激動の繊維産業史(2)過酷な環境で働く「女工」と「女子バレー」の深すぎる関係

激動の繊維産業史(2)過酷な環境で働く「女工」と「女子バレー」の深すぎる関係

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激動の繊維産業史(1)日本の近代化を支えた「紡績」と「女工」
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The history of spinning in Japan Part.2

国の紡績企業を民間委託!結果、労働環境が悪化していく

昭和の暮らし映像ch / 昭和物語/YouTube

(前略)政府主導で紡績企業が全国各地に設立されたが、その経営はうまくいかなかった。そのため民間企業が紡績業振興の役割を担うことになった。

Ⅱ 近代日本紡績業と労働者 – ―「女工」育成と労働運動 ―(p.14)/橋口 勝利. 関西大学

全ては利益のため

 富岡製糸場は1893年に民間に払い下げられた。以降も高品質な生糸の量産化に貢献、近隣農家の養蚕技術改良にも主導的役割を果たした。

論争 富岡製糸場はブラックだったのか?(THE PAGE)/Yahoo!ニュース – Yahoo! JAPAN.2014

 しかし利潤を求める民営下では、工女たちの就業時間は徐々に長くなり、1日10~12時間に。休日も月2日となるなど労働環境はだんだんと悪化していったという。

論争 富岡製糸場はブラックだったのか?(THE PAGE)/Yahoo!ニュース – Yahoo! JAPAN.2014

農村部(貧困層)の女性の出稼ぎ「女工」

(前略)明治九年当りから器械製糸の急激な発展、製糸工場の増設を背景に、工女の必要性 がますます増加していった。これにより、工女募集についても、工女の質の変化がみられるようになってきた。すなわち、工女の必要性の増加は、工女募集を、良家の娘さんから、窮乏化した士族や遠隔地の農村部からの「貧民の娘」 へと拡大し、当初の通動工から、出稼型の寄宿工へと変化させていっだ。このような傾向は、綿紡績でも同じであった。

〈論 説〉 明治・大正期の女子労働政策(ニ)(p.6)/高橋保.明治・大正期の女子労働政策(一)

貧しい農村に生まれた女工たちの一部は,孝行娘として行動し,町へ出て賃労働者になることによって,故郷の農村において社会的に認められることができた。

「女工哀史」言説についてのもう一つの視点:戦前日本における女性製糸業労働者の生活世界(Abstract_要旨)(p.131)/シャール,サンドラ.京都大学2006

そして、紡績工場と遠隔地の農村とをつないだのが、募集人という存在だった。初期の工場の多くは、自工場の従業者を募集地に直接派遣する方法を採ったが、やがて仲介業者に手数料を払って募集させるという間接募集の方法に移行した。募集人は同時に複数の紡績会社と契約を結ぶ者が少なくなかった。しかし、1920年代には大工場の多くが、自工場の従業者を派遣する直接募集に戻している。自工場の従業者を募集人とする場合には、募集人が自らの出身地域から若年女性たちを継続的に引き出す役割を担い、連鎖的な移動を生じさせた。

紡績工場にできたたまり場 ─戦前期における沖縄一集落出身女工の体験─(p.30)/石井 宏典

劣悪な労働環境「女工哀史」

近代日本における女性労働の歴史は,工場で働く「女工」の歴史として,すなわち,農村出身の若い未婚の女性が過酷な労働条件で酷使される「女工哀史」の世界として一般に知られている。

【特集】日本における女性労働の歴史 戦間期の繊維産業と労働市場の変容(p.26)/榎 一江.法政大学大原社会問題研究所

当時の工場労働者の大半は繊維産業が占めており、その大部分は女工であった。彼女らは低賃金で長時間の労働に従事し、その労働条件は务悪であり、生糸工場などでは、毎日の労働時間は13~14時間を下回ることはなく、17~18時間に達した。

日本の労働組合の成立ち(p.1)/厚生労働省

(前略)公休日は月に一回あるかないか,食物は麦飯に味噌汁とたくあんだけ,夜は一つの寝具に二人または三人ずつもぐり込み,病人が続出しても医療が不充分なばかりか,病を患いながら坐業さえ強制される⋯しかし女工たちは,このような生活に耐えかね,たとえ逃亡することがあっても,その足がそのままふるさとへ向かうことはほとんどなかったといっていい。逃亡帰郷の道は残されてはいなかった。ふるさとの農村は貧困にあえいでおり,彼女たちに暖かいねぐらを与えるものではないことなど,すでに彼女たち自身が十二分に承知していたからである。

