ポトマックの桜が見守る日米の絆 ── 戦火を超えて咲き続ける物語

アメリカの首都ワシントンD.C.にあるポトマック川沿いに咲く桜の花は、毎年多くの人々を魅了しています。

しかし、この美しい景色の裏には、日本とアメリカの友好の象徴として、たくさんの苦労や努力があったことをご存知でしょうか?

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ポトマックの桜は何のために、どのような経緯で植えられたのか? 日米友好の証として寄贈された桜の歴史を物語風のストーリーにして綴る。 歴史の表舞台には登場しない数多くの人々の献身的な努力と協力活動が重ねられた 名もなき人々のロマンが息づく「ポトマックの桜寄贈劇」。(「学分社」データベースより)

Potomac Sakura Story

〜日米友好の証〜 ポトマックの桜物語

FOX Weather/YouTube

明治時代、日本とアメリカの友好関係を象徴するために、ワシントンD.C.のポトマック川沿いに日本から3000本の桜が贈られ、現在も「日米友好の桜」として親しまれています。

この贈り物の実現に尽力したのが、旅行家、文筆家、写真家など多彩な才能溢れるアメリカ人女性、エリザ・シドモア(Eliza Scidmore)です。

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日米友好の桜に尽力した女性「エリザ・シドモア」

1856年、米国ウィスコンシン州マディソン市に生まれたシドモアは、兄のジョージが在日副領事であった関係で1884年に来日しました。

日本に滞在中のシドモアは、桜と日本の文化に深く感動しました。

そして、1891年(明治24年)には「日本での人力車旅情」を出版するなど、日本人や桜の名所を紹介するなどの活動をしました。

「桜はこの世界で一番美しい」桜の定植を当時の政権に嘆願

シドモアは、日本での滞在中に多くの美しい景色を目にしましたが、その中でも特に桜の美しさに魅了されました。

桜の素晴らしさを母国アメリカにも紹介したいと思ったシドモアは、ソメイヨシを持ち帰って帰国し、当時の政権(グロバー・クリーブランド政権)に嘆願状を提出し、日本からの桜の贈呈を要請しました。

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人文地理学者で無類の親日家のE.R.シドモアは、ポトマック河畔の桜植樹の立役者でもあった。明治十七年の来日以降、たびたび日本を訪れ、人力車で全国各地を駆け巡り、鋭い観察眼で明治中期の日本の世相と姿を生き生きと映し出す。自然と共に生きる日本の歳時伝統と日本人の優しい心。日本を愛したアメリカ女性の描く日本印象記の傑作。(「BOOK」データベースより)
周囲の人々にとって“果実が実らないさくらんぼの木”

その後、シドモアは1885年に日本を訪れてから30年近くの間、ワシントンの市当局に桜植樹の計画を何度も持ちかけ続けましたが、それが叶う様子はありませんでした。

当時のアメリカ合衆国では、桜の木は主に実をつける種類が栽培されていました。そのため、シドモアが持ち帰ったサクラの種類である「ソメイヨシノ」にはあまり興味がなかったのかもしれません。

それでも諦めず、植樹のための募金など地道な活動を続けました。

6度交代した政権に対しても、ポトマック河畔のタイダルベイスンに桜の木を植えるよう陳情し続けました。

「日本で桜を見た」デビット・フェアチャイルド(植物学者)

ポトマックの桜物語のもう一人の重要人物が、植物学者のデビッド・フェアチャイルド博士です。

フェアチャイルド博士は米国の農業に利益をもたらす新しい植物を探すために、世界中を飛び回っていました。そして、1902年に日本を訪れた際に桜に出会い、シドモアと同じ様に深く感動しました。

David Fairchild/YouTube
「さくらんぼがとれない木は受けないかも」

しかし、当時のアメリカ合衆国では、外国の作物に対して強い抵抗感を持つ人々が多かったため、フェアチャイルド博士も「さくらんぼがとれない木は受けないかも」という考えを持っていました。

とりあえず自宅の庭に桜を定植

そこで、まずは実験的に125本の桜の木を取り寄せて、自宅の前庭に植えることにしました。

この桜の苗木を提供したのが、横浜植木という日本の会社であり、注文が入ったことに大喜びしたという逸話が残っています。また、この苗木は1本わずか10セントという破格の値段で発送されたとされています。

