヤマ・マツヤマ」と叫びながら投降してきたという逸話が残っています。

誓いのコイン/坊ちゃん劇場

「母国に帰国したくない」戦争終了後に日本に残る兵士も(笑)

捕虜の中には看護師を慕い、収容所の移転を嫌がる者、帰国したくないから戦争が当分続くことを願っている者、1905(明治38)年9月5日にポーツマス条約が締結され捕虜引き渡しが始まったのですが、日本帰化を望む者が少なからずいたことも記されています。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン

「日露友好のかけ橋」ロシア人墓地

ehimenp/YouTube

「ロシア兵墓地」には、明治37・38年の日露戦争のとき捕虜になり松山へ送られ、当地で亡くなったワシリー・ボイスマン海軍大佐をはじめ98名のロシア兵の墓があります。

松山城北エリア/松山観光ボランティアガイドの会

墓碑は祖国を望むように北向きに建てられています。

ロシア兵墓地 – 松山市/松山市公式ホームページ

 昭和59年、松山市立勝山中学校で、当時教頭をしていた京口和雄(きょうぐちとしお)さんは、墓地が荒廃している様子に心を痛めた。そこで「ロシア兵墓地保存会」を立ち上げて、市民の手で清掃活動や慰霊祭を行うようになった。京口さんの呼びかけで、勝山中学校の生徒たちも、月1回、墓地の清掃奉仕活動を実施しており、毎回100人ほどが参加。草むしりをしたり、墓石を丁寧に磨いている。

戦時下に咲いた友好の花| 2018年8月号 | バックナンバー/四国電力

平成6年にはロシアの有志から日露友好の証としてボイスマン大佐の胸像が製作・寄贈。平成20年に改装工事が完了し、多くの観光客が訪れるようになりました。ボイスマン像の土台には「日露友好のかけ橋」と刻まれています。

誓いのコイン/坊ちゃん劇場
毎年3月には慰霊祭
愛媛CATVコンテンツ/YouTube

毎年3月、日ロ関係者やボランティアで清掃活動を行う地域住民、中学生らが出席する慰霊祭が行われる。

ロシア兵墓地/るるぶ&more

 昭和36年から実施しているロシア兵墓地慰霊祭には、毎月清掃活動をしている勝山中学校の生徒たちや在大阪ロシア連邦総領事館の方を来賓として招いています。

第58回ロシア兵墓地慰霊祭を実施します/松山市公式ホームページ

ロシア国営テレビがドキュメンタリー撮影で来日「マツヤマの桜」

南海放送チャンネル/YouTube

 ロシア国営テレビ「第一チャンネル」で放送されるドキュメンタリー番組「マツヤマの桜」の撮影が松山市周辺で行われており5日、主演のアレクサンドル・ドモガロフさんらが同市窪野町の旧遍路宿「坂本屋」で「お接待」の風景を撮影した。

ロシア国営テレビが松山でロケ 日露戦争時の捕虜との交流探る/産経ニュース.2018

 南海放送が制作し、ロシアで来月から3回シリーズで放送されるという。

ロシア国営テレビが松山でロケ 日露戦争時の捕虜との交流探る/産経ニュース.2018

この番組は日露戦争中、松山に設置された「ロシア兵捕虜収容所」にまつわる人間愛を題材にした映画「ソローキンの見た桜」(3月16日愛媛公開・22日全国公開)をもとに、現代の松山(日本)とロシアに新たな交流を生み出すことを目的に制作しました。

南海放送制作『マツヤマの桜』 ロシア国営放送で放送 日本制作のドキュメンタリーとしては史上初/RNB 南海放送.2019

番組では、映画に出演したロシアの名優アレクサンドル・ドモガロフ氏が昨年10月にロシア兵墓地や松山城、道後温泉など、かつて、ロシア兵捕虜たちが訪れた場所を尋ね、「何故、松山の人達がロシア兵捕虜を大切にしたか?」という疑問をロシア人の視点で解き明かしていきます。ロシア国営1stTV(第1チャンネル)によると、日本で制作されたTVドキュメンタリー番組を放送するのは、史上初とのことで、今後の松山・ロシア交流の大きなきっかけになることが期待されています。

