南アフリカの歴史的事件であるソウェト蜂起やネルソン・マンデラが暮らしたビラカジ通りがある、治安の悪い地区として有名だったヨハネスブルク郊外の旧黒人居住区ソウェトが大きく変貌を遂げています。
現在は高級レストランやカフェが立ち並び、タウンシップツアーを通じて南アフリカの政治史における重要なスポットを訪れることができます。
一方で、貧困や社会問題が深刻である場所もあります。また、南アフリカの国民的スポーツであるラグビーや、国特有のサッカーの文化についても触れられています。南アフリカの複雑な歴史と現在の姿を知りたい方におすすめの記事です。
【世界のスラム街】知られざる英雄たち、アパルトヘイトに挑んだ街の人々《ソウェト Part 1》
Current situation in Sowet
かつて治安の悪い地区として有名であったヨハネスブルク郊外の旧黒人居住区ソウェトは、大きく変貌を遂げています。アパルトヘイト時代には、黒人の抗議運動の中心地となり、1976年にはソウェト蜂起という歴史的事件が起き、世界中の注目を集めました。
しかし、現在のソウェトは、昔のイメージを払拭し、広大な居住区の多くが穏やかな郊外住宅地へと変わっています。この変化は、南アフリカ共和国政府の経済成長や都市開発政策、そしてアパルトヘイト終焉後の社会的な変化の影響を受けたものと考えられます。
この地域の発展により、治安の向上やインフラの整備、教育や医療機関の充実が見られるようになりました。また、ソウェトは観光地としても人気を博しており、ネルソン・マンデラの家やソウェト・アパルトヘイト博物館など、歴史的な観光スポットも多くあります。
ソウェトの変貌は、アパルトヘイトの終わりとともに始まった新たな南アフリカ共和国の歩みの一部を示しており、多くの人々に希望を与える象徴となっています。
今じゃ高級住宅街に!
アパルトヘイト時代には、ソウェト地域にはほとんど電気が供給されず、舗装道路も不足していました。しかし、アパルトヘイトの終焉後、南アフリカ共和国政府はソウェトのインフラ整備に力を入れるようになりました。その結果、電気供給が改善され、道路も舗装され、交通アクセスが向上しました。
特に、かつてネルソン・マンデラが暮らしたビラカジ通りは、現在では観光スポットとして人気があり、高級レストランやカフェが立ち並び、高級車が駐車される光景が見られます。
また、ソウェト地域は、文化や芸術の面でも発展を遂げており、地元のアーティストや音楽家によって活気づけられています。
圧倒的な地元感!!南アフリカ最大の都市「ヨハネスブルグ」よりむしろ安全
ヨハネスブルグの最大の問題である治安の悪さに対して、ソウェトは地域のネットワークを活用して解決策を見つけました。ソウェトに住むことができるのは、この街の出身者だけで、外部からの侵入者はすぐに見つかり、排除されるのです。
これによって、地域内での犯罪が抑制される効果があるとされています。
富裕層が犯罪のターゲットになるのは、白人も黒人も同じです。そのため、経済的に成功を収めた黒人の中には、塀と有刺鉄線に囲まれ、屋外を散歩することすらできない環境よりも、安全なソウェトを選ぶ人たちが現れてきました。
この結果、かつて「貧困」と「人種差別」の象徴であったソウェトにも、豪邸が建ち並ぶようになっています。
安全になった街で様々な人種の人がここでビジネスを開始!
