【ビジネス界の巨人】マクドナルド兄弟のマクドナルドを奪った男 ── 伝説の実業家「レイ・クロック」

この記事は、マクドナルドの成功を築いた実業家レイ・クロックについてのものです。レイ・クロックは、マクドナルド兄弟が創業したファストフードチェーン「マクドナルド」を買収し、その経営権を手に入れました。

彼はフランチャイズビジネスの先駆者として知られ、マクドナルドを世界的な企業に成長させました。しかし、その成功の裏には執念深い努力と、時には不正な手段を用いた戦略があったとも言われています。

この記事では、レイ・クロックがどのようにしてマクドナルドを成功へと導いたのか、彼の人物像やビジネス手法について詳しく解説します。

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ユニクロ、ソフトバンク「成長の教科書」初公開。(「BOOK」データベースより)

McDonald’s History

マクドナルドの歴史

McDonald's

マクドナルドは、世界的に有名なファストフードチェーンで、そのメニューにはハンバーガー、フライドポテト、チキンナゲット、サラダ、デザートなどがあります。マクドナルドは、効率的なサービス、一貫した味、低価格を提供することで、多くの国で人気を博しています。

マクドナルドは、地域ごとにメニューを独自にアレンジしており、その地域の文化や好みに合わせた商品を提供することで、さらなる顧客獲得を目指しています。日本のマクドナルドでは、てりやきバーガーやえびフィレオ、マックポークなど、日本独自のメニューが提供されています。

また、マクドナルドは、環境保護や健康志向の取り組みにも力を入れており、持続可能な農業やエコパッケージ、低カロリーのメニュー提供などを行っています。これらの取り組みにより、マクドナルドは世界中で愛され続けているファストフードチェーンの一つとなっています。

マクドナルドの歴史

マクドナルドは、アメリカを中心に世界各国で展開されている国際的なファストフードチェーンです。1940年にアメリカで創業され、その後急速に拡大していきました。アメリカ本国だけでなく、カナダ、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、アフリカ、中東といった世界中に進出し、約4万店舗のマクドナルドが運営されています。

マクドナルドの創業者!?「レイモンド・クロック」

マクドナルドの創業者として広く知られているのは、レイ・クロック(レイモンド・アルバート・クロック)です。

McDonald's,
世界中の実業家に影響を与えている人物

レイ・クロックは、1902年に生まれ、1984年に亡くなりました。彼はマクドナルドの急速な成長を牽引し、多くの人々に影響を与えました。

レイ・クロックは、紙コップのセールスマンやピアノのアルバイト、ミキサーのセールスなど様々な職を経験した後、マクドナルドを10億ドル規模の巨大企業に成長させることに成功しました。

彼の自伝『Grinding It Out』は1977年に出版され、その中で彼はマクドナルドの創設から成功への道のりを詳しく語っています。当時、マクドナルドは米国やカナダを中心に約4,000店舗を展開しており、すでに世界的なファストフードチェーンとしての地位を確立していました。

日本では、『成功はゴミ箱の中に』(プレジデント社)というタイトルで翻訳出版され、シリーズ累計17万部を突破するベストセラーとなりました。この本は、起業家やビジネスマンにとって貴重な教材として、多くの人々に読まれ続けています。

ファーストリテイリングの柳井正氏やソフトバンクの孫正義氏は、レイ・クロックが大きな影響を与えた人物として知られており、彼らはクロックの自伝を愛読書として挙げています。柳井氏がビジネスの手本としているクロックの言葉、「Be daring, Be first, Be different(勇気を持ち、誰よりも最初に、人と違うことをする)」は、革新的な経営スタイルや戦略を追求する経営者たちにとって刺激的なメッセージです。

レイ・クロックの言葉や哲学は、成功に至る方法や精神論に関する知見が詰まっており、現代の経営者たちにも多くの示唆を与えています。彼のアメリカン・ドリームは、今も多くの人々に刺激を与え、新たなビジネスチャンスや成功への道を模索する原動力となっています。

プライベートでは3度結婚

レイ・クロックは、マクドナルドの成功を収める一方で、その私生活も話題になっています。彼は3度の結婚歴があり、その度にビジネスが成長するにつれ、妻も変わっていました。

