【世界のスラム街】“反アパルトヘイト運動”の最重要地「ソウェト」 <前編>

【世界のスラム街】“反アパルトヘイト運動”の最重要地「ソウェト」<前編>

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 南アフリカ・ヨハネスブルグ上空に正体不明の巨大宇宙船が現われ、そのままとどまってしまう。しかし、エイリアンは襲撃に来たわけではなく、宇宙船の故障で漂着しただけだった。追い返すことも出来ず、やむを得ず彼らを難民として受入れることに。それから20数年後。共同居住区“第9地区”はいまやスラムと化し、地域住民の不満は爆発寸前に。そこで超国家機関MNUは、エイリアンたちを新たな難民キャンプへ強制移住させることを決定。プロジェクトの最高責任者に抜擢されたエイリアン対策課のヴィカスは、さっそく彼らの住居を訪問し、立ち退きの通達をして廻る。ところがその最中に、不注意から謎の液体を浴びてしまうヴィカスだったが…。(「allcinema」より)

SOWETO

旧黒人居住区 ソウェット

Interior Photography/YouTube

ソウェト(SOWETO)とはSOuth-WEstern-TOwnshioの頭文字をとって出来たヨハネスブルグ南西部にあるアパルトヘイト時代の旧黒人居住区。

アパルトヘイト時代の面影をしのぶソウェト半日観光[午後]/HOT HOLIDAY

ソウェトは82平方キロの広さを 持ち、人口は86万人とも300万 人ともいわれる。

ソウェトの素顔/長川 貴博.Republic of South Africa.地球ギャラリー vol.21
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最大規模のタウンシップ!

ソウェト(South Western Townshipsの略)はヨハネスブルグ郊外につくられた最大のタウンシップで、現在も住民のほぼ100%が黒人だ。

南アフリカ・ソウェト、アパルトヘイト(人種隔離)が生んだ街。黒人が外界から”隔離”したら安全な地域に変貌[橘玲の世界投資見聞録]/ダイヤモンド・オンライン.2015
「タウンシップ」って?

タウンシップとは、アパルトヘイトにより黒人やカラードと言われる混血の有色人種の方々が居住区を強制的に追いやられた場所のことで、今は公団住宅となっています。

ブログ – ページ 33/書家・書道家 川尾朋子

現在の南アでは人種別の居住地規制はもちろんないが、所得格差もあり居住形態は容易に変化しない。旧黒人タウンシップには今でも多くの異なる言語・文化の黒人が生活し,インフォーマルなトタン屋根のスラム地域を含め総じてその環境は劣悪であり、凶悪犯罪,高失業率、貧困、女性に対する暴力等、南アが抱える殆どの問題がそこに集約されている。

(コロナ特集)南アフリカの新型コロナウィルス対策/一般社団法人 霞関会.2020
人類の人類に対する犯罪「アパルトヘイト」

南アフリカ政府が1910~91年に実施した人種差別政策。人口の約8割を占める黒人の参政権を否定、住居地の指定などを義務付け、教育でも白人と黒人を徹底的に分離した。

アパルトヘイト(人種隔離)政策とは/日本経済新聞.2013

当時、トイレや公園などの公共施設は「White」(白人用)と「Non White」(白人以外用)に区別され、黒人が白人専用の場所に立ち入った場合は逮捕されました。異人種間での恋愛や結婚も禁じられるなど、アパルトヘイト政策は徐々にエスカレートし、国際社会は「人類の人類に対する犯罪」と厳しく非難しました。しかし、南アフリカ政府はこれを「人種ごとの分離発展のため」として、改めようとはしませんでした。

