カーネル・サンダースの波瀾万丈な人生!── ガソリンスタンドから始まったKFC帝国

KFC(ケンタッキー・フライドチキン)は世界中で愛されるフードチェーンであることは知られていますが、その創業者であるカーネル・サンダースの人生や、どのようにKFCが誕生したのか、そして現在までの経緯について知っている人は多くありません。

この記事では、KFCの創業者であるカーネル・サンダースの生涯やKFCが誕生した背景、そして現在までの変遷について詳しく紹介しています。あなたもKFCファンなら、必見の記事です。

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「白い上下のスーツにステッキ姿、温和な笑みを浮かべながら店の前に立っている老紳士の人形」といえば、誰もがケンタッキー・フライド・チキンの創始者であるカーネル・サンダースを思いうかべることだろう。しかし、彼の生い立ち、ケンタッキーを始めるにいたった経緯などは、謎に包まれたままだった。カーネルは、65歳で年金生活を捨て、事業を興し、フランチャイズ制度を初めて確立し、世界的企業にまで発展させた偉大な人物である。本書は、その波乱に富んだ知られざる彼の生涯を著した初めての書の文庫化である。(「BOOK」データベースより)

Kentucky Fried Chicken

ケンタッキーフライドチキン

KFC

世界中で展開されているKFC(ケンタッキーフライドチキン)は、現在90以上の国と地域で営業しており、その数は20,000以上の店舗にものぼります。KFCは、フライドチキンを中心としたメニューで知られており、特に「オリジナル・チキン」と呼ばれるカーネル・サンダースの秘密のスパイスを使用したフライドチキンが人気です。他にもバラエティ豊かなチキン料理やサイドメニュー、デザートが提供されています。

KFCはその急速な国際展開により、世界的に有名なファーストフードチェーンとなりました。それぞれの国や地域で独自のメニューやサービスが展開されることもあり、世界各地の消費者に受け入れられています。

現在、KFCは正式な会社名として「KFC」と名乗っており、店舗や広告でも「KFC」の文字が使われています。また、創業者であるカーネル・サンダースの顔がKFCの象徴となっており、彼の顔とともに「KFC」という文字が世界中の店舗で見ることができます。

KFCといえばオリジナルチキン!

「オリジナルチキン」はケンタッキー・フライドチキンの看板メニューであり、創業者カーネル・サンダースの「おいしいもので人を幸せにしたい」という思いが込められています。

このメニューは、11種類のハーブとスパイスが調合された秘伝のレシピによって作られ、その特徴的な味は半世紀以上経った現在でも変わらず、世界中の多くの人々に愛されています。

“オリジナルチキン”を調理できるのは数限られた人たち!

KFCでは、オリジナルチキンの調理担当者に高い水準の技術と知識が求められており、独自の認定資格であるチキンスペシャリストを取得することが義務付けられています。これにより、どの店舗でも同じ品質のオリジナルチキンが提供されることが保証されています。

チキンスペシャリストは、正しい調理法はもちろん、適切な作業スピードや清掃、調理機器のメンテナンス、原料の品質管理、安全衛生管理など、幅広い知識や技術を習得します。そして、年に一度の技能と知識の確認を行い、認定資格を更新していくことで、一貫した品質が維持されます。

この厳格な認定プロセスによって、カーネル・サンダース秘伝のオリジナルチキンは、いつでもどこでも変わらないおいしさで提供されており、世界中のKFCファンに喜ばれています。

Colonel Sanders/YouTube
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日本KFC全面協力! 日本で愛されて50年の節目に、お客様への感謝を込めた特別な 一冊ができました。独自のおいしさのヒミツや知られざるヒストリーを特別に公開するほか、「We Love ケンタッキー」な方たちの語るケンタッキー愛や、SNSで話題を呼んだアレンジレシピ、つい人に話したくなるトリビアなどなど、ケンタッキーファン大満足の濃いコンテンツが詰まっています。(「Books」出版書誌データベースより)