家郷喪失と過労死(pp.210-211)/岸本, 聡.北海道大學教育學部紀要, 78, 205-240.1990
住み込みで仕事をする未成年女工が増加

明治33年の長野県製糸工場年齢別女性労働者数2)は,20歳にならない女性が全体の66.09%,明治30年代の製糸工場女性労働者の1日の平均賃金17.8銭(物価:米一升が14銭~18銭)であった.ただし,製糸女性労働者は,寄宿舎が多く,3食の食事は工場が負担していた.女性が現金収入を得ることが難しい時代,低賃金にもかかわらず,家族のため,自分の夢の実現のために製糸工場で労働に従事している

日本の繊維産業興隆期から見た女性労働者の労働意識と教養(p.334)/平井 郁子.辻 幸恵.J-Stage

企業にとって寄宿舎制度は、夜間の安定的操業のためにも必要で、しかも女工の引き抜きや逃亡を防止するといった意図も込められていた。

紡績工場にできたたまり場 ─戦前期における沖縄一集落出身女工の体験─(p.30)/石井 宏典

日本人女性初のストライキが起こる!

 1886(明治19)年6月12日、この頃、生糸の相場が下がり、企業の利潤が低下しました。そこで、甲府の雨宮製糸紡績工場では、1日の14時間労働を30分延長し、1日の33銭5厘の賃金を22銭3厘に引き下げるという提案をしました。

社会運動の発生Ⅱ(治安警察法、特別高等警察、女工哀史)/日本史史料集

100人の女工は、リーダーの「普段でも、私らは長糞、長小便はもとより、水1杯飲む暇もない。この上労働時間延長して、賃金は3分の1減らすなんて…」という呼びかけに同調して、近くのお寺に立て籠もりました。その他にも、取締りの過酷・遅刻早退による大幅賃金引下げなども取り上げました。これが日本最初の女性ストライキです。

社会運動の発生Ⅱ(治安警察法、特別高等警察、女工哀史)/日本史史料集

さらに1894年には大阪の天満紡績で大規模なストライキが起こったことなどがこの時期の主な労働問題であった。

第56回日本史講座のまとめ④(労働組合の結成と初期社会主義)/山武の世界史
渋沢栄一が支援

 富岡製糸場の設立に深くかかわった渋沢栄一は、第一国立銀行をはじめ500もの企業創立にかかわり、「日本資本主義の父」と呼ばれています。一方、身寄りのない老人や子どもを養う養育院や聖路加国際病院の設立にかかわるなど、弱者への支援、救済に心血を注いだことは、意外と知られていません。

世界遺産の富岡製糸場(1/4)/農民運動全国連合会.2014

 とりわけ、戦前の製糸工場での過酷な労働に、女工たちがストライキを決行してたたかった長野県岡谷地方の労働争議では、渋沢栄一は女工の側に200円もの高額なカンパを送っています。

世界遺産の富岡製糸場(1/4)/農民運動全国連合会.2014
当時の“1円”の価値は?

明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8~9円だったといわれています。現在の初任給はおよそ20万円程度であることを考えると、1円は2万円もの価値があったとも考えられます。

昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語/気になるお金のアレコレ:三菱UFJ信託銀行

輸出量が輸入量を上回る!紡績業の復活

(前略)1890年には綿糸国産高が輸入高を上回り(国内市場を回復)、さらに1897年には輸出高が輸入高を上回るにいたった。綿糸紡績業が対外的に自立し、さらには輸出産業へと転換していったのである。

1990_4/解法のヒント/東大日本史/解法の研究

日露戦争後、日本の紡績業は中国に進出

 日露戦争後、日本の外国貿易は近代紡績業の確立により綿関連の繊維製品を中心とした輸出が急増し、また雑貨類の輸出も伸び、さらに原材料の輸入急増が顕著となる。

日露戦争後の海外貿易/函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイ
「在華紡」

日本企業の多国籍化は,日本の工業化のスタートとともに始まった。それは貿易商社をはじめとする貿易関連企業の海外事業拠点の建設をもって始まった。日清戦争後には,植民地への資源投資が,ついで,日露戦争後には満洲をはじめとする中国大陸への資源開発の投資,鉄道投資が進められた。また,製造業の中国への投資がはじまった。こうした製造業投資の代表的な担い手が,紡績企業であった。

