【世界のスラム街】ヒップホップ誕生の地!!「サウスブロンクス」<前編>
South Bronx
サウスブロンクス
ブロンクスって?
ブロンクス区(The Bronx)はアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン島の北東部に位置する行政地区。
ブロンクス/ニューヨーク留学センター
5つの行政区の中で唯一島ではなく、北アメリカ大陸本土に属しており、面積は148.7平方キロメートル、人口は約130万人強。
ブロンクス/ NAMI NewYork
ブロンクスの由来はとあるオランダ人の名前から
ブロンクスは1641年に入植したオランダ人のヨナス・ブロンクスの名前に由来している。
ブロンクス/ NAMI NewYork
“THE”BRONX
また、唯一定冠詞の「The」をつけます
City of New York : ニューヨーク地図/ブロンクス地図 – FC2
昔「ヨハネス・ブロンク」というスウェーデンからの移民がこの地区の最初の入植者で、ブロンク一族といわれたことから、この地区は”The Bronx”となったとのことでした。
ん?? ”The” Bronx..?/アメリカ・ニューヨーク語学留学ならNYEA.2014
ちなみに今でもThe Broncks(ブロンクス家), The Bronck’s(ブロンクスの所有格), The Broncks’(ブロンクス家の所有格)という風に綴られることがあるらしい。
新春長距離ライド in ニューヨーク その1: アメリカ本土最大の島はどこだ?/Road in New York.2010
ブロンクスの南西部の地区「サウスブロンクス」
サウスブロンクスとはアメリカ合衆国のニューヨーク市ブロンクス区の南西部にある地区の事を指します。サウスブロンクスは治安の悪い地区として知られています。
ヒップホップ発祥の地ブロンクス/NOAダンスアカデミー
サウス・ブロンクスは治安が悪いだけではなく、栄養士から食の砂漠と問題視されている地域。ここでは、安くて健康的な食品を手に入れることが難しいのです。
生徒の出席率が40%⇒93%に!ある先生が思いついた「斬新なアイデア」とは?/TABI LABO.2015
The History Of South Bronx
サウスブロンクスの歴史
1664 ニューヨークシティ 誕生
New YorkはもともとNew Amsterdam(ニューアムステルダム)というオランダ人の植民地で、ビーバーなどの毛皮貿易の拠点になっていた。これを1664年に、後にジェームズ2 世となるイギリスのヨーク公(The Duke of York)が占領したことから、その名を冠してNew Yorkと呼ばれるようになった。
アメリカの地名の由来 /公益財団法人 日本英語検定協会
The earliest known map of New York—from 1660, while it was still under Dutch rule (it became British in 1664). This is today’s Manhattan Financial District. I’d love to take these residents in a time machine and show them what their quaint village looks like now. pic.twitter.com/qhRtCteFol
— Tim Urban (@waitbutwhy) February 3, 2020
New Amsterdam becomes New York:
— U.S. Embassy Vienna (@usembvienna) September 8, 2019
On September 8, 1664, Dutch Director-General Peter Stuyvesant surrendered to English Colonel Richard Nicolls: https://t.co/dCqgEOZKOj@NYHistory pic.twitter.com/qJWPeHI14d
ニューヨークのホリデーを告げる世界一有名なクリスマスツリー「Rockefeller Center Christmas Tree 」
この頃のブロンクスはニューヨークの一部ではなかった
ブロンクスは、この頃ニューヨークではなく、ウエストチェスター群の一部で、農業が中心となっていました。その110年程後に、独立戦争が勃発し、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンを結ぶ重要旧街道(BostonPostRoad)があったブロンクスは、ニューヨーク同様、イギリスに占拠されましたが、ゲリラ戦が続けられていたそうです。
ブロンクス歴史博物館 イギリス植民地時代に建てられたファームハウスの邸宅ミュージアムValentine-Varian House/NYC
1890s ニューヨークシティの一部に!
