時を超え… 太平洋戦争を超え…今も咲き続ける日米の絆「ポトマックの桜」

アメリカの首都ワシントンD.C.にあるポトマック川沿いに咲く桜の花は、毎年多くの人々を魅了しています。しかし、この美しい景色の裏には、日本とアメリカの友好の象徴として、たくさんの苦労や努力があったことをご存知でしょうか。

本記事では、明治45年に東京市から贈られた桜の背後にある、世界的化学者・実業家の高峰譲吉や、アメリカ人紀行作家のエリザ・シドモアの尽力を紹介します。また、彼らの努力によってポトマックに桜が植えられるまでの物語を通して、日本とアメリカの絆について考えてみたいと思います。

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ポトマックの桜は何のために、どのような経緯で植えられたのか? 日米友好の証として寄贈された桜の歴史を物語風のストーリーにして綴る。 歴史の表舞台には登場しない数多くの人々の献身的な努力と協力活動が重ねられた 名もなき人々のロマンが息づく「ポトマックの桜寄贈劇」。(「学分社」データベースより)

Potomac Sakura Story

〜日米友好の証〜 ポトマックの桜物語

FOX Weather/YouTube

ワシントンにある「世界的な桜の名所」といえば、107年前の1912年に日本から贈られた桜並木を思い浮かべる人が多いでしょう。今では「日米友好の象徴」と評され、その象徴的な存在感を改めて感じ取ることができます。太平洋戦争中でさえ、あの桜並木だけは切り倒されなかったという感動的な逸話があります。

日米友好の桜に尽力した女性「エリザ・シドモア」

明治時代、日本とアメリカの友好関係を象徴するために、ワシントンD.C.のポトマック川沿いに日本から3000本の桜が贈られ、現在も「日米友好の桜」として親しまれています。この贈り物の実現に尽力したアメリカ人女性が、エリザ・シドモア(Eliza Scidmore)です。

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来日して桜と日本の文化に感動!

1856年、米国ウィスコンシン州マディソン市に生まれたシドモアさんは、兄のジョージが在日副領事であったことから1884年に来日し、桜と日本の文化に深く感動しました。彼は旅行家、文筆家、写真家としても活躍し、1891年(明治24年)に「日本での人力車旅情」を出版し、日本人や桜の名所を紹介するなどの活動をしていました。

「桜はこの世界で一番美しい」桜の定植を当時の政権に嘆願

エリザ・シドモアは、日本での滞在中に多くの美しい景色を目にし、その中でも桜の美しさに魅了されたとされています。彼女は、帰国後にグロバー・クリーブランド政権に嘆願状を提出し、日本からの桜の贈呈を要請しました。

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人文地理学者で無類の親日家のE.R.シドモアは、ポトマック河畔の桜植樹の立役者でもあった。明治十七年の来日以降、たびたび日本を訪れ、人力車で全国各地を駆け巡り、鋭い観察眼で明治中期の日本の世相と姿を生き生きと映し出す。自然と共に生きる日本の歳時伝統と日本人の優しい心。日本を愛したアメリカ女性の描く日本印象記の傑作。(「BOOK」データベースより)
周囲の人々にとって“果実が実らないさくらんぼの木”

シドモアは1885年に日本を訪れてから30年近く、ワシントンの市当局に桜植樹の計画を何度も持ちかけました。

当時のアメリカ合衆国では、桜の木は主に実をつける種類が栽培されていました。そのため、エリザ・シドモアが持ち帰ったサクラの種類である「ソメイヨシノ」にはあまり興味がなかったのかもしれません。

なかなか興味を持ってくれませんでした。それでもあきらめず、植樹のための募金など地道な活動を続けるシドモアは、6度交代した政権に対し、ポトマック河畔のタイダルベイスンに桜の木を植えるよう陳情し続けました。

「日本で桜を見た」デビット・フェアチャイルド(植物学者)

デビッド・フェアチャイルドは、米国の農業に利益をもたらす新しい植物を探すために、世界を飛び回っていました。そして、1902年に日本を訪れた際に、桜に出会いました。

