この記事は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州南サウスブロンクスの歴史について詳しく紹介しています。ここは長年にわたって貧困や犯罪が問題とされ、不適切な環境や公衆衛生上のリスクが高い地域として知られています。
サウスブロンクスは20世紀初頭から1960年代まで、裕福な層が住む地域でしたが、その後の都市開発政策や産業の衰退によって、貧困や犯罪が蔓延するようになりました。1970年代から1980年代にかけて、ドラッグやギャングの活動拠点となり、暴力事件が多発する危険な地帯としてのイメージが定着しました。
しかし、近年になって、サウスブロンクスにも再生の兆しが現れています。地域の活性化や住民の自己実現のための取り組みが行われ、人々の生活環境が改善されつつあります。
South Bronx
サウスブロンクス
サウスブロンクス(South Bronx)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクス区の南部に位置する地域です。サウスブロンクスは、アメリカの都市部で最も貧困に苦しむ地域のひとつとして知られています。
1960年代と1970年代には、経済の衰退、高失業率、貧困、ギャング活動や麻薬取引が日常的に行われていました。さらに多くの建物が放火されそのまま放置されるなど、荒廃が進んでいました。この時期に、サウスブロンクスは「ゲットー」(貧困層が多く住む都市部の地域)としてのイメージが強まりました。
しかし、1980年代以降、地域の再生が徐々に進み、サウスブロンクスは変わり始めました。政府やコミュニティ団体の取り組みによって、治安の改善や住宅の再建、経済の活性化が進んでいます。現在は、かつての危険なイメージから徐々に脱却しつつあり、多様な文化が共存する地域として成長しています。それでも、問題は完全に解決されたわけではありませんが、改善の道筋が見え始めている状況です。
また、サウスブロンクスは「食の砂漠」という問題も抱えています。これは、住民が近くのスーパーマーケットや食料品店で新鮮で健康的な食品を手に入れることが難しい状況を指します。この地域ではファストフード店やコンビニエンスストアが主流で、低価格で手に入る食品の多くは栄養価が低く、健康に悪影響を与える可能性があります。
ブロンクス区
ブロンクス区(The Bronx)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市にある5つの行政区のうちのひとつで、北アメリカ大陸本土に位置しています。マンハッタン島の北東部にあるため、ブロンクスはマンハッタン、クイーンズ、ブルックリン、そしてスタテンアイランドと隣接しています。この区は、陸地面積が約148.7平方キロメートルで、ニューヨーク市内の他の4つの行政区と比べて中程度の広さを持っています。
ブロンクス区の人口は約130万人強で、さまざまな民族と文化のバックグラウンドを持つ人々が住んでいます。また、この地域はエリアごとに異なる特徴を持ち、住宅地域、商業地域、工業地域、そして緑豊かな公園などが混在しています。ブロンクス区は、ブロンクス動物園やニューヨーク植物園といった観光名所も有しており、観光客にも人気があります。
また、ブロンクスはスポーツの街としても知られており、メジャーリーグベースボール(MLB)のニューヨーク・ヤンキースが本拠地としているヤンキースタジアムがあります
ブロンクスの由来はとあるオランダ人の名前から
ブロンクス区の名前は、1641年にオランダ人入植者ヨナス・ブロンク(またはヨハネス・ブロンク)から来ています。彼はこの地域で最初の入植者のひとりであり、彼の家族はこの地域に土地を所有していました。そのため、この地域は彼の名前を冠して「The Bronx」と呼ばれるようになりました。
ブロンクス区は、他のニューヨーク市の行政区とは異なり、定冠詞の「The」が付いています。これは、地名がブロンク一族から由来しているため、所有格の形で表現されていることを示しています。そのため、「The Broncks」、「The Bronck’s」、「The Broncks’」などの綴り方で表記されることもあります。しかし、現在一般的に使われている表記は、「The Bronx」となっています。
ブロンクス区の南西部のエリア!「サウスブロンクス」
アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクス区の南西部に位置する地域で、それがサウスブロンクスです。
サウスブロンクスの歴史
ニューヨークは、もともとオランダ人によって「ニューアムステルダム」として植民地化され、毛皮貿易の拠点として発展していました。1664年にイギリスが占領し、後のジェームズ2世であるヨーク公にちなんで「ニューヨーク」と改名されました。
ブロンクスの始まりは農業中心のエリア
