
“マクドナルド兄弟”から“マクドナルド”を奪った!?世界を制圧した伝説の実業家「レイ・クロック」
McDonald’s History
マクドナルドの歴史

マクドナルド(McDonald’s)は、アメリカ合衆国に本社を構える、世界的に有名なハンバーガーチェーン店です。アメリカ以外にも世界各国に進出しており、世界中にあるマクドナルドの店舗数は4万店にも上ります。
世界中で愛されるマクドナルド!幅広く愛される魅力に迫る/FRANCHISE フランチャイズWEBリポート.2022
日本では、1971年に日本マクドナルドを設立し、フランチャイズはその5年後の1976年に沖縄県でスタート。約半世紀にわたる歴史と実績があります。
【公式】マクドナルドのビジネス | フランチャイズオーナー募集/マクドナルド公式サイト | マクドナルド公式
マクドナルドの創業者!?「レイモンド・クロック」
マクドナルド創業者はレイ・クロックと言われている(後略)
マクドナルド世界最古の店に見るレイ・クロックの経営哲学/中園徹経営ブログ 利益のピラミッド経営法.2017
正式にはレイモンド・アルバート・クロックという。
第229回 「未熟なうちは成長する。成熟すれば、あとは衰えるだけだ。」マクドナルド 創業者 レイ・クロック/経営プロ.2017
世界中の実業家に影響を与えている人物
1902年生まれのクロックは84年に他界しているが、77年に自伝となる著書『GRINDING IT OUT』を上梓。その時点で「マクドナルド」は米国やカナダに4000店を展開していた。ちなみに同書は『成功はゴミ箱の中に』(プレジデント社)と改題、日本でも発売され、シリーズ累計17万部を突破するベストセラーとなった。
マック、門外不出の「誕生の秘密」を暴露…マック「非公認」映画公開が波紋/Business Journal.2017
紙コップのセールスマン、ピアノ弾きのアルバイト、ミキサーのセールスから一転、10億ドル規模の巨大企業を築いたアメリカン・ドリームの象徴であり、ファーストリテイリングの柳井正氏やソフトバンクの孫正義氏が影響を受けた人物としても知られている。柳井氏、孫氏ともに、愛読書にレイ・クロックの自伝を挙げている。
成功者レイ・クロックは本当にヒーローなのか/Forbes JAPAN.2017
「Be daring, Be first, Be different(勇気を持ち、誰よりも最初に、人と違うことをする)」
成功者レイ・クロックは本当にヒーローなのか/Forbes JAPAN.2017
これは柳井氏がビジネスの手本としているクロックの言葉だ。このほかにも、いまなおカリスマ経営者たちが憧れる“創業者の祖”の言葉には、成功の哲学が詰まっている。
成功者レイ・クロックは本当にヒーローなのか/Forbes JAPAN.2017
プライベートでは3度結婚
「マクドナルドの神話」を生んだマクドナルドの創業者、レイ・クロックは、事業が跳躍するたびに妻を変えた。典型的な金髪美女の3度目の妻、ジョアンは人妻だったが、クロックは巨額の慰謝料を払って妻と離婚し、ジョアンも離婚させた後、結婚した。
[オピニオン]成功したCEOの働く妻/東亜日報.2012
マクドナルドの真の創業者「マクドナルド兄弟」
正確に言えばクロックは、「マクドナルド」自体の“創業者”ではない。「マクドナルド」のフランチャイズチェーン化を成功させた意味での“創業者”なのである。
「マクドナルド」“創業者”のホントのところ!? 『ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密』/洋画専門チャンネル ザ・シネマ.2019
では真の“創業者”は? “ファストフード”の命とも言える、“スピード・サービス・システム”やコストをカットしながらもクオリティを保つという革新的なコンセプトを生み出した者は、一体誰だったのか?