クロックの3度目の妻はジョアン・マンソン(後のジョアン・クロック)で、彼女は元々人妻でした。レイ・クロックはジョアンに惚れ込み、彼女と結婚するために、自身の妻と離婚し、巨額の慰謝料を支払いました。同様に、ジョアンも当時の夫と離婚し、その後レイ・クロックと結婚しました。

ジョアンはその後、レイ・クロックの死後も彼の遺産を引き継ぎ、慈善活動に尽力しました。彼女はサンディエゴ・パドレス(MLBの野球チーム)のオーナーとなり、また、医療や芸術、教育などの分野で多額の寄付を行いました。このように、レイ・クロックの人生は、ビジネスの成功だけでなく、彼の私生活や家族にも注目が集まる、波乱万丈なものでした。

マクドナルドの真の創業者「マクドナルド兄弟」

正確に言えば、レイ・クロックは「マクドナルド」自体の創業者ではなく、フランチャイズチェーン化を成功させた意味での創業者です。真の創業者は、リチャード・マクドナルド(マック)とモーリス・マクドナルド(ディック)の兄弟でした。彼らは1940年にカリフォルニア州サンバーナーディーノで、自分たちの姓を冠したハンバーガーショップを開業しました。

マクドナルド兄弟は、「ファストフード」の命とも言える「スピード・サービス・システム」や、コストをカットしながらもクオリティを保つという革新的なコンセプトを生み出しました。これらのアイデアは、当時としては画期的であり、後のファストフード業界に大きな影響を与えました。

レイ・クロックの有名な自伝「成功はゴミ箱の中に」を読むだけでも、マクドナルド兄弟が真の創業者であることが分かります。彼らが築いた基盤の上で、クロックはマクドナルドをフランチャイズ展開し、その事業を急速に成長させることに成功しました。

すべての始まりは映画ビジネス

マクドナルド兄弟は、ニューハンプシャー州マンチェスターからカリフォルニアに移住してきた人物であり、彼らの運命を自分たちでコントロールする方法を模索していました。映画ビジネスに携わりたいと考え、カリフォルニアへ移住しました。

新天地でビジネスを始めることになった2人が当初描いていた構想は、当時人気を集めていた映画ビジネスに携わり、成功を収めて50歳になるまでにひと財産を築き上げるというものだったそうです。

映画館ビジネスに参入したマクドナルド兄弟でしたが、経営は決して容易ではありませんでした。資金繰りに苦労しながらも、彼らは映画館を運営していました。

映画を作る側から見せる側へ

映画制作業界で成功を収められなかったマクドナルド兄弟は、映画を作る側から劇場を経営して「見せる側」へと路線を変更しました。ロサンゼルスから約30km離れたグレンドラという地域にある映画館を買収し、ニュース映画や2本立て映画の上映を始めました。

映画館を売却してフードビジネスを開始!

その際、観客が食べ物を持ち込むことを防ぐために、劇場ロビーにスナックバーを設けました。このアイデアが、後にマクドナルド兄弟がフードビジネスに進出するきっかけとなりました。

最初のマクドナルド兄弟の店「マクドナルド・バーベキュー」

1940年5月15日にオープンした「マクドナルド・バーベキュー」は、兄弟によるフードビジネスの最初の大きな成功でした。この店は、当時流行していたドライブイン方式のレストランで、ハンバーガーだけでなく、バーベキュー料理も提供していました。

店の成功の要因は、顧客が自動車から降りることなく注文できる利便性と、おいしい料理を手頃な価格で提供していたことです。また、兄弟は効率的なサービスを提供するために、従業員を訓練し、作業を効率化する工夫を行いました。

自動車の普及とドライブスルー

1920年代のアメリカでは、自動車の普及が急速に進み、モータリゼーションが加速していました。これにより、人々の移動手段や生活様式が大きく変化しました。自動車が手に入りやすくなるとともに、人々はより自由に移動できるようになり、ドライブインレストランなど、自動車を利用した新しいビジネスが続々と登場しました。

マクドナルドは、こうした背景のもとでドライブインレストランとして運営され、自動車を利用する顧客に便利なサービスを提供しました。同様に、KFCの前身であるカフェレストランも、ガソリンスタンドに併設され、自動車を利用する人々に向けたサービスを展開していました。

こうした交通革命は、外食文化の発展に大きな影響を与えました。自動車の普及により、人々は家族や友人とドライブを楽しむようになり、ドライブ中に手軽に食事ができるファストフード店が人気を集めるようになったのです。このような状況が、マクドナルドやKFCなどの世界有数のファストフードチェーンの誕生につながりました。

販売メニューをホットドッグからハンバーガー店に変更!

