激動の繊維産業史(1)日本の近代化を支えた「紡績」と「女工」

激動の繊維産業史(1)日本の近代化を支えた「紡績」と「女工」

The history of spinning in Japan Part.1

日本における繊維の歴史

tsulunos/YouTube

繊維の歴史は人類の歩みとともにあるといって良い。麻や棉など植物の繊維を、また蚕の吐く糸を材料に、身に纏うものを作ってきた。

第3回 繊維機械/日本機械学会誌
「紡績(ぼうせき)」って?
三幸毛糸紡績株式会社/YouTube

「紡績」とは、原料となる麻や羊毛、綿などの天然繊維から糸をつくる工程のことです。紡績の「紡」は撚(よ)り合わせること、「績」は引き伸ばすという意味で、紡績によってつくられた糸を「紡績糸」といいます。

紡績工場のことを詳しく知りたい! 糸をつむぐお仕事って?/工場タイムズ.インターワークス
蚕(かいこ)
KATAKURA/YouTube

絹は繭(まゆ)から引き出した糸でできています。繭は蚕(かいこ)という昆虫が蛹(さなぎ)になるときに、自分の口から吐いて作る小さな家です。ですから、絹は繭の糸です。蚕は糸を吐き始めてから吐き終えるまで途切れることのない一本の糸で繭を作ります。その長さは千数百メートルにもなります。

日本の絹の歴史 – 着物トリビア/和楽庵
繭から作られた糸「生糸」

数個の繭から糸口を引き出してほぐした糸を撚り合せて、一本の糸としたものを生糸という。しかし繭の表面を作る繊維は質が悪いので製糸の段階で良質な糸と区別する。この糸がのし糸、またはしけ糸と称しているものである。また繭の最内部の糸もキビソと称し、他のくず繭とともに紡績絹糸の材料として主に用いられる。

お蚕さんの繭が生糸になるまで!/パールトーンおしらせ
繭を収穫する農業「養蚕」

(前略)蚕という昆虫を飼って繭を収穫することを養蚕と言います。養蚕は蚕を育てて繭を収穫する農業なのです。

日本の絹の歴史 – 着物トリビア/和楽庵
日本神話にも登場
糸

蚕(かいこ)は、昔からお蚕と’お’を付けて呼ばれ、神蠶(かみこ)、神の蠶(かみのこ)から転じた言葉とも言われます。現代の漢字でも蚕(かいこ)は、上下に分けると天の虫になります。天すなわち神から授かった虫のようにも見えます。

絹の不思議

古事記の国産みの話には、二番目に創られた伊豫之ニ名洲のうち阿波国が大宜都比売(オオゲツヒメ) として誕生し、その頭の部分から蚕が生まれたとあります。同じような話は、日本書紀に保食神(うけも ちのかみ)の眉の上から生じたとあり、天照大神は繭を口に含んで糸を紡いだとの記述もあります。

絹の不思議

記述されている日本で“はじめの糸”

Yoshinogari Site

魏志倭人伝には、238年には邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏王に斑絹を贈り、その返礼として多数の高級絹織物が下賜されたと伝えられています。当時の古墳から出土された斑絹などが中国の織物とは糸使いが異なっていたことから、当時、すでに日本には独自の養蚕・製糸・染色技術が存在していたと推察されています。

シルクの歴史‐シルク物語/片倉工業
その後、渡来人によってさまざまな技術が伝えられる
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その後、大化の改新のころから増えた中国大陸や朝鮮半島からの渡来人によって、中国の蚕種や養蚕・製糸・染織などの先進的な技術が持ち込まれ、日本各地に広まり、各地で独自の発展を遂げ、多様な絹産地が形成されました。このように、西のシルクロードに対し、朝鮮半島を経て日本に伝わったルートを東のシルクロードと呼びます。

