【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯④「マンデラを釈放する!」

【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯④「マンデラを釈放する!」」

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【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯③「運命の判決の時」
“https://diggity.info/culture/nelson-mandela-3/”

Release of Nelson Mandela

マンデラ釈放!!

Mandela Statue, Quru, Eastern Cape, South Africa

「マンデラに自由を!!」世界がマンデラの釈放を訴える

The Specials/YouTube

マンデラの投獄が長期化すると、南アフリカだけでなく世界中の人びとが、「マンデラに自由を!」を合い言葉として、彼の釈放を求めるようになった。世界中の町で、肌の色に関係なく大勢の人々が街頭デモに繰り出し、また音楽、詩、あるいは美術で、それぞれの思いを表現するようになった。当時は植民地の独立、差別の撤廃、マイノリティの権利、貧困の克服といった理想が、現在よりもずっと熱く語られていた時代だった。世界の多くの人々が、自分たちの運命とマンデラの運命を重ね合わせて、マンデラの自由のために声を上げたのである。

ネルソン・マンデラの見果てぬ夢 (特集 ネルソン ・マンデラ — その人生と遺産)(p.21)/峯 陽一.日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所.2014

そのころには、マンデラは世界で最も話題に上る人物のひとりになっていました。しかしアパルトヘイト下の南アフリカでは、ほかのアフリカ民族会議の活動家同様、彼の言葉や教えを広めることは禁止されていました。

ネルソン・マンデラ 囚人から伝説へ/HUFFPOST.2013

禁止命令を破った者には、厳しい罰が科せられました。マンデラの写真を持ち歩いたり、彼の名前を口にしているところを聞かれたりすると、拷問され、刑務所に入れられる可能性があったのです。

ネルソン・マンデラ 囚人から伝説へ/HUFFPOST.2013
世界中のアーティストが集結!!
anubisctba/YouTube

1988年には英国ウェンブリー・スタジアムに世界のそうそうたるミュージシャンが結集してマンデラ釈放を要求するコンサートが開かれた。

特集㉟ 人権の闘士たちとの共闘――ネルソン・マンデラと池田会長/WEB第三文明.2021
テロリストから英雄へ!

反アパルトヘイト(人種隔離)運動の英雄は、2008年まで米国のテロ監視リストにその名前が掲載されていた。また英国の「鉄の女」、故・マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)元首相は、マンデラ氏がまだロベン島(Robben Island)に拘禁されていた頃、マンデラ氏のアフリカ民族会議(African National Congress、ANC)を「典型的なテロリスト組織」と呼んでいた。

マンデラ氏をテロリストから英雄に、88年の英コンサート/AFPBB News.2013

 88年のコンサートは、マンデラ氏からテロリストというレッテルを取り払い、マンデラ氏の釈放を確実なものにしようということに全てがあった。

マンデラ氏をテロリストから英雄に、88年の英コンサート/AFPBB News.2013

デクラーク大統領 就任

1989年7月5日、ボタ大統領とマンデラとの初会見が行われました。しかし、その後、すぐにボタ大統領は辞任。

ネルソン・マンデラ Nelson Mandela (後編)/ポップの世紀

 国際社会が南アフリカに対し経済制裁で圧力を強める中、89年に強硬派のP・W・ボタ(P.W. Botha)大統領が辞任し、融和的なフレデリク・デクラーク(Frederik de Klerk)大統領が就任。

「虹の国」の父、ネルソン・マンデラ氏 獄中から大統領に/AFPBB News.2013

デクラーク大統領「マンデラを釈放する!」

SABC News/YouTube

デクラーク氏は、もともとはアパルトヘイトを推進する与党国民党(National Party)の強硬派議員だった。だが1989年9月に大統領に就任すると、約5か月後の90年2月2日、アフリカ民族会議(ANC)など非合法団体の活動禁止措置の解除とANCの最高指導者マンデラ氏ら政治犯の釈放を発表する歴史的な国会演説を行った。デクラーク氏は演説で、民主的な新憲法の制定も求めた。

マンデラ氏釈放宣言から20周年、アパルトヘイト体制最後の大統領が演説/AFPBB News.2010

マンデラは刑務所から自身が釈放される様子を全世界に見せるよう要求しました。

マンデラの 10 年/Google Arts & Culture
後にマンデラと協力して手腕を発揮!