最初のマクドナルド・バーベキューでは、多様なメニューが提供されており、特にホットドッグが人気でした。しかし、マクドナルド兄弟は効率的なサービスを提供することを目指し、1948年にハンバーガーレストランへのコンセプト変更を決定しました。

この変更に伴い、彼らはメニューを大幅に絞り込み、提供する商品をハンバーガー、チーズバーガー、ソフトドリンク、ミルク、コーヒー、ポテトチップス、カットしたパイなどの9品目に限定しました。これにより、調理や接客の効率化が図られ、迅速なサービスが提供できるようになりました。

このシンプルで効率的なビジネスモデルは、後に「スピードィーサービスシステム」と呼ばれるようになり、マクドナルドが成長し、世界的なファストフードチェーンへと発展する基盤となりました。

フライドポテト・ミルクセーキの販売を開始

949年にマクドナルド兄弟は、メニューの改善を目指してポテトチップスをフライドポテトに置き換えました。フライドポテトはすぐに人気が出て、現在ではマクドナルドの代表的なメニューの一つとなっています。また、同じ年にミルクセーキの販売も開始しました。これにより、さらに多くの客層を引き付けることができ、売り上げを向上させました。

自動車生産ラインの仕組みを採用!低価格でスピード提供が可能に!

クドナルド兄弟は合理的で効率的な運営システム「Speedee Service System」を考案しました。このシステムは、自動車産業のアセンブリーラインを参考にして、ハンバーガーショップでの調理とサービスを効率化しました。

スタッフはそれぞれ特定の調理工程に集中し、他のスタッフと協力して製品を組み立てていきました。このようにして、役割分担を明確にし、労働力を最適化することで、高速で一貫性のあるサービスを提供することが可能になりました。

また、事前に組み立てられたメニューによって、注文から提供までの時間を短縮し、お客様に迅速に食事を提供することができました。マクドナルドは、ハンバーガーの価格を15セントに抑え、スピーディーなサービスと低価格を両立させることで、競合他社との差別化に成功しました。

これに目をつけたのが「レイ・クロック」

マクドナルド兄弟が大成功を収めていたころ、彼らのビジネスモデルに強い興味を持っている男がいました。それがレイ・クロックです。

レイ・クロックは、マクドナルド兄弟の成功したビジネスモデルに目をつけ、フランチャイズ経営の権利を取得しました。彼はマクドナルドを全米、そして世界中に拡大させることに成功しましたが、その過程でマクドナルド兄弟との関係は次第に悪化しました。

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英雄か。怪物か。誰もが知っている“マクドナルド"の、誰も知らない誕生のウラが暴かれる!

Raymond Albert Kroc

マクドナルドを乗っ取った男「レイ・クロック」

Randy King/YouTube

レイ・クロックは1902年10月5日にイリノイ州シカゴの近くのオークパークで、ルイス・クロックとローズ・クロックの長男として生まれました。彼は若い頃から働き始め、多くの仕事を経験しました。彼は販売員としてのキャリアをスタートさせ、複数の会社で働いた後、彼自身のペーパーカップ会社を設立しました。

彼がマクドナルドと出会うまで、クロックは様々なビジネスに従事し、多角的な経験を積んでいました。その経験は、後に彼がマクドナルドのフランチャイズ事業を拡大し、成功させるために役立ちました。

子供の頃から仕事が大好き!

レイ・クロックは、学業よりも実践的なビジネスや仕事に熱心でした。彼は創造的で独立した思考を持っており、自分自身のアイデアやビジネスを追求することに興味がありました。

彼は高校に通っている間に、レモネードスタンドを始めたり、友人たちとミュージックストアを開いたりすることで、ビジネスの基本的な要素を学んでいました。彼はこの時期から、顧客ニーズに応える商品やサービスの開発、マーケティング、販売戦略の立案など、ビジネスの様々な側面に習熟していったのです。

年齢詐称して戦争に志願!訓練期間中に大戦が終了

クロックが15歳の時、第一次世界大戦に参加するため、年齢を偽ってアメリカ赤十字の救急車の運転手に志願しました。

宿舎で“ウォルト・ディズニー”と出会う

志願したとはいえ、まだ若かったレイ・クロックは、仲間たちと共に休みの日に町へ繰り出し、女の子を追いかけ回す楽しい生活を送っていました。しかし、彼の仲間の中には、宿舎に留まり絵を描くことに熱中していた一人の男性がいました。