シルクの歴史‐シルク物語/片倉工業

絹製品を朝廷に租税

朱雀門

紀元前200年くらいに日本に伝わったとされる養蚕は、奈良時代にはすでに全国的に行われており、農家たちによって作られた絹製品は朝廷への租税として納められていました。

信州とシルク/信州シルクロード

日本初の綿栽培

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 日本で綿が初めて栽培されたのは、桓武天皇の延暦18年(799年)、三河国に漂着したインド人がもたらした種子によるとされています(『日本後紀』)。しかし、この種子は1年で絶えてしまい、その後なん回か種子が渡来して栽培されましたが定着しませんでした。

綿の歴史/H.A.M.A.木綿庵(ゆうあん)

日本独自の絹織物が作られる

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平安時代に入って、現在の着物のような日本伝統の服装文化へと変化し、独自の文様の絹織物が作られるようになりました。

シルクの辿ったみち ~日本のシルクのあゆみ~/最高級素材純絹(シルク)100%使用の下着通販店【Mayui】.すててこねっと本店

しかし、鎌倉時代には武士たちのあいだで「質素」であることが美徳とされはじめ、絹織物の一大産地であった京都の織物が衰退してしまいます。

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西陣織が誕生

西陣織會館-和服走秀

室町時代~安土桃山時代に、中国から撚糸(糸に撚りをかける)技術が伝わり、あの「西陣織」が誕生します。

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文化として絹織物が一気に花ひらく!!

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江戸時代になると、武士以外の人びとの絹着用は禁止されましたが、能装束や小袖などの高級織物は保護され、中国から生糸が輸入され、その支払いには国産の銅があてられました。輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどでした。こうして幕府は、中国からの生糸の輸入を減らすため養蚕を奨励しました。一方、各藩でも財政の建て直しや下級武士の救済のために、西陣から技術を学び、金沢の友禅染め、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など独自の織物を生み出しました。

養蚕の歴史/大日本蚕糸会

江戸時代中期になると、ようやく社会が安定すると共に、米を中心とする経済から貨幣経済へと変化した。これに伴って、富裕な商人階層が誕生し、絹は上流階級の衣料から庶民の衣料素材の一つに加わった。当時の生糸や絹織物の多くは、中国からの輸入品であり、幕府財政を圧迫するまでになっていたことは、繰り返し奢侈禁止令が出され、庶民が絹物を着用することを禁じたことからも明らかである。

特 集〈シルクI〉 我が国蚕糸業の歴史と近代化過程における役割(p.3)/村上 毅.J-Stage

綿織物が庶民の暮らしに定着

Cotton Harvest

江戸時代は庶民の普段着の生地(きじ)が麻から木綿へ大きく移り変わった時代でもありました。

麻から木綿へ/大江戸ファッション – 東京都立図書館

綿栽培は西暦1540年代琉球から薩摩を経て、内地に伝わり、江戸時代には盛んになった。このように、戦国時代以来、木綿は実用向きとして絹布を凌ぎ、その栽培が進み、江戸・藩政時代の尾張平野はすべて麦作の後に生綿(きわた)を作るので、秋祭りの頃は見渡す限り綿の白で溢れ、住家と納屋も生綿の山となった。

昭和より以前の歴史/公益財団法人 一宮地場産業ファッションデザインセンター
「衣料革命」

加工のしやすさや暖かさという利点を兼ね備えた綿は、江戸時代に栽培が広まるとあっという間に人々の生活に普及した。さらに藍によく染まるという特徴を持っていたため、綿とともに藍染も広まることとなった。

綿とは日本人の暮らしは「木綿以前」と「以後」でこう変わった/中川政七商店の読みもの

綿は庶民の生活に浸透し、綿花作りは最盛期を迎えます。

日本の綿花の歴史/タオル・オリジナルタオルのブログ|オリジナルタオル作成専門

 木綿衣料は江戸時代以前は大半を輸入に頼っており、それだけに高級衣料でした。庶民の衣料は麻織物や紙布でした。それが国内で生産されるようになって「衣料革命」が起きたのです。

[97]綿栽培/ルーラル電子図書館

高価な絹と違い値段も安かったため、木綿は庶民の暮らしになくてはならないものとなったのです。

麻から木綿へ/大江戸ファッション – 東京都立図書館

ペリー来航で鎖国解禁!輸入品増加!綿織物工業が大打撃!!