 マンデラ氏は刑務所内で5年間にわたり、さまざまなアパルトヘイト政権当局者と会い、最後には当時のデクラーク大統領とも会った。

南アのマンデラ元大統領、死去―アパルトヘイト撤廃を主導/ウォール・ストリート・ジャーナル.2013

 このデクラーク大統領とともに、マンデラ氏は白人の政治支配機構を困難な交渉を通じて徐々に除去する一方、人種差別の南ア白人政権を拒否した世界と再び手を結ぶため、指導力を発揮していくことになる。

南アのマンデラ元大統領、死去―アパルトヘイト撤廃を主導/ウォール・ストリート・ジャーナル.2013

南アフリカのソウェトで武力衝突が激化

 1990年9月15日、南アフリカ共和国のソウェト地区で、政党間の武力衝突が激化。炎に包まれるインカタ自由党(IFP)支持のズールー人男性を、対立政党であるアフリカ民族会議(ANC)の支持者がこん棒で殴りつけている。 ANCが勝利を収め、ネルソン・マンデラの大統領選出につながる1994年の全人種参加選挙まで、多くの国民が増加の一途を辿る武力衝突に脅えていた。特に、当初は共闘関係にあったANCとIFPの党派間抗争が激しさを増していた。さらに、これにつけ込んで多数派の黒人を抑圧しようと、白人至上主義者が両者の対立を煽り、民族間紛争に火をつけるような攻撃や爆破テロも起きていた。

対立の複雑さ、N・マンデラの足跡/ナショナルジオグラフィック.2013

ついに釈放の瞬間が!

AP Archive/YouTube

1990年2月11日の日曜日、世界中の目が、ケープタウン郊外のビクターフェルスター刑務所からの同氏釈放を報じるテレビに釘付けになった。

27年後の釈放、N・マンデラの足跡/ナショナルジオグラフィック.2013

マンデラは妻ウィニー、自身の家族、そして仲間たちを腕に抱いて再会を喜びました。

マンデラの 10 年/Google Arts & Culture

1962年に逮捕されたときは44歳、それから27年間にわたって獄中で闘い、1990年に釈放を実現したときは71歳になっていました。

企画展「ネルソン・マンデラと日本の反アパルトヘイト」/大阪人権博物館[リバティおおさか]
圧倒的な存在感!刑務所の前に現れたマンデラ

 予定より遅れること1時間余り。午後4時15分ごろ、自動車の列が刑務所の門に差し掛かった。銀色のトヨタ車のドアが開き、姿を見せたのは、マンデラその人とウィニー夫人。30年近い獄中生活はマンデラの肉を落とし、頭を白髪まじりに変えた。

マンデラ釈放、南ア「夜明け」に一歩/Newsweek.2010

支持者を前にしてマンデラの顔にまず浮かんだのは、ためらいと困惑の表情だった。だが、刑務所の門を出るや、その顔に輝きが差した。マンデラはこぶしを突き上げて支持者に挨拶。まず片手が高く、次いでもう一方の手が上がった。

マンデラ釈放、南ア「夜明け」に一歩/Newsweek.2010

刑務所のゲートの前で演説したマンデラは、人々の自由を求める闘いを称えました。

マンデラの 10 年/Google Arts & Culture

(前略)ふたたび世界のメディアの前に現れたマンデラは、若き日の姿とは見違えるほどに痩身で、圭角のとれた威厳ある風貌を備えていた。

時事解説:和解の政治家、ネルソン・マンデラ/アジア経済研究所

現与党アフリカ民族会議(African National Congress、ANC)で反アパルトヘイト運動時代からのベテラン活動家であり、実業家のシリル・ラマフォサ(Cyril Ramaphosa)氏が主催した朝食会の席で、ラマフォサ氏はマンデラ氏釈放の時を振り返った。「獄中で27年間も過ごしてきた男が、釈放されようとしていた。しかし彼はまったく穏やかで、落ち着き払っていた。今の若者だったら『なんてクールなんだ』と言っただろう」。1990年の2月11日、釈放後の第1歩を踏みしめるマンデラ氏を歓迎するため、ビクター・フェルスター(Victor Verster)刑務所(現ドラケンステイン刑務所)の前に集まった一団の中にラマフォサ氏はいた。

マンデラ氏釈放から20周年、祝福する南アフリカ/AFPBB News.2010
刑務官たち最大級のリスペクトを送った!

