《九龍城①》一度入れば二度と出ることができない・・・かつて実在した東洋の暗黒迷宮【世界のスラム街】

今回はかつて香港に実在した「東洋の暗黒迷宮」として知られる九龍城を探ります。

この場所は、世界のスラム街の中でも特に有名で、複雑で密集した構造、法の及ばない社会状況で知られていました。

一度入ると二度と出られないと言われたこの迷宮のような街は、多くの秘密とストーリーを抱えていました。

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大都市香港に存在していた高層スラム、「City of darkness」こと九竜城。それはどのように生まれ、多くの人々がその過酷な環境で生活できたのはなぜか? 取り壊しを前に住人達を取材した様子、歴史を収録。(「MARC」データベースより)

Kowloon Walled City

東洋の魔窟「九龍城(九龍寨城)」

Wall Street Journal/YouTube

『九龍城(きゅうりゅうじょう・Kowloon City)』は香港にある歴史的な地域であり、ここには同名の九龍城と呼ばれる超高密度のスラム街が存在していました。

現地の香港では『九龍城砦(きゅうりゅうじょう)』と呼ばれていますが、『九龍寨城(きゅうりゅうさいじょう)』が正式名称になります。

九龍城は、もともと中国の軍事施設があった場所で、19世紀末から20世紀半ばにかけて、中国、イギリス、香港の3政府がどれも管轄していない「三不管」の無法地帯となりました。

一度入れば二度と出られない大迷宮

九龍城は、その密集した建物や複雑に入り組んだ構造から「東洋の魔窟」とも呼ばれ、一度入ると出ることが困難と称されるほど、迷路のような構造をしていました。

内部の建物は非常に狭く、ほとんど隙間なく建てられていました。この密集した建築は、空間を最大限に活用するためのものでしたが、同時に非常に複雑な環境を生み出していました。

建物間には狭い通路や路地が無数に広がり、その多くが3メートルにも満たない狭さでした。さらに階層も重なり合っており、建物の下を通るような圧迫感のある空間も存在していました。

このような構造のため、地域全体が迷路のように見えました。

さらに、その間には無数の電線や配管が飛び交っており、これが九龍城の錯綜した印象を一層強めていました。

日の光はほとんど届かない異世界

日の光がほとんど届かないこの場所では、窓から投げ捨てられたゴミがビルの間に張られたワイヤーネットに引っかかり、その下にはトンネルのような場所も形成されていました。

しかし、これらの狭い通路やトンネルは、九龍城の住民たちの生活の一部であり、彼らはこの独特の環境に適応して暮らしていました。

その様子は、まるで異世界にでも迷い込んだかのような雰囲気がありました。

違法建築につぐ違法増築

無法地帯であったため、建築基準も適用されていませんでした。そのため、住人たちは自分たちで自由に建物を改築・増築していきました。

その結果、九龍城の建物の外観はまちまちで、古い木造家屋、近代的なコンクリート建築物、鉄板の屋根やフェンスで作られた仮設住宅、積み上げられたコンテナや廃材で作られた宿泊施設など、さまざまな形態の建物が入り組んでいました。

その建物表面には配線やケーブルが密集して張り巡らされており、屋上にはテレビアンテナが立ち並んでいました。建物全体を覆うように水平に張り巡らされた黒い紐も目立っていました。

建物間の距離が非常に狭い中で、電気や上下水道が整備されていなかったため、住民たちは自分たちで水道や電気を引き込む必要がありました。

その結果、パイプ類や電気配線が建物内の廊下の天井を伝って走る光景が見られました。

無免許・無資格は当たり前!無法地帯での生活

九龍城は、「三不管」という言葉で呼ばれていました。これは、文字通り「三つの無視(三不管)」という意味で、政府による管理、規制、介入がほとんどまたは全くない場所、ということです。

九龍城は、法的な監視が少ないために、不法な業種や規範を持たない人々が集まる場所として知られていました。

多様な食文化

そんな中で、異なる国籍や文化背景を持つ人々が集まり、多様な食文化が共存していました。

麺類や中華料理、インドカレー、パキスタン料理、タイ料理など、様々な料理が食べられるグルメタウンでもあったのです。

特に有名だったのは、「寨城牛腩」という料理で、多くの人々に愛されていました。

九龍城の住民たちは親切で、困っている人たちによく食料を提供しており、社会的なサポート機能も果たしていました。

九龍城の中には工場も存在!でも存在そのものが危険だった!?