南海放送制作『マツヤマの桜』 ロシア国営放送で放送 日本制作のドキュメンタリーとしては史上初/RNB 南海放送.2019
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日露戦争下、松山の人口の1割以上が外国人に。捕虜は市内を散歩し、自転車に乗り、温泉に入り、遠足に出掛けた。初めて外国人に接した人々の異文化交流を豊富な写真とエピソードで読み解く。(「BOOK」データベースより)

Romeo and Juliet

「日露戦争時代のロミオとジュリエット」1枚のコインに刻まれた愛の物語

MOVIE WALKER PRESS/YouTube

2010年1月、愛媛県松山市にある松山城二之丸史跡庭園にある大井戸より1985年に発掘された物品の中から、帝政ロシア時代の一枚の金貨が見つかりました。

日本とロシアにもあった ロミオとジュリエット 物語/株式会社ロシア旅行社

名前が刻まれたロシアのルーブル金貨

現在の日本円に換算すると約30万円に相当する金貨。

日本とロシアにもあった ロミオとジュリエット 物語/株式会社ロシア旅行社

 松山城・二の丸跡の井戸で発掘された「ロシア10ルーブル金貨」には、日露戦争で捕虜になったロシア軍人の名前とともに「タケバナカ」の文字が刻まれていた。

西日本初!地域文化発信の常設劇場/坊っちゃん劇場

 足を負傷していたコステンコ中尉は、現在の二之丸史跡庭園の場所にあった衛戍(えいじゅ)病院(旧陸軍病院)に入院。

【四国の議論】コインに秘められたロシア兵捕虜と看護女性の恋 100年の時を超え、松山城愛の物語若者ら共感/産経ニュース.2017

「橘力」という男の人?とも思われていたこの刻銘は、のちに「チ」の文字が「ケ」とも読めるではないかということになり、さらに調査したところ、「竹場ナカ」という日本赤十字社の女性看護師が当時、ロシア人捕虜収容所の軍病院に勤務していたことが判明した。

西日本初!地域文化発信の常設劇場/坊っちゃん劇場

この金貨は、2人が再会を誓って井戸に投げ込んだのでは?とロマンをかきたてた。

戦時下に咲いた友好の花| 2018年8月号 | バックナンバー/四国電力

(前略)二之丸を舞台にしたラブロマンスが、100年の時を超えてよみがえったのだ。

【四国の議論】コインに秘められたロシア兵捕虜と看護女性の恋 100年の時を超え、松山城愛の物語若者ら共感/産経ニュース.2017
戦争の時代……2人は離れ離れになってしまう

さて、二人の短い恋の物語は、1904年春から、少尉の足の怪我が回復し静岡に移送される同年12月迄の事でした。

日本とロシアにもあった ロミオとジュリエット 物語/株式会社ロシア旅行社

当時敵国だったロシア兵との交際は禁じられていたため、コステンコ・ミハイルは静岡の収容所へ移され、タケバ・ナカも衛戍病院の看護師を解嘱され、離ればなれになってしまいました。

日本とロシアにもあった ロミオとジュリエット 物語/株式会社ロシア旅行社
坂の上の雲ミュージアムに展示されている
machilogmovie/YouTube

戦時下で生まれたロマンスの証ともいえるこの金貨は、現在松山市の「坂の上の雲ミュージアム」に展示されている。

戦時下に咲いた友好の花| 2018年8月号 | バックナンバー/四国電力
博物館「坂の上の雲ミュージアム」
ponycanyon/YouTube

 坂の上の雲ミュージアムは、松山のまち全体を屋根のない博物館とする『坂の上の雲』フィールドミュージアム構想の中核施設として、平成19年4月28日に開館しました。小説『坂の上の雲』は、松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規の3人の生涯を通して、近代国家として成長していく明治日本のすがたを描いています

