
【世界のスラム街】“反アパルトヘイト運動”の最重要地「ソウェト」 <後編>
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Current situation in Sowet
アパルトヘイト撤廃後のソウェト
治安の悪い地区として悪名高かった、ヨハネスブルク郊外の旧黒人居住区ソウェトも大きく変わった。アパルトヘイト時代には黒人の抗議運動の中心地となり、1976年に起きたソウェト蜂起は世界中で報道された。だが、今では広大な居住区のかなりの部分が、のどかな郊外住宅地となっている。
特集:マンデラの子供たち 2010年6月号/ナショナルジオグラフィック
毎年恒例のワインフェスティバルが開催され、アフリカ最大のモールの一つがあり、大成功した地ビール醸造所がある。その醸造所は最近、ハイネケンに買収された。
アパルトヘイト後の非情な現実 南ア最大の旧黒人居住区はいま/朝日新聞GLOBE+.2019
ヨハネスブルク郊外に粗雑な黒人居住区として作られた街ソウェトには、今ではちゃんとした高速道路が通っている。道路は舗装され、夜になれば街灯がともる。大型のショッピングモールもあれば、ファストフード店もある。どれも20年前にはなかったものばかりだ。
[FT]W杯で試された南アフリカの真価/日本経済新聞.2010
現在のソウェトは、新しい南アフリカを反映した活気ある街であり、多くの記念物が輝かしい過去を物語っています。
ヨハネスブルグの中心、ソウェト/KLM 旅行ガイド
今じゃ高級住宅街に!
この地域の大半は、アパルトヘイト時代にはあらかた電気はなく、舗装道路もほとんどなかった。しかし今や、かつてマンデラが暮らしたビラカジ通りでは、高級レストランが軒を連ねる道路にポルシェが駐車しているのを見かける。
アパルトヘイト後の非情な現実 南ア最大の旧黒人居住区はいま/朝日新聞GLOBE+.2019
ヨハネスブルグよりむしろ安全
ヨハネスブルグの最大の問題は治安だが、ソウェトは地域のネットワークを活用することでこの問題を解決した。ソウェトに住めるのはこの街の出身者だけで、よそ者が入ってくればすぐに知れ渡り、排除されるのだ。
南アフリカ・ソウェト、アパルトヘイト(人種隔離)が生んだ街。黒人が外界から”隔離”したら安全な地域に変貌[橘玲の世界投資見聞録]/ダイヤモンド・オンライン.2015
富裕層が強盗や誘拐の標的にされるのは白人も黒人も同じだ。そう考えれば、医者や弁護士など経済的に大きな成功を収めた黒人のなかに、塀と有刺鉄線に囲まれ屋外を散歩することすらできない環境より、安全なソウェトの方がずっといいと考えるひとたちが出てくるのもよくわかる。
南アフリカ・ソウェト、アパルトヘイト(人種隔離)が生んだ街。黒人が外界から”隔離”したら安全な地域に変貌[橘玲の世界投資見聞録]/ダイヤモンド・オンライン.2015
このようにして、「貧困」と「人種差別」の代名詞だったソウェトに目を見張るような豪邸が現われることになった。
南アフリカ・ソウェト、アパルトヘイト(人種隔離)が生んだ街。黒人が外界から”隔離”したら安全な地域に変貌[橘玲の世界投資見聞録]/ダイヤモンド・オンライン.2015
今や多様な人種が生活
ソウェトを見て歩くと、商業的な活気は感じられず、静かな住宅街が 一帯に延々と広がっている。タウンシップでの生活は、「スパザショップ」(「スパザ」はズールー語で「隠 れた」という意味)と呼ばれる零細 売店が支えてきた。スパザショップでは、牛乳、パン、パラフィン(灯 油)、石炭、たばこ、卵、小分けさ れた日用雑貨品を買うことができる。 スパザショップや露天商は、全国約 75 万軒(04 年)、300 億ランド (同)の年間売り上げ規模に達している。在南ア日本企業がソウェトにあるスパザショップを一軒一軒回って調べたところ、スパザショップの 経営者の 80%がパキスタン人だったと話していた。彼らは、黒人居住者から住居の一部を間借り(家賃は 1,000 ランド)して、ビジネスを 行っている。ソウェトにおける商業活動は、インド人や中国人が食料品店などを構えて行われてきたが、最近では近隣諸国から流入してきた外国人が参入しているようである。
