今回の記事は、南米のベネズエラの首都であるカラカスについて紹介したものです。カラカスは、石油資源の豊富さから急速な経済成長を遂げた都市でしたが、現在は政治的な不安定さや経済の混乱などがあり、治安が悪いとされています。
また、ランチョと呼ばれる貧困層が住むスラム街も存在し、貧困問題が深刻な状況にあることが伺えます。この記事では、カラカスの歴史や治安、そして貧困問題について詳しく解説しています。
The world’s most dangerous city
ベネズエラ最悪の危険地帯「カラカス」
カラカスは、ベネズエラの首都であり、南米有数の大都市です。ベネズエラの中央部に位置し、標高は約900メートルです。カリブ海にも近いため、トロピカルな気候であり、年間を通して平均気温は約25℃から27℃と比較的温暖です。また、周辺には山々が広がっており、美しい景観が広がっています。カラカスは、かつては石油資源が豊富で、急速な経済成長を遂げましたが、現在は政治的な不安定さや経済の混乱などがあり、社会問題も多く抱えています。
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カラカス=5つの市で構成するエリアの総称
南米ベネズエラの首都カラカスは、ベネズエラ北部に位置する大都市で、リベルタドル市という自治市に属しています。また、カラカス市を中心に周辺市が含まれるカラカス都市圏は、ベネズエラ最大の都市圏の一つです。
危険な国となったベネズエラ!その中で最も危険な都市!!
ベネズエラでは、経済危機や政治不安定などの影響もあり、治安情勢が悪化しています。
2016年にベネズエラでは、過去最多の32万4519件の総犯罪件数が発生し、被害者となった人数は2万8479名となり、日本の40倍にも上った。その中でも、強盗事件や身代金目的の誘拐事件が多く、そのうちの約80%が拳銃などの武器を使用したものであり、そのうちの約20%が首都のカラカスで起きているという。
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【危険】殺人事件発生率は東京の100倍超のエリア「カラカス」
ベネズエラの入り口であるカラカスは、治安が悪く、ギャングの抗争が激しい地域として知られています。外国人も狙われることがあり、犯罪に巻き込まれることも多いため、警戒が必要です。人口当たりの殺人事件発生率は世界最悪クラスで、東京の100倍以上で、10万人あたりの殺人事件発生率が130人を超えて世界最悪都市としてランクイン。夜だけではなく昼も危険な街、それがカラカスです。
カラカス近くの空港に到着後、すぐ別の飛行機に乗り換え脱出
カラカスはベネズエラの主要な国際空港であるシモン・ボリバル国際空港があるため、観光客やビジネスマンが多く訪れますが、治安の悪さが問題視されています。そのため、空港に到着してもすぐに地方都市に移動する人が多い。
ていうか空港自体がすでに危険地帯
カラカスのシモン・ボリバル国際空港は、治安上の問題があることで有名です。到着ロビーでのタクシー詐欺や、荷物盗難、さらには通路での強盗被害も報告されています。空港から市内へ移動する場合は、公式のタクシーサービスを利用することや、事前にホテルなどで送迎の手配をしておくことが推奨されます。
安心できるタクシーに乗れたとしても強盗に襲われる可能性
空港からカラカス市街へ向かう一本道は、信頼できるタクシーに乗ってもなお危ない。海に面した空港から、山を越えて街へと続く道中には、強盗が出るおそれがあり、道路にブロックが置かれていて慌てて車を止めると、ならず者たちが現れるという。
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中南米で最大最悪最恐のスラム街「ランチョ」
ベネズエラでは、都市周辺に拡大する貧困層が多く住む地域を「バリオ(barrio)」、「ランチョ(rancho)」、「大衆地区(sector popular)」などと呼びます。これらの地域は、治安が悪く、暴力事件や犯罪が多発しています。
首都カラカスには、世界でも有名なスラム街「ペトロリオス」と呼ばれる地域があります。この地域は非常に危険で、治安の悪化が深刻な問題となっています。
警察でも安易に立ち入ることは出来ない
スクレ市ペタレ地区は、カラカス最大の貧困地帯です。郵便物は届くとされていますが、警察が簡単に入ることができず、部隊を編成しても立ち入りができない場合もあるほど治安が悪化しています。当然のように犯罪も高水準であり、特に公道上での犯罪が多いとされています。
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山脈を埋め尽くす広大なスラム街
盆地の標高900メートルを超す広大なカラカスの光景。層ビルが整然と立ち並ぶ周囲の斜面を、数えきれないほどのカラフルな家々が無秩序に山肌をぎっしり埋めていて、まるで壁が目の前に広がっているように見える。それはこの国の貧富の差を映し出している。
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貧しい人々は山の上に家を建築
貧しい人々は街の中に土地を得ることができず、少しずつ山の上へと家を建てて行きました。
今では、各家庭が自らの手で建てた煉瓦やトタン屋根の家々が、無秩序に山肌を覆い尽くしている。
個々の家々は細い階段で繋がれており、狭い道路や坂道が続く独特の景観を生み出しています。
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100万人以上がこのスラムで生活
カラカス市内にあるスラム街「ランチョ」の人口は、正確な数は不明ですが、推計で100万人以上とされています。また、市内の一部には高級住宅街や繁華街があり、そこからわずか数百メートルの距離にランチョが広がる光景が見られます。
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幻想的なカラカスの夜景!!その光はイリーガル(笑)
カラカスの夜景は美しいと言われています。高層ビルや街灯が煌びやかに光り、周囲の山々もライトアップされるため、まるで星空のように見えます。
カラカスの夜景は美しいものの、昼間に山肌を見ると、ほとんどがダンボールで作られた家々が立ち並び、貧しい地域であることがわかります。
電気を盗んでいるからこそ24時間輝くスラム街
ベネズエラは大統領選挙が国民による直接投票であるため、水道や電気、清掃などは完備されていますが、ランチョの住民たちは料金を払えず、盗電に頼っています。このため、24時間照明が点灯されていることがあります。
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「貧者の保護者」チャベス前大統領
1月23日地区は、ベネズエラの政治史において重要な役割を果たしています。ランチョは、1992年にチャベス前大統領が率いる軍が政府に対してクーデターを起こした場所でもあります。このクーデターは失敗に終わり、チャベスは2年間の刑務所生活を送りましたが、その後政治家として復帰し、大統領に就任しました。1月23日地区には、このクーデターを記念するモニュメントや壁画が多くあり、チャベスの人気も高いとされています。
独裁者?否!貧困層にとっては英雄!
