【世界のスラム街】知られざる英雄たち、アパルトヘイトに挑んだ街の人々《ソウェト Part 1》

南アフリカの歴史的な出来事であるアパルトヘイト政策や、その象徴的な場所であるソウェトについて知ってみませんか?アパルトヘイト政策によって形成された黒人タウンシップであるソウェトには、今でも多様な文化や言語を持つ人々が生活しています。

この記事では、アパルトヘイト政策の歴史や、ネルソン・マンデラ氏が果たした役割、そして1976年に起きたソウェト蜂起についても詳しく紹介しています。

また、アパルトヘイト時代の社会的不正や人種差別に対する理解を深めるための映画のオススメも紹介しています。南アフリカの歴史や文化に興味のある方は、ぜひ一読してみてください。

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 「チェンジリング」「グラン・トリノ」の巨匠クリント・イーストウッド監督が、アパルトヘイト(人種隔離政策)後の南アフリカで開催されたラグビーワールドカップを巡る感動の実話を映画化したヒューマン・ドラマ。アパルトヘイト撤廃後も人種間対立が残る中、国民が一つにまとまる大きな転機となった自国開催のラグビーW杯での奇跡の初優勝までの道のりを、ネルソン・マンデラ大統領と代表チーム・キャプテンを務めたフランソワ・ピナール選手との間に芽生える絆を軸に描き出す。主演はモーガン・フリーマンとマット・デイモン。(「allcinema」より)

SOWETO

ソウェト

Joshshaft/YouTube

ソウェト(SOWETO)は、南アフリカ共和国のヨハネスブルグ南西部にある旧黒人居住区で、アパルトヘイト時代に設立されました。その名前は「SOuth-WEstern-TOwnship」の頭文字から作られています。

ソウェトは約82平方キロメートルの広さがあり、人口は86万人から300万人とも言われています。アパルトヘイト政策の終焉後も、ソウェトは南アフリカの歴史や文化において重要な地域となっています。

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最大規模のタウンシップ!

ソウェト(South Western Townshipsの略)は、ヨハネスブルグ郊外にある最大のタウンシップで、アパルトヘイト時代に黒人の居住区として設立されました。アパルトヘイトが終わった後も、ソウェトの住民のほぼ100%は黒人であり、現在でも多くの黒人コミュニティが存在しています。

Interior Photography/YouTube
「タウンシップ」って?

ウンシップとは、アパルトヘイト政策下で黒人やカラード(混血の有色人種)が強制的に移住させられた居住区のことを指します。

多くのタウンシップは現在、公団住宅となっています。南アフリカでは現在、人種別の居住地規制はなくなっていますが、所得格差の問題から居住形態は簡単には変化しません。

旧黒人タウンシップには、今でも多くの異なる言語や文化の黒人が生活しており、トタン屋根のスラム地域を含めた環境は劣悪です。これらの地域では凶悪犯罪、高失業率、貧困、女性に対する暴力など、南アフリカが抱えるほとんどの問題が集約されています。

人類の人類に対する犯罪「アパルトヘイト」

アパルトヘイトは、南アフリカで1910年から1991年まで実施された制度的な人種差別政策です。この政策は、人口の約8割を占める黒人の参政権を否定し、住居地の指定や教育の分離などを義務付けました。

公共施設は「White」(白人用)と「Non-White」(白人以外用)に区別され、黒人が白人専用の場所に立ち入ると逮捕されることがありました。

異人種間の恋愛や結婚も禁じられ、アパルトヘイト政策は次第にエスカレートしました。国際社会はこの政策を「人類の人類に対する犯罪」と厳しく非難しましたが、南アフリカ政府は「人種ごとの分離発展のため」と主張し、改めようとはしませんでした。

ソウェトの始まり

1880年代にヨハネスブルグで金鉱が発見されると、南アフリカへの移民や労働者の流入が急速に増加しました。黒人労働者が金鉱業で働くためにヨハネスブルグへ集まり、居住区が形成されていきました。