Ⅱ 日本企業の国際進出(pp.17-18)/桑原 哲也.日本企業の国際経営に関する歴史的考察 ──両大戦間期, 中国における内外綿会社

なお日本企業が中国に作った紡績会社は、在華紡といわれる。

在華紡の経験―日本企業の海外経営における連続性と進化―/桑原哲也.神戸大学MBA.2008

日露戦争が終わった1905年頃から中国経済界も新局面を迎え、金融機関や交通機関も整備され、綿花の栽培や労働者も増加して再び紡績業が活気を呈することになった。この10年間は「紡績業の平和に進歩した時代」であり、この間に日本人の紡績工場が進出して「英人紡績との角逐漸く熾烈となり」、イギリス人、中国人の紡績と対抗して「三者鼎立時代を現出した」。具体的には、1905年に三井洋行が上海の中国人経営の大純紗廠を借りさらに翌年にはそれを買収して生産を行い、のちに上海紡績第二]場と改名した。また、内外綿株式会社は1909年に上海共同租界内小沙渡地区蘇州河畔に、翌年にはさらにその近くの宜昌路に土地を購入して工場を建設して、1911年から生産を開始した。これが内外綿第三工場であり、日本が中国に独自に紡績工場を建設した最初であった。

在華紡の居住環境について ──上海の事例 ──(p.18)/大里浩秋.冨井正憲.神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」

(前略)第1次世界大戦後には日本の主要な紡績企業の大半が,中国に紡績工場を建設した。

Ⅱ 日本企業の国際進出(p.18)/桑原 哲也.日本企業の国際経営に関する歴史的考察 ──両大戦間期, 中国における内外綿会社

この在華紡は,その大半が,中国における地位を確立し,中国紡績業の主要な担い手として成長していった。しかしこうした成果は,第2次世界大戦の日本の敗戦とともに失われた。

Ⅱ 日本企業の国際進出(p.18)/桑原 哲也.日本企業の国際経営に関する歴史的考察 ──両大戦間期, 中国における内外綿会社

「第一次世界大戦」戦場じゃなかった日本は輸出で爆益

1914(大正3)年に勃発した第1次世界大戦により、英国をはじめ交戦国の綿業は輸出余力を失った。それらの国々に代わり、1916年ごろには日本の綿製品がアジア諸国に進出し、わが国の綿業は空前の活況を呈した。

第3項 綿業不況と事業の多角化・合理化/トヨタ自動車

日本綿花の喜多又蔵社長は、日本の紡績業および日本の工業発展への貢献が認められ、大正8(1919)年に開催されたパリ講和会議の4人の民間随行員の一人として選ばれている。

日本綿花/双日歴史館
その後はうってかわって長期不況

ところが、1918年に第1次世界大戦が終わると、綿業界は一転して反動不況に見舞われた。

第3項 綿業不況と事業の多角化・合理化/トヨタ自動車

日本の資本主義は戦争を通じてしばしば発展したため、軍事産業の占める比重が大きく、そのうえ、国民の購買力はいまだ十分とはいえず、国内市場はそれほど広くなかったので、つねに海外市場に依存するという不安定な構造をもっていた。

戦後恐慌から金融恐慌へ/世界の歴史まっぷ.2019

そこで、大戦が終わって列強の生産力が回復してくると、輸出は後退して、1919(大正8)年から貿易収支は輸入超過に転じ、とりわけ、重化学工業の分野では輸入品が増加して、国内の生産を圧迫した。1920(大正9)年には株式市場が暴落し、また綿糸・生糸の売れ行きが不振となって、その相場が下落した。そのため、紡績、製糸業は操業を短縮するなどの不況に見舞われた。これをふつう戦後恐慌と呼んでいる。