彼はクロックや他の仲間から変人扱いされていましたが、彼の名前はウォルト・ディズニーでした。

クロックは後年、自分たちが女の子を追いかけ回している間にディズニーが絵を描いていたことを振り返っています。当時、誰も彼が後にアニメーション業界を代表する偉大なアーティストになることを予想できませんでした。

しかし、ディズニーはその独自の情熱と才能によって、後にウォルト・ディズニー・カンパニーを創立し、世界的な成功を収めることになりました。

戦争が終わり様々な仕事につきながら生活

結局、クロックは第一次世界大戦への参加は果たせませんでした。彼は訓練が終わる前に戦争が終結し、コネティカット州にとどまりました。

戦争が終わった後、クロックはさまざまな仕事を探し、ピアノを弾くアルバイトもしていました。その後、彼はリリーチューリップカップ社で紙コップの販売の仕事に就きました。クロックは販売の才能を持っており、ビジネスに対する洞察力も優れていたとされています。

彼はこの仕事で成功を収める一方で、私生活でも進展があり、結婚を果たしました。

後に離婚してしまう

クロックの最初の妻はエセル・フレミング(Ethel Fleming)で、彼女とは1922年に結婚しました。夫婦は一緒に多くの困難を乗り越え、クロックがマクドナルドのフランチャイズを成長させる道のりを歩んだ一方で、エセルも彼を支え続けました。

しかし、クロックとエセルは1961年に離婚しました。その後、クロックはさらに2度結婚しました。

“ミルク・シェイク”製造機を売る営業マンを52歳まで続ける

ある時、レイ・クロックは顧客であるプリンス・マルチミキサーズ社のオーナー、アール・プリンスから5軸式のミキサーを見せられました。

彼はこのミキサーのポテンシャルに感銘を受け、リリーチューリップカップ社を辞めてアール・プリンスと仕事を始めることに決めました。クロックは、アメリカ全土でこのミキサーを販売できるという契約を結びました。

その後の17年間、クロックはマルチミキサーの販売に専念しました。彼が売っていたマルチミキサーは、ミルクシェイクを同時に複数作ることができる最新式のものでした。この仕事で成功を収め、老後の蓄えの心配もなくなりました。

52歳になるまで、クロックが取り組んだ仕事の大部分はミキサーの販売でした。彼も同世代の男性と同じように、引退を考え始めていました。しかし、1954年に運命の出会いがありました。

はじまりは仕事で行った“マクドナル兄弟”が経営するバーガー店

1954年、レイ・クロックが経営するミキサー販売会社に、カリフォルニア州サンバーナディーノ市のマクドナルド兄弟が使っているのと同じミキサーを売ってくれという電話がかかってきました。

マクドナルド兄弟はハンバーガーショップを経営し、8台のマルチミキサーを使って利益を上げていると聞いて、クロックは興味を持ちました。

別の伝説では、マクドナルド兄弟がマルチミキサー8台を注文してきたとも言われています。どちらの話が真実かは定かではありませんが、クロックはマクドナルド兄弟のハンバーガーショップを訪れることに決めました。

店を訪れたクロックは、実際に8台のマルチミキサーが稼働しているのを目の当たりにしました。

そして、マクドナルド兄弟が開発した効率的な「スピード・サービス・システム」というビジネスモデルに感銘を受けました。これが、彼がマクドナルド兄弟とフランチャイズ契約を結ぶきっかけとなり、後に世界最大のファーストフードチェーンを築くことに繋がる出会いとなりました。

ミキサーを売るのでは!?なんと開店前から視察!自ら行列に並ぶ

そこでとったクロックの行動は実に興味深いものでした。彼はマクドナルド兄弟の店に10時頃に到着し、外観を観察してから店内で働くスタッフの様子を見ました。

スタッフは清潔な服装で、効率的に働いていました。開店後、客が次々と車でやって来て、ハンバーガーを買っていく様子を目の当たりにしました。

クロックは行列の最後尾に加わり、他の客に話を聞きました。彼らは「15セントにしては最高のハンバーガーが食べられる。待たされることもなく、チップをねだるウェイトレスもいない」と答えました。