お花見会を開催!そこにはシドモアの姿

フェアチャイルド博士は、親交の深い昆虫学者チャールス・マーラット博士と共に友人たちを招いてお花見を開催しました。そして、その招待客の中にシドモアがいたのです。

Cherry Blossom
一緒に大統領夫人に桜をプレゼンすることに

同じ志を共にするシドモアとフェアチャイルド博士は、その場ですぐに意気投合。博士の賛同と協力を得たシドモアは、以前から親交があった、大統領夫人のヘレン・タフトに桜植樹を提案しました。

「桜は日米友好関係を結ぶ良い機会になる」ヘレン・タフト 大統領夫人

1909年3月、ヘレン・タフト大統領夫人はシドモアに紹介してもらった日本の桜にすっかり魅了され、桜の美しさをもっと多くの人々に知ってもらいたいと考えていました。

ヘレンは夫であるウィリアム・タフト大統領に対して、ワシントンD.C.の街を美しくするために桜を植えることを提案します。。

桜の魅力を熱く語るヘレン、それはついにタフト大統領(夫)を動かすことになりました。これは、日本との友好関係を結ぶよい機会にもなると感じた上での賛成した。

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「日本の桜」植樹計画が始動

1909年6月頃、ヘレン夫人を含むアメリカの婦人グループが、ワシントンD.C.のポトマック川沿いに公園を整備する計画を立てました。

そしてその計画の中で、日本から桜を買い入れて植樹することが決定されました。

Army Corps' connection to Washington, D.C., cherry trees

「以前から桜の植樹のため動いていた」高峰 譲吉 博士

同じ頃、ニューヨーク在住の日本人科学者の高峰譲吉(たかみね じょうきち)博士は、以前から移民排斥など米国内の反日感情の高まりを懸念していました。

そこで、「日米友好のシンボルとしてニューヨークのハドソン河畔に桜を植えてはどうか?」と長年同市の当局者の説得を試みていました。

D.C.の桜植樹計画を聞いた高峰博士は、すぐにこれはチャンスだと思い立ち、2000本の桜を贈りますとシドモアに伝えました。

シネマトゥデイ/YouTube

「“東京市長”名義で“桜の苗”を寄贈しては?」水野 幸吉(NY総領事)

これを知ったNY総領事(ニューヨーク駐在総領事)の水野幸吉は、どうせなら個人ではなく日本から贈った方がいいのではと考えました。これには日米友好を考えていた高峰博士も喜んで賛同しました。

1909年4月8日にはワシントンで、シドモア、高峰博士、水野総領事の三人で話し合いを行いました。その中でシドモアは、ヘレン大統領夫人もこの計画に同意したと伝えました。

東京市からの桜寄贈計画がスタート!

そして1909年6月2日、水野幸吉は外務大臣の小村寿太郎に「華盛頓ヘ桜樹寄贈ノ件」として、ワシントンに日本の桜を植える計画があるので、東京市長の名でワシントン市へ桜の寄贈をしてはどうかと打診しました。

この報告書には、もし東京市長が寄贈の予算を工面できなければ、名義は東京市長とするがニューヨークの日本人社会で費用負担しようと高峰博士が呼びかけ、賛同を得ているとも記されていました。

東京の市長に桜の苗を依頼

その後、1909年7月2日には、石井菊次郎外務次官から東京市長の尾崎行雄宛てに「華盛頓ヘ桜樹寄贈ノ件」として、ワシントンの桜植樹の経緯について説明したうえで、東京市長名で桜の寄贈の依頼を行いました。

「同じ時期に桜の植樹を考えていた」高平 小五郎(駐米大使)

実はもう一人、同時期に桜の植樹を考えてい人物がいました。それが駐米大使の高平小五郎です。

高平大使は、水野総領事がシドモア女史から桜の話を聞いたのとほぼ同じ頃に、直接ヘレン夫人に会い、桜植樹に関心があれば種苗の日本からの寄贈について「周旋」に尽力しましょうかと持ちかけていました。