「マクドナルド」“創業者”のホントのところ!? 『ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密』/洋画専門チャンネル ザ・シネマ.2019
そこまでの疑問は、レイ・クロックの有名な自伝「成功はゴミ箱の中に」を読むだけでも、すぐに解ける。それは、カリフォルニア州のサンバーナーディーノに、自分たちの姓を冠したハンバーガーショップを開いていた、マックとディックの“マクドナルド兄弟”なのである。
「マクドナルド」“創業者”のホントのところ!? 『ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密』/洋画専門チャンネル ザ・シネマ.2019
始まりは映画ビジネス
マクドナルドの生みの親であるマクドナルド兄弟は、ニューハンプシャー州マンチェスターからカリフォルニアに移住してきた人物です。父親が42年間勤めた会社から簡単に解雇されてしまったのを目の当たりにしたことから、2人はその後の運命を人任せにせず、自分たちでコントロールするための方法を考えるようになったといいます。まず、兄のモーリス”マック”がカリフォルニアに移り、その後に弟のリチャード”ディック”が兄を追って1926年にカリフォルニアに移住しました。新天地でビジネスを始めることになった2人が当初描いていた構想は、当時人気を集めていた映画ビジネスに携わり、成功を収めて50歳になるまでにひと財産を築き上げるというものだったそうです。
世界最大のハンバーガーチェーン「マクドナルド」にもあったスタートアップの時代/Gigazine.2016
2人は映画制作の仕事に就くことになりましたが、得られた職はいずれもマイナーな職種ばかりで、収入もとても満足できるものではなかったとのこと。目的を達成できなさそうなことに気づいた2人は、同じ「映画関連」のビジネスの中でも、映画を作る側から、劇場を経営して「見せる側」へと路線を変更することになります。2人は、ロサンゼルスから約30km離れた「グレンドラ」という地域にある映画館を買収し、ニュース映画と2本立て映画の上映を始めました。そしてこの時、観客が食べ物を持ち込むことを防ぐために、劇場ロビーにスナックバーを設けたことが、その後の兄弟の流れを形づくる特徴的な出来事だったといえます。
世界最大のハンバーガーチェーン「マクドナルド」にもあったスタートアップの時代/Gigazine.2016
映画館を売却してフードビジネスを開始!
このようにして映画館ビジネスに参入した2人でしたが、順調かに見えた映画館ビジネスも実際には経営は楽ではなく、常に資金繰りに奔走するような状況だった模様。ついに映画館買収から7年後の1937年、マクドナルド兄弟は映画館を売却して、エンターテインメント業界からフードビジネスへと舵を切ることになりました
世界最大のハンバーガーチェーン「マクドナルド」にもあったスタートアップの時代/Gigazine.2016
最初のマクドナルド兄弟の店「マクドナルド・バーベキュー」
(前略)1940年5月15日、ディック・マクドナルド(Dick McDonald)氏とモーリス・「マック」・マクドナルド(Maurice “Mac” McDonald)氏の兄弟が、カリフォルニア州サンバーナーディーノ(San Bernardino)に小さなハンバーガー店「マクドナルド・バーベキュー(McDonald’s Bar-B-Q)」をオープンしたのだ。
世界最大のファストフード・チェーン「マクドナルド」はこうして生まれた/Business Insider Japan.2017
この場所は数々の映画や本に登場するイリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結ぶルート66が通る場所でもあります
LA郊外にある「マクドナルド」の元祖というべきオリジナル店へ/トラベルjp
Dhaba Owners from San Bernardino, Amrika
— Jayess (@Sootradhar) June 12, 2018
Richard & Maurice McDonald pic.twitter.com/GI4KUVZqTX
自動車の普及とドライブスルー
(前略)創業されたマクドナルドは、当初ドライブインレストランとして運営されていた。背景にあるのは、1920年代のアメリカにおける自動車の普及と、それにともなうモータリゼーションの進行だ。30年に前身店舗がオープンしたKFCもまた、当時はガソリンスタンドに併設されたカフェレストランだった。外食文化の発展と切り離せない“交通革命”は、世界有数のファストフードチェーンの誕生にも影響を与えていたことになる。
米国での誕生と発展。外食産業の夜明けとともに進み始めた、国内ファストフードの歴史/Showcase Gig.2021
Maurice McDonald, born this day in 1902, co-founded the original McDonald’s restaurant in San Bernardino, California. https://t.co/vaNO5q1Zaq
— Smithsonian Magazine (@SmithsonianMag) November 26, 2018
販売メニューをホットドッグからハンバーガー店に変更!
マクドナルド兄弟が経営していた最初のマクドナルド・バーベキュー(McDonald’s Bar-B-Q)はメニューが多く、ホットドッグが有名だった。しかし1948年、マクドナルド兄弟はハンバーガーレストランにコンセプトを変更し、ハンバーガー、チーズバーガー、ソフトドリンク、ミルク、コーヒー、ポテトチップス、カットしたパイなどの9品目にメニューを絞った。
ビッグマックの名付け親は? 1秒間に何個売れる? 最初はハンバーガーの店じゃなかった?…マクドナルドの8つの事実/Business Insider Japan.2022
フライドポテト・ミルクセーキの販売を開始
1949年には、ポテトチップスをフライドポテトに変え、ミルクセーキの販売を開始した。
ビッグマックの名付け親は? 1秒間に何個売れる? 最初はハンバーガーの店じゃなかった?…マクドナルドの8つの事実/Business Insider Japan.2022
自動車生産ラインの仕組みを採用!低価格でスピード提供が可能に!