坂の上の雲ミュージアム/松山市公式ホームページ

ミュージカル「誓いのコイン」

坊っちゃん劇場official/YouTube

 松山市の東隣にある東温市の「坊っちゃん劇場」がこの秘話をもとに、平成23年にミュージカル「誓いのコイン」を創作し、約1年にわたって上演。戦争や革命に翻弄される国境を超えた愛の物語は人々の心をとらえ、翌年にはロシアのモスクワやオレンブルグでも公演されるほどの大ヒットになった。

【四国の議論】コインに秘められたロシア兵捕虜と看護女性の恋 100年の時を超え、松山城愛の物語若者ら共感/産経ニュース.2017

物語はラジオドラマ化

ラジオドラマ「~松山ロシア人捕虜収容所外伝~ソローキンの見た桜」は、2004年に南海放送が制作したもので(原作:田中和彦社長)、第1回日本放送文化大賞ラジオ・グランプリに輝いた作品です。

~日露合作映画化記念~ラジオドラマ「~松山ロシア人捕虜収容所外伝~ソローキンの見た桜」南海放送と全国基幹3地区で放送/RNB 南海放送.2019

日本とロシア合作!!映画「ソローキンの見た桜」

MOVIE WALKER PRESS/YouTube

[映画.com ニュース] 注目の若手女優・阿部純子が主演する日露合作映画「ソローキンの見た桜」が、2019年3月16日から愛媛県で先行公開され、同年3月22日から全国公開されることが決定。あわせて、看護師姿の阿部をとらえたポスタービジュアルもお披露目された。

日露合作「ソローキンの見た桜」看護師姿の阿部純子をとらえたポスター完成 公開は3月に/映画.com.2018

ヒロインの阿部純子さんは、駆け出しのテレビディレクター・桜子と、日露戦争の時代を生きた看護師・ゆいの1人2役を演じた。捕虜収容所の所長役でイッセー尾形さん、捕虜になった大佐役でロシア演劇界の大御所アレクサンドル・ドモガロフさんなどが出演している。

日露合作「ソローキンの見た桜」モスクワの日本映画祭で紹介/スプートニク日本ニュース.2018

当時書かれた日記を読んだ阿部は「ロシアの方々が手厚く扱われるあまり、やることがなくなってしまう――それがそのまま文章として残っていたんです」という。「劇中で描かれているようなことが、事実だったんだと驚きました。(松山市にある)ロシア兵墓地にも行きましたが、とても綺麗に掃除がされていて、当時生きていた方々の思いが、今にもきちんと届いていることを実感しました」と振り返った。

阿部純子、日露合作映画「ソローキンの見た桜」出演を経て見つめ直した“今の自分”/映画.com.2019
ロシアの映画祭に出品!!
HEISEIPROJECT/YouTube

『ソローキンの見た桜』は2019年3月に公開され、第41回モスクワ国際映画祭に正式出品されました。その後、ロシア・オレンブルクで開催された第12回オレンブルク国際映画祭のコンペティション部門において、「観客グランプリ特別賞」を受賞されたそうです。10月23日にはBlu-ray&DVDが発売されました。

映画『ソローキンの見た桜』、ぜひご覧ください!/青雲会 – 近畿大学附属豊岡高等学校 同窓会のブログです.2019
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自身のルーツがロシアにあると知った女性ディレクターの現在と、日露戦争時代にあったロシア兵将校と日本人看護師の許されざる愛を描く。好評のラジオドラマを阿部純子が2役に挑戦して映画化した恋愛ストーリー。(「TSUTAYA」データベースより)

Japan-Poland bonds of trust date back to 1904-1905

ロシア帝国兵士は多国籍軍だった!?ポーランドと日本の絆

Sankei World Viewーサンケイ・ワールド・ビュー【公式】/YouTube

日露戦争時の捕虜については「ロシア人捕虜」と言いがちですが、当時のロシア帝国の陸海軍はロシア人兵士だけではなく、ロシア軍兵士として徴兵されたポーランド人やウクライナ人、タタール人、ユダヤ人、フィンランド人などが混ざった多国籍軍でした。ロシア帝国による従属民族への差別支配がロシア軍にも反映しており、内部の対立が激しく、そもそも日本と対戦する気持ちのない非ロシア人兵士が多かったのです。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン

捕虜の中でもポーランド人兵士捕虜は特別扱い!?