マンデラを収容していた側の人間もマンデラの人柄に魅せられていた。彼らは2月11日の日曜日早朝、刑務所長からマンデラが解放されることを告げられ至急その準備に取り掛かったそうだ。「一番大事なことは刑務所内に外部の人間を侵入させないことだった。」と語るのは当時の刑務官の1人ギリンガムさん。彼はマンデラの出所手続きを行った人物だ。手続きがすべて終わった後、マンデラは家族とのひと時を過ごし、刑務所のスタッフ一人一人と握手を交わしたそうだ。「マンデラは『Higher than Hope』という活動家の本をくれた。刑務所内でもマンデラは親切で優しい人物だった。出所を知った瞬間から、南アフリカという国が新しい方向へ向かうことを感じ取った」そうだ。

【アフリカ発!Breaking News】南アフリカの建国記念日・・・20年前マンデラが解放された日。(南ア)/Techinsight.2010
「アパルトヘイトは終わった」

それは、20世紀の決定的な瞬間だった。世界で最も名の知られた政治犯を釈放することにより、フレデリク・デクラーク(Frederik de Klerk)大統領は、ある明確なメッセージを発信した。数百年にわたって従属させられてきた南アフリカの数百万人の黒人も、もうすぐ自由になる──アパルトヘイトは終わったのだ。

マンデラ元大統領死去、「虹の国」南アフリカの父/AFPBB News.2013

「ハラレ宣言を継続せよ」

2月11日に釈放されたマンデラは,12日にゲープタウンでの記者会見でハラレ宣言にもられた前提条件のうちこの時期にまだ実現していない項目を南ア政府に要求し,さらに先進諸国に対してはそれが実現するまで対南ア経済制裁を継続することを訴えた。

マンデラ釈放後の南アフリカ共和国(小特集 民主化 への胎動?)(p.25)/林 晃史.アジア経済研究所.1990-09
ハラレ宣言って?

ハラレ宣言は、1989年月にアフリカ統一機構特別委員会が承認した、南アフリカの白人政府と ANC が対話による交渉を進めるための前提条件を定めた宣言である。

南アフリカにおける人権構築の軌跡 : アフリカ民 族会議の権利要求を中心に/木村 光豪.關西大學法學論集.関西大学学術リポジトリ
その日、国内は極度の緊張状態のなかにあった

 国外にいた人たちの大半は、彼が釈放された「2月11日」を勝利の日として記憶しているだろう。だが国内では当時、緊張が高まり、将来への不安が増していた。

マンデラの魔法は今も健在/Newsweek.2010

 少数派である白人の多くは、マンデラの釈放後の演説が内戦の引き金になるおそれがあると考えていた。アパルトヘイト撤廃をめざすアフリカ民族会議(ANC)の武装闘争を支持すると、マンデラが語ったからだ。

マンデラの魔法は今も健在/Newsweek.2010

 一方、黒人たちは、当時の白人大統領F・W・デクラークのことを誠実な人間と評したマンデラに不信感をいだいた。

マンデラの魔法は今も健在/Newsweek.2010

大混乱のケープタウンに現れたネルソン・マンデラ!

CAPE TOWN LIVE/YouTube

 数分後、マンデラは車に戻り、約65キロ離れたケープタウンに向かった。ケープタウンでは黒人グループに警官が発砲する事件が起こり、マンデラ到着を前に混乱も心配されていた。

マンデラ釈放、南ア「夜明け」に一歩/Newsweek.2010

 世界は彼の釈放を祝したが、ケープタウンは大荒れの状態。酔った暴漢たちが、マンデラの姿を見ようと集まった群衆に乱暴を働き、少なくとも2人の命を奪った。

マンデラの魔法は今も健在/Newsweek.2010

 だが、マンデラが市庁舎のバルコニーに現れるころには、衝突も収まっていた。釈放されたマンデラの第一声を聞こうと、市庁舎前は人の波で埋まった。

マンデラ釈放、南ア「夜明け」に一歩/Newsweek.2010
歴史に刻まれる伝説の演説

世界中に放送されたこの集会でマンデラは、「われわれの闘いは決定的瞬間を迎えた。自由への歩みは後戻りできない」と述べた。

ネルソン・マンデラ、自由への闘争/ナショナルジオグラフィック.2013

「私は預言者としてではなく、人民に仕える奉仕者としてここに立っている。あなた方の根気強く英雄的な犠牲行為のおかげでここに立つことができた。そうであればこそ、残された人生を皆さんに委ねようと思う」