David Fairchild/YouTube
「さくらんぼがとれない木は受けないかも」

しかし、当時のアメリカ合衆国では、外国の作物に対して強い抵抗感を持つ人々が多かったため、フェアチャイルドも「さくらんぼがとれない木は受けないかも」という考えを持っていたとされています。

とりあえず自宅の庭に桜を定植

そこで、まずは125本の桜の木を取り寄せて、自宅の前庭に植えることにしました。

この桜の苗木を提供したのが、横浜植木という日本の会社であり、注文が入ったことに大喜びしたという逸話が残っています。そして、この苗木は1本わずか10セントという破格の値段で発送されたとされています。

お花見会を開催!そこにはシドモアの姿

フェアチャイルド博士は、親交の深い昆虫学者チャールス・マーラット博士とともに友人たちを招いて観桜会を開催した。その友人の招待客の中にシドモアがいた。

Cherry Blossom
一緒に大統領夫人に桜をプレゼンすることに

両博士は、その場で意気投合し、両博士の賛同と協力を得たシドモアは、早速、大統領夫人に桜植樹を提案をした。

「桜は日米友好関係を結ぶ良い機会になる」ヘレン・タフト 大統領夫人

1909年3月、日本の桜に魅了されたのが大統領夫人のヘレン・タフトだった。彼女は夫であるウィリアム・タフト大統領に対して、ワシントンD.C.の街を美しくするために桜を植えることを提案しました。彼女は日本の桜に魅了されており、桜の美しさを多くの人々に見てもらいたいと考えていました。

ヘレン・タフトは、桜の魅力を語り、大統領に説得、日本との友好関係を結ぶよい機会になると感じた大統領はこれに賛成した。

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「日本の桜」植樹計画が始動!

1909年6月頃、ヘレン・タフト大統領夫人を含むアメリカの婦人グループが、ワシントンD.C.のポトマック川沿いに公園を整備する計画を立てました。その計画の中で、日本から桜を買い入れて植樹することが決定されました。

Army Corps' connection to Washington, D.C., cherry trees

「以前から桜の植樹のため動いていた」高峰 譲吉 博士

その頃、ニューヨーク在住の日本人科学者の高峰 譲吉は、かねがね移民排斥など米国内の反日感情の高まりを懸念しており、日米友好のシンボルとしてニューヨークのハドソン河畔に桜を植えることについて長年同市の当局者の説得を試みていました。

彼は米国人の熱意を知り、東京市から2000本の桜苗木の寄贈を約束するためにヘレン・タフト大統領夫人を訪ねました。

シネマトゥデイ/YouTube

「“東京市長”名義で“桜の苗”を寄贈しては?」水野 幸吉(NY総領事)

ニューヨーク駐在総領事の水野幸吉は、1909年6月2日に外務大臣の小村寿太郎に「華盛頓ヘ桜樹寄贈ノ件」として、ワシントンに日本の桜を植える計画があるので、東京市長の名でワシントン市へ桜の寄贈をしてはどうかと打診しました。

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もしそれが出来ないならニューヨークにいる日本人の皆で負担

報告書には、もし東京市長が寄贈の予算を工面できなければ、名義は市長とするがニューヨークの日本人社会で費用負担しようと高峰博士が呼びかけ、賛同を得ているとも記されています。

東京の市長に桜の苗を依頼

その後、同年7月2日には、石井菊次郎外務次官から東京市長の尾崎行雄宛てに「華盛頓ヘ桜樹寄贈ノ件」として、ワシントンの桜植樹の経緯について説明したうえで、東京市長名で桜の寄贈の依頼を行いました。

「同じ時期に桜の植樹を考えていた」高平 小五郎(駐米大使)

高平小五郎は、水野幸吉と同じく、同じ時期に桜の植樹を考えていました。高平大使は、水野総領事がシドモア女史から桜の話を聞いたのとほぼ同じ頃に、直接、タフト夫人に会い、桜植樹に関心があれば種苗の日本からの寄贈について「周旋」に尽力しましょうかと持ちかけました。

