【世界のスラム街】香港の歴史を刻む、驚異的な建築物の物語《九龍城Part 2》

九龍城砦は、香港の九龍半島にあった城壁で、豊かな歴史や文化遺産を持っていました。しかし、1980年代には、この地域はスラム化し、貧困と犯罪が横行するようになりました。

その後、香港政府は九龍城砦の解体を決定しましたが、この地域の重要性や文化的な価値を認識した人々の努力により、一部が保存され、現在は九龍城公園として観光スポットとして知られています。

この記事では、九龍城砦の歴史、文化的な背景、スラム化した過去から現在の状況までを掘り下げ、九龍城公園がどのようにして保存されたか、そしてこの地域が今後どのような方向に進んでいくのかについて考えてみます。

【世界のスラム街】一度入れば二度と出ることができない……。かつて実在した東洋の暗黒迷宮「九龍城」《九龍城Part 1》
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城砦跡地に建てられ、40年の間に異常な緻密さで増殖した鉄筋コンクリートの高層建築群「九竜城」。今は解体されて既に姿を消した九竜城の、聖と俗を抱え込んだ「なんでもあり」の濃密世界を超詳細断面図や写真で復元。(「MARC」データベースより)

Kowloon’s Lawless Legend

伝説になった無法地帯「九龍城砦の歴史」

South China Morning Post/YouTube

九龍城の歴史は、宋(ソン)王朝時代にさかのぼります。その後、清(チン)王朝時代に九龍半島が清朝とイギリスの間で取り決められた新界地区の境界線の内側に位置することから、砦が建設されました。このことから九龍城は九龍城砦とも言われています。

始まりは海賊から守るための軍事要塞

九龍城の歴史は、犯罪ではなく塩から始まります。

宋の時代(960-1279)には、九龍地域が新安県(後に宝安県、現在の深圳市)の優良な塩田のひとつであったことから、この地域は経済的に重要な役割を果たしていました。

当時、九龍地域は多くの塩を産出していたため、海賊の活動が盛んで治安が悪化していました。

海賊に対抗するため、九龍城のあった場所に軍事要塞が建設されました。この要塞は、海賊から地域を守る目的で建設されたもので、その後も九龍地域の安全を守る役割を果たしていました。

一時的にモンゴル人から追いやられた宋朝の宮殿

短い期間ではありますが、1277年には九龍城が宋朝の若き皇帝の一時的な宮廷となりました。この時期、モンゴル帝国の侵略が中国南部に及び、宋朝の皇帝は国を守るために南に逃れました。九龍地域は、その戦略的な位置や軍事要塞の存在から、皇帝にとって適切な場所であったとされています。

しかし、結局、宋朝はモンゴル帝国によって滅亡し、1279年にモンゴル帝国の元朝が成立しました。

地元の人からその砦は「九龍城」と呼ばれた

この時代、地元の人々から九龍城と呼ばれていました。長い間、それほど目立った存在ではありませんでしたが、1668年に大きな変化が訪れました。この年に、30人もの衛兵から成る守備隊が配備され、監視台が設置されました。これにより、九龍城はより重要な軍事拠点となり、その地位が向上しました。

駐屯地を増設!砦として発展していく

衛兵の数が後に10人に減少しましたが、1810年には海岸近くにさらに駐屯地が設立されました。九龍城は、香港島から海を越えてわずか数百メートルほどの距離にあり、戦略上重要な場所でした。徐々にその名は知られるようになり、九龍地域はさらに発展していきました。

アヘン戦争に負け香港はイギリスの支配下!だが九龍半島は中国の領土のまま

1842年、アヘン戦争の結果、南京条約が結ばれました。この条約により、香港島はイギリスに割譲されました。しかし、この時点では九龍半島や新界はまだ清(中華帝国)の領土のままでした。

中国政府が九龍城島の先端に城を建設し兵を増強!