(前略)運営システムには、兄弟が考案した合理的な方法――“Speedee Service System”が採用された。これは、自動車の製造における生産ラインの仕組みをファストフードへと適応させたシステムで、同店舗では、各スタッフが自身に割り振られた特定の調理工程のみを担当したほか、メニューの多くが、スムーズに提供できるよう事前に組み立てられていた。当時のハンバーガーの価格は15セント。マクドナルドは、ハンバーガーショップとして歴史をスタートさせた時点から、スピード提供と低価格を両立していた。
米国での誕生と発展。外食産業の夜明けとともに進み始めた、国内ファストフードの歴史/Showcase Gig.2021
これに目をつけたのが「レイ・クロック」
このようにして、ハンバーガー製造のシステム化に成功したマクドナルド兄弟には多くの注目が寄せられ、全米からその秘密を教えて欲しいという依頼が殺到します。そんな中、マクドナルド兄弟が出会ったのが、後世に名を残すマクドナルドの成功の立役者、レイ・クロック氏その人です。
米国での誕生と発展。外食産業の夜明けとともに進み始めた、国内ファストフードの歴史/Showcase Gig.2021
クロックと大揉め!マクドナルド兄弟はマクドナルドを手放すことに…。
マクドナルド創業者はレイ・クロックと言われているが、ファストフードの原型を作り上げたのはマクドナルド兄弟である。その後、フランチャイズ経営権を巡ってクロックとマクドナルド兄弟は激しい争いとなり、結果的に勝ったのはクロックだった。
マクドナルド世界最古の店に見るレイ・クロックの経営哲学/中園徹経営ブログ 利益のピラミッド経営法.2017
Raymond Albert Kroc
マクドナルドを乗っ取った男「レイ・クロック」
レイ・クロック氏は1902年、父ルイス、母ローズの長男としてイリノイ州シカゴの西のはずれ、オークパークで生まれています。
才能でも教育でもない、マクドナルド帝国を作った男が「これだけが全能」と語る2つの要素/ビジネス+IT.2022
子供の頃から仕事が大好き!
父親は中学を中退したため、クロック氏を何としても高校まで進ませるつもりでしたが、読書が嫌いで、本が退屈なものに思えたというクロック氏は「仕事があれば何でもやってみた」(『成功はゴミ箱の中に』p33)というほど働くのが好きな少年でした。
才能でも教育でもない、マクドナルド帝国を作った男が「これだけが全能」と語る2つの要素/ビジネス+IT.2022
父親の希望通り高校に進んだものの、レモネードスタンドのアイデアを思いつくと、すぐに実行に移して、レモネードを大量に売っていますし、2人の友人とそれぞれ100ドルを出資してミュージックストアを開き、楽譜や小さな楽器を販売するなど、学校よりも仕事が大好きでした。
才能でも教育でもない、マクドナルド帝国を作った男が「これだけが全能」と語る2つの要素/ビジネス+IT.2022
年齢詐称して戦争に志願!訓練期間中に大戦が終了
15歳のとき、赤十字の救急車の運転手として第1次世界大戦に加わろうとし、そのために年齢を偽った。ところがヨーロッパ行きどころか、行ったところはコネティカット州どまりだった。大戦が終結したときはまだ訓練が終わっていなかった。
レイ・クロック[マクドナルド創業者]/ダイヤモンド・オンライン.2008
宿舎で“ウォルト・ディズニー”と出会う
とはいえ、若いクロックはその他の仲間達と共に休みの日になると、宿舎をはなれて町へでかけると女の子を追い掛け回す生活をします。
マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー 糖尿病の52歳で起業!/STEAM English Academy
そんな中、宿舎に留まってずっと部屋で絵を描いていたのでクロックや皆から変人扱いをされている人物がいました。
マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー 糖尿病の52歳で起業!/STEAM English Academy
「みんなが女の子を追い回している間、あいつは絵を描いてばかりいた」(『アメリカン・ドリームの軌跡』p325)と当時を振り返っています。
才能でも教育でもない、マクドナルド帝国を作った男が「これだけが全能」と語る2つの要素/ビジネス+IT.2022
彼の名はウォルト・ディズニーといいましたが、誰も彼がのちに偉大となるとはしりませんでした。
マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー 糖尿病の52歳で起業!/STEAM English Academy
Walt Disney, circa 1955. pic.twitter.com/fhQmcbPC1G
— Hollywood Golden Age of Cinema (@HGACinema) February 11, 2023
戦争が終わり様々な仕事につきながら生活
戦争のあてがはずれ、クロックは仕事を探した。食べるためにピアノ弾きのアルバイトをしたこともある。1922年、リリーチューリップカップ社の紙コップを販売する仕事につく。クロックは販売に長けており、ビジネスに対する目も確かだった。
レイ・クロック[マクドナルド創業者]/ダイヤモンド・オンライン.2008
20歳になると紙コップ販売のセールスマンとなってそんな生活の中でもやがて結婚をします
マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー 糖尿病の52歳で起業!/STEAM English Academy