チャベスは、ベネズエラの貧困対策に力を入れ、キューバからの支援を受けて無償診療や識字教育などのプログラムを実施しました。そのため「貧者の保護者」とも呼ばました。彼の政策は、一部の人々からは支持された一方、反対派からは批判を浴びることもありました。
チャベス政権に対しては、彼を独裁者と見なす市民も存在しました。彼はメディアを強く統制し、反対意見を抑圧する傾向がありました。また、チャベス政権下での政治的抑圧や人権侵害の報告もありました。これらのことが、彼に対する批判を呼び起こす一因となりました。
「21世紀の社会主義」
ベネズエラは、石油産業に依存しており、外貨収入の大部分が石油から得られています。しかし、その収入は大衆に還元されることはほとんどなく、政界汚職も深刻な問題でした。
チャベス前大統領は、1992年にクーデターを起こし、投獄されましたが、その後、貧困層のための民主化革命を掲げて大統領選に出馬し、社会福祉事業を積極的に推進しました。
彼は「21世紀の社会主義」という考え方を掲げ、ローザ・ルクセンブルクのスローガン「社会主義か、死か」をスペイン語で絶叫するなど、社会主義運動家として知られています。
“Socialism of the 21st century”. Created and implemented by the Kirchners with Chavez, Lula, Morales and Correa.
— Daniel Lacalle (@dlacalle_IA) August 26, 2018
Nuff said pic.twitter.com/yTe4dwX8UZ
貧困層のための様々な対策を実施!貧困層圧倒的な支持
2003年からキューバの医療関係者の協力を得て、貧困層へ無料診療を提供する「バリオ・アデントロ計画」や、 識字教育から中・高等教育までを提供する「ロビンソン、リバス、スクレ計画」、,基礎食糧や生活必需品を低価格で供給するための「メルカル計画」などが開始されたた。
これらの事業は保健衛生、食料、住宅、教育、先住民政策など多様に渡った。
カラカスの新興住宅街では、新築物件の引き渡しが行わた。チャベスが無料で家を配布したことで、話題になっていた。貧困層の救済のため、チャベスは『21世紀の社会主義』として、家だけでなく、電化製品まで配布したほか、貧民街「バリオ」に8000カ所もの無料の病院を設立した。
数年の後、チャベス氏が政権の座に就いたことで、中南米の幾つもの国で積極的な反貧困政策が導入され、それが素晴らしい成果を収めた。
これらの成果から貧困層はチャベスを支持
ベネズエラの貧困層は、いくら働いても生活が良くなる可能性はほとんどなく、政府からも無視されてきた。チャベスはこれらの政策によって、貧困層からの支持を得ることができました。しかし、その一方で、経済政策の失敗や政治的権力の乱用などにより、チャベス政権は批判を浴びることもありました。
これらの対策はオイルマネーを使用していた…。結果的に国自体が極貧に陥る
ベネズエラは世界有数の石油産出国で、石油は国の主要な外貨収入源であります。
チャベス政権は石油収入を社会福祉事業や貧困層支援に投資することで、貧困削減に注力していました。ただし、石油価格の下落や政府の不正経済活動などにより、経済が深刻な危機に陥ってしまう。
実際には原油高に支えられた豊かさの幻影しかもたらされず、原油価格が下がると国営ベネズエラ石油公社(PDVSA)のでたらめな経営が明らかになったことで、原油生産量が過去70年間で最低の日量134万バレルと落ち込んだ。
その結果、チャベス政権は財政難に陥り、インフレーションが加速して経済は崩壊しました。また、政治的な弾圧や言論統制、反対派の投獄や排除などにより、民主主義が危機に瀕しました。さらに、貧困層に与えるはずだった福利厚生は腐敗や不正によって目的を逸脱し、本来の目的を果たせなくなってしまいまい、ベネズエラは国自体が極貧状態に…。
その結果、多くの市民がベネズエラから脱出を余儀なくされた。
石油の呪い!?石油で潤い石油で貧困に転落
カラカスに、つねにランチョがあったわけではなかった。
1908年、カラカスはまだ赤屋根の平屋、市庁、寺院が多く、市電が建設中だった時期で、その時ベネズエラは独裁者ゴメスの支配者でした。
1920年代にはカラカスに石油利権で潤った人々が住み、英米の石油会社の本部、銀行、商社が集まり1926年には13万人の人口がいた。
第二次大戦後、50万人のヨーロッパ人がベネズエラに移民し、そのうち4割がカラカスに留まった。
そこで1950年に50万人、1960年に137万人になった。石油輸出代金で近代的ビルが建設された一方で、貧民がスラムを形成し、極端な貧富の差が生じた。
今のスラムの姿に!
1970年台には石油資源の豊富な背景により、ベネズエラは急激な経済発展を遂げ、農村部からの出稼ぎ者が急増。その結果、急な勾配の山肌に密集して立つスラム街(ランチョ)の光景がつくり上げられた。