ダイヤモンドは輝くか?間近で見た黒人市場の実像(p.34)/大木博巳.海外調査部主任調査研究員.発掘!世界のボリュームゾーン市場
【南アフリカ消費市場】
エリア内での格差が拡大

人種隔離政策が終了し、自由に住処を選べるようになった後の今でも多くの黒人が住んでいる。ソウェトは電気がきちんと来ている公共住宅的な部分と、そうした設備のととのっていないスラム部分の二つに分けられる。
殺人事件1日50件は本当か? ヨハネスの旧黒人地区にいってみた。/ガジェット通信.2010
オーランド・ウエスト地区にある フィラカジ通りやマセコ通りは、ビバリーヒルズと称されるほど見事 な豪邸が並ぶ。片や同地区の一角 にあるムジンシュロペには、解放後 のマンデラが自身の投獄前と同じ だと嘆いた、赤土の道に並ぶブリキ の家屋や、電気も水道もない粗末 な長屋が連なっている。この辺りには、アパルトヘイト時代に地方から の単身赴任者の受け皿となったホステル型住居が多い。窮屈な上、下水やトイレに難儀する泥道の町 は、国内の他の多くの旧黒人居住区と変わらないのだろう。
ソウェトの素顔/長川 貴博.Republic of South Africa.地球ギャラリー vol.21
同じ人種間の格差
(前略)ソウェトは,東京の山の手線内の広さに匹敵し,300万といわれる人口の60%は失業者だと言われている.しかしこのソウェト内でも,ゴミが散乱し,水道や電気のない廃材でできた小屋が無造作に点在する地域がある一方で,高級車の停まる豪邸が建ち並び,日本の新興住宅街を思わせる美しい街区もある.1キロ置きに都市資本の大きなショッピング・センターが進出している地域もある.白人と黒人のみならず,黒人間の格差も一層拡大しているのである.
「虹の国」へ~南アフリカ共和国を訪れて~(p.129)/米山周作
アフリカ最大のスラム……ではない?
1番大きいとされているのは南アフリカのソウェトスラムであるが、キベラの住民には、ソウェトの人々の生活水準はキベラよりもはるかに良いとのことで、ソウェトはスラムではないと主張する人もいる。
スラムと若者とHIV/エイズ/徳岡 有佳.AMDA.Journa
ソウェットの中のスラム「スクウォッターキャンプ」

ソウェトをスラムと思っている人がいますが、ソウェトは、元々市営住宅のいわば普通の住宅地で、スクウォッターキャンプはまさにイメージ通りのスラムで、貧困者が多い地区です。
高達潔のソウェトウオッチング46 ソウェト・ツアー事情 その12/アフリカ旅行の道祖神ブログ
スクウォッターキャンプって?
スクウォッターキャンプ(スラム)は法律に元づかない、本来行政に認められていない地区です。
ニバルレキレの活動地域・南アフリカ/エイズ孤児・HIV陽性者を支援.NGOニバルレキレ
ソウェトのエリア内で増加中

一方、近年の人口集中 により、ソウェトの内部にも、数多くのスクウォ ッター・キャンプが形成されています。
2006年度版 在日外国人HIV陽性者支援のためのアフリカ6カ国 HIV/AIDS治療・ケアの現況ガイドブック(p.20)/特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会
空き地を見つけ、トタンで家を建て、友人や親戚を頼りに住みつく。ほかの旧タウンシップに比べ、恵まれているソウェトでの不法住宅は後を絶たないと指摘する人もいる
ソウェトの素顔/長川 貴博.Republic of South Africa.地球ギャラリー vol.21
ソウェトには、いくつかのスクウォッターキャンプがありますが、その中で、最も観光客の目に触れている地区は、クリップタウンでしょう。
高達潔のソウェトウオッチング46 ソウェト・ツアー事情 その12/アフリカ旅行の道祖神ブログ
「クリップタウン」
ソウェトを語る上で外せない場 所がクリップタウンだ。
ソウェトの素顔/長川 貴博.Republic of South Africa.地球ギャラリー vol.21