活気はあまり感じられず、静かな住宅街が広がっているのが印象的です。タウンシップでの生活は、スパザショップと呼ばれる小規模な小売店が支えてきました。
小売店では、牛乳、パン、パラフィン(灯油)、石炭、たばこ、卵、小分けされた日用雑貨品などが購入できます。スパザショップや露天商は、全国で約75万軒(2004年)あり、年間売上規模は300億ランド(同)に達しています。
ある在南アフリカの日本企業がソウェトの小売店を調査したところ、経営者の80%がパキスタン人であることがわかりました。彼らは、黒人居住者から住居の一部を借り(家賃は1,000ランド)てビジネスを展開しています。
ソウェトにおける商業活動は、これまでインド人や中国人が食料品店などを構えて行われてきましたが、最近では近隣諸国からの移民も参入しているようです。
これは、ソウェトが経済的な発展を遂げる中で、多様な国籍の人々が商業活動に関与するようになっていることを示しています。また、これらの小売店や露天商は、地域住民にとって生活必需品を提供する重要な役割を果たしており、ソウェトの日常生活に欠かせない存在となっています。
アフリカ最大の“スラム”と言われていたこともありました
南アフリカのソウェトは、大きなスラム地域として知られていますが、ケニアのキベラと比較すると、ソウェトの生活水準ははるかに良いとされています。そのため、一部の人々は、ソウェトをスラムとは見なさないと主張しています。
ソウェトは、アパルトヘイト時代に黒人が隔離されて住んでいた地域であり、その後も多くの黒人が住み続けています。しかし、近年ではインフラの整備や経済発展により、一部では豪邸が建ち並ぶ地域も存在しています。
一方で、キベラはアフリカ有数のスラム地域であり、電気や水道、衛生設備などの基本的なインフラが不十分で、住民の生活水準が非常に低いとされています。
このような状況から、ソウェトとキベラを比較すると、ソウェトの生活水準はキベラよりも高いと言えるでしょう。
ソウェトを観光するツアーも!!!
ソウェトではタウンシップツアーを通じて、南アフリカの政治史における重要なスポットを訪れることができます。
Easiest and safest way to experience Soweto is to go on a township tour. https://t.co/whpznPpAgT #meetsouthafrica pic.twitter.com/I3ZFmcAirH
— Dept of Tourism (@Tourism_gov_za) July 27, 2016
?? Some of our players and backroom staff visited the Hector Pieterson Museum and Soweto township in Johannesburg today during a day off from training ahead of Friday’s game in Bloemfontein. pic.twitter.com/cKn0JLy1T0
— Glasgow Warriors (@GlasgowWarriors) September 24, 2019
旧火力発電所でバンジー!!
オーランドタワーズは、かつてのオーランド発電所の冷却塔であり、現在はソウェトの象徴的なランドマークとして親しまれています。
オーランドタワーズ周辺では、アウトドア・アドベンチャーが盛りだくさんです。例えば、バンジージャンプ、パワースイング、リフト上昇体験などのスリル満点のアクティビティが楽しめます。また、展望デッキからはソウェトの壮大な景色を一望することができます。
ウエストタワーには、ソウェトの息子と娘、およびタウンシップの光景を称える壁画が描かれています。これらの壁画は、ソウェトの歴史、文化、そして地域社会の誇りを表現しており、訪れる観光客にもその魅力を伝えています。
ソウェトでは、オーランドタワーズだけでなく、ネルソン・マンデラの家やデスモンド・ツツの家、ヘクター・ピーターソン記念館など、歴史的な観光スポットが数多く存在しています。これらの場所は、南アフリカのアパルトヘイト時代の歴史や闘争について学ぶ貴重な機会を提供してくれます。
「ネルソン・マンデラ」が住んでいた家は博物館に!
ネルソン・マンデラがかつて住んでいた赤れんがの家は、ソウェトのオーランド地区にあります。この家は、ウィニー・マディキゼラ=マンデラ元夫人がテレビ出演を繰り返し行ったことから、多くの人に知られるようになりました。建物はマッチ箱のように小さく、非常に質素であることが特徴です。
この家は現在、ネルソン・マンデラ国立博物館として公開されており、訪れる観光客にマンデラ一家の歴史や生活を紹介しています。
展示品には、家族の思い出の品、絵画、写真などが含まれており、彼らの生活やアパルトヘイト時代の南アフリカの歴史を伝える貴重な資料が展示されています。
この博物館は、南アフリカの歴史や文化に興味を持つ人々にとって、マンデラ氏の生涯や闘争、そして家族との関係を理解するための重要な場所となっています。訪問者は、マンデラ氏がどのような状況で闘ってきたか、彼がどれだけの影響力を持っていたかを実感できるでしょう。