“ミルク・シェイク”製造機を売る営業マンを52歳まで続ける
あるとき顧客の1人でプリンス・マルチミキサーズ社のオーナー、アール・プリンスから本人が発明した5軸式のミキサーを見せられ、クロックは勤め先を変える。そのミキサーをアメリカ全土で販売できるという契約を結び、それ以後の17年間、まさにこの仕事に専念した。つまり、52歳になるまでクロックが取り組んだ仕事の大部分はミキサーの販売だった。
レイ・クロック[マクドナルド創業者]/ダイヤモンド・オンライン.2008
彼が売っていたマルチミキサーは、ミルクシェイクを同時にいくつも作ることができる最新式のものだった。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
老後の蓄えの心配もなくなり、その年代の男性と同じように、引退を考え始めていた。そこに、1954年運命の日がやって来る。
レイ・クロック[マクドナルド創業者]/ダイヤモンド・オンライン.2008
はじまりは仕事で行った“マクドナル兄弟”が経営するバーガー店
1954年、彼が経営するミキサー販売会社に「カリフォルニア州サンバーナディーノ市で、マクドナルド兄弟が使っているのと同じミキサーを売ってくれ」という電話がかかってきました。マクドナルド兄弟はハンバーガーショップを経営し、8台のマルチミキサーを使って儲けているそうです。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
好奇心を抱いたクロックは、自分の目で確かめようと、兄弟の店を訪れます。これには、別の伝説があります。マクドナルド兄弟がマルチミキサー8台を注文してきた、というものです。どちらが真実かはともかく、クロックは兄弟のハンバーガーショップを訪れます。実際に、店内では8台のマルチミキサーが稼働していました。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
ミキサーを売るのでは!?なんと開店前から視察!自ら行列に並ぶ
そこでクロックがとった行動が面白い。
レイ・クロック マクドナルドを創った男が徹底したこと/日経BOOKプラス.2023
マクドナルド兄弟の店は11時開店だった。クロックは車をとばして10時頃には到着し、しばらく店の外観を観察する。とくに別に目立った特徴はない。開店時間が近づいてくると、車をおりて、スタッフの働く姿を観察する。全員、パリッと糊のきいた白いシャツとズボンに、紙製の帽子をかぶって、清潔ないでたち。彼らが建物の裏の倉庫から、材料や備品やらを運び出して、仕込みを始める。どんどん働くピッチが上がっていく。そうこうしているうちに車がひっきりなしにやってきて、客の行列ができ、次々にハンバーガーを買って、車に戻ってく。
『成功はゴミ箱の中に』(1)/PRESIDENT Online/2012
クロックも自ら列の最後尾に加わる。行列の前にいる男になんでこんなに人気なのかとたずねると、「15セントにしては最高のハンバーガーが食えるのさ。待たされてイライラすることもないし、チップをねだるウェイトレスもない」という答え。その後クロックはまた列から離れて裏手に回る。そこでハンバーガーに噛りついている客に、週に何回ぐらい来ているのか、ここのハンバーガーの何がいいのか、いちいち聞いて回る。そうしながらも目はいそがしくあたりを見回していて、暑い日なのに全然ハエが見当たらないとか、駐車場にもゴミ一つ落ちてないとか、細かいところもチェックしている。とにかく落ち着きがないおっさんである。自分の足で動き、自分の眼で見て、自分の手で触って理解しようとする
『成功はゴミ箱の中に』(1)/PRESIDENT Online/2012
マクドナルド兄弟のビジネスモデルの感動
客がひける午後2時30分ごろに改めて店を訪れ、マクドナルド兄弟に自己紹介をします。2人をディナーに誘い、根掘り葉掘り聞き出します。
レイ・クロック マクドナルドを創った男が徹底したこと/日経BOOKプラス.2023
注文からたった30秒でハンバーガー
ドリンク類が紙コップで提供されるばかりか、15セントのハンバーガーや10セントのフライドポテトも紙に包んで提供するため、通常のレストランに備えてある食器洗浄機もありません。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
店はセルフサービスのカウンター方式で、ウェイターやウェイトレスは不要だった。ハンバーガーはあらかじめ調理し、紙でラッピングしてからヒートランプで保温しているため、客はあっという間に注文した商品を受け取ることができた。
ビッグマックの名付け親は? 1秒間に何個売れる? 最初はハンバーガーの店じゃなかった?…マクドナルドの8つの事実/Business Insider Japan.2022
マクドナルド兄弟のハンバーガーショップは、無駄のない効率的な店舗運営がなされていたのです。クロックは魅了されました。さらに、パテを焼く者、バンズを挟んで包む者といった具合に分業化体制を整えられ、客が注文してからハンバーガーが出されるまで30秒以内を実現しています。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
たった一日でビジネスプランが完成
実にシンプルで効果的なビジネスモデルだと感動する。
『成功はゴミ箱の中に』(1)/PRESIDENT Online/2012
これはいける! カリフォルニア州の田舎都市だけで終わらせるのは惜しい!