しかし、タフト夫人はまずは米国内で探してみましょうと答えたため、高平大使は押しつけになってもいけないと思い、引きさがり、日本側からの提案は保留となりました。

水野総領事から桜の寄贈を報告をうける

1909年6月2日、水野総領事は、シドモアからの話に基づき、東京市長からの寄贈を東京の小村寿太郎外務大臣に報告するとともに、高平小五郎駐米大使にも伝えた。

水野総領事がこの話をするのは管轄外!この話は大使の自分まとめるのが筋

しかし、高平大使は、水野総領事がニューヨークの管轄外である話を出していることに納得しなかった。私人の話だけで公の寄贈の話を本国につなぐのはおかしいと主張し、自分がノックス国務長官に確認すべきであると進言した。

内輪揉めが発生!

幸い、タフト大統領の寄贈受諾の意向が国務大臣ノックスから伝えられ、古村大臣に公式文書が発送された。その翌日、古村大臣に電報が届き実施して差し支えなしと訂正が行われ落着した。

結果的には国家レベルの案件に変化した

この事件は、水野総領事の迅速な動きと同時に、高平小五郎駐米大使の筋を通した確実な処理があって、一民間人の範疇から国と国とのルートに乗ることになったという側面もあった。

「桜の植樹?それはいい話だ!」尾崎 行雄(東京市長)

尾崎東京市長は、高峰博士の手紙と外交ルートから、アメリカ大統領夫人の桜植樹計画を知った。彼は1905年に行われたポーツマス条約で日露戦争を終結し、米国が仲介してくれたことへの謝意を表すため、日本から桜を贈ろうと考えた。

さっそく日本とアメリカの友情を願って準備にとりかかり、1909年8月の東京市会で桜の寄贈が決定された。

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“桜の苗”を積んでワシントンに出航!!さまざまな困難に遭遇…。

1910年11月24日、植木業者との契約をして横浜を出航した日本郵船の「加賀丸」に、高さ3m直径6cmの苗木2000本が積み込まれました。その頃、アメリカではタフト大統領夫妻が東京市の申し出を快く受け入れ桜の到着を待っていました。

到着した2000本の桜苗は害虫や病気だらけ

1910年、日本から最初に贈られた桜2000本が米国に到着したところ、害虫が発生したり病気にかかっていたため、フィランダー・ノックス(Philander Knox)米国務長官は米農務省に焼却を命じた。当時のノックス氏は、日本に宛てた書簡の中で「辛い決断だった」と述べている。

東京市長はワシントンを訪れリベンジを約束

東京市長である尾崎は、1910年に開かれた万国議会議の帰途に、アメリカのワシントンを訪れました。そこで彼は、東京市があらためて健康な木を送ることを約束しました。

完璧な桜苗の育成に取り組む

東京市は、病害虫に強い苗木の生産を農商務省に委託しました。その際に、ポイントとなる山桜の台木を生産するため、兵庫県川辺郡稲野村東野(現在の伊丹市東野)に生産を依頼しました。生産された台木は、静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市)の農商務省農事試験場園芸部に運ばれ、東京・荒川堤の五色桜から採取した穂木を接ぎ木して育てられました。

3000本の桜苗を発送

農事試験場で手厚く栽培した病害虫のない桜苗木3,000本を明治45年(1912)、2月14日に日本郵船阿波丸によって横浜からワシントンへと送付されました。この時の苗木の品種は前回と同様、山桜、寒緋桜、寒桜、八重桜、枝垂桜など12種類でした。

完璧な桜の苗がワシントンに到着!

日米両国の待望の桜樹が、1912年3月13日にワシントンに到着しました。丹精込めて栽培した桜樹は、ほぼ完ぺきな状態であり、病気や害虫も全くなく、検疫官を驚かせました。

1912年3月27日「桜の植樹式」

1912年3月27日に簡単な植樹式が開催され、当時のヘレン・タフト大統領夫人と伊藤博文駐米大使夫人が、最初の2本をタイダルベイスンに植えました。

最初の一本を植樹する時……そこにはシドモアの姿が

シドモアはヘレン・タフト大統領夫人の3000本の桜木の植樹の最初の1本に立ち会った。

桜苗はポトマック以外にもさまざまな場所に植えられた!

