「九龍城」という名前を聞いたことがありますか?これは、かつて香港に存在した世界的に有名なスラム地区でした。迷路のような狭い路地、家々が複雑に絡み合い、廃墟のような外観など、九龍城はまさに迷宮のようでした。この記事では、九龍城スラムの文化、生活の厳しさについて解説し、世界中から注目されたこの驚くべき場所の魅力を紹介します。
Kowloon Walled City
東洋の魔窟「九龍城(九龍寨城)」
九龍城(Kowloon City)は香港にある歴史的な地域で、かつては九龍城砦と呼ばれる超高密度のスラム街が存在していました。九龍城砦は、もともと中国の軍事施設があった場所で、19世紀末から20世紀半ばにかけて、中国、イギリス、香港の3政府がどれも管轄していない「三不管」の無法地帯となりました。
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一度入れば二度と出られない大迷宮
九龍城は、その密集した建物や複雑に入り組んだ構造から「東洋の魔窟」とも呼ばれ、一度入ると出ることが困難とされていました。建物は非常に狭く、階層が重なり合っているため、迷路のように見えました。
また、建物の間には狭い通路や路地があり、無数の電線や配管が飛び交っていたことから、まるで迷宮のように錯綜した印象を与えていました。
日の光はほとんど届かない異世界
まるで異世界に迷い込んだかのような雰囲気がありました。日の光がほとんど届かず、狭い路地が無数に広がり、そのほとんどが3メートルにも届かない狭さでした。中には建物の下を通る道もあり、圧迫感がある空間が広がっていました。
窓から投げ捨てられたゴミがビルの間に張られたワイヤーネットに引っかかり、その下にはトンネルのような場所が形成されていました。これらの狭い通路やトンネルは、九龍城砦の住民たちの生活の一部であり、彼らはこの独特の環境に適応して暮らしていました。
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無免許・無資格は当たり前!無法地帯での生活
九龍城は、異なる国籍や文化背景を持つ人々が集まり、多様な食文化が共存していました。麺類や中華料理、インドカレー、パキスタン料理、タイ料理など、様々な料理が食べられる場所でした。特に有名だったのは、「寨城牛腩」という料理で、多くの人々に愛されていました。
住民は困っている人たちに食料を提供することで知られており、社会的なサポート機能も果たしていました。また、他の地域と比べて法律が緩く、資格や証明書がなくても仕事をすることができました。住民たちは自分たちの技能や特技を生かして、様々な職種で働いていました。
そのため、九龍城は「神秘的な自給自足の社会」とも言われていました。この独特のコミュニティは、様々な背景を持つ人々が協力し合い、助け合うことで成り立っていたのです。
九龍城の中には工場も存在していた!でも存在そのものが危険だった!?
九龍城の内部は、多くの小規模な工場が存在し、おもちゃやプラスチック製品、食品などを生産していました。賃貸料が定額であったため、安定した生活基盤を求める人々にとって魅力的な場所でした。しかし、これらの工場は非常に狭いスペースで操業していたため、いくつかの問題が生じていました。
まず、廃棄物の処理が困難でした。狭いスペースのため、適切なゴミ処理設備がなく、ゴミや廃棄物が無秩序に捨てられることがありました。これは衛生面での問題を引き起こすだけでなく、環境汚染の原因ともなりました。
また、火災の危険性が高まっていました。狭いスペースでの工場操業は、火災が発生しやすい状況を作り出していたため、事故が起きる可能性が常に潜んでいました。さらに、建物が密集しているため、火災が発生すれば、瞬く間に他の建物に炎が広がり、大規模な被害をもたらすことがありました。
飲食店や学校までも!九龍城の中だけで十分生活が可能
非常に密集した地域でしたが、生活に必要な施設が揃っていたとされています。例えば、小学校や保育園があり、子どもたちが教育を受けることができました。また、病院や診療所があったため、住民たちは医療サービスを受けることが可能でした。
さらに、飲食店や雑貨屋なども存在し、日常生活に必要なものが手に入る環境が整っていました。そのため、九龍城砦で生活をする人たちは、外界との接触をほとんど持たずに暮らすことができました。実際に、九龍城砦から出ることなく生涯を終えた人もいたと言われています。
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裏と表が隣り合わせ
ココは「三不管」(中国、英国、香港の3政府のどれも管理しない)の無法地帯であり、そのため様々な違法行為が行われていました。ストリップ劇場や賭博場が存在し、売春やアヘンの密売も横行していました。また、窃盗や詐欺、暴力団の活動も広がっており、治安は非常に悪い状態でした。
香港警察は、このような状況を把握していましたが、九龍城砦内への出入りは非常に困難であり、治安の維持ができない状況でした。建物が密集し、迷路のように入り組んだ構造が、警察の活動を妨げる要因となっていました。
違法建築につぐ違法増築
「無法地帯」であり、法律や建築基準が適用されない状況でした。そのため、住人たちは自由に建物を改築・増築することができました。
建物の外観はまちまちで、古い木造家屋、近代的なコンクリート建築物、鉄板の屋根やフェンスで作られた仮設住宅、積み上げられたコンテナや廃材で作られた宿泊施設など、さまざまな形態の建物が入り組んでいました。
建築資材も異なり、鋳鉄製のバルコニーやレンガやコンクリートで増築された部分など、バラバラな印象がありました。
また、建物表面には配線やケーブルが密集して張り巡らされており、屋上にはテレビアンテナが立ち並んでいました。建物全体を覆うように水平に張り巡らされた黒い紐も目立っていました。