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
その日クロックはモーテルに泊まるのだが、翌朝、起きたときにはもうマクドナルドを大きく展開する具体的なプランが出来上がっていた。
『成功はゴミ箱の中に』(1)/PRESIDENT Online/2012
抜群のビジネスセンス
このエピソードのポイントは、そもそも新しい商売を始める計画があって視察に行ったのではなかったということだ。マクドナルド兄弟の店に行ったのは、あくまでもマルチミキサーの営業のためだった。店の評判を聞いて、マルチミキサーの商売相手としてよいのではないかと見込んでとりあえず見に行っただけなのである。そこで頼まれもしないのに観察力、取材力、企画力をばりばり発揮して、一人で勝手に大興奮している。
『成功はゴミ箱の中に』(1)/PRESIDENT Online/2012
商売勘が抜群である。マクドナルド兄弟の店の観察で、クロックは即座にフライドポテトに注目している。フライドポテトはハンバーガーのつけあわせと考えられていた。しかし、マクドナルドの評判のカギはプライドポテトにあると、クロックは見抜いていた。すぐにピンときて、マクドナルド兄弟に「あなたがたはポテトにこだわっていますね」と水を向ける。
『成功はゴミ箱の中に』(1)/PRESIDENT Online/2012
マクドナルド兄弟にしてみれば、我が意を得たりという言葉でした。実際、2人はフライドポテトにはあふれんばかりの情熱をそそぎ、アイダホ産の最高級ポテトを使って、専用の油で揚げていました。クロックは本職でもないのに、そういう商売全体のキモの部分に直観的に目が行ってしまう人でした。
レイ・クロック マクドナルドを創った男が徹底したこと/日経BOOKプラス.2023
「ぜひ!チェーン展開を!』マクドナルド兄弟と契約
クロックは兄弟に、チェーン展開をしないかと持ちかけます。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
「全てのリスクをは私が取って、マクドナルドの店は私が作るから利益しかない。」と兄弟に一切のリスクがなく儲かることを説明した結果、漸く兄弟は納得したのでした。
マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー 糖尿病の52歳で起業!/STEAM English Academy
加盟料950ドルと1.9%の利益(0.5%がマクドナルド兄弟)
最初は,マクドナルド兄弟が中心となって全国にフランチャイズを作っていき,クロックは販売しているマルチ・ミキサーを店舗の拡大にあわせて売っていく,という考え方だった。しかし,全国へのフランチャイズ展開のための代理人が決まっておらず,結局クロックは自らが全国フランチャイズの代理人となることを決意した。そしてクロックはマクドナルド兄弟と,全米への展開を前提として,全米にマクドナルドの名前を冠した店舗を販売する権利と,その生産の仕組みなどのノウハウ部分を提供してもらう契約をおこなった。この時に,フランチャイズ権の販売に関してマクドナルド兄弟から条件が出て,それが加盟料950ドルと1.9%のロイヤリティ,うち1.4%がクロック,0.5%がマクドナルド兄弟というものだった。
ホスピタリティ産業におけるアントレプレナーの様相 ――マクドナルドの起業家を事例に――(p.71)/小沢 道紀.第44巻第2号立命館経営学.2005
52歳のクロックはマクドナルドを広げることに尽力
この時、クロックは糖尿病を患い、なんと52歳という年齢でした。
マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー 糖尿病の52歳で起業!/STEAM English Academy
クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、近々できるディズニーランドの中にマクドナルドの食堂を入れるよう、ウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。
ルート66マクドナルド1号店/ルート66
この試みは失敗したが、クロックはイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、即大成功と成る。
ルート66マクドナルド1号店/ルート66
1955年3月2日、新しい会社マクドナルドシステム会社を作り、1955年4月15日にクロックがフランチャイズ1号店をシカゴにオープンさせた。
ルート66マクドナルド1号店/ルート66
ちなみに1号店は、現在では記念館として限定日に一般公開されています。
誰もが知っている「マクドナルド」!「マクドナルド」の歴史がファーストフードの歴史?/クックドア
マクドナルド兄弟の裏切り!?勝手に第三者にフランチャイズ権を販売
ところが、マクドナルド兄弟の裏切りに遭います。兄弟はクロック以外の人物にフランチャイズ権を5000ドルで売ってしまったのです。寝耳に水のことで、もちろんクロックは猛然と抗議をしました。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
しかし、致命的なことに正式な契約書を交わしておらず、兄弟とは口約束だったのです。クロックはフランチャイズ権を取り戻すために、5倍の2万5000ドルを用立てなければなりませんでした。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
あくまで兄弟の店!デザインや運営を自由に決めれない
また「絶対いける!」と思ったハンバーガー事業も、あっという間に暗礁に乗り上げました。出店した1号店の売り上げだけではどうにもならず、クロックは借金を抱え、営々と築いてきたミキサー販売会社の利益を補填せざるを得ませんでした。新規事業は、巨大なお荷物になったのです。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
