激動の繊維産業史(3)貿易摩擦のはじまり!「日米繊維紛争」

激動の繊維産業史(3)貿易摩擦のはじまり!「日米繊維紛争」

前回の記事を読む▼

激動の繊維産業史(2)過酷な環境で働く「女工」と「女子バレー」の深すぎる関係
“https://diggity.info/culture/spinning-2/”

Textile dispute

日米の繊維紛争

Sunchan Obc/YouTube

日本からの繊維輸出をめぐる日米間の紛争は過去に少なくとも2度あった。一度は、世界大恐慌のさなかの1930年代。もう一度はニクソン政権期の1969年‒1971年であった。

第2次日米繊維紛争(1969年‒1971年) ─迷走の1000日─/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)
当時、日本の輸出のメインは「繊維品」

1930年代の日本の貿易は、原材料を輸入し、繊維品を中心とする比較的少数の特定の品目を輸出することにより成り立っていた。特に、ウエイトが高かったのは、綿織物と生糸を中心とする繊維品であり、1935年には、輸出の半ばを占めていた。

戦間期日本の為替レート変動と輸出―1930年代前半の為替レート急落の影響を中心に―(p.103)/畑瀬真理子.日本銀行金融研究所.金融研究.2002

「世界恐慌」世界中の経済が大混乱

Encyclopaedia Britannica/YouTube

当時のアメリカはイギリスに代わって世界経済の中心になっていた。国内は異常な消費景気につつまれ、株式ブームに沸き立っていた。過熱ともいえる投資が金融逼迫をもたらしたせいか、1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク株式市場は大暴落したのである。

「最初の苦難」 世界的な経済危機/ダイニックグループ

 1929年(昭和4)10月、ニューヨーク株式取引所の株価暴落を契機に発生した世界恐慌の影響が、翌30年には日本に波及しました

図説福井県史 近代19 昭和恐慌と農村(1)/福井県立図書館

日本では生糸の原料、繭の価格が暴落!

Cocoons

日本経済は大恐慌当時、昭和恐慌に見舞われていた。昭和恐慌そのものは国内の政策判断ミスが招いた側面が否定できない。ただし、米国が大恐慌に陥ったあおりを受けて大きなダメージを受けたのが、日本の基幹産業だった生糸ビジネスである。

大恐慌の余波 日本を襲った「生糸ショック」 花形産業一変のインパクト=横山和輝/エコノミストOnline.2020

アメリカ向け輸出生糸の価格下落による繭価の暴落が、農村や山村の養蚕農家を襲ったのです。

大恐慌の余波 日本を襲った「生糸ショック」 花形産業一変のインパクト=横山和輝/エコノミストOnline.2020

アメリカ市場に参入していた日本の繊維業界に大打撃

昭和4年(1929)、ニューヨーク株式市場の大暴落(ぼうらく)をきっかけとして始まった世界恐慌(きょうこう)は、アメリカの絹需要を急激に減退させ、全面的にアメリカ市場に依存していた日本の製糸業に大打撃を与えました。

製糸業の衰退と現在の丸子町 | 丸子地区の養蚕業/上田市デジタルアーカイブポータルサイト

当時の2大産業といえば絹紡・綿紡だが、絹と綿の価格が暴落したのである。不況のアメリカでは、絹の消費がいちじるしく減退、たちまち生糸輸出が激減した。綿製品も同じ運命をたどった。主な輸出先である中国、インドでは農産物価格と銀価格が暴落して購買力が大きく減退した。さらにインドは綿布輸入関税の引き上げたから、綿布の価格はたちまち40%も低下してしまったのである。輸出の主役である2大産業の悪化は、日本経済に大きな打撃をあたえ、昭和恐慌という大不況に突入していったのである。

「最初の苦難」 世界的な経済危機/ダイニックグループ

加えて、人絹の急速な進出や、中国産生糸・高価な欧州産生糸の価格低落による日本産生糸の市場占有率の減少なども、いっそう打撃(だげき)に拍車をかけました。

製糸業の衰退と現在の丸子町 | 丸子地区の養蚕業/上田市デジタルアーカイブポータルサイト

アメリカは日本の繊維輸出に規制「関税を引き上げ」

不況に喘ぐ米国綿業界は1934年、1935年にかけて日本品輸入制限を政府に迫った。米領フィリピンでは日比紳士協定により日本からの輸入量を規制し、日本は米本土への輸出自主規制のための交渉も行なった。日本は米国産原棉の最大の買い手であったにもかかわらず、米国は1936年6月、日本製綿布に対して関税引き上げを行なった。同じ1936年6月、オーストラリア政府が英国の綿業者への配慮から、日本製綿布輸入制限措置をとった。日本はオーストラリア産羊毛の大口の買い手であったため、「飼い犬に手をかまれた」と感じ、再び擁護法を発動した。年末には、日豪会商の決着がついたが、米豪の1936年6月の措置が時間的に重なったため、あたかも米英両国による”結託””共謀”のごとく日本のマスコミは報じ、日本国内には閉塞感が強まった。結局、”アジアへの回帰”(中国市場確保論)が喧伝されるようになった