当時のブロンクスは、ニューヨーク植民地ではなくウエストチェスター郡の一部であり、主に農業が中心となっていました。そして、1775年から1783年にかけてのアメリカ独立戦争が勃発しました。フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンを結ぶ重要な街道であるボストンポストロードがブロンクスを通っており、この地域も戦争の舞台となりました。イギリス軍がニューヨーク市やブロンクスを占領していた間も、アメリカ側のゲリラ戦が続けられていました。
独立戦争が終わると、アメリカは独立国として成立し、ニューヨーク市はその後も急速に発展を遂げ、現在のような世界的な都市へと成長していきました。
The earliest known map of New York—from 1660, while it was still under Dutch rule (it became British in 1664). This is today’s Manhattan Financial District. I’d love to take these residents in a time machine and show them what their quaint village looks like now. pic.twitter.com/qhRtCteFol
— Tim Urban (@waitbutwhy) February 3, 2020
New Amsterdam becomes New York:
— U.S. Embassy Vienna (@usembvienna) September 8, 2019
On September 8, 1664, Dutch Director-General Peter Stuyvesant surrendered to English Colonel Richard Nicolls: https://t.co/dCqgEOZKOj@NYHistory pic.twitter.com/qJWPeHI14d
ニューヨーク・シティの一部に組み込まれる!
19世紀に入ると、ニューヨーク市の技術や経済の発展が加速し、ブロンクスも大きな変化を遂げました。産業革命によって、鉄道や道路網の発展が進み、移民も急増しました。これにより、ブロンクスはニューヨーク市に近い存在となり、次第に都市化が進んでいきました。
当初はウエストチェスター郡の一部であったブロンクスですが、次第にニューヨーク市に統合されるようになりました。ブロンクスの西部は1874年に、東部は1895年にニューヨーク市に編入されました。そして、1898年には、ニューヨーク市は現在の形となる5つの行政区(マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタテンアイランド)に再編され、ブロンクスも正式にニューヨーク市の一部となりました。以降、ブロンクスはニューヨーク市の発展とともに、さまざまな変化を経験してきます、。
地下鉄が開通!ブロンクスへの移住者が急増
19世紀初頭、ニューヨーク市の交通インフラは大きな変革を遂げました。従来の蒸気機関車は次第に電気化された地下鉄に置き換えられました。1904年には、現在の4, 5, 6ラインが開通し、地下鉄の時代が幕を開けました。
地下鉄は、地主や開発業者の要望に応え、マンハッタンからブロンクス区、ブルックリン区、クイーンズ区へと路線網を広げていきました。これにより、都心部から郊外への移住が加速し、サバーバナイゼーション(郊外化)が進行しました。マンハッタンの狭い土地と高い家賃に悩まされた住民たちは、地下鉄を利用して、より広くて安価な郊外へと移り住むようになりました。これにより、ブロンクスや他の郊外地域は人口が増加し、急速に発展を遂げました。
ユダヤ人を中心とした移民の街として急成長
ブロンクスは、地下鉄の接続が整備されることで人口が急増し、多くの移民が住む街となりました。特にユダヤ人移民が多く、彼らはブロンクスの発展に大きく貢献しました。この時期のブロンクスは急速な成長を遂げ、多様な文化が交錯する場所となりました。
1923年にはヤンキースタジアムが建設され、これがブロンクス区にとって大きな転機となりました。ヤンキースタジアムは、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地として知られており、多くの野球ファンが試合を観戦しに訪れます。このスタジアムの建設により、ブロンクスはスポーツやエンターテイメントの重要拠点となり、ニューヨークの文化的な地位をさらに高めました。
Yankee Stadium opens on this day in 1923. Photo from The New York Times archives. http://t.co/nZ1jEvSbkR pic.twitter.com/insQyv9no0