また、他の地域と比べて法律が緩いため、資格や証明書がなくても専門的な仕事に就く事ができました。そのため、住民たちは自分たちの技能や特技を生かして、様々な職種で働いていました。

多くの小規模な工場も存在しており、おもちゃやプラスチック製品、食品などが生産されていました。賃貸料が定額であったため、安定した生活基盤を求める人々にとっては魅力的な場所だったのです。

しかし、これらの工場は非常に狭いスペースで操業していたために、いくつかの問題も生じていました。

九龍城での安全への問題

まず、廃棄物の処理が困難でした。

狭いスペースのため、適切なゴミ処理設備がなく、ゴミや廃棄物が無秩序に捨てられることがありました。これは衛生面での問題を引き起こすだけでなく、環境汚染の原因になっていました。

また、火災のリスクも非常に高まっていました。

狭いスペースでの工場操業は、火災が発生しやすい状況にあり、事故が起きる可能性が常に潜んでいました。

さらに、建物が密集しているため、火災が発生すれば、瞬く間に他の建物に炎が広がり、大規模な被害をもたらすことがありました。

裏社会と表裏一体の生活

九龍城は「三不管」の無法地帯であったため、様々な違法行為が公然と行われていました。

ストリップ劇場や賭博場が存在し、売春やアヘンの密売も横行していました。また、窃盗や詐欺、マフィアの活動も広がっており、まらにスラム街といえる状況でした。

香港警察は、このような状況を把握していましたが、警察であっても無法地帯である九龍城の内においそれと踏み入る事はできず、治安の維持ができない状況でした。

これは、建物が密集し、迷路のように入り組んだ構造が、警察の活動を妨げる要因となっていたといわれています。

病院や学校も!九龍城の中だけで十分生活が可能

危険な場所でありながらも、暮らしいくために必要な施設は全て揃っていました。

例えば、必要な小学校や保育園があり、子どもたちが教育を受けることができました。また、病院や診療所もあったため、住民たちは医療サービスを受けることが可能でした。

さらに、雑貨屋なども存在し、日常生活に必要なものが手に入る環境が整っていました。

ごみ収集はなし!遊び場は「ゴミだらけの屋上」

九龍城ではゴミ収集が行われなかったため、古くなったテレビや家具、捨てられたマットレスなどのかさばるゴミはビルの屋上に放置されることがよくありました。

しかし、屋上は数少ない太陽の光が当たる場所であったため、住民たちはそのスペースを出来る限り有効活用していました。

屋上では、運動をしている住人や子供たちが遊ぶ姿が見られ、リラックスの場としても使われたり、伝書鳩レースなどのイベントも開催されていました。

このように、九龍城の住民たちは制約の中で創意工夫し、利用可能なスペースを最大限に活用して、生活を豊かにする努力をしていました。

安らぎの場所……学校や病院は「中庭」

まさに、スラム街の印象の九龍城ではありましたが、建物に囲まれた中には中庭が存在していました。

この中庭は、九龍城の中で唯一の緑地帯であり、公共の集会場として利用されることがありました。住民たちにとっては、憩いの場として親しまれていました。

たった一つの暗黙のルール!それは“高さ”

法の支配が及ばない無法地帯ではありましたが、香港国際空港からの飛行機の進入路上に位置していたため、航空安全上の問題から、建物の高さには制限が設けられていました。

この制限により、建物は14階以下に抑えられていました。しかし、その範囲内であれば建築規制の対象外とされました。

その結果として、九龍城は非常に狭い土地に無数の建物が建てられることになり、密集度が高まっていきました。

人多すぎ!?人口密度も半端ない!!