1930 年代の大国間外交 大恐慌は戦争をもたらしたのか(p.24)/石井 修.JIIA -日本国際問題研究所-

そして戦後……日米貿易摩擦は繊維から始まった

 戦後の日米貿易摩擦は繊維から始まります。

日米繊維協定、貿易摩擦の時代へ【1972(昭和47)年1月3日】/トウシル | 楽天証券の投資情報メディア
アメリカは戦争で国力が低下中

当時のアメリカは、朝鮮戦争やベトナム戦争など度重なる戦争で国力を低下させ、インフレとなり始めていた。

ユニクロの中国生産体制をコーディネートし、躍進を支えた。 その経験を活かし、グローバル人材を育成/一橋大学.2018

関税の引き下げで日本製品がアメリカに流れ込んだ

1955年に米国が繊維製品の輸入関税を引き下げると、安価な日本製品が米国へ大量に出荷され、米国の繊維業界は深刻な打撃を受けました。

日米繊維協定、貿易摩擦の時代へ【1972(昭和47)年1月3日】/トウシル | 楽天証券の投資情報メディア
ワンダラー・ブラウス事件

 1955年のワンダラー・ブラウス事件(=1ドルで買えるほど安いドレスの意)は、安い日本製ドレスが米国の繊維業者を圧迫すると非難された事件でした(後略)

日米貿易交渉で牛肉・オレンジ輸入自由化【1988(昭和63)年6月20日】トウシル | 楽天証券の投資情報メディア

当時の米国では、有名デパートの地下では、「ワンダラーブラウス」という日本製のブラウスが売られ、日本製といえば安かろう悪かろうという認識の時代であった。

『COMME des GARÇONS』論 ~オリエンタリズムからの脱出~(pp.4-5)/伊藤 花.中央大学杉並高等学校

当時は1ドル360円の固定相場制で、”ワンダラー・ブラウス”と揶揄された。

ユニクロの中国生産体制をコーディネートし、躍進を支えた。 その経験を活かし、グローバル人材を育成/一橋大学.2018

このブラウスを中心とする輸出の激増が、米国内のアパレルメーカーを刺激するところとなり,1955年秋頃に日本綿製パレル製品の輸入制限運動が米国綿製アパレルメーカー協定及び労働組合によって引き起こされた。

日本アパレル産業における輸出マーケティング 1945- 1965(1)(p.51)/モヒウディン, イムティアズ ホセイン.經濟論叢 (1996), 157(4): 30-54
アメリカは日本に自主規制を迫る

日本からの綿製品の輸入制限運動が巻き起こり、米国政府は日本に自主規制を迫った。

ユニクロの中国生産体制をコーディネートし、躍進を支えた。 その経験を活かし、グローバル人材を育成/一橋大学.2018

「日米綿製品協定」日本は5年間の輸出自主規制を開始

1957 年に「日米綿製品協定」が締結 され、対米綿製品の輸出を 5 年間自主規制する(後略)

MUFG BK 中国月報(p.17)/三菱UFJ銀行

繊維製品は日米間の貿易不均衡の象徴としてターゲットにされたのである。

ユニクロの中国生産体制をコーディネートし、躍進を支えた。 その経験を活かし、グローバル人材を育成/一橋大学.2018

57年からは綿製品全般を対象とする輸出規制が向こう 5年間を念頭に始動した。

ワンダラーブラウス(p.50)/富澤 修身.経営研究 第67巻 第 4号.大阪市立大学

「ワンダラー・ブラウス」事件の翌1957年に日本が輸出自主規制に踏み切った結果,アメリカの繊維製品の市場は,香港,台湾,韓国が圧倒的なシェアを握ることになったが,中国もまた短期間のうちにテキスタイルからアパレルまで,世界屈指の生産・輸出国に成長した。

