この記事では、国宝「曜変天目茶碗」について、著名な陶芸家たちの研究や再現の取り組みを紹介しています。この貴重な陶器は、中国南宋時代に作られ、現存するのは世界に3つだけです。
記事では、曜変天目の研究に反対していた長江さんが、父の死をきっかけに研究を引き継ぎ、28回にわたって中国の建窯に通い、約80トンもの建窯の土を日本に運び込んだことや、窯業プロジェクトに参加して曜変天目の研究を重ねた鈴木さんなど、陶芸家たちの研究や再現の挑戦についても紹介されています。
また、この神秘的な茶碗を再現するために、陶芸家たちがどのような仮説や実験を行っているかについても触れられています。陶芸に興味のある方や、曜変天目の神秘に興味を持つ方にとって、興味深い記事となっています。
Japanese Ceramic Artists
挑戦し続ける日本の陶芸家たち
国宝「曜変天目茶碗」は、中国南宋時代に作られた貴重な陶器で、世界に現存する3碗のみの「曜変天目」茶碗が日本に所在し、国宝に指定されており、いまだにその技法は謎という神秘的な茶碗だ。
そんな、曜変天目茶碗を現代に甦らせるため、挑戦し続ける日本の陶芸家たちがいます。
「長江惣吉」作
長江惣吉さんは、愛知県瀬戸市の陶芸家であり、曜変天目茶碗の再現に情熱を注いでいる人物です。彼は、明治初期から続く窯元の9代目にあたります。曜変天目の研究は、今は亡き彼の父が始めました。
長江さんの父は生前、「歴史ある窯元として地道に焼き物を作る方が大切」と考え、曜変天目の研究に反対していました。しかし、父の死をきっかけに、長江さんは曜変天目の研究を引き継ぐ決意をしました。
彼によると、曜変の模様は蛍石という鉱石を熱することで生じる酸性ガスによって生まれるとのことです。長江さんは、曜変天目を生み出した中国の建窯に合計28回、8年間通い、約80トンもの建窯の土を日本に運び込みました。
彼は、「結局、建窯の真ん中で採れた黒土と赤土が最適でした。釉薬の原料も建窯の近くで入手しました。」と述べています。また、蛍石を用いた方法に失敗し、茶碗が白変したことがあったとのことですが、同様の白い陶変が建窯の窯跡周辺からも見つかっていることから、彼は自分の方法が間違っていないと確信したそうです(『週刊ニッポンの国宝100』第4号「伝源頼朝像・曜変天目」)。
長江さんは、曜変天目の再現に関してはあくまで学術的なものと捉えており、「作品」とは考えていません。そのため、彼は曜変天目の研究を続けながら、得られた知見を自分なりにアレンジして作り出した陶器を「曜々盞」と名付け、自分の作品としています。
「林恭助」作
昭和38年に岐阜県土岐市で生まれた林恭助さんは、23歳の時に地元の土岐市立陶磁器試験場に研修生として入所しました。黄瀬戸を中心に作品を発表し、第30回陶磁器デザインコンペに入選するなど、早くからその才能が認められました。
自分の才能に溺れることなく、常に新たな技術を磨くために、人間国宝の加藤孝造さんらに師事し、伝統的な技法も学びました。
しかしながら、劇的にその名が広まることはなく、優秀な陶芸家の一人としての地位を守り続ける状況が何年も続きました。
陶芸家として何か違うことをしなければと考えた時に、曜変天目茶碗に出会いました。
2001年に曜変天目茶碗の焼成に成功し、作品の評判はたちまち広がりました。その結果、イギリスの大英博物館や中国北京の故宮博物院に作品が収蔵されるまでになりました。その功績が評価され、2016年には芸術推奨文部科学大臣賞も受賞しています。
ただし、曜変天目に関してはまだ解明できていないことが多く、現在も林さんは研究を続けています。彼の努力と才能は、日本の陶芸界において大きな影響を与えており、今後もその活躍が期待されています。
「水野守山 」作
水野守山(みずのもりやま)は、曜変天目の作品を発表している陶芸家の一人です。しかし、2021年9月までの情報では、彼についての具体的な経歴や作品、詳細な情報が見つかりません。彼に関する情報が限られているため、彼の陶芸に関するスタイルや技術、影響力などについては説明することが難しいです。
ただし、日本には多くの優れた陶芸家が存在しており、それぞれが独自のスタイルや技術で作品を制作しています。彼らは日本の陶芸文化を発展させ、世界中でその美しさや独自性が高く評価されています。これからも新たな才能が現れ、日本の陶芸界がさらに栄えることが期待されています。
「土渕善亜貴」作
大正11年(1922年)に創業された、土渕善亜貴さんが率いる窯元は、京焼・清水焼の伝統を引き継いでいます。彼は新しい技術を取り入れ、様々な作品を生み出してきました。2018年12月には、土渕さんが曜変天目の再現に成功し、その技術の高さと美しさ、完成度が高く評価され、2019年の第41回京焼・清水焼展で経済産業大臣賞を受賞しました。
土渕さんは、「曜変天目の再現は陶芸家なら誰もが憧れるもの」と語っています。彼は、曜変天目の再現が可能だという確信を持ち続け、実験を重ねてその再現に成功しました。しかし、曜変天目の文様がどのような条件で生まれるのか、まだ完全には解明されていないとのことです。2019年2月に行った焼成では、成功したのはたった2碗だけでした。