しかし、ヘレン夫人はまずは米国内で探してみましょうと答えたため、高平大使は押しつけになってもいけないと思い引きさがり、日本側からの提案は一旦保留となっていました。

水野総領事から桜の寄贈を報告をうける

1909年6月2日、水野総領事はシドモアからの話にもとづき、東京市長からの寄贈を東京の小村寿太郎外務大臣に報告するとともに、高平小五郎駐米大使にも伝えました。

水野総領事がこの話をするのは管轄外!この話は大使の自分まとめるのが筋

しかし高平大使は、水野総領事がニューヨークの管轄外であるこの話をしていることに納得しませんでした。

高平大使は、私人の話だけで国家レベルの公の寄贈の話を本国につなぐのはおかしいと主張、駐米大使である自分がノックス国務長官に確認すべきであると強く進言しました。

内輪揉めが発生!

こうして、うまく軌道乗りかけていた桜寄贈計画が、内輪揉めとも呼べる状況に巻き込まれてしまい頓挫しかけました。

幸い、タフト大統領の寄贈受諾の意向が国務大臣ノックスから伝えられ、古村大臣に公式文書が発送。その翌日、古村大臣に電報が届き実施して差し支えなしと訂正が行われこの件は一件落着しました。

結果的には国家レベルの案件に変化した

この件は、一見すると肩書きやプライドのくだらない争いに見えるかしれません。

しかし、水野総領事の迅速な動きと同時に、高平小五郎駐米大使の筋を通した確実な処理があったおかえげで、一民間人の案件が、国と国と重要案件になったという側面もありました。

「桜の植樹?それはいい話だ!」尾崎 行雄(東京市長)

高峰博士の手紙と外交ルートから、アメリカ大統領夫人の桜植樹計画を知った東京市長の尾崎行雄はすぐに賛同。

1905年に行われたポーツマス条約で日露戦争を終結し、米国が仲介してくれたことへの謝意を表すためにも、日本から桜を贈ろうと考えました。

さっそく日本とアメリカの友情を願って準備にとりかかり、1909年8月の東京市会で桜の寄贈が決定されました。

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“桜の苗”を積んでワシントンに出航もさまざまな困難に遭遇

1909年11月24日、植木業者との契約をして横浜を出航した日本郵船の「加賀丸」に、高さ3m直径6cmの苗木2000本が積み込まれました。

この時の苗木はソメイヨシノだけではなく、山桜、寒緋桜、寒桜、八重桜、枝垂桜など12種類にも及びました。

その頃、アメリカではタフト大統領夫妻が東京市の申し出を快く受け入れ桜の到着を待っていました。

到着した2000本の桜苗は害虫や病気だらけ

1910年1月、ついに日本から最初に贈られた桜2000本が米国に到着しました。

しかしここで悪夢が。その2000本の桜苗は害虫が発生したり病気にかかっていたのです。フィランダー・ノックス(Philander Knox)米国務長官はすぐに米農務省に焼却を命じた。

当時のノックス氏は、日本に宛てた書簡の中で「辛い決断だった」と述べています。

東京市長はワシントンを訪れリベンジを約束

尾崎東京市長は、1910年に開かれた万国議会議の帰途に、アメリカのワシントンを訪れました。そこで、東京市があらためて健康な桜の苗木を送ることを固く約束しました。

完璧な桜苗の育成に取り組む

二度と失敗してなるものかと奮闘した東京市は、病害虫に強い苗木の生産を農商務省に委託しました。

その際に、ポイントとなる山桜の台木を生産するため、兵庫県川辺郡稲野村東野(現在の伊丹市東野)に生産を依頼しました。

生産された台木は、静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市)の農商務省農事試験場園芸部に運ばれ、東京・荒川堤の五色桜から採取した穂木を接ぎ木して育てられました。

3000本の桜苗を発送

1912年2月14日、農事試験場で手厚く栽培した病害虫のない桜苗木3,000本が、日本郵船阿波丸によって横浜からワシントンへと送付されました。

この時の苗木の品種は前回と同様12種類でした。

完璧な桜の苗がワシントンに到着!