戦後恐慌から金融恐慌へ/世界の歴史まっぷ.2019

さらに、1923年の関東大震災、1927(昭和2)年の金融恐慌、1929年の世界恐慌などの影響で、わが国の綿業界は1931年まで長期不況にあえぐことになった。

第3項 綿業不況と事業の多角化・合理化/トヨタ自動車

合成繊維の開発

1930年代から40年代にかけて新しい合成繊維が次々と開発されていきました。1931年にはドイツでポリ塩化ビニルが開発され、1935年にはアメリカでナイロンが発明されました。ナイロンは、ストッキングや衣類のほか、手術糸、釣り糸、ロープ、パラシュートなどさまざまなものに利用されました。その後も、アクリルやポリエステルなどが開発されていきます。日本でも1939年に京都大学でビニロンが発明され、丈夫で安いビニロンは作業服や学生服、漁網、ロープなどに利用されています。

衣類を手に入れやすくした化学繊維/経済産業省

「女工」の“結核”が深刻な社会問題

明治政府は近代化を推し進めることを国策とし、「富国強兵、殖産興業」のスローガンを掲げて短期間のうちに工業化をなしとげましたが、そんな中で労働者のおかれた環境は二の次とされ、劣悪な環境と労働条件は結核を蔓延させて国民病となっていました。

緑十字旗の精神について/全国建設業協会

結核が増えはじめた当時、日本の主たる産業は繊維工業で、女工40万人が繊維工場で働きました。そのうち 一番多かった年齢層は15~19歳、いまなら高校生ぐらいの年代でした。女工の繊維工場における過酷な労働条件は、結核という形で10~20歳代の若き命を奪っていったのです。

医療研究室 古くて新しい感染症・結核/全日本民医連

また、働けなくなり郷里に戻った女工が周りの人々に結核を感染させてしまうなど、これまで結核が存在しなかった地域に結核を蔓延させる一因となりました。

虎狼痢/コレラ 労咳/肺結核/本の万華鏡

1935年には、1900年以来つねに死因別死亡率の首位を占めつづけてきた肺炎・気管支炎にかわって結核が第1位となり、戦後の1950年まで同じ状 態がつづきました。戦前戦後をまたがって約15年間は結核がいまの悪性腫瘍の位置をしめていたわけです。

医療研究室 古くて新しい感染症・結核/全日本民医連
石原修 [著]『女工と結核』

結核の蔓延はほとんど自明のように産業化に帰せられているが,結核の罹患と産業を結びつける研究の中心を担ったのは,もちろん医学的・疫学的な調査であり,その代表が石原修(1885-1947)『女工と結核』である。石原の研究は1911年の工場法公布(1916年施行)の準備として,工場の実情を把握するために農商務省によってなされた一連の調査のひとつである。『職工事情』や「工場調査要領』もそれに含まれる。

近代日本における不熟練労働市場と感染症に関する一試論:明治後期-(p.33)/齊藤 ,健太郎.三田学会雑誌.慶應義塾経済学会.2006
結核対策で「工場法」が施工!

大正期に入ると、結核対策が懸案となった。紡績工場などが発展したことで、「女工」と呼ばれた女性労働者の健康問題、中でも結核対策が浮き彫りとなった。そこで、政府は労働時間の制限などを盛り込んだ工場法を1916年に施行した。この工場法は社会政策の始まりと見なされており、現在に繋がる健康保険法(1927年施行)、労働安全法制の基礎となった。

感染症対策はなぜ見落とされてきたのか-保健所を中心とした歴史を振り返る/ニッセイ基礎研究所.2020

工場法の主な内容は,15歳未満の年少者及び女子の一日12時間を限度とする就業時間の制限と深夜労働(22時から4時まで)の禁止,12歳未満の児童の雇用禁止,15歳未満の年少者および女子に対して毎月少なくとも二回の休日の制定,一日の就業時間が10時間を越える場合には就業時間中の少なくとも一時間の休憩の設立であった。しかし,この法律は,15人未満の工場には適用されず,さらに製糸業に14時間労働を期限付きで認めたため,内容的に不徹底なものであったと言える。また,工場法は資本家側の反対で実施が延期され,1916(大正5)年になってようやく施行されたが,少年及び女子の深夜労働の禁止が完全に適用される(1929/昭和4年以後)まで,いっそう時間がかかった。