しかし、この時期にはすでに人種差別政策が存在し、黒人労働者たちは白人地主の土地で劣悪な環境下で働かされました。

疫病を理由に強制移住

ヨハネスブルグでは、1904年にペストの発生を口実に、アフリカ人(黒人)を都心部から現在のソウェト(ヨハネスブルグの南西に位置するアフリカ人居住区)へ強制移動させました。

この強制移動は、黒人やカラード(混血の有色人種)の居住地を制限する土地法や、後にアパルトヘイト政策による人種差別のさらなる悪化を引き起こしました。

このような政策により、黒人やカラードの人々は劣悪な環境で生活することを余儀なくされ、貧困や犯罪、教育の格差などの社会問題が深刻化しました。

アパルトヘイトが本格化

1948年に南アフリカの国民党が政権に就くと、アパルトヘイト政策が本格的に導入されました。この政策によって、黒人やカラード(混血の有色人種)の弾圧が進み、彼らは白人が暮らすエリアから締め出されるようになりました。

この結果、黒人たちはタウンシップと呼ばれる居住区へ移住し、その中でもソウェトは急速に拡大していきました。

指定された黒人居住区は、鉱毒で汚染されたり、環境的に不適な場所であることが多かったです。政府は意図的に黒人やカラードをこうした地域に押し込むことで、彼らの生活環境を劣悪なものにしました。

また、火力発電所のような「迷惑施設」も、黒人居住区やその周辺に建設されることが一般的でした。これは、白人が住むエリアからこうした施設を遠ざけ、黒人やカラードのコミュニティに環境負荷をかけることを意図していたとされています。

伝説の英雄 ネルソン・マンデラも居住

ソウェトは、多くの著名な反アパルトヘイト運動家の故郷でもあります。ネルソン・マンデラ氏とデズモンド・ツツ師は、ソウェトのオーランド・ウエスト地区のフィラカジ通りに住んでいました。この両氏は、南アフリカのアパルトヘイト政策に対する抵抗の象徴として、世界的に有名になりました。

1961年にネルソン・マンデラは自宅を出て、反アパルトヘイト運動に身を投じることになります。彼は命を懸けた逃亡生活を送ったが、1962年に逮捕され、結果として27年間の刑務所生活を送ることになりました。1990年にようやく釈放され、その後の彼の活躍は目覚ましいものがありました。

1993年にはノーベル平和賞を受賞し、1994年には南アフリカの初の黒人大統領に選出されました。彼は1999年まで大統領職を務め、その後引退しましたが、そのカリスマ性は世界中で称賛され続けました。

ネルソン・マンデラは2013年12月に95歳で亡くなりましたが、彼の精神は人々の心に今も生き続けています。彼は平和と正義の象徴として、アパルトヘイトからの南アフリカの脱却や、国際社会における人権と平等の重要性を訴え続けた偉大なリーダーでした。

Voice of America/YouTube
ソウェトの家には弾丸の後が…。

ネルソン・マンデラの家やその周辺の建物には、外壁に弾痕や焼け焦げた跡が残っています。これらの痕跡は、マンデラが刑務所に収監されている間に、彼の家が石油爆弾や放火によって攻撃されたことを示しています。

アパルトヘイト政策に反対する活動家たちは、当時の南アフリカ政府やその支持者から激しい抵抗や攻撃を受けていました。マンデラの家が攻撃されたことも、彼が反アパルトヘイト運動の指導者であったことから、その象徴的な存在として標的にされたと考えられます。

このような歴史的な建物や痕跡は、南アフリカの過去の出来事を今に伝える重要な資料となっており、訪れる人々にアパルトヘイトの悲惨な歴史を思い起こさせます。

デズモンド・ツツ師もまた、1984年に同賞を受賞しています。このように、フィラカジ通りはノーベル賞受賞者を2人も輩出したことで、世界的に注目される場所となっています。この通りは、反アパルトヘイト運動の歴史を伝える重要な場所として、現在も多くの観光客が訪れる観光地となっています。