ペリー艦隊来航記念碑

嘉永6(1853)年にペリーが来航し貿易が再開されると、英国から機械生産による規格の統一された安価な綿織物が大量に輸入され、我が国の伝統的な綿織物工業は大混乱に陥り、休業もしくは倒産が相次いだ。

【日本綿花】日本の紡績業の発達~開国以降/双日歴史館
国内の産業を守るために「始祖三紡績所」設立!それでも輸入は止まらない

幕末から明治初期に「始祖三紡績」と称された鹿児島紡績所・堺紡績所・鹿島紡績所が設立されたが,綿糸の輸入は増加の一途にあった。

明治期紡績業における通勤女工から寄宿女工への転換(p.13)/千本 暁子.CORE

幕末の慶応3(1867)年5月に,国策上の立場から技術導入を第一の目的として,日本で最初に設立された鹿児島紡績所に創業当初から勤めていた元工女は,「職エハ皆通勤ニシテ主モニ市内ヨリ来レリ」「当時職エタラントスル者甚ダ多クシテ容易二採用サレズ」と,職工はすべて通勤工であったことや,職工の希望者が多く,なかなか採用されなかった事情を語っている。

明治期紡績業における通勤女工から寄宿女工への転換(p.13)/千本 暁子.CORE

近代化にむけ動き出した国家プロジェクト「生糸の生産」

生糸

明治新政府は、アジアにおけるヨーロッパ諸国との帝国主義的経済競争に勝ち残るために、「富国強兵」の原則に基づいて日本社会の近代化を急激に促進した。政府は、近代化を実現するために必要な外貨を獲得する目的で、殖産興業政策によって、多くの産業部門に介入し、幕府から継承したものや新設したものを含む官営工場の経営にのりだした。中でも、製糸業は、当時、最大輸出品であった生糸を生産して大量の外貨をもたらす産業として、国策の中核に位置づけられた。

「女工哀史」言説を超えて ――戦前日本における女性製糸業労働者の生活世界――(p.3)/シャール・サンドラ.J-Stage
富国強兵って?

富国強兵は、明治政府による一連の政策を象徴するスローガンです。開国後、日本人は、さまざまな形で欧米諸国との国力の差を見せつけられます。

富国強兵とはどんなもの? 背景やもたらした影響などを学ぼう【親子で歴史を学ぶ】/HugKum.2021

政治のやり方から経済、軍事力、国民の学力まで、あらゆる面で日本は後れを取っていました。このままでは欧米諸国と対等に外交できないばかりか、侵略される恐れもあると考えた明治政府は、富国強兵を合言葉に、国力の充実をはかったのです。

富国強兵とはどんなもの? 背景やもたらした影響などを学ぼう【親子で歴史を学ぶ】/HugKum.2021
「殖産興業政策」

1873年には内務省が新設され、大久保利通(おおくぼとしみち)の下で、生産をふやし、産業を盛んにする「殖産興業」が展開された。

富国強兵 | テーマ解説(p.5)/中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典

 製糸業が明治日本の主要輸出産業になりえたのは、原料である蚕、繭、生産器械をすべて国産で賄えたためです。「男軍人、女は工女、糸を引くのも国のため」と唄われたように、政府は内務卿・大久保利通の下で殖産興業政策を推し進め、これによって富国強兵を堅持したのです。

第12回「殖産興業の父(2)」/DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー.2012
イギリスから2,000錘紡績機を2台を購入「二千錘紡績所」設立