19世紀に入り、ニューヨークの技術、経済の発展に伴い、ブロンクスも発展、移民も急増し、大変化を遂げます。ニューヨークに近い存在となったブロンクスですが、西部は1874年に、東部は1895年に、ニューヨークシティの一部となり、最終的には、1898年、NYCが、マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタテンアイランドからなる現在の構成となりました。
ブロンクス歴史博物館 イギリス植民地時代に建てられたファームハウスの邸宅ミュージアムValentine-Varian House/NYC
1900s 地下鉄が開通!ブロンクスへの移住者が急増
地上を走っていた蒸気機関車も、電化による地下鉄にその座を譲ります。1904年に、現在の4,5,6ラインが開通します。地下鉄は、地主や開発業者の要望もあって、マンハッタンからブロンクス区、ブルックリン区、クイーンズ区まで路線を伸ばしていきます。窮屈であるマンハッタンからサバーバナイゼーションが始まり、 近郊への移住が加速します。
ニューヨークの歴史(20世紀)/世界の首都へ
1920s ユダヤ人を中心とした移民の街として急成長
ブロンクスは地下鉄の接続とともに人口が急増し、ユダヤ人を中心とした移民の街となって急成長を遂げた。1923年にはヤンキースタジアムが建設され、ブロンクス区はニューヨークの文化的な拠点として重要な位置を占めていった。
Gordon Matta-Clark: Anarchitect | ゴードン・マッタ=クラークとブロンクス/蜘蛛と箒.2018
Yankee Stadium opens on this day in 1923. Photo from The New York Times archives. http://t.co/nZ1jEvSbkR pic.twitter.com/insQyv9no0
— NYT Archives (@NYTArchives) April 18, 2015
Abraham Manievich’s 1924 painting titled “The Bronx” is reminiscent of abstract and folkloric paintings from his native Russia. During the 1920s, the Bronx became a haven for Jewish artists, musicians, and writers, including Manievich. #NYHistoryHere #MuseumFromHome pic.twitter.com/kvNEorONI5
— New-York Historical Society (@NYHistory) April 1, 2020
1930s 経済成長停滞で治安の悪化が進行
けれども、1930年代にはその経済成長は停滞し始め、それとともに徐々に治安の悪化が進んでいった。
Gordon Matta-Clark: Anarchitect | ゴードン・マッタ=クラークとブロンクス/蜘蛛と箒.2018
1940s 中産階級の人が住む綺麗な集合住宅市街地
ニューヨーク市にある、世界的にも有名な「荒廃した地区」、サウスブロンクス地区も、1940年代までは中産階級の清潔で落ち着いた集合住宅市街地であった。
ー第9回ー 住まい再建へのレシピ⑤《「住まい」とは何だろう》②~豊かな居住環境を生み出すための模索・海外編~/認定NPO法人 まち・コミュニケーション
1950s 都市開発はコミュニティを破壊していった
ブロンクスの衰退は、ニューヨク都市計画の一環として作られた「クロスブロンクス エクスプレスウェイ」という全長7マイルの、ニューヨークの歴史の中で初めての市中横断高速道路が主な原因の一つと言われている。
「HIPHOPとニューヨーク都市開」その1/Bring Back.note.2019
ブロンクス高速横断道路の建設が始まったのは 1959 年のことである。こ の住宅地を貫く高速道路建設が、サウスブロンクスを腐敗へと向かわせ、結果的にいくつものコミュニティを破壊した。もともと労働者階級の集まるコミュニティがあり、下層から中流階級のアイルランド系やユダヤ系を中心に、イタリア系やドイツ系のコミュニティ まで強制的に移住をさせられてしまう。
京都外国語大学大学院外国語学研究科 博士後期課程 辰巳 遼.異言語・文化専攻 言語文化領域(p.118)
「低所得者をプロジェクト(団地)へ」
クロスブロンクスエクスプレスウェイの建設に伴い、黒人やヒスパニックなどの低所得者の有色人種たちは、都市開発によりブロンクスのスラムをぶち壊して作られた「プロジェクト」と言われる低所得者向けの高層アパート、日本で言う「団地」にぶちこまれる。
「HIPHOPとニューヨーク都市開発」その2/Bring Back.note.2019
公団アパートも本来は労働者階級のために作られたものだが、やがてニューヨークからあらゆる業種の工場が撤退し、大卒でなくとも安定した生活を賄えていた労働者階級が消滅した。ニューヨーカーは高学歴のホワイトカラーと低学歴のブルーカラーに二極分化し、公団アパートに残ったのは貧しい黒人と、カリブ海の島々からの移民であるヒスパニックとなった。