わかる!国際情勢 躍進する南アフリカ~途上国のリーダーとして/外務省.2009

ソウェトの始まり

1880 年代にヨハネスブルグで金鉱が発見されたことを契機に、黒人鉱山労働者が流入したことで居住区が形成されていった。

Ⅲ.南アフリカ共和国における調査/参議院
疫病を理由に強制移住

ヨハネスブルクにおいては,ペストの発生を口実にアフリカ人を都心部から現在のソウェト(ヨハネスブルクの南西に位置するアフリカ人居住区)へ強制移動させたのは1904年のことである。

補章 南アフリカにおける都市政策の変遷(p.278)/小倉 充夫.発展途上国の都市政策と社会資本建設.273-294.アジア経済研究所.1996
アパルトヘイトが本格化

(前略)1948年国民党が政権に就いた後、アパルトヘイト政策によって国内でますますその弾圧が進むにつれ、白人の暮らすエリアから黒人が締め出される動きが出たため、ソウェトは急速に拡大していきました。

活気あふれる南アフリカ最大のタウンシップ ソウェト/南アフリカ観光局

こうした場所は鉱毒で汚染されていることから居住には適さず、だからこそアパルトヘイトの時代に黒人居住区に指定された。火力発電所のような「迷惑施設」がこの近辺に建設されたのも同じ理由だ。

南アフリカ・ソウェト、アパルトヘイト(人種隔離)が生んだ街。黒人が外界から”隔離”したら安全な地域に変貌[橘玲の世界投資見聞録]/ダイヤモンド・オンライン.2015
かつては英雄「ネルソン・マンデラ」も住んでいた!

著名な反アパルトヘイト運動家の多くがソウェトの住人でした。ネルソン・マンデラ氏やデズモンド・ツツ師もソウェトに住んでいたことがあります。どちらの家もオーランド・ウエスト地区のフィラカジ通りにありました。ノーベル賞受賞者を2人も輩出した通りは世界でここだけです。

ヨハネスブルグの中心、ソウェト/KLM 旅行ガイド

建物に近づくと、外壁に弾痕や焼け焦げた跡が残っているのに気付くでしょう。これらは、マンデラが刑務所に収監されている間に石油爆弾や放火によって攻撃された跡です。

マンデラ ハウス, ヨハネスブルグ市都市圏/エクスペディア

1961年マンデラさんはこの家を出て、反アパルトヘイトの政治活動家として命懸けの逃亡を続けたものの、翌年逮捕され投獄されました。

南アフリカの歴史を物語る マンデラ・ハウス/ 南アフリカ観光局

 27年間の牢獄生活の末に90年に釈放され、93年にはノーベル平和賞、94年からは南アフリカ大統領となった。99年に任期を満了して引退したものの、世界でもっともカリスマ性のある人物と言われていた。

マンデラ氏の旧家で言葉の支配を思う @ヨハネスブルク/朝日新聞デジタル.2013

2013年12月に95年の生涯を閉じた後も、マンデラは人々の心の中に生き続けている。

ネルソン・マンデラ生誕100年に沸く南アフリカで偉人の足跡をたどる/CREA Web.2018
【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯①──マンデラ誕生とアパルトヘイト

アパルトヘイト撤廃へ!「ソウェト蜂起」

TIME/YouTube

1976年6月16日に起こったソウェト蜂起は、オランダ系白人の使用するアフリカーンス語の授業を強制された生徒らが、抗議のため行進しているところを警察が発砲、176名が殺害された事件だ。

【アフリカ発!Breaking News】アパルトヘイトの象徴写真の少年、カナダの刑務所で35年ぶりに発見か。(南ア)/Techinsight.2013

当時、黒人の学校でアパルトヘイトの象徴とされたアフリカーンス語で授業を行うことを政府が強制し、ソウェトの学生たちが反対デモを実施。警官がそれに対して発砲した際に、13歳のヘクター・ピーターソン少年が撃たれ、最初の犠牲者となりました。その時の象徴的なニュース画像は、南アフリカの抑圧的な人種差別政策への注目を集め、世界中の人々がアパルトヘイトの実態を知るきっかけとなりました。