明治時代になると、外国綿糸の大量輸入により国内の綿糸生産が圧迫されるようになり、危機感を持った明治政府は明治11(1878)年、英国マンチェスターからミュール2,000錘紡績機2台を購入し、官営紡績所を設立。

【日本綿花】日本の紡績業の発達~開国以降/双日歴史館
ミュール紡績機って?
eedsmuseums/YouTube

 1779年にイギリスの発明家サミュエル・クロンプトンが新しい紡績機を発明しました。ミュール紡績機といわれるこの機械は、天然繊維をよって連続的に糸にする装置です。その後、1830年にリチャード・ロバーツがこれに蒸気機関を組み合わせ、さらに作業を自動化することに成功しました。

コレ1枚で分かる「産業発展の歴史と人工知能の位置…/ITmedia エンタープライズ.2016

ミュールとは、ラバのことで、雌ウマと雄ロバを交配したものをさす。

ミュール紡績機/奥山修平の『技術史千一夜物語』
さらにそこから民間紡績企業が生まれる「十基紡」

それを各地の事業者へ貸し付けて産業育成を図った。これら政府によって生まれた紡績工場は十基紡と呼ばれる。

鉄道の群雄割拠で発展、工業都市「四日市」の軌跡 産業を支えた国鉄・JR、旅客輸送は近鉄が圧倒/東洋経済オンライン.2021

これらの紡績所では,職工も多くて100人程度で,工場周辺に職工志願者が多かったこともあり,通勤可能な地域から職工を調達することができた。そして職工は,貧困士族の子女が多かった。ただ鹿島紡績所と三重紡績所では,工場が僻地にあったため,開業当初から男工も女工も全員住込みであった。

明治期紡績業における通勤女工から寄宿女工への転換(p.13)/千本 暁子.CORE
この計画は失敗で終わった

しかし、2,000錘の本格的な洋式の紡績機械を稼働させるためには馬力が足りません。しかも、川の水量が一定しないために、安定的な動力を確保するためには、どうしても石炭による蒸気機関が必要となりました。石炭は大阪から木津川筋の船運を経て、車で天理まで運ぶ必要があり、そのコストは予想外の出費となりました。また、イギリスの紡績機は当然のことながら現地綿を基準に作られていますが、奈良県で調達できる国産綿とは、繊維の質が異なります。その上、機械がトラブルを起こした時に迅速かつ的確に対応できる熟練技術者がまだ育っていませんでした。背景に経営者側のさまざまな事情があったにせよ、開業後、わずか十数年で廃業に至ったのは当然の結果と言えそうです。

うひはたぶみ(初機踏)/HAMA木綿庵
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父のため国のため世界に通用する生糸を目指す!日本の工女第一号・尾高勇の青春。世界遺産富岡製糸場誕生秘話(「BOOK」データベースより)

Eiichi Shibusawa

「渋沢栄一」の手によって紡績業が復活する

TOKYO MX/YouTube

貨獲得を至上命題としていた明治新政府は、国策として生糸の品質と生産性向上に取り組むこととし、1870(明治3)年2月、洋式の繰糸機械を備えた官営模範工場設立を決定した。

世界遺産「富岡製糸場」の歴史:大規模洋式工場に宿る和の文化/nippon.com.2019

計画を取り仕切ったのが、当時、大蔵官僚だった渋沢栄一。渋沢は、現在の埼玉県深谷市で養蚕業も営む豪農の家の生まれで、養蚕や生糸に関する知識と、欧州への渡航経験があることを買われて大役を任されたのだ。

世界遺産「富岡製糸場」の歴史:大規模洋式工場に宿る和の文化/nippon.com.2019

すでに大蔵省を辞し、第一国立銀行を設立して財界の重鎮となっていた渋沢は、民間資本によって国際競争力のある紡績会社を創設するのです。

第12回「殖産興業の父(2)」/DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー.2012
その規模は1万錘「大阪紡績」設立