クリップタウンとは、アフリカーンスで「石の町」という意味。1920年代、大きな石がゴロゴロした土地に、インド人、カラード、中国人などの住宅地ができ、黒人居住区ソウェトに隣接していたため、元の住人は他の地区に移住していき、その空家に不法居住して、周りに掘立小屋が建って拡大した地区です。
高達潔のソウェトウオッチング46 ソウェト・ツアー事情 その12/アフリカ旅行の道祖神ブログ
ここはソウェトの中でも最も経済水準が低く、失業率が高い地域であるとのこと。失業率は実に72%に達するという。
SAP Helps 南アフリカ Run Better ~(8)タウンシップ Soweto 訪問、嵐と雹と虹/オルタナティブ・ブログ – ITmedia.2013
(前略)ヨハネスブルク郊外の旧黒人居住区ソウェトのクリップタウン界隈では、住民の多くがまだ電気も水道もない家で暮らしている。
特集:マンデラの子供たち 2010年6月号ナショナルジオグラフィック
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最重要地「ウォルター・シスル・スクエア」

(前略)1955年に人種間の差別のない民主的な南アフリカを目指すことが記された「自由憲章」(南アフリカ共和国憲法の起草にも活用された文書)が採択されたソウェトのクリップタウンにあるウォルター・シスル・スクエア。
活気あふれる南アフリカ最大のタウンシップ ソウェト/南アフリカ観光局
「南アフリカは、黒人も白人も、そこで暮らすすべての者に属する」。この表現で始まる自由憲章は、南アフリカの解放運動の目標を示すマニフェストとなった。南アフリカから白人を追い出せ、というわけではない。目指すべきは、すべての人種、民族集団の平和的な共存である。
時事解説: ネルソン・マンデラの見果てぬ夢/IDE-JETRO ジェトロ・アジア経済研究所
アパルトヘイト政府の武装警察はこの時集まった群衆を解散させ、その後、反対運動の中心的な活動家を反逆を企てた罪で告訴し、さらにアフリカ民族会議(ANC)の活動を禁止しました。自由憲章は、それからおよそ40年後アパルトヘイトが撤廃された時に南アフリカの新しい憲法の基礎となりました。
ソウェト / 南アフリカ /【旅行提案サービスTAVITT】
ソウェトを観光するツアーも!!!
今日ソウェトでは、タウンシップツアーを通じてこの国の政治史における多くの見どころを見ることができます。
活気あふれる南アフリカ最大のタウンシップ ソウェト/南アフリカ観光局
Easiest and safest way to experience Soweto is to go on a township tour. https://t.co/whpznPpAgT #meetsouthafrica pic.twitter.com/I3ZFmcAirH
— Dept of Tourism (@Tourism_gov_za) July 27, 2016
?? Some of our players and backroom staff visited the Hector Pieterson Museum and Soweto township in Johannesburg today during a day off from training ahead of Friday’s game in Bloemfontein. pic.twitter.com/cKn0JLy1T0
— Glasgow Warriors (@GlasgowWarriors) September 24, 2019
旧火力発電所でバンジー!!
最大にして最も有名なタウンシップ、ソウェト。旧オーランド発電所の一部で、ソウェトの名所であるオーランドタワーズの周辺を本拠としたアウトドア・アドベンチャーが充実しています。
タウンシップツアーに出かけよう! ソウェトのオーランドタワーズ/南アフリカ観光局
オーランドタワーズは、ソウェトの歴史で重要な役割を果たしていました。それを記念して、西側のウエストタワーには有名なソウェトの息子と娘、そして伝統的なタウンシップの光景が描かれています。
タウンシップツアーに出かけよう! ソウェトのオーランドタワーズ/南アフリカ観光局
「ネルソン・マンデラ」が住んでいた家は博物館に!