〈瘴気 〉と〈国民の心身の健康〉(p.10)/サンドラ・シャール.法政大学大原社会問題研究所
さらに労働条件を改善へ!「改正工場法」が施行

その後、紡績工場の労働環境を大きく変えたのは、1923年に公布され、1929(昭和4)年7月に適用された改正工場法だった。すでに1916年に施行されていた工場法は、年少者・女子の夜業禁止を定めていたものの、紡績業界では昼夜二交代制という条件で深夜業が認められてきた。改正工場法はこれを禁じたため、それまでの二交代12時間勤務から、深夜業のない二交代9時間勤務が標準となった。昭和初期の不況下にあった紡績会社は、深夜業廃止による操業時間の短縮という事態のなかで、技術的合理化と人員削減を進めることで生産コストを切り下げようとした。その結果、労働争議が多発した。

紡績工場にできたたまり場 ─戦前期における沖縄一集落出身女工の体験─(p.30)/石井 宏典

「第二次世界大戦」軍事産業へ強制転換されたり、空襲の被害で衰退……。

20th Century Japanese Photography

(前略)が第二次大戦の勃発は繊維産業に甚大な被害を与えることになった.まず戦時経済下では,軍事目的に直接役に立たない繊維産業は不当な扱いを受けた.競争力を排除し,生産の効率をあげるために企業統合が行われて,いわゆる10大紡,化繊7社体制が作られ,その他の企業は強制的に軍事産業へ転換させられた.さらに戦局の悪化につれて,紡糸設備をスクラップ化して供出せられ,また空襲の被害も受けた.

繊維の50年を振り返る(その6)繊維産業一復興・発展期から調整・改革期へ(p.276)/地引 淳

戦後、GHQの手によって紡績業が復活!!

(前略)第 2 次世界大戦後,繊維産業の生産設備は大幅な縮小を余儀なくされていたが,GHQ による戦後統制政策の中で,綿紡績設備の再建(10 大紡績による設備復旧と新紡績企業の参入奨励)を進めるとともに, 原料として米国の援助による輸入米綿を確保したことから,綿紡績産業はいち早く復興し,戦後の外貨獲得に大きく貢献した。

戦後のわが国における繊維産業に見られる企業内教育の変質-鐘紡,クラボウ,グンゼの三社を中心に-(p.112)/田中 卓也.技術教育学の探究 -科研費中間報告書(その 1)- 第 12 号 2015 年 4 月
朝鮮戦争で米軍からの大量注文「糸へん景気」

1950年に勃発した朝鮮戦争に対応するため、米軍は日本企業に繊維製品などを大量に発注しました。米国からの受注は、日本に特需景気とよばれる経済成長期をもたらしました。繊維産業と鉄鋼業の伸びは特にいちじるしかったため、特需景気は「糸へん景気」「金へん景気」とも呼ばれました。

特需景気と女性労働者/Cross Currents

この朝鮮特需が契機となって繊維の“ガチャマン景気”をあおることになる。

時の階 業界はどう続いてきたか(1)/繊維 戦後復興に力/朝鮮特需も操短の歴史/THE SEN-I-NEWS 日刊繊維総合紙 繊維ニュース.2018
「ガチャマン景気」

昭和25年頃、繊維や紡績業が大変好景気であった時代に「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」という業界の繁栄を例えた言葉だ。

『粉モノ』イベントが街を変える!?~繊維のまち愛知県一宮市の賑わいを目指して~/LIFULL HOME’S PRESS.2016

(前略)織布部門では,紡機に比べると織機の生産,補修は比較的容易であったことから,1949 (昭和 24)年半ばから翌年 3 月頃まで続いた「ガチャマン景気」のなかで,織機台数・工場数が増大した。加えて,GHQ による戦後統制の解除と朝鮮戦争特需を契機に綿紡績の新規参入が相次いだ。

戦後のわが国における繊維産業に見られる企業内教育の変質-鐘紡,クラボウ,グンゼの三社を中心に-(p.112)/田中 卓也.技術教育学の探究 -科研費中間報告書(その 1)- 第 12 号 2015 年 4 月

その後は一気に不況の渦に……。

しかし51年になると特需景気は消え、不況のどん底に追い込まれます。各紡績工場は操業短縮になり、女性労働者は大量に解雇されます。機械そのものが東南アジアに流れていきます。