渋沢は海外の紡績所に比べて規模があまりに小さいこと、適切な経営者と技術者の欠如という欠点を見抜き、2000錘(すい)ではなく1万錘規模の紡績所の設立に乗り出します。

時代を超えて今こそ学びたい渋沢栄一の経済哲学 大阪商人と渋沢栄一の関係性/日商 Assist Biz – 日本商工会議所

同じ頃、大阪でも五代とともに大阪商法会議所の設立に尽力した藤田伝三郎、銀行家の松本重太郎や繊維関連の商人らの間で、紡績会社を設立する気運が芽生えていました。

時代を超えて今こそ学びたい渋沢栄一の経済哲学 大阪商人と渋沢栄一の関係性/日商 Assist Biz – 日本商工会議所

大阪府から工業用地を貸し下げられることになり、資本調達に奔走していた渋沢と目的が合致します。そして東京と大阪の資本が一つになって、1882年に日本初の蒸気力紡績会社、大阪紡績会社が誕生するのです。

時代を超えて今こそ学びたい渋沢栄一の経済哲学 大阪商人と渋沢栄一の関係性/日商 Assist Biz – 日本商工会議所
日本人技術者を育てるために「山辺丈夫」をイギリスに派遣

 大規模な紡績会社設立を企図した渋沢栄一は英国留学中の山辺丈夫に紡績業の実態調査を要請。

綿業A|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図/公益財団法人 渋沢栄一記念財団

 渋沢から依頼を受けた山辺は、ロンドン大学を辞め、紡績工場で一職工として働きながら、紡績技術から製品の販売方法に至るまで習得して帰国します。そして、イギリス製の最新紡績機械を輸入し、蒸気機関を採用した動力、電灯を利用した昼夜二交代制のフル操業などで成果を上げ、大規模経営による日本初の紡績会社を成功させるのです。

第12回「殖産興業の父(2)」/DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー.2012

後に続く紡績会社も、山辺の留学に習い、学卒者を先進国の英国に派遣することによって、自前の技術者を養成していくことになった。

紡績業の発展を支えた技術企業家―山辺丈夫と菊池恭三―(日本の企業家活動シリーズ No.57)(p.1)/山崎 泰央.法政大学イノベーション・マネジメント研究センター.2012
日本の紡績大国のはじまりのはじまり

 1883年開業の大阪紡績(のちの東洋紡績)は山辺丈夫という卓越した技術者の下で経営的成功を収め、これがビジネスモデルとなって以後、天満紡、浪華紡、摂津紡、金巾製織、岸和田紡、明治紡、日本紡などが次々に開業する。

東洋のマンチェスターから世界の大都市へー「大大阪」を形成したもの/Yahoo!ニュース – Yahoo! JAPAN

大阪は「東洋のマンチェスター」とよばれるようになり、その後、日本は世界最大の紡績大国に成長していく。

【日本綿花】日本の紡績業の発達~開国以降/双日歴史館
官営模範工場「富岡製糸場」建設へ
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 明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。

歴史を学ぶ/しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ

この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。

歴史を学ぶ/しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ

明治政府から役人に任命された渋沢は、1870(明治3)年に生糸生産のための官営模範工場の建設が決まると、初代首相となる伊藤博文らとともに計画を練った。

渋沢栄一と群馬の養蚕、富岡の「セカイト」で企画展/朝日新聞デジタル.2020
フランソワ・ポール・ブリュナ「生糸検査人」

明治3(1870)年6月、政府はエッシェ・リリアンタール社の生糸検査人として横浜に駐在していたブリューナを雇い入れ、製糸場の立地選定に当たらせた。

1. 大規模官営工場の建設/近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流 – 国立国会図書館

フランソワ・ポール・ブリュナFrançois-Paul Brunat(1840-1908)は1866年3月に在日貿易商社エシュト・リリアンタール商会の生糸検査人として来日しました。折しも時代は江戸の末期で慶応から明治へと移り、日本近代化の夜明けが始まろうとしていた時代です。殖産興業を国策の柱の一つとした明治政府は、高品質な生糸の大量生産体制を確立すること急務としていました。ヨーロッパの機械を導入し、お雇い外国人の指導下で国産生糸を世界に輸出することがこの一大産業改革の鍵だったのです。そこで大蔵省租税正という役職にあった渋沢栄一の目に留まったのがブリュナでした。