壊滅的に荒廃したサウスブロンクス、立て直しに汗をかく住民がいる/朝日新聞GLOBE+.2019
この失敗の要因としてはスラムでは道に人がたむろしており、相互監視機能があったのですが、高層マンションにはそれがなく、犯罪に歯止めが利かなくなったためとしています。
★都市計画に勧善懲悪は馴染まない「ジェイン・ジェイコブズ ―ニューヨーク都市計画革命―」/博司のナンコレ美術体験.2018
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ブロンクス荒廃の犯人!?「ロバート・モーゼス 」
実は悪名高い1970年代のサウス・ブロンクスの惨状を生み出した張本人として、モーゼスの名前はヒップホップの歴史を扱ったまともな本には必ず出てくる。
『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』映画評/i-D.2018
進歩主義者の彼はスラムを一掃してニューヨークをモダンな都市に変えようと活動し、権力を手にします。その動きは第二次世界大戦を経た1950年代に加速、モーゼスたちはスラムを潰し、郊外にモダンな集合住宅を立てて人々を移し、高速道路を建設して都市圏をつくろうとするのです。
「都市」のことを考えると、自分の望むものが見えてくる。60年代ニューヨークで闘った都市活動家に学ぶ「闘争」の意味。『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』/石村 研二.Greenz.2018
「スラム対策委員長」としてサウスブロンクスなどのスラムを撤去したのはいいのだが、その後に作った公営高層アパートが地域のつながりを破壊し、かえってスラムを拡散した、という批判も高まった。かくてモーゼズは1968年、リンゼイ市長に権力をはく奪され、「ニューヨークの造成者」に地位から降りた。
世界の街角から(31) ITと都市計画とのあいだ(3)/TECH+.2007
Robert Moses, Andrew Cuomo and the saga of the Sheridan Expressway in the Bronx. https://t.co/4KtnOjJ4ee pic.twitter.com/G29eoc4fv0
— NYT Metro (@NYTMetro) March 21, 2017
1960s 特定警戒地域「白人層が脱出」
1960年代にサウスブロンクスに主要な高速道路、主にクロスブロンクス高速道路が建設された後、広大な住民の移動がサウスブロンクスの貧困と衰退につながりました。
モットヘブンヒストリックディストリクト/ニューヨーク市立博物館.2012
そのサウス・ブロンクスの環境が悪化したのは60年代から。
育ったのは麻薬密売所の前。一人の女性が、「犯罪都市サウス・ブロンクス」を再生させる。/MAASH.2010
市の経済状況の影響もあって、民間資本の引き上げという現象が起こりました。
銀行がサウス・ブロンクス周辺を特定警戒地域として指定。新たな投資を止めたのです。
その影響はすさまじいものでした。
育ったのは麻薬密売所の前。一人の女性が、「犯罪都市サウス・ブロンクス」を再生させる。/MAASH.2010
当時そこは、豊かになった白人層(おそらくユダヤ系)は少しずつ北の郊外に移り、ヒスパニックや黒人の人口が増えていました。
1970s 無法地帯!街の様子はまるで戦後の焼け野原
1970 年代のニューヨーク市は経済危機に陥っていた。貧富の差は拡大したが、この差は人種的な区分と分かちがたく結びついていた。特にサウス・ブロンクス地区には市内にいた黒人やヒスパニック系が追いやられ、最貧困層の集まるスラム街と化した。
ブレイクダンスの成立と動作の変容/杉山 千鶴.Waseda University
ギャングの暴力が横行し、廃墟のビルは増え、荒れた土地は増える一方だった。
ブロンクスストリートカルチャー・ラテン音楽カルチャードキュメンタリー:From Mambo To Hip Hop(2006年)/ストリートスタイル.2012
ニューヨーク市プロンクス区のサウスブロンクス地区は全国的に貧しい地区 で、 1970年代初期で地元の41分署で毎年殺人事件が120件から 130件あった。
ニューヨーク市の1990年代の治安政策(p.79)原田敬美 著 .2019
Beginning in the 1950s through the early 80s, the Bronx started to decline. Scores of buildings were abandoned, with many burned down, and crime was rampant. Its population was essentially flat from 1950-1970 and fell sharply in the 1970s and early 1980s. #BronxRegionalVisit pic.twitter.com/7FBKjv4SWo
— New York Fed (@NewYorkFed) November 19, 2018
毎晩のように放火!