土渕さんの挑戦は、曜変天目の謎を解明し、陶芸の歴史に新たな一歩を踏み出す可能性があることを示しています。彼の情熱と研究は、今後も日本の陶芸界に大きな影響を与えることでしょう。
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「鈴木禎三」作
鈴木さんは、幼少期から曜変天目の美しさに魅了されていました。彼は大阪の公立高校に進学しましたが、陶芸への情熱から変わり者とみられ、周囲と馴染めずに悩んでいました。高校2年生の夏に祖父が亡くなり、祖母に収集品の整理を頼まれ、多くの貴重な品々に出会いました。
1997年から2000年にかけて、鈴木さんは青年海外協力隊・陶磁器隊員としてフィリピン共和国で窯業プロジェクトに参加しました。帰国後、岡山県津山市に工房を開設し、そこで多くの技術を身につけました。彼は国宝級の曜変天目茶碗を何度も観察し、手探りで進めました。
鈴木さんは土や釉薬の改良や焼成方法の研究を重ね、2018年7月についに夢のような1碗を完成させました。その碗は細かな斑点が黒い器肌の中で流れ星のように散り、瑠璃色の輝きを見せています。ただし、彼は釉薬や土、窯の種類など制作過程については秘密にしており、「どなたにも話さず墓場まで持っていくつもりです」と語っています。
彼の新作の碗は直径12.5センチ、高さ7.5センチで、銀色の斑文がより鮮やかに浮かび、瑠璃色の光彩の輝きも増しています。
鈴木さんは、技の完全な再現は無理だと思いますが、国宝級の3碗に近づける作品を作ることが目標だと述べています。
「石黒宗麿」作
石黒宗麿は、1893年に富山県新湊で医師の長男として生まれました。明治31年に富山県立富山中学校を中退し、大正8年頃東京美術クラブで有名な稲葉天目茶碗を見て感動し、陶芸を志しました。大正10年に上京し、渋谷区富ヶ谷に窯を築いて製陶研究を始めました。その後、埼玉県比企郡に窯を築き、金沢市に移り、最終的に京都市東山に転居しました。ここで小山富士夫氏らとともに中国と日本の古陶磁の研究を始め、再現に努力しました。
石黒は、曜変天目の再現のために陶芸に没頭しましたが、その道のりは長く険しいものでした。25年の試行錯誤を経て、木葉天目の再現に成功しました。木葉天目は中国宋時代に作られ、長い間失われていた高度な陶技で、その復興により石黒の名は世に広まりました。
その後、石黒は自由で多彩な表現を追求し、戦後はチョーク描、黒釉褐斑、彩磁、絵唐津など独創的な作風で幅広いジャンルを展開し、世間から高い評価を受けました。彼は「鉄釉陶器」の技術保持者として人間国宝に認定されましたが、彼にとって鉄釉陶器は曜変天目の技法を極めるための一つの手段にすぎませんでした。石黒宗麿は、その独自の技術と研究により、日本の陶芸界に多大な影響を与えたことは間違いありません。
「瀬戸毅己」作
瀬戸毅己さんは、1958年に神奈川県小田原市で生まれました。彼は東京造形大学彫刻科を卒業した後、愛知県立窯業訓練校で修業を積みました。彼は曜変天目の再現に成功した陶芸家の一人であり、その技術は非常に高い評価を受けています。
瀬戸毅己さんの特徴は、茶碗だけでなく、酒器でも曜変天目の再現に成功している点です。これは、彼が多様な形状や用途の器に対して、曜変天目の美しい模様と光彩を表現できる技術を持っていることを示しています。
彼の作品は、陶芸界において高い評価を受けており、その独創的な技法と美しい作品は、多くの人々を魅了しています。瀬戸毅己さんは、日本の陶芸界において、曜変天目の技法を継承し発展させる重要な存在となっています。
「桶谷寧」作
桶谷寧は、1968年に京都の陶家に生まれた曜変天目の第一人者として知られています。彼は大学を卒業した後、陶工訓練校などで陶芸技術を学び、家業に従事しながら陶芸家の夢を追求していました。彼は、図録に載っている曜変天目を再現しようと試みていましたが、30歳を前にして国宝・曜変天目茶碗の実物を展覧会で見る機会があり、自作とはまったく違うことに気づきました。
これをきっかけに、桶谷寧は釉薬の調合研究に疑問を持ち始め、それまでのものをすべて捨てて、一から曜変天目に取り組む決心した彼は、西洋技術と決別し、東洋の作品を作ることを目指しました。陶家の家にに生まれ、近代日本の窯業技術を専門的に学んだ桶谷にとって、これはとても険しい決断でした。
桶谷寧は、曜変天目を再現するために焼成方法や燃料によって模様を浮かび上がらせるという仮説を導き出しました。彼はこの仮説に基づいて実験を繰り返し、数千個に一個ほどの割合で曜変天目を生み出すことに成功しました。
桶谷寧の成功は、彼の執念深い研究と努力の賜物であり、曜変天目の再現における現代の第一人者として、彼の名は広く知られるようになりました。彼の作品は、美しさと技術的な優れさから、多くの人々に賞賛されています。