世界遺産とピアノ [後編]世界遺産・富岡製糸場の「幻のピアノ」を求めて 第1回/PTNA.2017
富岡製糸場初代馬長「尾高惇(おだかじゅんちゅう)」

 明治新政府で民部省の役人だった尾高惇忠は、官営富岡製糸場の設置を命じられ、建設用地の選定から携わります。

富岡製糸場とゆかりの深い偉人たち/深谷市

製糸場の操業開始とともに尾高は初代場長になり、「至誠如神(至誠は神の如し)」を信条として経営に尽力した。製糸場の規律維持を図るとともに、工女の教育に心を砕き、技術だけでなく教養の向上に努めたという。

深谷の三偉人 手をたずさえ、礎を築いた物語/上武絹の道

尾高惇忠とは深谷市の偉人渋沢栄一の従兄であり、栄一は幼少の頃から惇忠のもとに通い、『論語』をはじめ多くの学問を学び、栄一の人生に大きな影響を与えた人物として語られております。

深谷市指定史跡 尾高惇忠生家/グッドライフ.2021
建設場所は富岡市(群馬県)
富岡市地域づくり課ワクワクする富岡をつくろう/YouTube

工場建設地として選ばれたのが、群馬県にある富岡市です。富岡市は、広大な土地がある、養蚕が盛んで生糸の原料となる良質な繭が確保できる、きれいな水が豊富など、製糸工場に必要な条件を満たしていました。

歴史的な産業遺産「富岡製糸場」の設立秘話/シルクと暮らす.片倉工業株式会社

明治3年11月、尾高惇忠は建設予定地に赴き、代官屋敷予定地と周りの土地を確保するため、明治政府に土地買い付けの伺書を出します。(面積15.608坪 1段当り25両 合計1,210両)。

富岡製糸場の歴史と価値/独断富岡

建設工事は、ポール・ブリュナの計画書をもとに1871(明治4)年から始まり、1年4か月という短い工期を経て、翌年の1872(明治5)年7月に完成し、同年10月4日、蒸気エンジンを廻しながら汽笛一声勇ましく操業を開始しました。建設費は、当時の金額で24万4,940円。この建物実現には、伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一、尾高惇忠などが中心的な役割を果たしていました。

歴史的な産業遺産「富岡製糸場」の設立秘話/シルクと暮らす.片倉工業株式会社
世界最大規模の繰糸場が完成!!
読売新聞オンライン動画/YouTube

長さ約140.4メートル、幅12.3メートル、高さ12.1メートルの巨大な繰糸場は、当時、世界最大規模を誇ってっていました。

富岡製糸場について/絹のヒロイン
当時の最新鋭の設備
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それまでの生糸は繭農家がそれぞれ座繰りと呼ばれる機械で紡いでいましたが、富岡製糸場では最新鋭の製糸機械を導入したことで、生糸の大量生産を可能にしました。

富岡製糸場について/絹のヒロイン

工場で働く女性従業員は「工女」と呼ばれていた

 開業当初、工女(富岡製糸場では女工ではなく「工女」と呼ばれた)の多くは、地方の素封家や旧士族の子女だった。政府が各府県に発布した諭告書に「伝習を終えた工女は、出身地へ戻り、器械製糸の指導者とする」と記されているが、これは今日の「マザー工場」にも通じる発想。工女たちは郷里の未来と期待を担う技術研修生(指導者候補)というわけだ。