建物間の距離が非常に狭く、電気や上下水道が整備されていなかったため、住民たちは自ら水道や電気を引き込む必要がありました。その結果、パイプ類や電気配線が建物内の廊下の天井を伝って走る光景が見られました。
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安らぎの場所……学校や病院は「中庭」
九龍城砦は、まさにスラム街の印象がありましたが、その中にもビルに囲まれた中庭が存在していました。この中庭は、九龍城砦内で唯一の緑地帯であり、公共の集会場として利用されることがありました。住民たちにとっては、憩いの場として親しまれていたのです。
九龍城砦は混沌とした環境でしたが、住む人々は助け合いながら生活し、必要なものを自給自足でまかなっていました。病院も存在し、学校や病院の建物には中庭が設けられ、日が当たるように設計されていました。
これは、住民が子供とお年寄りを大切にしている証拠であり、彼らがコミュニティとして機能していたことを示しています。
ごみ収集はなし!遊び場は「ゴミだらけの屋上」
九龍城砦ではゴミ収集が行われなかったため、古くなったテレビや家具、捨てられたマットレスなどのかさばるゴミがビルの屋上に放置されることがありました。しかし、屋上は数少ない太陽の光が当たる場所であったため、住民たちはそのスペースを活用していました。
屋上は運動や子供たちの遊び場、リラックスの場として使われたり、伝書鳩レースなどのイベントも開催されていました。このように、九龍城砦の住民たちは制約の中で工夫し、利用可能なスペースを最大限に活用していました。
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たった一つの暗黙のルール!それは“高さ”
名実ともに法の支配が及ばない無法地帯、香港国際空港からの飛行機の進入路上に位置していたため、航空安全上の問題から、建物の高さには制限が設けられていました。
この制限により、建物は14階以下に抑えられ、その範囲内であれば建築規制の対象外とされました。その結果、九龍城砦は非常に狭い土地に無数の建物が建てられ、密集度が高まりました。
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人多すぎ!?人口密度も半端ない!!
九龍城砦はかつて世界で最も人口密度が高い場所の一つでした。面積わずか0.026平方キロメートルに約5万人の住民が生活していたとされており、その人口密度は約1,900,000人/平方キロメートルにも上ると言われています。
これに対して、現在のニューヨーク市マンハッタン区の人口密度は約27,000人/平方キロメートルです。したがって、九龍城砦の人口密度は、ニューヨーク市マンハッタン区の約70倍程度に相当します。
無法地帯を取り仕切っていたのは“マフィア”
九龍城の無法地帯としてのイメージは、マフィアである三合会の存在が大きく寄与していました。彼らは、九龍城砦でアヘン窟、売春宿、犬肉を扱う飲食店などを運営し、一種の支配権を握っていました。このような非合法なビジネスは、秩序のなさと無政府状態を利用して繁栄しました。
香港の警察は、三合会の活動の危険性を認識していましたが、政治への関与が薄く、また九龍城の複雑な地形や住民の間での犯罪組織の影響力を考慮すると、容易に取り締まることができませんでした。
一部の警察関係者は、賄賂を受け取ることで三合会との関係を維持し、摘発を回避していました。
外側から内側まで全てが違法!言わずもがな犯罪多発地帯!!
紛れもなく違法建築物であり、増築や改築が繰り返されていました。それにより、外観は迷路のように入り組み、内部には暗くて狭い廊下や急な階段、小さな部屋が無数に存在しました。この複雑な構造は、外部からの侵入者にとって非常に厄介なものでした。
犯罪者や密売人は、ココの複雑な構造を利用して逃げ込むことが多かったと言われています。警察のほとんどが不在であったため、犯罪者たちは自由に行動することができました。そのため、九龍城は治安が悪いという評判が広まり、多くの人々から恐れられる存在となっていました。
住民にとっては愛すべき地元!普通に平和な暮らしを営む
九龍城は一種の自律的な社会であり、住民自身が砦内の統治や公共サービスの提供、不動産取引などを行っていました。市民団体「九龍城砦委員会」は、砦内の紛争の調停や公共サービスの提供などを行っていたため、住民間のコミュニケーションや相互支援が活発に行われていました。
また、ごみの処理や節電、消防団などの生活に必要な施設や取り組みも行われており、九龍城砦の住民は困難な状況の中でも自分たちの力で生活を維持しようと努力していました。
不動産取引も行われており、一軒家が数十万ドルで取引されることもあったと言われています。しかし、これらの取引は法的に認められていなかったため、リスクを伴うものでした。
それでも、九龍城出身の人々は、ここを故郷として愛し、住民同士の絆が非常に強かったことが伝えられています。
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住民に手を出すのは御法度!マフィアと住民が手を組みココを守護
九龍城砦の裏社会では、麻薬の売買やその他の犯罪行為が行われていましたが、一部の犯罪組織は住民に手を出すことを禁止していたと言われています。住民たちは、自警団を組織して治安を維持し、犯罪に対しても積極的に取り組んでいたとされています。
九龍城の取り壊しの際には、裏社会のボスや政治家、住民が一丸となって香港警察と戦い、その様子は世界中から注目を集めました。
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【世界のスラム街】香港の歴史を刻む、驚異的な建築物の物語《九龍城Part 2》