Colonel Sanders

世界でもっとも有名なシェフ「カーネル・サンダース」

Hook/YouTube

カーネル・サンダースは実在の人物であり、KFCの創業者として世界的な名声を手に入れました。彼は、その画期的なオリジナルチキンのレシピを編み出し、世界中で愛される料理を提供しています。彼は時に「世界でもっとも有名なシェフ」と称されることもあります。

幼少期のサンダース、料理の才能に目覚める

1890年9月9日、インディアナ州でハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders)が生まれました。彼は幼い頃に父を亡くし、母親が工場で働きながらサンダースとその弟や妹を育てました。困難な状況の中で、幼いサンダースは家族を支えるために料理を覚え始めました。

彼はわずか7歳の時に、初めてライ麦パンを自分で焼き上げ、工場で働く母親のもとへ届けました。その見事な出来映えに、母親や工場の人々は大絶賛しました。この経験はサンダース少年にとって、手作り料理の楽しさと人々をもてなす喜びを知る最初の出来事となりました。これが彼の料理への情熱の始まりであり、後にカーネル・サンダースとして名声を得る遠因となりました。

農場で働く若きカーネル、そして家庭の重責

サンダースが10歳になった頃、彼は家計を助けるために農場で働き始めました。しかし、彼はうさぎや鳥に夢中になり、働くことを疎かにしてしまいました。そのため、わずか1ヶ月で農場をクビになってしまいます。

家に帰ったサンダースは、母親に厳しく叱られました。「父さんがいない今、この家を支えるのはあなたなんですよ!なのに月2ドルの仕事もまともにこなせないなんて!」この言葉からもわかるように、10歳の子供であったカーネルには、家庭の重責が与えられていました。

農場での厳しい労働を通じて、サンダースは一生懸命働くことの大切さを知りました。彼は失敗を経験し、家族を支える責任という重圧に直面しましたが、その過程で働くことの意義を理解しました。

家族の変化と若きカーネルの試練

12歳の時、サンダースの母親が再婚し、一家の生活は一時的に安定するかと思われました。しかし、サンダースと義父の仲が険悪なものとなり、カーネルは14歳で中学校を辞めて家を出ることになりました。

14歳の時に学校をやめてから、サンダースは農場での労働のほか、市電の車掌として働きました。

若きカーネル、陸軍への短期間の入隊

1906年、16歳のサンダースは年齢を詐称して陸軍に入隊しました。彼はキューバで輜重隊に勤務し、短期間ですが軍での経験を積みました。しかし、年齢を偽って入隊していたことがすぐにバレてしまい、カーネルは除隊されました。

鉄道で働くカーネル、困難と正義感に立ち向かう

1900年代初頭、鉄道ブーム真っ只中の時代に、キューバから戻った10代のサンダースはアラバマで機関車のかまどから灰をさらう仕事に就きました。彼は自著で、機関車に関係する場所で働くことは、同年代の若者の9割がたの夢だったと述べています。しかし、数年後、彼は業務命令違反の疑いで解雇されました。

次にカーネルは、イリノイ州の鉄道で働き始めました。正義感が強いサンダースは、仲間の社員が鉄道事故で怪我をしたのに、お金を払わない会社に反発しました。彼はお金を出させることに成功しましたが、そのせいで会社の上層部に嫌われ、会社を追い出されてしまいました。

法律の道へ進み、短命な弁護士キャリア

鉄道で働いている間に、サンダースは法律を勉強しました。そして1915年に、アーカンソー州で弁護士になりました(当時は弁護士資格がなくても法廷に立つことができました)。

しかし、彼の弁護士としてのキャリアは短命でした。ある時、彼は依頼主と法廷で、裁判官の目の前で殴り合いの喧嘩をしてしまいました。その結果、サンダースは逮捕され、暴行罪で起訴されました。この事件により、彼の弁護士としての活動が禁止され、法的なキャリアは台無しになってしまいました。