それでもめげるクロックではありません。彼はしゃにむに働きます。毎日、誰よりも早く店に出て材料の発注、厨房の準備、トイレ掃除までもこなし、夜まで働き詰めに働きました。それだけではなく、夜にはミキサー販売会社の仕事もしたのです。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
その間、マクドナルド兄弟の要求は容赦ありませんでした。クロックは、店内のデザイン変更といった店舗運営に関わる重要な案件はもとより、ジャガイモの保存場所といった小さなことまで承認を得るために書面にし、速達書留で送らなければなりませんでした。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
もっとも、クロックも口約束には懲りていましたから、書面で承認を得ました。寝る暇もなく、憑かれたように働いた甲斐があって、翌1956年には11号店にまで店舗を広げられました。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
シェイクを保存するための電気代を節約!クロックが勝手に粉状に変更
クロックのマーケティング戦略は子供向けの店舗にすることで家族連れの客層を増やすこと。その戦略は成功し、フランチャイズのオーナーも満足です。ところが、売上増なのに採算は悪化。その原因はシェイクにありました。シェイクの材料であるアイスクリームを貯蔵する冷凍庫の電力費が原因です。
レイ・クロック成功のヒミツを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』は起業家必見!/ブランシュシュ.2017
すると、フランチャイズ店オーナーの奥さんが、「粉末のシェイクを使えばアイスクリームは要らなくなるわよ」と粉末をグラスに入れ、クロックに差し出します。試飲してみると「うん、おいしい」。早速マクドナルド兄弟に粉末シェイクを提案。品質第一ですから当然「そんなまがい物、使用を認めん!」と却下。
レイ・クロック成功のヒミツを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』は起業家必見!/ブランシュシュ.2017
マクドナルド兄弟の兄が心臓発作で入院
クロックはフランチャイズの採算を回復させなければなりませんから、兄弟の言うことを無視するようになってきます。クロックは「粉末だとコスパがいい」と、フランチャイズ店に粉末を配ってしまいます。「契約なんて破るためにあるのさ」と言い放つクロックに、兄マックは心臓発作で入院。
レイ・クロック成功のヒミツを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』は起業家必見!/ブランシュシュ.2017
契約に問題が!?売り上げが伸びてもクロックの借金が増える
しかし、これほど猛烈に働いても、クロックはほとんど利益を得ていませんでした。店舗が増えて売り上げは伸びても、働き損となっていたのです。原因は契約形態にありました。
人生!逆転図鑑山あり谷ありの32人に学ぶ成功の法則(p.263)/早見俊.秀和システム.2020
本来の契約では、クロックが総販売額の1.9%を、マクドナルド兄弟は0.5%を受け取るというものだったのだが、実際の分配はそうなっていなかったのだ。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
クロックは契約の際に、新店舗のオーナーから認可料として950ドルを受け取り、店舗が運営された後は売り上げの1.9%の支払いを受けるという契約を交わしていました。ところが、店舗が運営されるまでには、様々な準備に日数を要します。
人生!逆転図鑑山あり谷ありの32人に学ぶ成功の法則(p.263)/早見俊.秀和システム.2020
この間、1.9%の売り上げはクロックに入らず、彼は950ドルに手をつけざるを得なくなります。つまり、働けば働くほど、赤字を背負うことになったのです。それでは店舗を広げないほうがいいということになり、チェーン展開は挫折します。客単価の安いマクドナルドのハンバーガー事業は、チェーン展開してこそうまみがあるのです。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
また、マクドナルド兄弟がおこなった合理的な店舗運営は、チェーン展開には相性ぴったりで、マニュアル化しやすく、またマニュアル化できてこそのチェーン展開でした。狙いはよかったのです。しかし、実際にやってみると、店舗開店に日数を要することが大きな障害だと判明しました。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
「どうすればいいのだ」と、クロックは悩みます。しゃにむに働くだけでは改善できません。システムの見直しが必要でした。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
自宅を担保に入れても不足…。ついにどうにもならな状況に追い込まれる
9州に13店舗まで事業が順調に拡大したとき、自宅を担保に入れても足りないほどの資金難に陥る。原因は、FC契約の内容とビジネスモデルにあった。ハンバーガーを売っても、レイ・クロックが受け取れる利益は売り上げの1.4%でしかない。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
「土地を購入してフランチャイズ店に貸す」ここで力関係が逆転