中国のグローバル経済への参入/統合(p.137)/毛利 良一.立命館大学

ケネディ大統領「アメリカの繊維産業を守る」

British Pathé/YouTube

57年協定により日本からの輸入は抑制されたものの、香港を初めとして、イ ンド、フランス、スペインなどからの対米輸出が急増した。こうしたなか、米国 では1960年の大統領選挙が行われる。米国における綿工業の発祥の地、ニュー イングランド地方のマサチューセッツ州はひどい不景気に見舞われていたが、この州選出の上院議員ケネディ(John F. Kennedy)が民主党の大統領候補に選出さ れた。共和党の相手候補はカリフォルニア州出身のニクソン(Richard M. Nixon) 副大統領だった。選挙は最初から接戦が予想された。

第2次日米繊維紛争(1969年‒1971年) ─迷走の1000日─/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)
票を獲得して当選するために繊維問題を取り上げた

選挙戦中、ケネディ候補は南部諸州の支持票を獲得するため繊維問題を取り上 げ、例えば、サウスカロライナ州のホリングス(Ernest F. Hollings)知事(後 に同州上院議員)や衣服製造業労働組合(ACW)の会長らに書簡を送って繊維業界救済の公約をした。そのこともあって、ノースカロライナ、サウスカロライ ナ、ジョージアという3大繊維生産州を含む南部諸州とニューイングランド諸州 で得票し、辛うじてニクソンを下した。

第2次日米繊維紛争(1969年‒1971年) ─迷走の1000日─(p.417)/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)
就任後、ケネディ大統領の働きかけで日本の繊維が規制される

就任後の61年5月、ケネディ大統領は繊維産業救済のための国際会議開催を働きかけた。

第2次日米繊維紛争(1969年‒1971年) ─迷走の1000日─(p.417)/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)

「綿製品の国際貿易に関する長期取極」日本の輸出自主規制が延長

1962年にはGATT主催の国際繊維品貿易会議で多国間の「綿製品の国際貿易に関する長期取極」が採択され、当初その規制期間が5年だったが1973年9月まで延長された。

繊維産業構造改善政策と織物産地における構造改善事業の歴史的検証-1960~90年(p.8)/白戸,伸一.明治大学社会科学研究所紀要, 51(2): 1-24.2013

さらに1965年日本繊維協会と米国繊維製品製造業者協会(ATMI)との会談で、他の製品の規制も求められたが日本側は拒否した。

繊維産業構造改善政策と織物産地における構造改善事業の歴史的検証-1960~90年(p.8)/白戸,伸一.明治大学社会科学研究所紀要, 51(2): 1-24.2013

ニクソン大統領「さらなる繊維の輸入規制を迫る」

Richard Nixon Foundation/YouTube

 ベトナム戦争の泥沼化と反戦運動が燃え盛る中の1968年大統領選。1960年選挙でケネディ氏に敗れたニクソン氏が接戦の末、民主党のハンフリー氏を破り、共和党が政権を奪還した。

支持率・失業率でみる戦後の米大統領選(第2回)/リコー経済社会研究所.2020
大統領選挙期間中の選挙公約

(前略)大統領の椅子を手にするために、ニクソンは党大会の興奮も醒めやらぬ8月19日、サンディエゴのミッションベイでミリケン(Roger Milliken)ら繊維 業界代表と懇談し、輸入制限を約束した。その2日後、ニクソンはサーモンドら 数名の共和党議員に電報を送り、自分が当選すれば「毛、化合繊、混紡を含む繊 維製品」の輸入割当に関する国際協定を結ぶ交渉を行うと宣言した。こうして、 これがニクソンの “選挙公約” となったのである。

第2次日米繊維紛争(1969年‒1971年) ─迷走の1000日─(pp.421-422)/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)
次の選挙を見越し日本の繊維規制を求めた

ニクソン(Richard M. Nixon)は1968年大統領選挙で「南部戦略」の一環と して、斜陽化しつつあった南部の繊維産業救済を公約のひとつとして、当選果した。この選挙が薄氷を踏むようなものであったため、4年後の再選を確実にすべく69年1月の就任後、公約履行のためにアジア4か国、とりわけ、日本(他の 韓国、台湾、香港は“The Three”と呼ばれた)に対して毛製品、化学繊維製品の対米自主規制を求めた。

第 2 次日米繊維紛争(1969 年 –1971 年)(2・完) ─迷走の 1000 日─(p.1)/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)

沖縄返還と密約

Film Archive of Japan/YouTube

 佐藤首相は那覇空港に降り立ち、「沖縄の祖国復帰が実現せずには、わが国の戦後は終わらない」と述べ、沖縄返還に強い意欲を表明しました。1972年5月15日に沖縄が本土に復帰したほか、これより前の1968年6月26日に小笠原諸島の返還も実現させています。