彼はまた列から離れて裏手に回り、ハンバーガーを食べている客に週に何回来ているのか、何が良いのかを聞きました。その間にも、彼は環境の細かい部分にも目を光らせていました。

クロックはとにかく落ち着きがない様子で、自分の足で動き、自分の目で見て、自分の手で触れることで理解しようとしていました。彼は効率的なシステムと清潔さに感銘を受け、このビジネスモデルを全国展開できると確信しました。

マクドナルド兄弟のビジネスモデルの感動

午後2時30分頃、客が引いたタイミングで、レイ・クロックは再びマクドナルド兄弟の店を訪れ、自己紹介をしました。彼は2人をディナーに誘い、彼らのビジネスについて根掘り葉掘り聞き出すことにしました。

注文からたった30秒で提供「スピード・サービス・システム」

ディナーの席で、クロックはマクドナルド兄弟から彼らが開発した「スピード・サービス・システム」について詳しく聞いたことでしょう。

このシステムは、簡素化されたメニューと効率的な調理プロセスを用いて、お客様に迅速かつ安価なサービスを提供することを目的としていました。

ドリンク類が紙コップで提供され、ハンバーガーやフライドポテトも紙に包まれていたため、食器洗浄機は不要でした。これにより、運営コストが削減されていました。

また、店はセルフサービスのカウンター方式で運営されており、ウェイターやウェイトレスは不要でした。これにより、人件費が削減され、効率化が図られていました。

ハンバーガーはあらかじめ調理され、紙でラッピングしてからヒートランプで保温されていたため、客は注文後すぐに商品を受け取ることができました。さらに、調理過程も分業化されており、パテを焼く者やバンズを挟んで包む者など、それぞれの役割が明確に分担されていました。

この効率的なシステムにより、客が注文してからハンバーガーが出されるまでの時間がわずか30秒以内に短縮されていました。

また、彼らはハンバーガーショップの環境を清潔に保つための努力や、従業員の教育方法についても話したでしょう。クロックはこれらの情報を熱心に聞き入れ、マクドナルド兄弟のビジネスが全国展開できる可能性を確信しました。

たった一日でビジネスプランが完成

レイ・クロックは、マクドナルド兄弟の効率的なビジネスモデルに感動し、カリフォルニア州の田舎都市だけで終わらせるのは惜しいと感じました。彼はその日モーテルに泊まりましたが、翌朝にはすでにマクドナルドを大きく展開する具体的なプランが頭の中で出来上がっていました。

確信を見抜く抜群のビジネスセンス

このエピソードのポイントは、レイ・クロックがマクドナルド兄弟の店を視察しに行ったのは、新しい商売を始める計画があったわけではなく、あくまでマルチミキサーの営業のためだったということです。

しかし、彼の観察力、取材力、企画力が抜群であり、フライドポテトにすぐに注目し、その重要性を見抜きました。

クロックの商売勘は抜群で、彼はマクドナルドの評判のカギがフライドポテトにあることを見抜いていました。彼はすぐにマクドナルド兄弟にポテトにこだわっていることを指摘し、兄弟は彼の直観力に感心しました。

実際、2人はフライドポテトに情熱を注いでおり、最高級のアイダホ産ポテトを使って、専用の油で揚げていました。

クロックは本職でないにもかかわらず、商売全体のキモの部分に直観的に目が行ってしまう人物でした。彼の直感と行動力があってこそ、マクドナルドを大きく展開し、世界的なファーストフードチェーンに成長させることができました。

「ぜひ!チェーン展開を!』マクドナルド兄弟と契約

クロックはマクドナルド兄弟にチェーン展開の提案を持ちかけました。彼は「全てのリスクは私が取るから、マクドナルドの店は私が作る。あなたたちには利益しかない」と説明しました。彼の説得力とビジョンによって、兄弟は漸く納得し、チェーン展開の提案に同意しました。

この提案によって、レイ・クロックはマクドナルドのフランチャイズシステムを立ち上げ、効率的なビジネスモデルを全国、そして世界中に広めることになります。

加盟料950ドルと1.9%の利益(0.5%がマクドナルド兄弟)

最初の計画では、マクドナルド兄弟がフランチャイズ展開の中心となり、クロックはマルチミキサーを店舗拡大に合わせて販売する役割を担っていました。しかし、全国へのフランチャイズ展開の代理人が決まらず、結局クロック自身が全国フランチャイズの代理人になることを決意しました。