マンデラ氏が住んでいた粗末な赤れんがの家は、ウィニー元夫人が頻繁にテレビ出演したので多くの人が知っています。マッチ箱のような小さな家は、現在、ネルソン・マンデラ国立博物館として、マンデラ一家の思い出の品、絵画、写真などを展示しています。
ヨハネスブルグの中心、ソウェト/KLM 旅行ガイド
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【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯①──マンデラ誕生とアパルトヘイト
国民的スポーツラグビー!「FNBスタジアム」

ラグビーは南アの国民的スポーツ。
アパルトヘイト廃絶への道 スポーツ ボイコット/BS世界のドキュメンタリー .NHK BS1
そして南アフリカ代表チームであるスプリングボックスは、これまでにラグビーW杯で2度の優勝を果たした世界最強チームのひとつとして、数多くの栄誉を獲得しています。
ラグビーと南アフリカ/南アフリカ観光局
南アフリカで最大の収容人数を誇るラグビー競技場は、ヨハネスブルグ近郊のソウェトにあるFNBスタジアム。94,000人を収容する巨大スタジアムでは2010年以降、スプリングボックスによる試合が毎年開催されています。
ラグビーと南アフリカ/南アフリカ観光局
南アフリカでは元は白人のスポーツ
英国から輸入されたラグビーは、同国にとって「白人のスポーツ」だった。1990年代に入っても、代表の呼称である「スプリングボクス」はアパルトヘイトの象徴であり、富裕層の白人には人気だが、貧困層にはほとんど興味を示されていなかった。95年当時、代表で非白人は1人のみ。アパルトヘイトに対する制裁で、ラグビーW杯の第1回(87年)と第2回(91年)には参加できず、ラグビーの国際舞台からは遠ざかっていた。
ラグビー南アフリカ代表はなぜ強いのか、歴史からひもとく/日経ビジネス.2019
歴史に残る奇跡の瞬間
このため、アパルトヘイト撤廃後の1995年に南アがワールドカップ地元開催での優勝を飾った際、初の黒人大統領(当時)であるネルソン・マンデラ氏が、黒人と白人の国民の融和を訴えて当時の代表チームをたたえたことは歴史的な瞬間となった。
ラグビーワールドカップを機に日本への関心高まる(南アフリカ共和国、ナミビア)/ジェトロ.2019
サッカーの聖地としても有名
一方、「黒人はサッカー」という図式も成り立つ。1880年代にヨハネスブルグで金鉱が発見され、そこに集まってきた労働者の間でサッカーが盛んとなり、サッカーを中心とした一つのコミュニティが形成され、後に南アフリカを代表するプロサッカーチーム「オーランド・パイレーツ」の前身のクラブが作られた。オーランドは政府が強制的に黒人を移住させて出来上がった街の一つであり、1976年の反アパルトヘイト暴動で最大の黒人居住地区となったソウェトの一部として発展した。
調査研究報告 2010年サッカーW杯南アフリカ大会の現地報告 マンデラの野望とスポーツの可能性(p.240)/黑井克行
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黒人にとってサッカーはスポーツの枠を超えた存在
そうしてサッカーの聖地ともいうべき町が発展した経緯からもサッカーは黒人にとって純粋なスポーッとして楽しむだけでなく、彼らの存在に欠かせぬ拠り所とまで言い切っていいかもしれない。サッカーは南アフリカの黒人のアイデンティティである。
調査研究報告 2010年サッカーW杯南アフリカ大会の現地報告 マンデラの野望とスポーツの可能性(p.240)/黑井克行
南アフリカにおけるサッカー人気は、タウンシップや学校で戯れる子供から行きつけのパブや職場で談笑する年配者に至るまで多くの市民の間に広く浸透しており、他国にはない南アフリカ特有のサッカーの楽しみかたまでもが存在する。
アフリカ大陸初のFIFAワールドカップ™開催国、南アフリカでのサッカーの楽しみかた/南アフリカ観光局.2010
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ついにサッカーW杯も開催!!!
アフリカ大陸で初の開催となる2010年サッカー・ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会。
W杯開幕を待つ南アフリカ/JIJI.COM
サッカーW杯の開催は南アフリカの政情が安定し、ある程度の経済力がついたということを意味します。しかし、南アフリカは依然として貧富の差が激しい国で、貧困率は約50%と言われます(データの取り方によって35%から55%と開きがある)。そして、貧困層の95%近くが「アフリカ人」(黒人)であり、都市部では一部はスラム化した黒人居住区に住む人が多く入るのです。そんな黒人に人気があるスポーツがサッカー。白人にはラグビーのほうが圧倒的に人気があるのに対し、黒人にはサッカーが人気があるのだそうです。
W杯で盛り上がる南アフリカのスラムにサッカー場を建てよう!/石村 研二.グリーンズ
今大会の南アフリカ代表でも黒人選手がほとんどを占め、今大会の第1号ゴールを決めたシフィウェ・チャバララ選手も黒人選手、しかも今も黒人の貧困層が多く暮らす旧黒人居住区ソウェトの出身です。彼のような選手のW杯での活躍は貧しい子どもたちに希望を与えるでしょう。
W杯で盛り上がる南アフリカのスラムにサッカー場を建てよう!/石村 研二.グリーンズ