そこに折よく自分を売り込んできた人物が、会計士のハリー・ソナボーンである。会社の帳票類を精査したソナボーンは、マクドナルドのビジネスを不動産業に転換するようレイ・クロックに進言する。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
「ハンバーガーの売り上げの1.4%では帝国を築けない。土地を取得して加盟店に貸しなさい。そうすれば事業が安定してフランチャイジーを支配できる」(ソナボーン)。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
不動産会社を設立!兄弟の店の土地を購入して借地料を請求
レイ・クロックは「フランチャイズ・リアルティ社」という不動産会社を設立する。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
不動産ビジネスに乗り出したことで、マクドナルド兄弟との力関係が逆転する。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
(前略)マクドナルド兄弟の店の土地を買い取り、兄弟に借地料を請求。「これは不動産業だから、フランチャイズの契約に抵触してないよ」。
レイ・クロック成功のヒミツを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』は起業家必見!/ブランシュシュ.2017
クロックは兄弟の関係が逆転
レイ・クロックは兄弟に宣戦布告する。「別会社は君たちの権利外だ。店内で起こることには干渉できるが、店の外と上下では、権限はドアと床までだ」。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
不動産ビジネスに乗り出したことで、マクドナルド兄弟との力関係が逆転する。ハンバーガーを売るビジネスでは兄弟と交わした契約に縛られるが、店舗を増やすのはレイ・クロックの自由だからだ。
孫正義・柳井正も憧れたレイ・クロックの真実/東洋経済ONLINE.2017
マクドナルドが全米に一気に広がる!!
この結果、マクドナルドの店舗価値によって土地の値も上がり、クロックは大いに潤いました。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
1958年までにマクドナルドは1億個のハンバーガーを売り上げ、その2年後にはクロック氏が「McDonald’s」という商標の独占使用権を獲得した。
世界最大のファストフード・チェーン「マクドナルド」はこうして生まれた/Business Insider Japan.2017
チェーン展開は急速に進み、1960年には全米で200店舗になります。クロックは、社名をマクドナルドコーポレーションと変更しました。
【あの有名店の成立ち】マクドナルド編/TEMPOLY MAGAZINE.2022
兄弟から持ちかけられたマクドナルドの権利の売却話
翌年の1961年、マクドナルド兄弟が、すべての権利を売りたいとクロックに申出ます。
【あの有名店の成立ち】マクドナルド編/TEMPOLY MAGAZINE.2022
兄弟が提示したのは270万ドル、それはフランチャイズで得た利益の15倍もの金額でした。
マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの/東洋経済ONLINE.2021
マクドナルド兄弟が270万ドルを要求…。クロックがブチギレる
1961年、マクドナルド兄弟が270万ドルのロイヤリティを要求すると、クロックは激高した。彼は、「マクドナルド兄弟が自分を失敗させようしている」と感じていたのだ。かつて、自伝『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』のなかで、彼はこう振り返っている。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
「窓から花瓶でも投げてやろうかと思った。奴らのガッツが大嫌いだったんだ」
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
「マクドナルド兄弟は鈍感で、僕がこのプロジェクトに注ぐ1セント1セントにはまったく無関心だった」
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
兄弟との関係解消へ…。クロックが権利を購入
(前略)確執のある兄弟との関係を解消できれば、とクロックは応じます。
【あの有名店の成立ち】マクドナルド編/TEMPOLY MAGAZINE.2022
クロックにとってこの資金を集めるのは用意ではありませんでしたが、プリンストン大学など、多数の投資者を集めて調達しました。
高校中退&糖尿病なのにマクドナルドの創始者!レイ・クロック氏とはどんな人?/お金の学校.2014
「哀れみの涙がこみあげることはなかった」
結局、1961年にクロックがマクドナルド兄弟からすべての店を買い取った。50%もの所得税に辟易としていた兄弟は、もし自分たちが他界したら、家族に莫大な税金が請求されることを恐れていた。それだけは避けたいと、店を売ってつつましい生活を送ることに決めたのだ。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
「30年間、来る日も来る日も働いてきた」と訴えるマクドナルド兄弟に対して、クロックは自伝でこう述べている。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
「それは、じんとくるものだった。ただ、哀れみの涙がこみあげることはなかった」
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
その後も問題がつきまとう!実は兄弟は全てを売却していなかった!