ソウェトが放つ躍動的なタウンシップの魅力に迫る/南アフリカ観光局

「ソウェト蜂起」は、平和的な抗議デモから始まったにもかかわらず、多くの非武装の子供たちに銃口が向けられたことから、アパルトヘイトの現実が広く知られることになった事件ともされている。アパルトヘイト終焉のきっかけとなった出来事として、『遠い夜明け』『サラフィナ!』といった名作でも描かれている。

連載|南アフリカ旅行記/Web Magazine OPENERS.2020

1994年、ネルソンマンデラ氏を中心としたアパルトヘイト撤廃運動により全人種参加による選挙が行われ、南アフリカが平和国家に生まれ変わった時に「若者の日」と名づけられ、国家祝日に制定された。以後、南アフリカでは毎年6月を「若者の月」そして16日を「若者の日」と呼び、若者を中心とした祝祭でこの日を祝している。

南アフリカ共同館から ユースデイ(青年の日)イベント開催のご案内/EXPO 2005 AICHI,JAPAN

この街は様々な映画の舞台に!

MovieSphere/YouTube
「ツォツィ」

南アフリカ最大の都市ヨハネスブルク。その最大のタウンシップ(旧黒人居住区)ソウェトのスラム街にツォツィと呼ばれるひとりの少年がいた。本名は誰も知らない暴力の中で無軌道な生活を送る彼は、仲間と徒党を組んでは窃盗を働き、銃を振りかざしてはカージャックを犯し、その日をただ、怒りと憎しみを糧に生き延びるかのように暮らしていた。 

ツォツィ – ハピネットピクチャーズ/Happinet Pictures

アパルトヘイト後も続く南アフリカの過酷な現状と、未来への希望を見つめ、第78回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した感動作。社会の底辺で暴力に明け暮れてきた少年が、生後間もない赤ん坊と出会ったことで人間性に目覚めてゆく姿を描く。

ツォツィ – 作品/Yahoo!映画 – Yahoo! JAPAN

原作は南アフリカを代表する劇作家、アソル・フガード。差別する側の「白人」でありながら、反アパルトヘイト運動に身を投じていた彼は、アパルトヘイトをテーマにした戯曲を数多く書き、黒人たちと舞台を共にすることにようて、国の抱える問題を広く世界に知らしめた。

ツォツィ – ハピネットピクチャーズ/Happinet Pictures
映画「第九地区」の撮影地
Sony Pictures Entertainment/YouTube

『第9地区』のロケが行われたのはヨハネスブルグの『ソウェト地区』。 (中略)この映画の監督も南アフリカのヨハネスブルグ出身。その監督のインタビューでも、映画のストーリーはアパルトヘイト時代に起きたケープタウン第6地区からのアフリカ系住民の強制移住政策を下敷きに、近年の南アフリカ周辺国から避難してきた移住難民と南アフリカネイティブとの確執問題などを参考にしたと語られています。

南アフリア、ヨハネスブルグを舞台にしたSF映画『第9地区』/たびせん.com.2017
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 南アフリカ・ヨハネスブルグ上空に正体不明の巨大宇宙船が現われ、そのままとどまってしまう。しかし、エイリアンは襲撃に来たわけではなく、宇宙船の故障で漂着しただけだった。追い返すことも出来ず、やむを得ず彼らを難民として受入れることに。それから20数年後。共同居住区“第9地区”はいまやスラムと化し、地域住民の不満は爆発寸前に。そこで超国家機関MNUは、エイリアンたちを新たな難民キャンプへ強制移住させることを決定。プロジェクトの最高責任者に抜擢されたエイリアン対策課のヴィカスは、さっそく彼らの住居を訪問し、立ち退きの通達をして廻る。ところがその最中に、不注意から謎の液体を浴びてしまうヴィカスだったが…。(「allcinema」より)

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“https://diggity.info/culture/soweto-2/”
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