労働者が勝ち取ってきたものが崩されている/いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター(IMC).2019

その一方で、1950年代から60年代に、貧しい農村地帯から都市に集団就職で若い労働者が集められてきます。

労働者が勝ち取ってきたものが崩されている/いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター(IMC).2019
貧乏な農村地帯から都市部への若者の「集団就職」が増加
IBC岩手放送 6BOX/YouTube

1950、51年は男女とも新規中卒者への求人倍率は1を下回っていたが、52年以降は多少の漸減も含みながら上昇しつづけ、64年以降は男女とも3倍を超えるに至っている。まさに中卒労働者が「金の卵」といわれた時代である。しかも、64年頃は就職率も男女とも9割前後を記録し、中卒でも求職者のほとんどが就職できた。

集団就職者の高度経済成長(p.13)/片瀬 一男.人間情報学研究,第15巻2010年,11~28頁

「金の卵」と呼ばれた中学卒業生たちが、高度経済成長期に「集団就職列車」に乗り大都会を目指したことは、戦後経済史のなかの画期的な出来事のひとつであった。

集団就職世代のライフヒストリ ー成功者たちの回想を中心にして一(p.37)/黒田 英一.J-Stage
紡績工場と女工の集団就職

各地方の中学が紡績工場と提携して,連続的に途絶えることなくずっと人を送り込む。

女子バレーボールの栄光と挫折(<特集論文>経営学部 でスポーツPart2 : 経営学と健康・スポーツ科学の相 互理解による新しい価値の創造)(p.146)/澤野, 雅彦.北海学園大学経営論集, 6(3): 143-168.2008

(前略)女工さんから聞いた話ですが,紡績工場は,まず特定地域から募集するということが大体どの工場も決まっているのだということでした。彼女は,北海道の名寄の先に美深という町がありますが,この美深の,しかも,さらに山のほうへ入ったところの出身だと言っていました。美深の中学を卒業して,就職するときに,富山へ行かないかという話があって,先輩もたくさん行っているからと。その中学と,富山県にある日清紡の工場が契約をして,毎年,何人かずつ,当時のことですから3人ずつぐらいですけれども,それ以前に,繊維産業が盛んだった頃は,10人規模で集団就職みたいな形で行っていたようです。これは,別に日清紡だけの話でなく,カネボウも日紡もみんなということです。

女子バレーボールの栄光と挫折(<特集論文>経営学部 でスポーツPart2 : 経営学と健康・スポーツ科学の相 互理解による新しい価値の創造)(p.146)/澤野, 雅彦.北海学園大学経営論集, 6(3): 143-168.2008
農村から都市部への気持ちを歌った曲が大ヒット

農村からの若年人口の流出が流行歌の大ヒット曲になる、1950年代はこういう時代、だった。そしてこうした労働力が、つまり農村部が、それからの日本の高度経済成長を支えたのである。

流出し始めた農村労働力【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第136回/JAcom 農業協同組合新聞.2021
Pick Up/YouTube
Hisaki TV/YouTube

化学繊維が普及

日本で化学繊維が身近になったのは、第二次世界大戦後、アメリカからナイロンのストッキングが輸入されたときからでしょう。それまで、絹や綿のストッキングが利用されていましたが、丈夫で、破れにくく、値段も安いナイロンのストッキングはとても人気が出ました。1956年にはアクリルの肌着が売り出され、化学繊維は私たちの暮らしに浸透していきました。化学繊維の発展とともに、衣類は私たちが手に入れやすい身近なものになっていったのです。

衣類を手に入れやすくした化学繊維/経済産業省

Women’s volleyball

「女工」と女子バレーの深すぎる関係

Film Archive of Japan/YouTube

 戦後復興を支えた繊維業界では、労働者の多くを「女工」と呼ばれた寄宿舎生活の女性が占め、彼女らが工場労働の余暇に楽しんだのがバレーだった。もともとは19世紀末の米国で、女性労働者向きのスポーツとして考案された起源を持つ。