日露戦争時、日本が敵国の捕虜をジュネーブ条約遵守のもとに手厚く扱ったことは後に世界に有名になった。捕虜の中でもロシアに徴用されたポーランド人兵士には特に配慮したという。

ポーランドとの絆/企業OBペンクラブ

ポーランド独立運動と日本の関係

ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続けられたが、彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。

知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか/MEGA2NEWS.2017

 一人は、後に初代国家元首となるポーランド社会党の活動家、ユゼフ・ピウスツキ。もう一人は、穏健派のポーランド国民連盟の代表、ロマン・ドモフスキだった。

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019
ユゼフ・ピウスツキ

ユゼフ・ピウスツキは「敵の敵は味方」であるとし、ポーランド人兵と予備兵に投降を呼びかけるビラを撒いたそうです。そして投降した兵士は松山の収容所に送り込まれました。

河添惠子さんの講演会「ポーランドと日本の熱き絆」を聞いてみた/ポラ恋

彼は日本側に対して日本軍のためのポーランド人軍隊を召募することを提案した。

今年「独立100年」となるポーランドの独立と日露戦争/日刊SPA!.2018
ロマン・ドモフスキ

ドモフスキは武装蜂起には反対しつつも、日本支持を表明して連携を探った。参謀本部の児玉源太郎参謀本部次長と、福島安正第二部長の両将軍に面会し、ポーランド問題とポーランド人の要望に関する覚書を作成した。ポーランド人兵士に投降を呼びかける声明文作成にも携わった。

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019

 ここで注目すべきは、ピウスツキとドモフスキがともに、ポーランド人捕虜への特別待遇を申し入れたことである

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019

日本はポーランドの独立を支援する

 この提案に感銘を受けた明石元二郎らはピウスツキらに武器・弾薬の購入資金を提供、それと引き換えにロシア軍の動向や社会情勢についての情報を定期的に日本側に提供してもらったという(河添恵子著『世界はこれほど日本が好き』祥伝社)。

今年「独立100年」となるポーランドの独立と日露戦争/日刊SPA!.2018

「マツヤマ!マツヤマ!」投降した兵士はポーランド人

松山では、ロシア兵士と一緒になると虐待されるというので、区別して収容所を作った。松山のほか、大阪浜寺、千葉習志野でも同じようにロシア人とは別の収容所を用意した。戦場で、ロシア兵士は戦いが劣勢になると「マツヤマ」と叫んで次々投降した。これらの兵士は皆ポーランド人で、松山での寛容な待遇を知っていたからであった。

ポーランドとの絆/企業OBペンクラブ
松山の墓地の埋葬者はロシア人だけじゃない!?様々な地域や国

なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよんでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれています。

ロシア兵墓地 – 松山市/松山市公式ホームページ
日本の勝利でポーランド人は歓喜

彼らは、日本の勝利をまるで自国の勝利のごとく狂喜乱舞しました。この時期、日本で捕虜生活を送った数千人のポーランド人の日本への好印象が、ポーランドにおいての親日感情の原点となっています。

日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳/致知出版社.2021

開国そして近代化に着手して僅か40年余りの日本が、ポーランド人の宿敵で強大なロシア帝国との戦いに挑み、しかも大勝利という結果は彼らに強いインパクトを与え、日本関連書物の出版ラッシュとなりました。

日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳/致知出版社.2021

ポーランドはロシアから独立!