クロックはマクドナルド兄弟と、全米展開を前提に、全国にマクドナルドの名前を冠した店舗を販売する権利と、その生産の仕組みやノウハウ部分を提供してもらう契約を結びました。

この契約において、マクドナルド兄弟からフランチャイズ権の販売に関する条件が提示されました。その条件は、加盟料950ドルと、1.9%のロイヤリティで、そのうち1.4%がクロックに、0.5%がマクドナルド兄弟に支払われることでした。

52歳のクロックはマクドナルドを広げることに尽力

クロックは52歳で糖尿病を患っていたにもかかわらず、マクドナルドのフランチャイズを熱心に売り込むために働きました。彼はディズニーランドの中にマクドナルドの食堂を設置することを提案し、ウォルト・ディズニーに直接会って売り込みを行いました。

この試みは失敗に終わりましたが、クロックは諦めずにイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、大成功を収めました。

1955年3月2日、クロックは新しい会社マクドナルドシステム会社を設立し、1955年4月15日にフランチャイズ1号店をシカゴにオープンさせました。(この1号店は現在、記念館として限定日に一般公開されており、マクドナルドの歴史を振り返ることができます。)

マクドナルド兄弟の裏切り!?勝手に第三者にフランチャイズ権を販売

クロックは、マクドナルド兄弟から裏切りを受ける形でフランチャイズ権が別の人物に5000ドルで売られてしまうという事態に直面しました。彼はこの事実に驚き、抗議を行いましたが、正式な契約書が存在しなかったため、口約束に過ぎなかったことがクロックにとって大きな痛手となりました。

フランチャイズ権を取り戻すために、クロックは2万5000ドル、つまり元の5倍の金額を用意しなければなりませんでした。これはクロックにとって大変な試練でしたが、彼はマクドナルドの将来を信じて投資を行い、フランチャイズ権を取り戻すことに成功しました。

あくまで兄弟の店!デザインや運営を自由に決めれない

クロックは、ハンバーガー事業で成功を確信していましたが、新規事業はすぐに困難に直面しました。出店した1号店の売り上げだけでは資金繰りが厳しく、彼は借金を抱え、ミキサー販売会社の利益を新規事業の補填に充てなければなりませんでした。しかし、彼はめげずに働き続けました。

毎日早朝から店で材料の発注や厨房の準備、トイレ掃除までこなし、夜まで働いた後にはミキサー販売会社の仕事も行いました。

その間、マクドナルド兄弟からの要求は厳しく、重要な案件だけでなく細かい事項についても書面での承認を求められました。しかし、クロックは口約束に懲りていたため、書面での承認を確実に得るようにしました。

彼の努力の甲斐あって、1956年には11号店まで店舗を広げることができました。クロックは寝る暇もなく働いたが、その熱意と努力が実を結び、事業は徐々に拡大していったのです。

シェイクを保存するための電気代を節約!クロックが兄弟と対立

クロックの子供向けのマーケティング戦略は成功し、家族連れの客層が増え、フランチャイズのオーナーたちも満足していました。しかし、売上は増えていたものの、採算が悪化していました。その原因はシェイクのアイスクリームを貯蔵する冷凍庫の電力費でした。

あるフランチャイズ店オーナーの奥さんが粉末シェイクのアイデアを提案し、クロックはこれを試してみておいしいと感じました。

マクドナルド兄弟の兄が心臓発作で入院

しかし、品質第一主義のマクドナルド兄弟は、この粉末シェイクの提案を却下しました。しかし、クロックはフランチャイズの採算を回復させる必要があり、兄弟の意見を無視して粉末シェイクをフランチャイズ店に配りました。

この行為により、「契約なんて破るためにあるのさ」と言い放つクロックとマクドナルド兄弟との間に確執が生じました。結果として、兄のマックは心臓発作で入院することとなり、クロックとマクドナルド兄弟の関係はさらに悪化していきました。

契約に問題が!?売り上げが伸びてもクロックの借金が増える

店舗数が増えて売り上げは伸び、クロックは寝る間を惜しんで働きました。しかしほとんど利益を得られませんでした。

その原因は契約形態にありました。本来の契約では、クロックは総販売額の1.9%、マクドナルド兄弟は0.5%を受け取るはずでしたが、実際にはそうなっていませんでした。