佐藤栄作首相が沖縄へ【1965(昭和40)年8月19日】/トウシル | 楽天証券の投資情報メディア.2019

 佐藤氏は核兵器を作らない、持たない、持ち込ませないの「非核3原則」を提唱。アジアの平和に貢献した功績からノーベル平和賞を受賞しています。日米繊維摩擦の解決や日韓基本条約の批准などでも手腕を発揮。一方、「黒い霧事件」など不祥事もあり、マスコミ嫌いでも有名でした

佐藤栄作首相が沖縄へ【1965(昭和40)年8月19日】/トウシル | 楽天証券の投資情報メディア.2019
密約「緊急時の核兵器の持ち込み」
ANNnewsCH/YouTube

 沖縄返還交渉において、佐藤首相とニクソン米大統領の間に密約があったことは、広く知られている。アメリカが要求したのは、第一に、緊急事態においては、在日米軍基地への核兵器の再持ち込みを認めること。

沖縄返還交渉 密約を破った佐藤栄作が招いたニクソンの逆襲/NEWSポストセブン.2015
密約「返還時の米軍基地の費用負担」
ANNnewsCH/YouTube

第二には、沖縄の軍用地を返還する際、原状回復にかかる費用を日本が肩代わりすること。表向きアメリカ側が負担することになっていたが、こっそり日本が肩代わりするという意味だ。

沖縄返還交渉 密約を破った佐藤栄作が招いたニクソンの逆襲/NEWSポストセブン.2015
密約「日本の繊維輸出規制」

 沖縄返還に関してはこの2つばかりが注目されるが、あまり知られていない第三の密約がある。「繊維密約」だ。

沖縄返還交渉 密約を破った佐藤栄作が招いたニクソンの逆襲/NEWSポストセブン.2015

1969 年に日米が合意した沖縄返還を巡り、大統領再選を視野に入れるニクソン政権は佐藤政権の命題であった沖縄の施政権返還に同意するのと引き替えに米国内の繊維産業保護 のための対米輸出規制を迫る「糸(繊維)と縄(沖縄)」の取引を模索した。

沖縄返還と繊維問題とのリンケージ : 「糸と縄」の取引 はあったのか(p.11)/豊田, 祐基子; 我部, 政明.国際琉球沖縄論集.2019
“約束”ではなく“密約”……交渉は進まず

69年11月の日米首脳会談では、沖縄返還を約束された佐藤榮作総理大臣は、感謝の気持ちを伝えて、繊維の対米自主規制を握手しながらニクソンに対して年末までに果すことをはっきりと約束した。しかし、国内的には「イトでナワを買った」との世間の噂を打ち消すためにも、また国内繊維業界を刺激しないためにも、約束の存在を隠し続けた。「約束」は「密約」となってしまったのである。大平正芳通産大臣も佐藤には非協力的であった。かくして佐藤はニクソンへの約束を果せぬままに69年も暮れた。

第 2 次日米繊維紛争(1969 年 –1971 年)(2・完) ─迷走の 1000 日─(p.1)/石井 修.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)

一つは緊急時の核兵器の沖縄への持ち込みに関する密約です。もう一つが繊維製品に関する密約です。当時繊維輸入の規制は、ニクソン大統領が再選を果たすために譲れない大問題でした。しかし佐藤首相は、そこまで深刻な問題であるとの認識が甘く、密約であるゆえに「存在していない」繊維輸出規制を、国内の業界に対して説得することができませんでした。そのため1970年、日米政府間の繊維交渉は暗礁に乗り上げます。

今だから聞ける日米貿易摩擦の深層~歴史を紐解き本質的原因を探る~/わらしべ瓦版.アセットマネジメントOne.2020
日本の繊維業界団体が自主規制に合意

そして日本の繊維業界団体は翌年、こともあろうにニクソンの政敵である民主党の案に沿った自主規制に合意してしまいました。

今だから聞ける日米貿易摩擦の深層~歴史を紐解き本質的原因を探る~/わらしべ瓦版.アセットマネジメントOne.2020
ニクソン大統領の逆鱗に触れる

当然、ニクソンの怒りを買って日米関係は極めて悪くなりました。

今だから聞ける日米貿易摩擦の深層~歴史を紐解き本質的原因を探る~/わらしべ瓦版.アセットマネジメントOne.2020

日本の繊維製品の対米輸出規制を話し合う日米繊維交渉が決裂した1971年春、ニクソン米大統領が佐藤栄作首相に「失望と懸念を隠すことができない」と、強く非難する異例の書簡を送っていた。