ところが、またしても兄弟がクロックを裏切ります。すべての権利を手放したはずなのに、兄弟は「自分たちが運営した1号店の権利は含まれていない」と言い出したました。その店舗はマクドナルド・ハンバーガー誕生の店、クロックは引き継ぐのが当然と考えていました。
【あの有名店の成立ち】マクドナルド編/TEMPOLY MAGAZINE.2022
マクドナルドの原点「カリフォルニア店」
契約書には、マクドナルドの原点であるカリフォルニアの店の譲渡は含まれていなかったのだ。同店は当時すでに年間10万ドル(現在の価値では約100万ドルともされる)を売り上げていた。同店は当時すでに年間10万ドル(現在の価値では約100万ドルともされる)を売り上げていた。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
このことは、後にマクドナルド兄弟が主張したもので、クロックにとっては寝耳に水だった。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
ブチギレたクロックがマクドナルド兄弟の店を潰す…。
クロックは「何て馬鹿で腐った騙し方だ! 俺はあの店の売り上げも必要なんだ」とさらに激怒した。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
マクドナルド兄弟は店名にマクドナルドをつけれない
ついに、クロックはその店からわずか1ブロックしか離れていない場所にマクドナルドをオープンさせた。兄弟の「マクドナルド・ハンバーガー」を潰しにかかったのだ。兄弟の店は、店名を「ビッグM」に変更することを余儀なくされた。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
その6年後、ビッグMは廃業に追い込まれた。関係修復の可能性はとっくに失われていた。
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男/クーリエ・ジャポン.2017
その後、マクドナルドは世界へ…。
1965年、マクドナルドは株式上場をし、クロックは莫大な創業者利益を得ました。そして1984年に81歳の天寿をまっとうするまでに、世界で8000店を超す店舗を広げたのです。
【あの有名店の成立ち】マクドナルド編/TEMPOLY MAGAZINE.2022
現在では世界約35,000店舗を展開する世界最大のファストフードチェーンに成長しました。
マクドナルドを世界一のファストフード店にした「ターンキー革命」/株式会社スミタイ.2020
どこまで“マクドナルド”にこだわった理由「名前」「ロゴ」
経営権で争った相手の名前や店舗運営をそのまま残す経営者はどれぐらいいるだろうか。大抵は新しい名前をつけて、自分の気に入った運営方法に改善するに違いない。しかし、クロックのすごいところは、マクドナルド兄弟の成功事例をそのまま踏襲して60年以上たった今も店を現存させて経営している継続力だ。
第229回 「未熟なうちは成長する。成熟すれば、あとは衰えるだけだ。」マクドナルド 創業者 レイ・クロック/経営プロ.2017
レイ・クロックはマック兄弟の店を模倣してフランチャイズ化することも出来たはずだが、マック兄弟と対立しながらも、マクドナルドのフランチャイズに拘った。その理由は、「システムじゃなく、大事なのは輝かしい名前だ。マクドナルドという名前をどうしても欲しかった。」から。マクドナルドという名前がオープンで、音の感じがいかにもアメリカらしい。確かに、レイバーガーとか、クロックバーガーと言われてもピンと来ない。そして丸みを帯びたMのロゴも大事だ。日本でも「マック」や「マクド」などと親しみを込めて呼ばれている。
映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」に学ぶ経営のヒント/(一社)川崎中小企業診断士会.2018