「最後の日まで闘い続ける」、マンデラ元大統領語録/REUTERS.2013

「アパルトヘイト犯罪が起きたことは、消すことのできない影として人類史に永久に刻まれるだろう。後世の人々はこう聞くはずだ。世界人権宣言が採択された後、どんな過ちが起きてこの仕組みが出来上がったのかと」

「最後の日まで闘い続ける」、マンデラ元大統領語録/REUTERS.2013

このスピーチはマンデラ元大統領にとって釈放後最初の大演説となり、少数派の白人による支配が終焉(しゅうえん)を迎えたように、同国が生まれ変わる上で重要な瞬間だった。

南アの優勝パレードツアー終了、終着地はマンデラ氏ゆかりの地/AFPBB News.2019

250,000人にものぼったと言われている観衆は、この未来の南アフリカ大統領へ喝采を送り、そして世界中の人々もその祝福の輪に加わったのです。

釈放されたネルソン・マンデラがスピーチを行った ケープタウン・シティホール/南アフリカ観光局
マンデラが27年ぶりに自宅に帰宅

彼の自伝「自由への長い道-TheLongWkt Feedomでは、1990年、27年にもわたる獄中生活を終えて帰ってきたこの家について、次のように描写されています。「あの夜、私はウィニー(当時 の妻)とオーランドウエストにある8115の家に戻ってきた。その時はじめて、私は監獄から出て自由 の身になったのだということを心底実感した。私にとって8115の家は私の世界の中心であり、精神的 にも非常に重要な地点として位置づけられている。」

南アフリカの歴史を物語る マンデラ・ハウス/南アフリカ観光局

マンデラ釈放の裏に1人のフランス人の存在!

ANNnewsCH/YouTube

長い間ベールに包まれていたマンデラの釈放作戦「平和への策略」。そのプロセスに’謎のフランス人ビジネスマン’が、アメリカやキューバまでも巻き込んで複雑なアフリカの政治状況を秘密裏に結び合わせていた。

映画「ネルソン・マンデラ釈放の真実」――無私の行動で歴史を動かしたビジネスマン/クリスチャン新聞オンライン.2014

ある日、反アパルトヘイトの精神に目覚めた「謎のフランス人ビジネスマンのジャック氏」ことオリヴィエは、投獄されているマンデラ氏を解放することこそが南アフリカに平和をもたらすと考え、服役中のマンデラ氏解放の極秘任務に携わった。

ネルソン・マンデラ釈放に尽力した“謎のフランス人”、たった一度の会合振り返る/シネマトゥデイ.2014

オリビエは、ビジネスで培った人脈を駆使し、南アと周辺アフリカ諸国、フランス、アメリカの要人と地域和平の交渉を進めていく。6つの政府と3つの武装集団を相手に究極に複雑なパズルを解いた結果、大規模な捕虜や政治犯の交換を実現。さらに彼の活動は1988年のロンドンやカイロでの和平会議、コンゴで行われた南アと周辺国の関係改善に向けた話し合いへとつながっていく・・・。

和平への“策略”~アパルトヘイト撤廃 秘録~ /BS世界のドキュメンタリー. NHK BS1

 またその尽力にもかかわらず、マンデラ氏とは一度、朝食を共にしただけだというオリヴィエは「その日、わたしはカメラを忘れてしまってね。だからといって『カメラを忘れちゃった』と言うのはあまりにも恥ずかしい。マンデラさんから『写真を撮ろう』と言われても、『わたしはいいよ』と言うしかなかった。だから二人の写真はないんだよね」と笑ってみせる。

ネルソン・マンデラ釈放に尽力した“謎のフランス人”、たった一度の会合振り返る/シネマトゥデイ.2014
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27年間囚われ、後の南アフリカ初の黒人大統領に就任したマンデラ氏の感動の実話を映画化!1968年アパルトヘイト政策下の南アフリカ共和国。刑務所の下士官ジェームズ・グレゴリーは、最悪のテロリストとされるマンデラの担当に抜擢される。任務に忠実なグレゴリーだったが、マンデラという人物に触れ、彼が自由のために払っている犠牲を知るにつれ、次第にマンデラに魅了され、彼が目指す平等な社会に憧れていく…。(「Oricon」データベースより)

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