さらなる試練と挑戦、波瀾万丈な人生が続く

サンダースは母親と一緒に地元に戻り、生命保険のセールスマンとして働くことを余儀なくされました。しかし、彼は不服従の理由で再び解雇されました。彼の人生は波瀾万丈で、困難な状況に立ち向かい続けることが求められました。

1920年には、カーネル・サンダースはオハイオ州でフェリーボート会社を設立し、会社の少数株主となりました。しかし、彼はインディアナ商工会議所の書記に任命されるも、後に辞任しました。彼は自分の株を現金化してアセチレンランプ製造会社を立ち上げましたが、これもまた失敗に終わりました。

トップセールスマンになるものの、文字通り谷底に転落

心機一転、33歳のときにタイヤの販売会社に就職したサンダースは、その商才を発揮し、メキメキと売上を伸ばし、トップセールスマンになりました。しかし、彼の人生はなかなか順風満帆とはいかず、矢先に大きな災難が彼を襲いました。

ある日、彼は家の前のつり橋を車で渡っていたところ、突然車が橋の上で止まってしまいました。運悪く、つり橋のロープが切れて橋がひっくり返り、カーネルは10メートル以上も深い谷底に投げ出されてしまうという、まるでアクション映画のような事故に見舞われました。幸い、彼の命は助かりましたが、車と仕事を同時に失い、再びゼロからのスタートを強いられました。

転職を繰り返す、その数なんと約40!

1908年サンダースは18歳で妻ジョセフィン・キングと結婚し、29歳までに3人の子供にも恵まれました。家族を持ちながらも、彼は30代半ばまで様々な職業を経験し続けました。その職業は、機関車修理工、ボイラー係、タイヤや保険のセールスマン、フェリーボート経営など、驚くことに40もの業種に及びました。

伝記によれば、サンダースは短気で喧嘩っ早い毒舌家だったとされています。勤勉であるにもかかわらず、彼は失業することが多かったのです。

ガソリンスタンド経営とKFCの原点

40もの転職を経験した後、サンダースは運命の出会いを果たします。タイヤのセールスをしていたときに知り合った石油会社の支配人から、ガソリンスタンドの経営を勧められたのです。これは彼の誠実さと勤勉さが認められ、この機会が訪れたのです。

サンダースはガソリンスタンドの経営者として独立し、店をケンタッキー州でオープンします。彼の店は、ガソリン給油のほか、サービスとして窓ガラスの清掃や、ラジエイターの水やタイヤの空気圧の点検を実施。

これらのサービスは当時としては珍しく、多くの客から高評価を受けました。こうして、サンダースの店はケンタッキー州で評判となりました。

大恐慌と再起

1929年、世界大恐慌が発生し、サンダースのガソリンスタンド経営も大きな影響を受けます。彼が農家にガソリンを後払いで提供していたため、恐慌による農家の困窮と干ばつが重なり、彼の収入は激減しました。最終的には、ガソリンスタンドは倒産してしまいます。

しかし、彼の真面目な仕事ぶりは評価されていました。1930年、石油会社シェルオイルがケンタッキー州コービンに新しく建てるガソリンスタンドの経営をサンダースに持ちかけます。これが、彼の人生の再起のチャンスとなりました。

ライバル店との激しい争いを展開、普通に銃撃戦

サンダースのガソリンスタンドは、治安が悪いケンタッキー州コービンのヘルズ・ハーフ・エイカーにありましたが、彼の短気で喧嘩っ早い性格がこの土地柄にマッチしていました。ある日、ライバル店の店長マット・スチュワートがシェルの広告看板を塗り替えてしまう事件が起こります。

サンダースはそのことを知り、再びシェルの看板に戻しましたが、スチュワートは懲りずに再び看板を塗り替えていました。その現場を目撃したのは、サンダースとシェル石油の地区マネージャー2人でした。怒ったサンダースは現場に駆けつけ、スチュワートが銃を発射したことで、シェル石油の幹部1名が死亡しました。