「東洋の魔女」は歴史的必然 社会学者・新雅史さんの新書が話題/産経新聞.2013

健康のためにレクレーションを!「女工」たちはバレーを楽しんだ

明治時代より、繊維工場の工員には圧倒的に若い女性が多かった。その労働の過酷さは記録文学『女工哀史』などを通じてよく知られるところだ。それでも、国内外からの批判を受け、しだいに政府による規制のほか、企業側からも労働者の待遇改善の動きが出てくる。

東京オリンピックの伝説、日本女子バレーボール「東洋の魔女」の栄光と女工哀史/エキサイトニュース.2013

そして大正時代に工場法が施行されると、労働時間が短縮され、健康増進を目的としたレクリエー ションが工場ごとに行われるようになりました。そこで取り入れられたのがバレーボールです。大正時代には日本体育協会の努力により、すでにバレーボールは幅広く普及していたのに加え、織機工場の労 働者に女性が多かったこと、ちょっとしたスペースがあればどこでもできたこと、ボール 1 つあればた くさんの人で楽しめたことなどの理由から、工場の片隅の空き地で円陣パスを楽しむことが工員たちの気晴らしになっていったのです。

J.S.V.R.ニュースレター No.22/河合学.日本バレー学会2015

そして時代は下って昭和の高度経済成長時代までも、工場の空き地や 会社のビル横の駐車場などで、仕事着のまま、あるいはワイシャツの袖をまくった男性とスカート姿の 女性たちが一緒に円陣パスをする光景はどこでも見られたものでした。そして、ビルが建ち並ぶ大都市 で適当な空き地がない場合は、そうです、ビルの屋上に上がって皆でバレーボールを楽しむのがサラリー マンの休憩時間の定番でした。

J.S.V.R.ニュースレター No.22/河合学.日本バレー学会2015
あくまで“レクレーション”のバレー!学校のバレー部のほうがハイレベル

大正時代から昭和の戦前期にかけて女子工員のレクリエーションとしてバレーボールを導入する工場が増えていく。もっとも戦前において、工場でのバレーボールはあくまでレクリエーションという位置づけであり、競技大会で強かったのは実業団よりもむしろ学校だった。

東京オリンピックの伝説、日本女子バレーボール「東洋の魔女」の栄光と女工哀史/エキサイトニュース.2013

戦後初頭、競技目的でのバレーがスタート

戦後初頭の繊維工場における女子バレーボールは、女子工員の身体を健全化する(レクリエーションの)バレーボールと、女子工員の共同性を担保する(競技の)バレーボールのふたつが絡み合って発展していった。

企業スポーツの歴史社会学(p.141)/新雅史.人文社会系研究科 – 東京大学
労働運動が盛んな時代、団結のために社内対抗女子バレー大会が開催!
中日映画社/YouTube

バレーボール界が実業団中心となるのは戦後、1950年代のことである。労働運動が盛んだったこの時代、明朗な職場をつくり、女工が“変な思想”にかぶれたりしないための配慮から、繊維会社ではバレーボールが奨励された。同じ会社のなかでも寮、事業所、工場、部署などの単位でチームがつくられ、社内で大会が開かれる一方で、対外試合にも積極的に出場した。

東京オリンピックの伝説、日本女子バレーボール「東洋の魔女」の栄光と女工哀史/エキサイトニュース.2013
女子社員の離職率対策

 1950年代まで、女子社員の勤続年数は短かった。当時、女子中卒者の多くは20歳前後で離職し、その後「音信不通」になっていった。

『「東洋の魔女」論』書評 紡績業通して語る日本戦後論/好書好日|Good Life With Books – 朝日新聞デジタル

 そうした社会状況を改善するため当時の繊維業界は官民あげて「絶え間ない努力」を行った。「工場の近代性・安全性を喧伝(けんでん)し(略)面倒見のよい職場であることをアピールしようと」、米国でレクリエーションとして考案されたバレーボールを採用した。

『「東洋の魔女」論』書評 紡績業通して語る日本戦後論/好書好日|Good Life With Books – 朝日新聞デジタル

企業同士でのバレー対決が始まる

繊維業界におけるバレーボールの競争激化は、工場単位のチーム編成から企業単位のそれへと変化をもたらす。その変化をもたらした社会的背景を2つ挙げておこう。第1に、前節で見たように繊維業界間での競争が激しくなり、工場単位での選手育成では勝つことが困難になったこと。第2に、朝鮮戦争特需以降の従業員の減少と相次ぐ工場の閉鎖である。いち早くこの変化を遂げたのが、大日本紡績であり、その変革の結果生まれたチームが日紡貝塚であった。