1912年3月13日、ついに日米両国の待望の苗木がワシントンに到着しました。丹精込めて栽培された苗木は、ほぼ完ぺきな状態であり、病気や害虫も全くなく検疫官を驚かせました。

1912年3月27日「桜の植樹式」

1912年3月27日、簡単な桜の植樹式が開催され、当時のヘレン大統領夫人と伊藤博文駐米大使夫人が、最初の2本をポトマック川の入り江のタイダルベイスンに植えました。

その植樹式には、嬉しそうな顔をしたシドモアの姿もありました。

そして、3,000本苗木は、ポトマック河畔、公園、学校、ホワイトハウス、そして連邦議事堂など、D.C.の様々な場所に植えられました。

「日本の桜を切り倒せ!」桜の危機

こうしてようやく植えられた日本の桜ですが、何度も危機が訪れる事になります。

1938年には、ジェファーソン記念館を建てることになり358本の桜がポトマック公園で切り倒されることになりました。

これは、日本が満州事変から日中戦争(支那事変)へという反日感情が高まった時代で、「日本の桜は、全部切り倒してしまえ」という声もあったという背景にあった友好の花の交歓でした。

その頃の桜は27年の植樹を経て、見事な桜ばかりが咲き誇っていました。

人間の鎖を作り桜を死守し、さらに多くの桜が植えられる

しかし、女性グループらが断固反対、彼女らは人間の鎖で計画予定地を封鎖し桜が伐採されるのを阻止しました。

そしてこの問題は、タイダルベイスンの南の岸に、より多くの桜を植えることを条件に妥協されました。さらに多くの桜が植えられた事で、桜祭りの催しものも始まりました。

日米が争った第二次世界大戦……。その時も日本の桜を守りきる

1941年日米開戦の時期、この桜はさらなる困難に出会うことになりました。ハワイ・オアフ島の真珠湾を日本軍が攻撃した後、何者かが4本の桜を切り倒したのです。

そして太平洋戦争が終わるまで、桜はただ「東洋の木」と呼ばれ蔑まれました。しかし、その裏では密かに桜を守るための組織が組まれており、なんとか最後まで守り切りました。

そして今…。ポトマックの桜は日米友好の象徴!!

1965年、日本は世界各地に桜祭りの人気が急速に広まった戦後の状況を受けて、3800本の桜をワシントンに寄贈しました。

そして、今ではこの桜は多くのアメリカ人や観光客に愛され、「全米桜祭り」という大規模なイベントも開催されるようになりました。

「桜祭り」の著者のアラン・マクレラン(Ann McClellan)さんは、ワシントンを訪れる人々は日本の影響を思い浮かべるが、その桜には「大事なメッセージ」も込められていると次の様に述べています。

「桜は、毎年春になると再生する。儚くも美しい桜は、人生の短さや大切なものを失ったときの悲しみを象徴しています。しかし、次の春にはまた咲き誇り、新たな始まりを迎えることを教えてくれる」

National Cherry Blossom Festival/YouTube

日本の桜を愛したシドモアは日本の地で安らかに眠っている

1928年11月3日、ジュネーブで死去。72歳没。

アメリカに日本の桜の美しさを伝えたシドモアは、その後スイスに移住し、1928年11月3日にジュネーブで亡くなりました。72歳でした。

日本の桜を愛し、多大な貢献をしたことが認められたシドモアは、日本の横浜にある外国人墓地に埋葬されました。

これはシドモアの生前の希望でもありました。

その墓には、シドモアの功績を称え、「日本の桜を愛した女性、ここに眠る」という碑文が刻まれています。

「シドモア桜」

1991年(平成3年)には横浜外国人墓地にあるシドモア墓の傍らに、ワシントンのポトマックから里帰りした桜の苗木5本が植えられました。

これらの桜たちは「シドモア桜」と呼ばれ、現在も多くの人に親しまれています。

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ポトマックの桜は何のために、どのような経緯で植えられたのか? 日米友好の証として寄贈された桜の歴史を物語風のストーリーにして綴る。 歴史の表舞台には登場しない数多くの人々の献身的な努力と協力活動が重ねられた 名もなき人々のロマンが息づく「ポトマックの桜寄贈劇」。(「学分社」データベースより)

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