繊維交渉決裂、米が「失望と懸念」 71年の外交文書 ニクソン大統領、佐藤首相に異例の書簡/日本経済新聞.2014

大統領は書簡で、この発表やこれを歓迎した日本政府の声明に触れ「本当に驚いた」と言明。「双方が満足できるような交渉を続けることが望ましいが、不可能と思われる」と交渉打ち切りを通告、輸入制限立法の必要性に触れた。「こうした方法であなたに手紙を書くことになったことを、深く遺憾とする」とも記し、憤りをにじませた。

繊維交渉決裂、米が「失望と懸念」 71年の外交文書 ニクソン大統領、佐藤首相に異例の書簡/日本経済新聞.2014

 ニクソン大統領を激怒させた日本は、数々の報復行為を受けた。

沖縄返還交渉 密約を破った佐藤栄作が招いたニクソンの逆襲/NEWSポストセブン.2015

「ニクソンショック」日本の繊維業界に大打撃

Richard Nixon Foundation/YouUbe

日本が密約を履行しないことに対する報復だったのか定かではありませんが,その後,日本は2度に亘ってニクソンショックに見舞われることになります。

「アメリカとどう付き合うか」後編(p.208)/齋藤 元一.【2010 年 5 月18日 世田谷シニア大学 講演会講演録】
日本との約束を無視して訪中へ
Richard Nixon Foundation/YouTube

中国に関する政策は日米間で事前協議をするとの約束があったにもかかわらず、1971年7月、ニクソン大統領は事前通告なしに訪中計画を発表し、日本外務省に衝撃を与えた。

沖縄返還交渉 密約を破った佐藤栄作が招いたニクソンの逆襲/NEWSポストセブン.2015
「ドル・ショック」8月15日終戦記念日に「ドル」と「金」の交換停止を発表
danieljbmitchell/YouTube

さらに同年8月15日、すなわち終戦記念日をわざわざ選んで、ドルと金の兌換停止を発表。同年12月には1ドルが360円から308円に急落し、日本の繊維製品の輸出に急ブレーキがかかった。

沖縄返還交渉 密約を破った佐藤栄作が招いたニクソンの逆襲/NEWSポストセブン.2015
日本の繊維業界に大打撃

 ニクソン・ショックの前、日本円は国際経済での実力に対して過小評価された状態だったが、政府も産業界も円の切り上げには絶対反対だったため、大混乱に陥った。急激な円高で繊維産業などが受けた打撃は相当大きかった。

為替決めるメカニズム変化=大妻女子大の伊藤学長―ニクソン・ショック50年/時事通信ニュース.2021

2つの「ニクソンショック」は繊維交渉決裂から米国が報復措置として取ったとも言われるが、確固たる証拠はない。だが、「新経済政策」については、キッシンジャーは「繊維紛争は、1971年8月15日にニクソンが発表した新経済政策にからみ合ってしまった。これが1971年の(私の北京隠密外交に次ぐ)第二の『ニクソン・ショック』だが、これには、それまでの日米交渉失敗の産物という面もかなりあったのである」と回想している。

日米繊維交渉“善処します”誤訳伝説 その4/Japan In-depth.2017

「日米繊維協定」日本の戦意産業はさらに衰退していく

46年(1971年)10月、時の田中通産大臣がアメリカと突然「日米繊維協定」の了解覚書に仮調印した。日本はこの時、沖縄返還交渉を行っており、6月に返還を受けていた。「糸(繊維)を売って縄(沖縄)を買った」と繊維業界では猛烈に批判した。

尾州產地物語一親が子に語り継ぐー(p.49)/麻沙檢枯.テキスタイル&ファッション Vol.22 No.3(2005.6)

トドメを刺すように日米繊維協定が47年(1972年)1月、本調印された。ドル・ショックに続く本調印で、これによりアメリカ向けの輸出が衰退していくことになる。

尾州產地物語一親が子に語り継ぐー(p.49)/麻沙檢枯.テキスタイル&ファッション Vol.22 No.3(2005.6)
created by Rinker
日本力(ジャパナビリティ)を取り戻せ! 通商産業事務次官、内閣総理大臣秘書官として、日米繊維交渉、石油危機、日米貿易摩擦、プラザ合意など、高度成長期における日本の通商産業政策を担ってきた著者の人生哲学と、日本復権のための提言!(「Books」出版書誌データベースより)

このの記事の続きを読む▼

激動の繊維産業史(4)かつて主力産業だったのは遠い過去……今や衰「斜陽産業」と言われる業界へ。
“https://diggity.info/culture/spinning-4/”
Previous post 激動の繊維産業史(2)過酷な環境で働く「女工」と「女子バレー」の深すぎる関係
Next post 激動の繊維産業史(4)かつて主力産業だったのは遠い過去……今や衰「斜陽産業」と言われる業界へ。