 日本が勝利すると1908年、ピウスツキは私設軍隊を創設し、独立の動きを強めていく。そして第一次世界大戦とレーニン率いるロシア革命によってロシアが弱体化した隙をついてピウスツキらはポーランドの独立を主張、1918年、アメリカのウィルソン大統領が主導したパリ講和会議もこれを追認、実に123年ぶりに独立を回復したのだ。

今年「独立100年」となるポーランドの独立と日露戦争/日刊SPA!.2018

 駐日ポーランド大使館のウルシュラ・オスミツカ一等書記官はこう語る。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

「当時のポーランド人は、日本はポーランドの味方だと感じていましたし、ユゼフ・ピウスツキなどは日本と一緒に戦いたいと考えていました。そして日露戦争中、ポーランド人は皆日本を応援していました。そして小さな日本が大きなロシアに勝ったことで、ポーランド人にとって日本はヒーローになったんです。それは後に日露戦争で活躍した日本軍人51人にポーランド政府から勲章が贈られていることがその証左です」

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

シベリア出兵でポーランド孤児を救出

そして1914年、第一次世界大戦時、ポーランドは、ロシア軍とドイツ軍の主戦場となってしまい、多数のポーランド人がシベリアへと逃げていった。その数20万人。

実は知られていない超親日国の数々。あの国と日本の「ちょっといい絆」物語/GetNavi web.2017

1918年の夏、日本はシベリアに出兵する。

「知られざるポーランドとの絆」 ジャーナリスト・井上和彦/公益財団法人 国家基本問題研究所.2021

当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました(シベリア出兵)。ロシア帝国時代に諸外国から負った借金を踏み倒し、新たに社会主義国家を目指すと主張する革命政府を強く警戒したからです。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

 そんな列強干渉軍は、ロシアの反革命軍(白軍)らと共にボルシェビキ勢力と各地で戦闘を繰り広げたが1918年11月に第一次世界大戦が終わり、その後各国軍が撤収する中、日本軍は撤収せず極東地域に留まって戦い続けたのだった。日本が撤退しなかったのは、革命の波及を恐れ、この地に緩衝地帯をつくりたかったからにほかならない。つまり日本の安全保障上の理由からだった。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018
餓死、病死、凍死、シベリアで追い詰められるポーランド人

(前略)1917年(大正6)にロシア革命が起こると、内戦がシベリアにまで混乱をもたらします。ソビエト軍(赤軍)と反革命軍(白軍)がシベリア各地で戦い、ポーランド人たちもそれに巻き込まれていきました。大半のポーランド人が家財産を失い、難民となって、凍土の荒野をさまようことになります。餓死、病死、凍死する人が続出しました。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

難民たちは暖をとるために燃やせるものはすべて燃やし、脱出の頼みの綱であるはずの鉄道の枕木(まくらぎ)すら燃やさざるを得ず、それが尽きると次々に凍死していったといいます。脱出を図った600人のポーランド人婦女子を乗せた列車が燃料不足で立ち往生し、全員が凍死するという痛ましい事件もありました。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020
日本だけが手を差し伸べた

ウラジオストック在住ポーランド人は「孤児救済委員会」を結成し、世界に救済を呼びかけたが複雑な国際関係から応じる国はなかった。

ポーランドとの絆/企業OBペンクラブ

そんな中、同様に出兵していた国で、日本だけが救いの手を差し伸べた。わが国は救助要請を受けてから、わずか17日後には決断を下したといわれる。そして大正9年(1920年)と大正11年(1922年)に、合わせて765人の孤児を日本に輸送する。日本赤十字社と帝国陸海軍による、大掛かりな作戦であったとされる。

「知られざるポーランドとの絆」 ジャーナリスト・井上和彦/公益財団法人 国家基本問題研究所.2021

ポーランドの新聞は、「日本人の親切を絶対に忘れてはならない。我々も彼らと同じように礼節と誇りを大切にする民族であるからだ」と伝え、ポーランド人は感謝の念を抱いた。日本も19年の国交樹立後、ポーランドから暗号技術を学ぶ。

ポーランドから最後の返礼「ヤルタ密約」:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(5)/nippon.com.2019

 平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましてくれたのだった。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018
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日本の真実の歴史を記録・記憶している人たち。台湾、トルコ、ブータン、パラオ…名だたる国を抑えて“知日国”No.1に輝いたのは、中欧のあの国だった!亡国の民が信頼し、尊敬し、共鳴する、日本人が知らない日本の姿とは?真面目、責任感、誠実…親日国・ポーランドを通して見えてくる真実の日本。(「BOOK」データベースより)
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