論争 富岡製糸場はブラックだったのか?(THE PAGE)/Yahoo!ニュース – Yahoo! JAPAN.2014
当時の紡績工場は身分の高い人が働く職場

工女の出身は華族・士族・平民とさまざまだったが、明治6年4月から明治21年(1888)3月までの間に富岡製糸場に出入りした工女の出身は3割余りが士族で(『富岡市史』など)、人口構成比からみると士族が多い。当時、富岡で次のような俗謡があった。「髪は束髪 花ようじ 紫はかまを着揃えて 縮緬襷をかけ揃え 糸繰る姿のほどのよさ」。職業婦人としての工女へのあこがれがうたわれている。

工女たちの歩んだ道 女性活躍社会の先駆けとして/上武絹の道
女性たちにとって憧れの的

富岡製糸場設立当初の目的は、最先端の技術を習得した工女を輩出することにあった。全国から集まった子女たちはプライドを抱いて入場したといっていい。

工女たちの歩んだ道 女性活躍社会の先駆けとして/上武絹の道

(前略)富岡製糸場で働く工女は、華族(大名の一族)や士族(武士の一族)の女性がほとんどで、いわばエリート中のエリート。

富岡製糸場について/絹のヒロイン

地元の人は、製糸場で働く工女たちを「糸姫」とも呼んだ。

世界遺産「富岡製糸場」の歴史:大規模洋式工場に宿る和の文化/nippon.com.2019

日曜日は工場の稼働を止める週休制の勤務態勢を日本で初めて導入。夜間操業は禁止し、研修環境も整っていた。また、敷地内に無料の診療所を設置するなど福利厚生も手厚く、当時としては時代の先端を行っていた。操業開始から間もない時期に工女となった女性の回想録『富岡日誌』には、日本の近代化のために西洋技術を学ぶ先駆者としての意気込みや、フランス人指導者との交流を楽しむ様子がいきいきと描かれている。官営・富岡製糸場は「哀史」とは無縁で、むしろ若い女性にとって憧れの職場だったのだ。

世界遺産「富岡製糸場」の歴史:大規模洋式工場に宿る和の文化/nippon.com.2019
「工女」を募集するも中々集まらなかった

建設が進んでいた1872(明治5)年2月、明治政府は富岡製糸場で働く工女を全国で募集します。

泣いて笑って16歳の乙女は一等工女を目指す!少女が見た「明治時代の富岡製糸場」/シルクと暮らす.片倉工業株式会社
根も葉もない噂の影響

 しかし工場は完成しましたが、赤ワインを飲むフランス人の姿から「富岡の工女になると血を飲まれる」の噂が広まり、工女を募集しても応募がありませんでした。

第4回 世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち/佐久市ホームページ.2021

 この噂の打ち消しに政府は何度もこれが根も葉もないことを説く「告諭書」を出すが、それでも工女は集まらない。

『青天を衝け』では後半に描かれるか――渋沢栄一に影響を与えた尾高惇忠の愛娘 富岡製糸場の人身御供になり女工の歴史を変えた?/日刊サイゾー.2021

もっとも、文明開化当時、これに類する流言飛語の類は珍しくなかったらしい。例えば、富岡製糸場が建設される前年、安芸と長門において、通信用の電線に未婚女性の生血が塗られるという奇怪な噂が広まり、大騒ぎとなったというのは、かなり有名な話である。

名もなき工女たちの紡ぎしもの—『探偵工女 富岡製糸場の密室』著・翔田寛/現代ビジネス | 講談社.2014
最初の工女「尾高勇」
CinemaGeneシネマジーン-女子向け映画情報メディア-/YouTube