ポトマック河畔、公園、学校、ホワイトハウス、そして連邦議事堂など、桜の苗木が植えられたのである。

「日本の桜を切り倒せ!」桜の危機

1938年(昭和13)ジェファーソン記念館を建てることになり358本の桜がポトマック公園で切り倒されることになった。これは、日本が満州事変から日中戦争(支那事変)へという反日感情が高まった時代で、「日本の桜は、全部切り倒してしまえ」という声もあったという背景にあった友好の花の交歓であった。その頃の桜は27年の植樹を経て、見事な桜ばかりが咲き誇っていた。

人間の鎖を作り桜を守った……。さらに多くの桜が植えられ桜祭りがスタート!!

しかし、女性グループらが反対、人間の鎖で計画予定地を封鎖し、桜が伐採されるのを阻止しました。そしてこの問題は、タイダルベイスンの南の岸に、より多くの桜を植えることを条件に妥協され、さらに多くの桜が植えられるとともに、1940年代ころから桜祭りの催しものが始まりました。

日米が争った第二次世界大戦……。その時も日本の桜を守りきる

1941年、日米開戦の時、ワシントンの桜は次なる受難に出会った。ハワイ・オアフ島の真珠湾を日本軍が攻撃した後、何者かが4本の桜を切り倒した。第二次世界大戦が終わるまで、桜はただ「東洋の木」と呼ばれたが、その裏で密かに桜を守る行動を米国人たちは組織していた。

そして今…。ポトマックの桜は日米友好の象徴!!

1965年、日本は世界各地に桜祭りの人気が急速に広まった戦後の状況を受けて、3800本の桜を寄贈しました。アン・マクレラン(Ann McClellan)さんは、ワシントンを訪れる人々は日本の影響を思い浮かべるが、その桜には「大事なメッセージ」も込められていると述べています。

そのメッセージとは、「桜は、毎年春になると再生する。儚くも美しい桜は、人生の短さや大切なものを失ったときの悲しみを象徴している。しかし、次の春にはまた咲き誇り、新たな始まりを迎えることを教えてくれる」

また、桜は日本人にとって、自然の美しさや季節感、精神性を表す象徴的な存在でもあるため、ワシントンの桜は日本とアメリカの友情だけでなく、人々が自然に敬意を払い、大切にすることの重要性をも伝えているとされています。

また、桜は日本人にとって、自然の美しさや季節感、精神性を表す象徴的な存在でもある。ワシントンD.C.の桜は、日米の友好や平和を象徴するシンボルとして、多くの人々に愛されています。

また、毎年行われる桜祭りは、桜の美しさだけでなく、日米の文化交流や友好関係を深める貴重な機会として、多くの人々に支持されています。

National Cherry Blossom Festival/YouTube

日本の桜を愛した女性は今も日本で眠っている

その後スイスに移住をした1928年にシドモアは、日本の桜を愛し、多大な貢献をしたことが認められ、日本の横浜にある外国人墓地に埋葬されました。これは彼女の生前の希望でもあった。その墓には、シドモアさんの功績を称え、「日本の桜を愛した女性、ここに眠る」という碑文が刻まれています。墓地には、多くの外国人が埋葬されており、訪れる人たちに静かな癒しと平和を与えています。

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「シドモア桜」

横浜外国人墓地にあるシドモア墓の傍らに、ワシントンから里帰りした桜の苗木5本が平成3年(1991)に植えられました。これらの桜たちは「シドモア桜」と呼ばれ、現在も多くの人に親しまれています。

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ポトマックの桜は何のために、どのような経緯で植えられたのか? 日米友好の証として寄贈された桜の歴史を物語風のストーリーにして綴る。 歴史の表舞台には登場しない数多くの人々の献身的な努力と協力活動が重ねられた 名もなき人々のロマンが息づく「ポトマックの桜寄贈劇」。(「学分社」データベースより)

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