1843年に九龍半島の先端で九龍城砦の建設が開始されました。この砦には、高級官吏のための執務室や、150人分の兵士用兵営が含まれており、長さ約200メートル、幅約120メートルの壁に囲まれていました。

九龍城の建設された砦は、新たなイギリス植民地に近接していたため、中国軍の存在を示す目的で建設されました。

城壁工事が完了!!「九龍城砦」が誕生

1847年に九龍城の本格的な城壁が竣工しました。城壁の厚さは1.6~3.3メートルで、4つの楼(城門)、32門の大砲が設置され、城内には巡検司や武帝廟などの施設が置かれました。城壁は白鶴山の南斜面に半月形をした構造で、風水の考えに則って造られていました。

また、風水の関係から、白鶴山の頂上まで外城が付設されていました。この城壁は、九龍半島の防衛と、イギリス植民地との境界を確保するために建設されました。

第二次アヘン戦争に負けた中国‥。九龍半島もイギリスの支配下

1856年、香港籍の貨物船アロー号が密輸容疑で清(中国)に拿捕された「アロー号事件」をきっかけに、英国と清の間で「第二次アヘン戦争」(1857年~1858年)が勃発しました。この戦争の結果、英国は九龍半島とその西に浮かぶ昂船洲(ストーンカッターズ島)を清から租借することとなりました。

中国政府は“九龍城砦”だけは譲らなかった

九龍城は、香港の拡大に伴って英国の支配下に入ることはありませんでした。それから30年間、イギリス政府は九龍城の支配権を得ようと交渉しましたが、中国政府はその要求に応じませんでした。

このため、九龍城は香港と中国の境界の中で、法的に曖昧な地域となりました。この法的な曖昧さが、九龍城砦の独特な発展を促す要因となりました。

イギリスの領土の中で「九龍城」だけは飛び地

1898年に新界地域がイギリスに租借される際、九龍城地区は特別な扱いを受けました。租借条約により、九龍城地区は「イギリスの香港防衛を妨げない」という条件付きで清国の一部として残されました。その結果、わずか0.026km2(約200m×120〜150m)のエリアが飛地化しました。

中国が九龍城を中国領地として踏みとどまらせた理由は、香港返還が99年後に約束されていたためです。全領土を渡さないことで、香港返還がスムーズに行われることを期待していました。

イギリスが中国の役人を追放!どこの統治下でもない無法地帯が誕生

九龍城は、清国の役人によって統治されていた時期がありましたが、役人たちが祝い事で爆竹を鳴らしたところ、イギリス側から「うるさいから出て行け!」と役人だけ送還されてしまいました。この事態により、九龍城は法的に曖昧な状況に陥りました。

イギリスは九龍城を接収することができず、自軍を進駐させることもできませんでした。これは中国との約束を破ることになるためです。一方で、中国側もイギリスに阻まれて管理者を派遣することができなくなりました。

その結果、九龍城は英国も中国の法律も適用されない無法地帯と化しました。その後、売春や薬物売買、賭博、違法行為が行われるようになり、多くの犯罪者が集まる不法地区へと変貌しました。

日中戦争の戦火が迫る中で香港政庁が強制立ち退き命令

1940年、日中戦争が進行し、中華民国政府が四川省に追い込まれつつある中、香港政庁は九龍城の住民に対して強制立ち退きを実施しました。この立ち退きで、老人院、旧龍津義学、曽姓の民家など一部建物を除き、50余軒の民家が一掃されました。

この強制立ち退きに対して、中国政府はイギリス公使および広州駐在イギリス領事に対し、厳重に抗議しました。中国は九龍城を自国領土とみなしており、イギリスによる強制立ち退きを主権侵害と捉えていたためです。

このような状況は、九龍城が法的に曖昧な地位にあったため、国際的な摩擦を引き起こす要因となりました。

旧日本軍が香港を占領!九龍城の城壁は取り壊し

1941年、日本軍が香港を占領した際、九龍城の城壁は取り壊され、その資材は近隣の啓徳空港の拡張工事に使用されました。この時期、イギリスと中華民国の間で行われていた九龍城の管理交渉は中断されました。

日本の占領によって、香港の政治状況が大きく変化し、両国の関心が他の問題に移っていったためです。

第二次世界大戦で敗戦した日本、九龍城はイギリスの植民地に戻る

戦後、香港はイギリスに返還されましたが、九龍城法的地位や管理状況はその後も曖昧なままでした。

マフィア「三合会」の管理下

1974年まで、犯罪組織「三合会」が九龍城を事実上の支配下に置いていたとされています。その期間、三合会は売春、賭博、麻薬取引などの犯罪活動を行い、九龍城は法の支配が及ばない無法地帯として機能していました。