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最重要地「ウォルター・シスル・スクエア」
1955年にソウェトのクリップタウンにあるウォルター・シスル・スクエアで、「自由憲章」が採択されました。この自由憲章は、南アフリカ共和国憲法の起草にも活用された文書で、人種間の差別のない民主的な南アフリカを目指すという目標が記されています。
自由憲章は、南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する政治団体や市民団体が協力して作成した文書で、人権、平等、民主主義、経済的正義などの原則が盛り込まれています。
ウォルター・シスル・スクエアは、この歴史的な出来事を記念して名付けられた場所であり、南アフリカの民主主義運動の象徴となっています。
ウォルター・シスル自体は、南アフリカの反アパルトヘイト運動の指導者であり、アフリカ民族会議(ANC)の活動家でした。
彼は長年にわたり、人種差別撤廃と民主化を求める闘争に尽力し、後に南アフリカ共和国の初代黒人大統領となるネルソン・マンデラと共に活動しました。シスルは彼の生涯を南アフリカの平和的な変革に捧げ、国内外で尊敬を集める人物でした。
国民的スポーツ ラグビー!「FNBスタジアム」
南アフリカにおいて、ラグビーは国民的スポーツとされており、スプリングボックス(South African national rugby team)はその象徴です。ラグビーワールドカップで3度の優勝(2023年時点)を果たし、世界最強チームのひとつとして名高いスプリングボックスは、国内外で多くの栄誉を手にしています。
ヨハネスブルグ近郊のソウェトにあるFNBスタジアムは、南アフリカで最も収容人数の多いラグビー競技場で、94,000人を収容することができます。FNBスタジアムは、2010年のFIFAワールドカップの開催地としても有名であり、それ以降は毎年スプリングボックスの試合も開催されています。
この巨大なスタジアムで行われるスプリングボックスの試合は、国内外のラグビーファンにとって大変魅力的なイベントであり、南アフリカのスポーツ文化を象徴する場所のひとつとなっています。
また、スタジアムはコンサートや他の大規模イベントにも使用されるため、南アフリカのエンターテインメントの中心地としても機能しています
南アフリカでは元は白人のスポーツ
ラグビーはもともと英国から輸入されたスポーツで、南アフリカでは長い間「白人のスポーツ」と見なされていました。
1990年代に入っても、スプリングボックスはアパルトヘイトの象徴として捉えられ、富裕層の白人には人気があったものの、貧困層にはほとんど興味を示されていませんでした。1995年当時、代表チームの非白人選手はわずか1人でした。
アパルトヘイトに対する国際的制裁のため、南アフリカは1987年と1991年のラグビーワールドカップに参加できず、ラグビーの国際舞台から遠ざかっていました。しかし、アパルトヘイト撤廃後の1995年に南アフリカがワールドカップ地元開催で優勝を果たしたことは、国内外に大きな感動を与えました。
歴史に残る奇跡の瞬間
この歴史的な瞬間に、初の黒人大統領であったネルソン・マンデラ氏が現れました。彼はスプリングボックスのチームを称え、黒人と白人の国民の融和を訴えました。
マンデラ氏が南アフリカ代表チームのジャージを着てスタジアムに登場した姿は、国民の心に深く刻まれ、南アフリカの人々が団結する象徴となりました。この出来事は、南アフリカの歴史において重要なターニングポイントであり、ラグビーが人種を超えた絆を築く力を持っていることを示す象徴的な瞬間となりました。
サッカーの聖地としても有名
今でこそ、南アフリカでは、ラグビーとサッカーが国民的な人気スポーツとして並んでいます。しかし、サッカーは特に黒人コミュニティにおいて歴史的に重要な役割を果たしてきました。
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黒人にとってサッカーはスポーツの枠を超えた存在
1880年代にヨハネスブルグで金鉱が発見された際、労働者たちの間でサッカーが盛んになり、コミュニティが形成されました。その後、南アフリカを代表するプロサッカーチーム「オーランド・パイレーツ」の前身となるクラブが誕生しました。
つまり「白人はラグビー」で「黒人はサッカー」という図式でした。
オーランドは政府によって強制移住が行われた黒人居住地区で、ソウェトの一部として発展しました。そして、1976年には反アパルトヘイト暴動の中心地となりました。
このようにうサッカーは、黒人コミュニティにおいて単なるスポーツ以上の意味を持ち、彼らのアイデンティティと密接に結びついています。
南アフリカにおけるサッカー人気は、タウンシップや学校で遊ぶ子供たちから、パブや職場で談笑する年配者まで多くの市民に広がっています。この国特有のサッカーの楽しみ方は、他国とは異なる独自の文化を持っています。
サッカーは南アフリカの社会で多くの人々に喜びを与え、また黒人コミュニティにおいては特別な意味を持つスポーツとなっています。
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ついにサッカーW杯も開催!!!