アパートの大家は家賃を払えない住人を次々に追い出し、火災保険を得るために人を雇って放火させた。サウスブロンクスが毎晩何件もの火事に見舞われ、「ブロンクスは燃えている」という、今も人々の記憶に残るキャッチフレーズが生まれた理由だ。
壊滅的に荒廃したサウスブロンクス、立て直しに汗をかく住民がいる/朝日新聞GLOBE+.2019
「1970~75年にかけて、サウスブロンクスでは68456件の火事が起こったとされている。一晩に33件以上だ」(In The South Bronx of America/Mel Rosenthal)
スパニッシュハーレム/サウスブロンクス/ニューヨーク・ブラックカルチャー・トリヴィア
夜の一人歩き等は、もっての外でした。「サウス・ブロンクス地区」の戦後の焼け野原の様な風景に、レーガン大統領が言葉を失ったと言う記録も残されています。
ブロンクス地区の治安・観光情報まとめ!おすすめスポットや見どころも紹介!TRAVEL STAR
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ニューヨーク大停電
そして1977 年のニューヨーク大停電のThe New York Times をはじめとした報道が、サウスブロンクスを象徴的な場所にさせる。ほとんどの略奪行為が貧困地域に集中し、1965 年に起きた停電に比べても状況はひどく、 1977 年夏にあらわになった絶望と挫折感は、公民権運動の高まりから人種的に最も混乱した 60 年代よりもはるかに大きなものであった。
京都外国語大学大学院外国語学研究科 博士後期課程 辰巳 遼.異言語・文化専攻 言語文化領域(p.118)
犯罪防止NPO団体「ガーディアン・エンジェルス」誕生
1979年、ニューヨークの犯罪多発地域であったサウスブロンクスで、現総代表であるカーティス・スリワほか12人の若者たちにより、ガーディアン・エンジェルスは誕生しました。”Dare to Care”をモットーに当時危険であった地下鉄のパトロール、ストリートで発生する様々な犯罪の防止に貢献し、さらに銃器による犯罪や麻薬撲滅のための熱心な活動に市民からも厚く信頼される存在となっています。
日本ガーディアン・エンジェルス 沿革/日本ガーディアン・エンジェルス
1980s クラックの流行……凶悪犯罪が多発
1980年代に入るとクラックと呼ばれる粗悪な麻薬が大流行し、そもそも貧しかったサウスブロンクスを壊滅状態に追いやった。
壊滅的に荒廃したサウスブロンクス、立て直しに汗をかく住民がいる/朝日新聞GLOBE+.2019
空家になった住宅を一部が不法占拠し、スラムとなり、さらに治安が悪化した。(中略)空家が不法占拠されスラム化した。麻薬取引、売春、麻薬 取引に絡む殺人事件が毎日発生した。
ニューヨーク市の1990年代の治安政策(p.93)原田敬美 著 .2019
1970年人口統計で住民が93,900人住んでいたが、その後、治安悪化で 2/3の 住民が逃げ出し1980年32,000に減った。残った有志の地域住民は地域再生のた め組織化し生き延びるための戦いと、破壊された近隣の再構築のための戦いを 始めた。
ニューヨーク市の1990年代の治安政策(p.79)原田敬美 著 .2019
1990s 環境改善へ!
1993年市内で最も犯罪件数が多く最も危険と言われたサウス・ブロンクスで市役所や民間団体の支援で住民が積極的に住環境改善に取り組み、その結果犯罪件数が減少した。
ニューヨーク市の1990年代の治安政策(p.140)原田敬美 著 ガバナンス研究 No. 15
2019年
サウスブロンクスの治安の悪化の状況は1981年上映された「アパッチ砦ブロンクス」でフィクションとして地区の状況が報じられたが、 93年時点では地区環境はだいぶ改善され、 81年の映画で描かれた劣悪な状況ではない。
ニューヨーク市の1990年代の治安政策(p.79)原田敬美 著 .2019
Paul Newman in the South Bronx on the set of the movie “Fort Apache, The Bronx” on this date March 7 in 1980. Photo by G. Paul Burnett. #OTD ?️ pic.twitter.com/e32vA9vZNd
— Dr. Jeffrey Guterman (@JeffreyGuterman) March 7, 2021
2000s 治安は改善されつつある……が
マンハッタンの北に位置する区。1970年代、南部「サウスブロンクス」は荒廃し、犯罪率が急上昇。全米でも上位を争う危険地域と呼ばれ悪名高かったが、現在はマンハッタンの地価の高騰によりマンハッタンに住めなくなった人びとが移住をし始め、雰囲気が変わりつつある。ヤンキースタジアムやブロンクス・ズーなどの観光名所もある。とはいえ、地域によっては治安にまだ不安が残るので、興味本位で歩くのは避けよう。
ニューヨーク5ボロー紹介/ニューヨーク便利町.2018
80年代と比べて、ずいぶんと安全になってきたサウスブロンクスですが、それでもやはりニューヨークシティの他の地域と比べて犯罪が多い地域であるのは確かです。
サウスブロンクス VS イースト・ニューヨーク – どっちがNY一の犯罪多発地域?/独学英語のココロ
現在では、かなり治安は改善されかつてのイメージは払拭されつつあるサウス・ブロンクスだが、その中でもこのハンツ・ポイント地区では、未だに売春や麻薬の密売が根強く残っている。気軽に近づかないようにしよう。
【アメリカ】ニューヨークの治安・危険情報、犯罪の手口や、危険エリア/How Travel.2018
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