— NYT Archives (@NYTArchives) April 18, 2015
Abraham Manievich’s 1924 painting titled “The Bronx” is reminiscent of abstract and folkloric paintings from his native Russia. During the 1920s, the Bronx became a haven for Jewish artists, musicians, and writers, including Manievich. #NYHistoryHere #MuseumFromHome pic.twitter.com/kvNEorONI5
— New-York Historical Society (@NYHistory) April 1, 2020
経済成長停滞によって一気に治安が悪化
1930年代に入ると、世界恐慌の影響がアメリカ全土に広がり、ニューヨーク市も例外ではありませんでした。経済成長が停滞し、失業率が急上昇しました。この経済的な困難は、ブロンクス区にも大きな影響を与えました。
景気後退により多くの人々が職を失い、貧困が広がりました。これによって、治安の悪化が進んでいきました。また、都市計画やインフラ整備の失敗も、問題の深刻化に拍車をかけました。この時期から、ブロンクスは安全でない地域というイメージが定着し始め、その評判が悪化しました。
中産階級が住む清潔な集合住宅市街地
1940年代までのサウスブロンクスは、中産階級が住む清潔で落ち着いた地域でした。多くの集合住宅が建設され、家族向けのアパートメントが立ち並んでいました。その当時、サウスブロンクスは安全で、様々な人々が共に暮らす地域として知られていました。
「荒廃した地区」と言われた
1950年代以降、都市計画やインフラ整備の失敗、さらに経済的な困難や人種間の緊張が高まる中で、サウスブロンクスの状況は悪化し始めました。中産階級の住民たちは次第に他の地域へと移り住み、残された貧困層の人々は経済的な困難に苦しんでいました。これが、治安の悪化や犯罪の増加につながり、サウスブロンクスは「荒廃した地区」というイメージが定着していくことになります。
都市開発によってブロンクスのコミュニティが崩壊
クロスブロンクス・エクスプレスウェイは、ブロンクスの衰退に大きく寄与した要因の一つです。
この高速道路は、ニューヨーク市の都市計画家ロバート・モーゼスによって提案され、1950年代から建設が始まりました。クロスブロンクス・エクスプレスウェイは、ニュージャージー州からクイーンズ区を結ぶ目的で設計されていましたが、この高速道路建設により、労働者階級の人々が住むコミュニティが切り裂ることになった。
当時、アイルランド系、ユダヤ系、イタリア系、ドイツ系など、さまざまな民族の人々がブロンクスのコミュニティを形成していました。なんと、彼らは強制的に移住させられてしまったのです。
この影響は、地域の経済や社会に大きな打撃を与え、治安の悪化や貧困の拡大につながりました。また、人口流出や過密化が進む中で、住宅ストックの質が低下し、サウスブロンクスの衰退がさらに進んだとされています。このような状況が、サウスブロンクスが「荒廃した地区」というイメージを持つ原因となりました。
低所得者の有色人種の人たちが「プロジェクト(団地)」にぶちこまれる
多くの低所得者や有色人種の人々は、低所得者向けの高層アパートである「プロジェクト」に移り住むことになりました。このような公共団地は、もともと労働者階級の人々のために作られたものでしたが、ニューヨーク市の工場の撤退や労働者階級の消滅とともに、住民の構成が変化しました。
ニューヨーク市は高学歴のホワイトカラーと低学歴のブルーカラーに二極分化し、公共団地に残ったのは主に貧しい黒人やカリブ海の島々からの移民であるヒスパニックとなりました。これが、地域の犯罪率の上昇につながりました。
何が行われているかわからない…。犯罪の温床に
スラム地域では、道路で人々が集まり、相互監視機能が働いていましたが、高層マンションやプロジェクトでは、このような機能が失われました。それにより、犯罪に対する抑止力が減少し、犯罪が蔓延する環境が生まれました。
このような要因が重なり、ブロンクスやサウスブロンクス地域は衰退し、治安が悪化する過程になりました。
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サウス・ブロンクスを荒廃させた犯人!?「ロバート・モーゼス 」
ロバート・モーゼスは、ニューヨーク市の都市計画において大きな影響力を持っていました。彼はスラムの撤去と都市の近代化を目指し、ニューヨークをモダンな都市に変えることを目標に活動しました。第二次世界大戦後の1950年代には、モーゼスらがスラムを潰し、郊外に集合住宅を建設し、高速道路をつくることで都市圏を拡大させる計画を進めました。