企業スポーツの歴史社会学(p.141)/新雅史.人文社会系研究科 – 東京大学

大日本紡績「日紡代表女子バレーボールチーム」を編成

nandemo/YouTube

大日本紡績でもほかの繊維会社と同じく各工場にバレーボールチームが存在したが、1954年にチーム強化のため、これを貝塚に集約するとともに、高卒の新人選手を大量にリクルートして、全社的な統一チームを結成した。監督には学生時代からのバレーボールのプレイ経験を買われて、貝塚工場勤務の大松博文が就任する。


東京オリンピックの伝説、日本女子バレーボール「東洋の魔女」の栄光と女工哀史
/エキサイトニュース.2013

バレーボール部の強さは会社の強弱を計るバロメーターだから、日紡貝塚女子バレーボール部はなにがあっても勝ちつづければならない。大日本紡績の社長であった原吉平は、そう大松監督を叱ロ宅激励したという。

企業スポーツの歴史社会学(p.141)/新雅史.人文社会系研究科 – 東京大学
会社のブランドイメージのため!女子バレーに本気で取り組む

(前略)日紡貝塚という単独チームの結成は、女子工員たちのレクリエーションと切り離して成立したものだった。つまり、女子バレーボール部は是が非でも勝たなければならないもの、それは会社の面子に関わるものとして、各工場のレクリエーションとバレーボール部を完全に切断し、バレーボールのやる意味を根本から変えた。貝塚工場は会社の庇護のもと、各工場のバレーボール部から有望選手がかき集められ、工員用の大食堂を体育館に改築する(昭和32年6月)など、昼夜問わず練習に励むことのできる環境へ整えられていく。

企業スポーツの歴史社会学(p.142)/新雅史.人文社会系研究科 – 東京大学
後の「東洋の魔女」

それが世界を席巻し、欧州メディアのつけたニックネーム「東洋の魔女」は、日本女子バレーチームの代名詞となっていったのである。

菅義偉首相(72)がよく話に出す「東洋の魔女」とは何だったのか…農村育ち宰相の“苦労人神話”と“金メダル実業団チーム”って関係ある?/Number Web.2021
「東洋の魔女」たちは結婚……女工の時代の終わりを告げる

 「東洋の魔女」たちは東京五輪後、相次いで結婚し主婦となった。それは高度成長の中で「女工」が消え、女性労働者が急速に主婦化する過程と重なる。東京五輪は、金メダルを望む国民の強い要望で引退を延期した「東洋の魔女」の最後の舞台でもあった。

「東洋の魔女」は歴史的必然 社会学者・新雅史さんの新書が話題/産経新聞.2013

繊維業界といえば女子バレー

大日本紡績に限らず、日本の繊維工場は女子バレーボールチームを盛んに育成しました。その理由は、繊維会社ではその社員の多くを女子が占めること、(中略)たとえば当時の鐘紡では、女子従業員の約2割がバレーボールをやっていたといいます。

おちゃのこ通信 Vol.187 – オススメ参考書/おちゃのこネット.2013

その結果、日本の女子バレーボールを繊維会社が支えるという図式ができました。当時の全日本総合女子選手権出場チームを見ると、鐘紡6、日紡5、倉紡4、東レ3、東洋紡2と、大手繊維会社だけで20チームとなり、全出場チーム50の4割を占めていました。大手以外の繊維会社も出場していたので、このころの女子バレーは半分が繊維会社のチームだったということになります。

おちゃのこ通信 Vol.187 – オススメ参考書/おちゃのこネット.2013
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『女工哀史』の著者細井和喜蔵(1897‐1925)の妻高井としを(1902‐83)の自伝。10歳で紡績女工になり、労働運動を通じて和喜蔵に出会い、事実上の共作者として夫の執筆を支えた。戦争を挟んだ貧しさのなか、ヤミ屋や日雇い労働で5人の子を育てながら、社会保障を求めて闘いつづけた生涯の貴重な記録(「BOOK」データベースより)

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激動の繊維産業史(3)貿易摩擦のはじまり!「日米繊維紛争」
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