九龍城はかつて世界で最も人口密度が高い場所としても知られていました。

面積がわずか0.026平方キロメートルに約5万人の住民が生活していたとされており、その人口密度は約1,900,000人/平方キロメートルにも上るといわれています。

これに対して、現在のニューヨーク市マンハッタン区の人口密度は約27,000人/平方キロメートルです。つまり、九龍城の人口密度は、マンハッタンの約70倍程度に相当していました。

無法地帯を取り仕切っていたのは“マフィア”

九龍城の無法地帯としてのイメージは、マフィアである「三合会」の存在が大きく寄与していました。

三合会の組員は、九龍城でアヘン窟、売春宿、犬肉を扱う飲食店などを運営し、ある種の支配権を握っていました。このような非合法ビジネスは、秩序のなさと無政府状態を利用して繁栄していました。

香港警察は、三合会の危険性を認識していましたが、九龍城の住民は、外の世界である政治への関与が薄く、また九龍城の複雑な地形や住民間での犯罪組織の影響力を考慮すると、容易に取り締まることができませんでした。

一部の警察関係者は、三合会から賄賂を受け取っており、摘発を回避するために暗躍していました。

外側から内側まで全てが違法!言わずもがな犯罪多発地帯!!

九龍城の、暗く迷路のような構造と、無法地帯という危険性によって、外の世界の人はここに簡単に足を踏み入れる事は来ませんでした。

一方で、犯罪者や密売人はこれらの特性を利用して、九龍城に逃げ込むことが多かったといわれています。

警察もほとんどがいなかったため、犯罪者たちは自由に行動することができました。そのため、さらに九龍城は治安が悪いという評判が広まり、多くの人々から恐れられる存在となっていきました。

住民にとっては愛すべき地元!普通に平和な暮らしを営む

しかし、実際には九龍城は一種の自律的な社会であり、住民自身が九龍城の維持・運営を行っていました。

市民団体「九龍城砦委員会」は、砦内の紛争の調停や公共サービスの提供などを行っており、住民間のコミュニケーションや相互支援が活発に行われていました。

また、ごみ処理や節電、消防団などの生活に必要な施設や取り組みも行われており、九龍城の住民は困難な状況の中でも自分たちの力で生活を維持しようと努力していました。

不動産取引も行われており、一軒家が数十万ドルで取引されることもあったと言われています。しかし、これらの取引は法的に認められていなかったため、リスクをともなうものでした。

神秘的な自給自足の社会

それでも、九龍城出身の人々は、ここを故郷として愛し、無法地帯の中での自立したコミュニティが形成されていました。

そのため、九龍城は「神秘的な自給自足の社会」とも言われ九龍城で生活をする人たちは、外の世界との接触をほとんど持たずに暮らすことができました。

実際に、九龍城で生まれ一歩の外に出ることなく生涯を終えた人もいたといわれています。

住民に手を出すのは御法度!マフィアと住民が手を組みココを地元を守る

また、九龍城の裏社会では、麻薬の売買やその他の犯罪行為が公然と行われていましたが、一部の犯罪組織は住民に手を出すことを禁止していたといわれています。

住民たちの中には、自警団を組織して治安を維持し、犯罪に対しても積極的に取り組んでいたという話もあります。

そして、九龍城が取り壊される際には、裏社会のボスや政治家、住民が一丸となって香港警察と戦いました。この様子は当時、世界中から注目を集めました。

読者の皆様へ

このように混沌とした環境の九龍城でしたが、住む人々は助け合いながら生活し、必要なものを自給自足でまかなっていました。学校や病院の建物にも中庭が設けられ、日が当たるように設計されていました。

これは、住民が子供とお年寄りを大切にしている証拠であり、彼らがコミュニティとして機能していたことを示しています。

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