しかし、モーゼスの都市計画は、その後のサウスブロンクスなどの地域の衰退や治安の悪化につながることになりました。彼がスラム対策委員長としてスラムを撤去し、公営高層アパートを建設したことは、地域のつながりを破壊し、逆にスラムの拡散を引き起こしたという批判が高まりました。
1968年には、リンゼイ市長によってモーゼスの権力が剥奪され、「ニューヨークの造成者」としての地位から降りることになりました。ヒップホップの歴史を扱った文献にも彼の名前が登場し、1970年代のサウスブロンクスの惨状を生み出した主要な人物として言及されています。
Robert Moses, Andrew Cuomo and the saga of the Sheridan Expressway in the Bronx. https://t.co/4KtnOjJ4ee pic.twitter.com/G29eoc4fv0
— NYT Metro (@NYTMetro) March 21, 2017
主要高速道路が開通し住民が移動が加速…。地域の格差が広がる
1960年代にクロスブロンクス高速道路などの主要な高速道路が開通しことで、サウスブロンクスの住民の移動が加速し、地域の貧困と衰退が進行しました。
超絶危険地帯!特定警戒地域に指定され白人層が脱出
当時の市の経済状況も悪化の一因であり、民間資本が引き上げられる現象が起こりました。銀行はサウスブロンクス周辺を特定警戒地域として指定し、新たな投資を停止しました。この影響は地域に大きな打撃を与えました。
サウスブロンクスでは、裕福になった白人層(主にユダヤ系)が徐々に北の郊外へ移住し始め、ヒスパニックや黒人の人口が増加しました。これにより、地域の経済格差が拡大し、貧困や治安の悪化につながりました。サウスブロンクスは、このような経済的・社会的変化の影響を受け、一度は栄えた地域から荒廃した地区へと変わってしまいました。
最貧困層が集まるスラム街ではギャングが闊歩
1970年代のニューヨーク市は深刻な経済危機に直面しており、貧富の差が拡大しました。この格差は人種的な区別と密接に関連しており、特にサウスブロンクス地区では顕著でした。
市内の黒人やヒスパニック系住民がこの地区に追いやられ、スラム街が形成されました。この地域では最貧困層が集まり、ギャングの暴力が横行しました。
廃墟となったビルが増加し、土地は荒れ果てました。ニューヨーク市ブロンクス区のサウスブロンクス地区は、全国的にも貧困地域として知られていました。1970年代初期には、地元の41分署で毎年120件から130件の殺人事件が発生していました。このような状況がサウスブロンクス地区の治安の悪化に拍車をかけ、地域全体が苦境に立たされました。
Beginning in the 1950s through the early 80s, the Bronx started to decline. Scores of buildings were abandoned, with many burned down, and crime was rampant. Its population was essentially flat from 1950-1970 and fell sharply in the 1970s and early 1980s. #BronxRegionalVisit pic.twitter.com/7FBKjv4SWo
— New York Fed (@NewYorkFed) November 19, 2018
その街はまるで戦後の焼け野原!
アパートの大家たちは家賃を払えない住人を次々に追い出し、火災保険金を受け取るために人を雇って放火させるような行為に及びました。
その結果、サウスブロンクスでは毎晩数件もの火事が起こり、地域全体が破壊されました。「ブロンクスは燃えている」というキャッチフレーズが生まれたのも、このような状況が背景にあったからです。
1970年から1975年にかけて、サウスブロンクスでは68,456件の火事が発生したとされており、これは一晩に33件以上にも及ぶ火災です(In The South Bronx of America/Mel Rosenthal)。そのため、夜の一人歩きなどは非常に危険で、避けられるべき状況でした。
サウスブロンクス地区の戦後の焼け野原のような景観は、当時のレーガン大統領も言葉を失うほどの衝撃でした。このような状況が長年にわたって地域の衰退と治安悪化につながり、多くの人々にとって忘れられない記憶となっています。
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「ニューヨーク大停電」略奪行為はサウスブロンクスのシンボル