「国民党」vs 「共産党」中国の内戦で大量の難民が九龍城へ流入

当時の中国大陸は、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の間で内戦が続いていました。この内戦により、多くの難民が安全な場所を求めて中国各地から逃れていました。

九龍城は、どの国家の主権も及ばない特異な状況にあり、法の支配が働かない無法地帯であったため、多くの難民がここに押し寄せました。

中華人民共和国成立!!さらに大量の難民が流入「巨大なスラム街に変貌」

1949年に中華人民共和国が成立すると、香港政庁の力が及ばない九龍城に、中国大陸からの難民が大量に流入しました。彼らはバラックを建設し、次第にスラム街として肥大化していきました。

当時の中国は社会主義国家であり、大陸からの難民が香港に殺到しましたが、香港市街では彼らを冷遇していたため、彼らは不干渉の九龍城に身を寄せることになりました。

違法建築ラッシュ

九龍城内は難民の流入により過密状態となり、住民たちは自分たちの手で建物を増築し始めました。しかし、九龍城は無法地帯であり、市民が独自のやり方で違法建築を行っていました。

火災によって木造民家が焼失…。九龍城はコンクリートの迷宮に姿を変えていく

1951年の大火災によって、九龍城内の木造民家が大部分が焼失しました。この出来事は、九龍城の再建と発展に大きな影響を与えました。火災の後、再建される際には、より耐火性に優れたコンクリートを用いた高層ビルが建設されました。

これにより、九龍城は従来の木造建築から、コンクリートで覆われた密集した高層ビル群へと変貌しました。

香港政府が取り壊し命令!住民は団結して取り壊し計画を停止させる

1963年、香港当局は九龍城の問題に対処するため、10年ぶりにこの地への介入を試みました。当局は都市の一部を取り壊し、住む場所を失う住民に対して付近の新しい不動産開発への引っ越しを提案しました。これは、九龍城の犯罪や貧困問題を解決することを目的としていました。

しかし、この計画が公表されると、九龍城のコミュニティはすぐに「九龍城取り壊し反対委員会」を組織し、香港当局の介入に対して抵抗を示しました。

住民たちは、九龍城が彼らの故郷であり、独自の文化やコミュニティが形成されていることを主張しました。この反対運動は、九龍城の取り壊し計画が一時的に停止される結果となりました。

暗黒迷宮「九龍城」が誕生!

1970年までに、九龍城は完全に高層ビルで取り囲まれ、独特の景観を形成していました。

この時代の九龍城は、過密で不法な建築が立ち並び、狭い路地が入り組み、まるで迷宮のような構造を持つようになりました。密集したビルの影響で、地上からは日光がほとんど入らず、暗く陰鬱な雰囲気が漂っていました。

この状況は、九龍城がさらに犯罪や貧困の温床となる一因となり、違法な賭博、売春、麻薬取引などの犯罪が蔓延しました。

しかし、同時にこの地域には、強いコミュニティの絆や独自の文化も根付いていました。九龍城は、香港と中国の法律から逃れた場所であり、多くの住民が安住の地として捉えていました。

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香港警察がパトロールを開始!三合会の支配が弱体化

1970年代中頃から、香港警察が九龍城内でのパトロールを開始しました。これにより、事実上、香港の法律が刑事事件に適用されるようになりました。当時、九龍城は犯罪や無法状態が蔓延していたため、警察の介入は地域の治安改善に寄与しました。

さらに香港当局は腐敗防止政策を推進し、犯罪組織である三合会の勢力を弱めていくことになります。これにより、九龍城の治安状況は徐々に改善されていきましたが、依然として過密で難民が住む不法建築の街であることに変わりはありませんでした。

しかし、警察のパトロールや当局の取り組みにより、九龍城の犯罪率は徐々に低下し、地域の安全性が向上していきました。

1970年代中頃から、香港警察は九龍城

電力会社が電気供給をスタート

1977年に香港の電力会社である中華電力が、九龍城に電気の供給を開始しました。これは、盗電による火災のリスクを軽減するためと、急増する工場による電力需要への対応のためでした。