2010年のサッカーワールドカップ南アフリカ大会は、アフリカ大陸で初めて開催された大会であり、南アフリカの政治・経済の安定を象徴する出来事でした。
しかし、南アフリカは依然として貧富の差が激しい国であり、貧困率が高く、特にアフリカ人(黒人)が貧困層の大半を占めています。都市部では、一部がスラム化した黒人居住区も存在しています。
サッカーは、南アフリカの黒人コミュニティにおいて非常に人気があります。一方、白人コミュニティではラグビーが圧倒的に人気があります。
2010年の南アフリカ代表チームは、ほとんどが黒人選手で構成されており、その中でソウェト出身のシフィウェ・チャバララ選手が大会の第1号ゴールを決めました。
彼のような選手の活躍は、貧しい子どもたちに希望を与え、彼らが自分の夢を追い求めることができるよう励みとなっています。
一方でスラムもまだ健在…。発展の影でエリア内での格差が拡大
アパルトヘイト政策が終了し、人々が自由に住処を選べるようになった今でも、ソウェトには多くの黒人が住んでいます。ソウェトは、電気が整備された公共住宅エリアと、設備が整っていないスラム部分の二つに分けられます。
オーランド・ウエスト地区にあるフィラカジ通りやマセコ通りには、ビバリーヒルズと称されるほど見事な豪邸が並んでいます。
一方で、同地区のムジンシュロペには、解放後のマンデラが自身の投獄前と同じだと嘆いた赤土の道に並ぶブリキの家屋や、電気も水道もない粗末な長屋が連なっています。
この辺りには、アパルトヘイト時代に地方からの単身赴任者の受け皿となったホステル型住居が多く見られます。窮屈な状況や下水やトイレに難儀する泥道の町は、南アフリカ国内の他の多くの旧黒人居住区と似た状況です。
同じ人種間での格差が拡大
ソウェト内には様々な地域が存在します。
高級車が停まる豪邸が建ち並び、日本の新興住宅街を彷彿とさせる美しい街区も存在しています。さらに、1キロ毎に大型ショッピングセンターが立地する地域もあります。
しかし、一部ではゴミが散乱し、水道や電気がない廃材で作られた小屋が無造作に立ち並ぶ貧困地域があり、ソウェトの住民の60%が失業者だと言われています。
このような状況は、白人と黒人だけでなく、黒人社会内でも格差が一層拡大していることを示しています。
ソウェットの中のスラム「スクウォッターキャンプ」
ソウェトは、元々市営住宅が建てられた普通の住宅地であり、アパルトヘイト政策下で黒人が強制的に移住させられた地域です。そのため、一部の地域は貧困や社会問題が深刻であり、スラムのような状況に陥っている場所もありますが、全体としてソウェトは必ずしもスラムとは言えません。
一方、スクウォッターキャンプは、法律に基づかない、本来行政に認められていない地区で、貧困者が多く暮らすスラムです。
スクウォッターキャンプでは、住民が違法に土地を占拠し、簡素な建物やシャック(簡易住居)が建てられています。こうした地域は、衛生状態が悪く、教育や医療などの基本的なインフラが不十分であることが一般的です。
ソウェトのエリア内で増加中
ソウェトは、人口が集中しているため、近年、内部にもスクウォッターキャンプが形成されています。空き地を見つけた人々が、トタンなどで簡易住宅を建て、友人や親戚を頼りに住み始めることが一因です。
このような不法居住は、都市化や人口増加に伴う問題であり、ソウェトだけでなく他の旧タウンシップでも同様の現象が見られます。
さらに、ソウェトは比較的恵まれた地域もあるため、不法居住が後を絶たないという指摘もあります。
貧困エリア「クリップタウン」
クリップタウンはソウェトの一部で、アフリカーンス語で「石の町」という意味があります。
1920年代に、インド人、カラード(混血)、中国人などの住宅地が建設されましたが、その後の黒人居住区ソウェトへの隣接により、元の住人たちは他の地区へ移住しました。空き家が不法居住に利用され、周りに掘立小屋が建てられ、地区が拡大しました。
クリップタウンは、ソウェトの中でも最も経済水準が低く、失業率が高い地域です。失業率は実に72%に達すると言われています。多くの住民は、電気も水道もない家で暮らしており、生活環境は厳しいものがあります。
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