クロックは、新しい店舗のオーナーから950ドルの認可料を受け取り、その後は売り上げの1.9%を支払いを受けるという契約を結んでいました。

しかし、店舗が運営開始するまでには、いろいろな準備が必要で時間がかかります。この期間、クロックは売り上げの1.9%を得られず、950ドルに手を出さざるを得なくなります。

つまり、働けば働くほど、赤字が増えることになったのです。そのため、店舗を増やさない方が良いという結論になり、チェーン展開化失敗の危機に陥りました。安い価格設定のマクドナルドのハンバーガー事業は、チェーン展開することで利益が出るのです。

自宅を担保に入れても不足…。ついにどうにもならない状況に陥る

13店舗にまで拡大し、9州で事業が順調に進んでいた時期に、自宅を担保に入れても資金不足に陥りました。その原因は、フランチャイズ契約の内容とビジネスモデルにありました。ハンバーガーを販売しても、レイ・クロックが受け取れる利益は売り上げのわずか1.4%に過ぎませんでした。

「土地を購入してフランチャイズ店に貸す」ここで力関係が逆転

ちょうどその時、会計士のハリー・ソナボーンがレイ・クロックに自分を売り込んできました。

「ハンバーガーの売り上げの1.4%では、帝国を築くことはできません。土地を取得して加盟店に貸しましょう。そうすれば事業が安定し、フランチャイジーを支配することができます」

ソナボーンは、マクドナルドの会社の帳簿を詳細に調べた上で、クロックにマクドナルドのビジネスを不動産業に転換するよう進言ししたのです。

このアイデアが、マクドナルドのビジネスのあり方を変えることになります。単なるハンバーガーチェーンから、土地を管理・運営する不動産業へと変貌を遂げたのです。

不動産会社を設立!兄弟の店の土地を購入して借地料を請求

レイ・クロックは、「フランチャイズ・リアルティ社(後のマクドナルド・コーポレーション)」という不動産会社を設立しました。その不動産会社を通じて、土地を取得し、その土地に加盟店を建設してフランチャイズオーナーにリースすることにしました。

そして、クロックはマクドナルド兄弟の店の土地を買い取り、兄弟に借地料を請求しました。

「これは不動産業だから、フランチャイズの契約に違反していない」と彼は主張しました。そして、兄弟に宣戦布告をしました。「別会社は君たちの権利範囲外だ。店内での出来事には干渉できるが、店の外と建物の上下に関しては、権限はドアと床までだ」と言いました。

クロックは兄弟の関係が逆転

この不動産ビジネスに乗り出したことで、マクドナルド兄弟との力関係が逆転しました。ハンバーガーを売るビジネスでは、兄弟との契約に縛られていましたが、店舗を増やすことはレイ・クロックの自由でした。それにより、彼はマクドナルド兄弟との力関係を有利に進めることができました。

マクドナルドが全米に一気に広がる!!

クロックの経営手腕とソナボーンの不動産戦略により、マクドナルドは国際的なフランチャイズチェーンとして確固たる地位を築いていきます。

マクドナルドは急速に店舗数を増やし、マクドナルドの店舗価値によって土地の価格も上昇、1958年には1億個のハンバーガーを売り上げるまでに成長し、1960年にはクロックが「McDonald’s」という商標の独占使用権を獲得しました。

さらにチェーン展開は急速に進み、1960年には全米で200店舗に達しました。この成功を受けて、レイ・クロックは社名をマクドナルドコーポレーションに変更しました。これにより、ブランドがさらに成長し続ける基盤が築かれました。

兄弟から持ちかけられたマクドナルドの権利の売却話

1961年、マクドナルド兄弟は全ての権利を売りたいとレイ・クロックに申し出ました。

マクドナルド兄弟が270万ドルを要求…。クロックがブチギレる

兄弟が提示した金額は270万ドルで、これはフランチャイズで得た利益の15倍もの大金でした。この要求に対し、クロックは激怒しました。彼はマクドナルド兄弟が自分の失敗を望んでいると感じていたのです。

この一件はクロックとマクドナルド兄弟の関係に決定的な亀裂を生みだしました

後に彼は自伝『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』で、この出来事についてこう振り返っています。「窓から花瓶でも投げてやろうかと思った。奴らのガッツが大嫌いだったんだ」「マクドナルド兄弟は鈍感で、僕がこのプロジェクトに注ぐ1セント1セントにはまったく無関心だった」と述べていました。この一件はクロックとマクドナルド兄弟の関係に決定的な亀裂を生みだしました