1977年のニューヨーク大停電は、サウスブロンクスを象徴的な場所にする出来事でした。この大停電の際、略奪行為が多発し、ほとんどが貧困地域に集中していました。1965年に起こった停電に比べても、1977年の停電時の状況ははるかに悪化しており、ニューヨーク市民の絶望感と挫折感が露呈しました。
この時期は、公民権運動の高まりから人種的な混乱が最も顕著だった1960年代を経て、社会的な不安が一層深まっていた時期でした。サウスブロンクスは、こうした背景からさらに厳しい状況に置かれ、その象徴的な場所となったのです。The New York Timesなどの報道も、この地域の状況を広く伝えることで、サウスブロンクスの印象を定着させました。
犯罪防止NPO団体「ガーディアン・エンジェルス」誕生
1979年にサウスブロンクスで誕生したガーディアン・エンジェルスは、カーティス・スリワをはじめとする12人の若者たちによって立ち上げられました。彼らは、当時ニューヨークで犯罪が多発していた地域の安全を守るために活動を開始しました。
ガーディアン・エンジェルスのモットーは “Dare to Care”(気にかける勇気を持とう)で、危険であった地下鉄のパトロールやストリートで発生する様々な犯罪の防止に取り組みました。彼らはまた、銃器による犯罪や麻薬撲滅のための活動を行い、市民から信頼される存在となりました。
ガーディアン・エンジェルスの活動は、ニューヨーク市内だけでなく、全米や世界各地に広がりました。彼らは無償で活動し、地域社会の安全と秩序の維持に尽力しています。その姿勢は、市民から高い評価を受けており、ガーディアン・エンジェルスは今も活動を続けています。
クラック(麻薬)の大流行……。壊滅状態の街では凶悪犯罪が多発
1980年代には、クラックと呼ばれる粗悪な麻薬が大流行し、貧困が深刻化していたサウスブロンクスをさらに壊滅状態に追いやりました。空家になった住宅は不法占拠され、スラム化が進行し、治安は一層悪化しました。麻薬取引、売春、麻薬取引に関連した殺人事件が毎日発生するような状況となりました。
皆が逃げ出す中で地域再生のために戦う住民の姿
1970年の人口統計では、93,900人がサウスブロンクスに住んでいましたが、治安の悪化により、1980年には32,000人まで人口が減少し、約2/3の住民が逃げ出してしまいました。
しかし、残った地域住民の中には、地域再生のために組織化し、生き延びるための戦いと、破壊された近隣の再構築に取り組む有志がいました。彼らは団結し、サウスブロンクスの復興に努力を注いだのです。
必死の取り組みによって治安が急上昇!
1993年には、サウスブロンクスでは市役所や民間団体の支援を受けて、地域住民が積極的に住環境改善に取り組んでいました。その結果、犯罪件数が減少し、かつて最も危険とされた地域の治安が改善されていったのです。
1981年に上映された映画「アパッチ砦ブロンクス」では、当時のサウスブロンクスの劣悪な状況がフィクションとして描かれていました。しかし、1993年の時点では、地区の環境は大幅に改善されており、1981年の映画で描かれたような状況ではなくなっていました。
サウスブロンクスの再生は、地域住民の努力や市役所や民間団体の支援によって実現され、徐々に街の風景も変わっていったのです。これにより、サウスブロンクスはかつての危険なイメージから徐々に脱却し、より安全で住みやすい地域へと変貌を遂げていくことになります。
Paul Newman in the South Bronx on the set of the movie “Fort Apache, The Bronx” on this date March 7 in 1980. Photo by G. Paul Burnett. #OTD ?️ pic.twitter.com/e32vA9vZNd
— Dr. Jeffrey Guterman (@JeffreyGuterman) March 7, 2021
今、昔よりも治安は改善されつつあるが…。
ブロンクス区は、マンハッタンの北に位置するニューヨーク市の5つの区のうちの1つです。1970年代には、サウスブロンクス地区が荒廃し、犯罪率が急上昇し、全米でも最も危険な地域の一つとされていました。
しかし、マンハッタンの地価の高騰により、住む場所を求めて移住してくる人々が増え、地域の雰囲気は変わりつつあります。ブロンクス区には、ヤンキースタジアムやブロンクス・ズーなどの観光名所もあります。
このように、現在では、サウスブロンクスの治安はかなり改善されており、かつての悪名高いイメージは払拭されつつあります。
ただし、ハンツ・ポイント地区など一部地域では、売春や麻薬の密売が根強く残っています。このような場所には、無闇に近づかないよう注意が必要です。
【世界のスラム街】ゲットーの若者たちが見つけた、新しい表現と文化的アイデンティティ!ヒップホップ誕生《サウスブロンクス Part 2》