ただし、中華電力はすべての住民に対して電気を供給するわけではなく、合法的な建物に対してのみ供給を行いました。

この電力供給により、九龍城の生活環境が少しずつ改善されるようになりました。しかし、依然として過密状態や不法建築が存在し、地域の問題は根本的に解決されてはいませんでした。

香港は誰のもの!?イギリスと中国が取り決めを行う

1984年に英国と中国は、香港の将来に関する合意を行い、「中英共同宣言」に調印しました。この宣言は、香港が中国に返還された後も「高度な自治」を維持し、中国本土の社会主義は香港に適用せず、「従来の資本主義体制や生活様式を返還後50年間維持する」と明記していました。

これは「一国二制度」と呼ばれる政策で、香港と中国本土は同じ国であるものの、異なる政治・経済制度を持つことが保障される内容でした。

AP Archive/YouTube
この話し合いで際立ったのが九龍城!

中国外務省は、九龍城を政治的駒として利用し、イギリスや他の国々に対して、香港の一部である九龍が「中国のものである」ことを示していました。そして、1898年にイギリスとの租借契約で設定された99年の期限が、迫っていたことから、香港返還問題は世界の注目を集めるようになりました。

香港が中国に返還!九龍城の取り壊しの方針を発表

1984年の「中英共同宣言」によって、香港は1997年に中華人民共和国に返還されることが決定しました。この合意を受けて、1987年に香港政庁は九龍城を取り壊し、その住民を強制移住させる方針を発表しました。

九龍城は無法地帯として知られ、犯罪や衛生問題が深刻な状況にあったため、当局はその改善を目指して取り壊しと移住を進めることになりました。

最盛期を迎える!約5万人が住む巨大な迷宮スラム

1970年代には、九龍城地区において、鉄筋コンクリートの建物が建設され始め、これによって人口密度が高まっていきました。その結果、1990年代には5万人を超える住民がこの地区に居住するようになり、さらなる無秩序状態が発生しました。

Rob Frost/YouTube

取り壊すために住民と交渉!

数年にわたって交渉が行われ、1991年11月時点で、再開発計画に対して未だ同意していなかったのはわずか457世帯。その頃には、住人3万3000人のほとんどは引っ越しを済ませていました。

機動隊突入!強制退去を開始

1992年初頭に九龍城寨の解体が始まる予定でしたが、強制退去された住民たちの抵抗や野宿が原因で作業が遅れました。

1992年7月2日、香港政府は最後の手段として機動隊を九龍城寨に送り込み、残った住民を強制的に退去させることを決定しました。当時、頑として立ち退きを拒んでいた住民たちは激しい抵抗を行いましたが、最終的には機動隊によって避難が行われ、九龍城寨の立ち退きが完了しました。

「九龍城」がついに解体

解体作業は1993年の春に始まり、約1年間かけて進行しました。九龍城は、非常に高い人口密度と無秩序に立ち並ぶ建物で知られていたため、解体作業は非常に困難でした。

1996年 「九龍寨城公園」開園

九龍城(九龍城砦)の跡地に建設された九龍城寨公園は、スラム街が取り壊されて再開発され、1996年に開園しました。この公園は、かつての城塞の歴史を伝えるために様々な施設が設置されています。

公園の正面には記念碑が立っており、1843年に清政府によって建設された九龍城砦の門の跡も残されています。公園内には中国式の建物が点在し、九龍寨城の歴史を伝える写真や家具が展示されているエリアも設けられています。

また、九龍寨城のミニチュアがあり、当時の街並みを見学することもできます。

九龍城寨公園は、現代の緑豊かな都市公園として機能しているだけでなく、かつての九龍城砦の歴史や文化を後世に伝える貴重な場所となっています。

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城砦跡地に建てられ、40年の間に異常な緻密さで増殖した鉄筋コンクリートの高層建築群「九竜城」。今は解体されて既に姿を消した九竜城の、聖と俗を抱え込んだ「なんでもあり」の濃密世界を超詳細断面図や写真で復元。(「MARC」データベースより)

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