兄弟との関係解消へ…。クロックが権利を購入

クロックにとって資金調達は容易ではありませんでしたが、プリンストン大学など多くの投資家を集めることに成功しました。そして、1961年にレイ・クロックはマクドナルド兄弟から全ての店舗を買い取りました。

「哀れみの涙がこみあげることはなかった」

兄弟は、50%の所得税にうんざりしており、自分たちが亡くなった際に家族に膨大な税金が請求されることを恐れていました。そのため、店を売却し、質素な生活を送ることに決めました。

兄弟はこの時「30年間、毎日働いてきた」と訴えましたが、クロックは自伝で「それは感動的だったが、同情の涙は流さなかった」と述べています。

その後も問題がつきまとう!実は兄弟は全てを売却していなかった!

しかし、兄弟は再びクロックを裏切ります。全ての権利を手放したはずなのに、兄弟は「自分たちが運営した1号店の権利は含まれていない」と主張しました。この店はマクドナルド・ハンバーガー発祥の店であり、クロックは引き継ぐのが当然だと考えていました。

ブチギレたクロックがマクドナルド兄弟の店を潰す…。

契約書には、カリフォルニアの1号店の譲渡は含まれていなかったのです。当時、その店は年間10万ドル(現在の価値で約100万ドル)の売り上げがありました。これはマクドナルド兄弟が後に主張したことで、クロックにとっては驚きでした。彼は「なんて愚かで腐った騙し方だ! 俺はあの店の売り上げも必要だ」と激怒しました。

マクドナルド兄弟は店名にマクドナルドをつけれない

結局、クロックはその店からわずか1ブロック離れた場所にマクドナルドをオープンさせました。兄弟の「マクドナルド・ハンバーガー」を潰そうとしたのです。兄弟は店名を「ビッグM」に変更せざるを得ませんでした。

その6年後、ビッグMは廃業に追い込まれました。関係修復の可能性はとっくに失われていました。

その後、マクドナルドは世界へ…。

1965年にマクドナルドは株式上場し、クロックは大きな創業者利益を得ました。彼は1984年に81歳で亡くなるまでに、世界中に8000店舗を超えるマクドナルドを展開しました。現在では、世界で約35,000店舗を展開し、世界最大のファストフードチェーンに成長しています。

どこまで“マクドナルド”にこだわった理由「名前」「ロゴ」

他の経営者とは違って、クロックはマクドナルド兄弟との争いにもかかわらず、彼らの名前や店舗運営をそのまま残しました。通常、経営者は新しい名前を付け、自分の好みに合わせて運営方法を改善するでしょう。しかし、クロックの素晴らしい点は、マクドナルド兄弟の成功事例をそのまま踏襲し、60年以上たった今でも続けて経営している持続力です。そのおかげで、マクドナルドは現在も世界中で愛されるファストフードチェーンとなっています。

レイ・クロックは、マクドナルド兄弟の成功事例を踏襲し、その継続力で現在も世界中で展開されるマクドナルドを確立しました。彼がマクドナルド兄弟と対立しながらも、マクドナルドのフランチャイズに拘った理由は、その輝かしい名前と独自のシステムに魅力を感じたからです。

マクドナルドという名前は、オープンでアメリカらしい響きがあり、多くの人々に親しみやすい印象を与えます。レイ・クロックは、自分の名前を冠したバーガー店よりも、マクドナルドという名前に強い魅力を感じたのです。たしかに、「レイバーガー」や「クロックバーガー」と言われても、それほど印象に残らないでしょう。

また、丸みを帯びた黄金のアーチ(Mのロゴ)も、マクドナルドの象徴であり、世界中で認識されるデザインです。このロゴは、親しみやすさと瞬時にマクドナルドを連想させる力を持っています。日本でも「マック」や「マクド」といった愛称で親しまれており、その普及力は計り知れません。

レイ・クロックがマクドナルドの名前とシステムを継続的に活用し、世界中にフランチャイズを展開することで、今日のマクドナルドの成功を築き上げました。彼のビジョンと信念が、マクドナルドブランドの強さと普及に大きく貢献していると言えるでしょう。

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