アパルトヘイト撤廃へ!「ソウェト蜂起」

ソウェト蜂起(Soweto Uprising)は、1976年6月16日に南アフリカ共和国のソウェト(ヨハネスブルグ南西部のタウンシップ)で発生した抗議運動です。この抗議は、アフリカーンス語を公立学校の授業で使用することを強制する政府の方針に対する若者たちの反発が発端となりました。

アフリカーンス語は、アパルトヘイト政策を推進していた白人支配層の言語であり、その使用を強制されることによって黒人の若者たちは自分たちの文化やアイデンティティを脅かされると感じました。このため、ソウェトの学生たちは6月16日に学校をボイコットして抗議行動を開始しました。

抗議行動はやがて暴力的な衝突へと発展し、警察が銃を使用してデモ参加者に発砲したことで、多くの学生が死傷しました。この事件は国際的な非難を浴び、南アフリカのアパルトヘイト政策に対する抗議活動が一層激化するきっかけとなりました。

ソウェト蜂起は、南アフリカのアパルトヘイト体制に対する国内外からの反発を強めることにつながり、結果的にアパルトヘイトの終焉に向かう道筋を作ることになりました。

1994年、ネルソン・マンデラを中心としたアパルトヘイト撤廃運動の成果により、南アフリカで初めて全人種が参加できる選挙が実施されました。この選挙を経て、南アフリカは平和国家へと生まれ変わりました。

TIME/YouTube
今ではこの日は国家祝日

この歴史的な変革を記念して、「若者の日」(Youth Day)が6月16日に制定され、国家祝日となりました。これは、1976年のソウェト蜂起の記憶と、若者たちがアパルトヘイト撤廃のために果たした役割を讃えるためのものです。

南アフリカでは、毎年6月を「若者の月」(Youth Month)とし、さまざまなイベントや祝祭が開催されます。特に6月16日の「若者の日」には、若者を中心としたさまざまな祝祭が行われ、国民たちはこの日を祝っています。

ソウェトは様々な映画の舞台に!

ソウェトは、その歴史的な背景と独特の文化から、様々な映画の舞台として使われています。特にアパルトヘイト時代や反アパルトヘイト運動、人種問題に関連する映画で、ソウェトが舞台となることが多いです。以下は、その中でも特筆すべきいくつかの映画です。

  1. 「サラフィナ!」(1992年) ソウェト蜂起を背景にしたミュージカル映画。サラフィナという少女がアパルトヘイトに立ち向かい、自由と平等を求めて戦う姿が描かれています。
  2. 「ツォッツィ」(2005年) ソウェト出身の若者が、犯罪者から救世主へと変貌する物語。2005年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。
  3. 「マンデラの名もなき看守」(2017年) ネルソン・マンデラが27年間服役していたロベン島で、彼を見守っていた看守の視点で描かれた物語です。マンデラと看守の関係が深まっていく様子が描かれています。
  4. 「イーライの秘密」(2008年) ソウェトで育った少年が、過酷な状況の中で成長し、自分の運命に立ち向かっていく姿が描かれた映画です。

これらの映画は、ソウェトの歴史や文化、人々の暮らしを描くことで、観る者に深い感銘を与えるとともに、アパルトヘイト時代の人種差別や社会的不正に対する理解を深めることができるのでオススメです。

alfinete99k/YouTube
【世界のスラム街】スラムからの脱却!多様性と文化が混ざり合う南アフリカの拠点《ソウェト Part 2》
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27年間囚われた、のちの南アフリカ初の黒人大統領。今、秘められた感動の実話が明かされる。ネルソン・マンデラがはじめて映画化を許諾した、真実の物語。

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