そこで惇忠は、最愛の娘である勇を富岡へ招き寄せ、工女として働いてもらうこととしました。 惇忠が自ら決断し、範を示すことで、工女の応募を促そうとしたのです。

富岡製糸場 初代場長 尾高惇忠/富岡製糸場の見学と街中ガイド|富岡タウンガイド協会

当時の工女の募集要項は15歳から25歳。惇忠は年齢に達していなかったが背に腹は代えられなかったようだ。

『青天を衝け』では後半に描かれるか――渋沢栄一に影響を与えた尾高惇忠の愛娘 富岡製糸場の人身御供になり女工の歴史を変えた?/日刊サイゾー.2021

(前略)当時14歳の勇も惇忠の熱意を感じとり、西洋式製糸技術を習得するために、富岡製糸場に入り、日本の伝習工女第一号として率先して新しい技術の習得に努めました。 惇忠の熱意と、勇のけなげな決断は、噂が全くの流言げんにすぎないことの証明となりました。

富岡製糸場 初代場長 尾高惇忠/富岡製糸場の見学と街中ガイド|富岡タウンガイド協会

勇の決断は同じ下手計村の同世代の少女たちを刺激したようで5人の少女たちが勇と共に入場する。

『青天を衝け』では後半に描かれるか――渋沢栄一に影響を与えた尾高惇忠の愛娘 富岡製糸場の人身御供になり女工の歴史を変えた?/日刊サイゾー.2021

勇は、明治6年(1873)2月、オーストリア・ウィーンで開催された万国博覧会に、富岡製糸場から出品された生糸を製造した一等工女18人のうちの1人として、その名を連ねています。

富岡製糸場 初代場長 尾高惇忠/富岡製糸場の見学と街中ガイド|富岡タウンガイド協会

明治6年(1873)4月の時点で工女総数は556名に達した。

工女たちの歩んだ道 女性活躍社会の先駆けとして/上武絹の道

 外国人指導者が去った明治9年以降は日本人だけで操業されました。官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではありませんでしたが、高品質に重点を置いた生糸は海外で高く評価されました。

歴史を学ぶ/しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ
当時の憧れの的「一等工女」

富岡製糸場では、いち早く西洋の近代的な働き方を導入し、特に技術の向上で地位が昇格する等級制度は画期的でした。

歴史と文化と技術に育まれたシルク/富岡製糸場

技術に見合う対価を得た一等工女は、働く女性の理想の姿であり、一等工女だけが、赤いタスキと高草履姿を許され憧れの存在として、錦絵にも描かれるほどでした。

歴史と文化と技術に育まれたシルク/富岡製糸場

お給料が最上位になるだけでなく、一等台が指定され、良質の繭を任される一等工女は、年功序列ではなく能力給でした。

泣いて笑って16歳の乙女は一等工女を目指す!少女が見た「明治時代の富岡製糸場」/シルクと暮らす.片倉工業株式会社

当時、一部の特権階級のものであったシルクを世界中の人々にあまねく広め、生活や文化をさらに豊かなものへと進化させたのは富岡製糸場で育まれた技と心だったのです。

歴史と文化と技術に育まれたシルク/富岡製糸場
近代日本綿業の始まり

まず1882年、大阪紡績が設立され近代日本綿業がスタートすることになった。その後、1886年に三重紡績設立、1889年尼崎紡績設立など都市圏を中心に紡績資本設立が相次いだ。続く1890年代になると、地方にも紡績資本設立ブームが広がった。これは地域振興を志向する地域資産家の出資によって実現した。

Ⅱ 近代日本紡績業と労働者 – ―「女工」育成と労働運動 ―(p.14)/橋口 勝利. 関西大学
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明治6年春、長野県松代区長の娘・横田英は反対する父を説得し、同郷の河原鶴らとともに富岡製糸場に工女として入場した。製糸場に到着した英が目にしたのは、壮大なレンガの建物とピカピカの器械、そして西洋式の労働環境の中で真摯に糸を引く先輩工女たちの姿だった。工女たちは、紅い襷を掛けることが許されている一等工女になり、一日も早く技術を習得し故郷に戻ることを夢見ていたが…。(「Oricon」データベースより)

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激動の繊維産業史(2)「過酷な環境で働く女工と女子バレーの深すぎる関係」
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