サンダースともう1人の幹部は車のドアに隠れながら応戦しました。最終的にこの事件でスチュワートは殺人で有罪となり、サンダースらは正当防衛とされました。

“サンダース・カフェ(レストラン)”を開始、オススメは「フライドチキン」

1930年にケンタッキー州コービンでガソリンスタンドを始めた40歳のカーネル・サンダースは、お客さんに美味しい食事を提供したいと考え、ガソリンスタンドの裏に6席だけの小さなレストラン「サンダース・カフェ」を開業しました。彼は、レストランの裏手にある農場で育てた新鮮な野菜や鶏を使って自ら料理を手掛けていました。

ガソリンスタンドはサービスの良さで、カフェは料理のおいしさで評判を呼び、次第に繁盛していきました。その「サンダース・カフェ」の目玉商品は、フライドチキンでした。

カーネル・サンダースが独自に開発した特別な調味料と調理法で作られたフライドチキンは、絶品と評判を呼び、多くのお客さんが訪れるようになりました。これが後に「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」として広まることになる、その原点であったのです。

Harland Sanders Cafe in Corbin, Kentucky

ガソリンスタンドに見切りをつけレストランに専念

サンダースのガソリンスタンドは好評で、料理も評判だったため、次第に食事を目当てに来る客が増えました。このチャンスを活かすため、カーネル・サンダースは全財産を投じて大胆な賭けに出ました。

まず、彼はガソリンスタンドを道路の反対側に移し、通りかかるドライバーたちの目に止まりやすくしました。その後、本格的なレストランもオープンしました。

この賭けは大成功を収め、サンダースのレストランは急速に評判を呼び、ケンタッキー州のレストランガイドに掲載されるまでになりました。

その結果、「サンダース・カフェに寄らずに旅は終われない」と言われるほど人気が出て、サンダースのレストランを旅の目的地にする人まで現れました。これを受けて、サンダースはガソリンスタンドを売却し、レストラン事業に専念することを決めたのです。

順風満帆とはいかない

フードライターのジョシュ・オザースキーは、サンダースカフェについて「全面的な成功」と評し、その事業が大いに成功していたことを証言しています。しかし、サンダースの人生には悲劇もありました。1932年に、彼の20歳の息子は扁桃腺を除去した後の感染症で亡くなりました。

ケンタッキー州知事から称号“カーネル”を授与される

1935年、サンダースはその成功と人々への貢献が認められ、ケンタッキー州知事から名誉称号である「カーネル」を授与されました。その後、彼はカーネル・サンダースとして広く知られるようになりました。ただし、「カーネル」は「大佐」を意味するものの、この「ケンタッキー・カーネル」は名誉称号であり、軍の階級とは関係がありません。

この称号は彼の事業や人々への貢献を称えるもので、カーネル・サンダースの名前がさらに有名になるきっかけとなりました。

モーテル併設の巨大レストランの成長

1937年には、サンダース・カフェはさらなる成長を遂げ、142席のレストランへと拡大しました。また、この時点でモーテルも併設され、さらに多くの客を受け入れることができるようになりました。

ケンタッキー・フライドチキンの味「オリジナル・チキン」完成!!!

1939年、カーネル・サンダースはサンダース・カフェで人気のフライドチキンをさらに美味しくするため、スパイスの調合や改良を繰り返し行いました。その結果、11種類のハーブとスパイスを組み合わせた「イレブンスパイス」と、圧力鍋を活用した調理法が確立され、現在のケンタッキー・フライドチキンの味が完成しました。

このオリジナル・レシピは70年以上にわたって引き継がれており、その美味しさと秘密はケンタッキー・フライドチキンの象徴となっています。

その製法を永久的に守るために、特許は取得されていません。これは、特許を取得すると製法を公開しなければならないためです。この点で、コカ・コーラ社のコーラと同様の考え方が取られており、製法の秘密を保持することが優先されています。

KFC... In China!

火事で全焼…。不屈の精神で再起を誓う

カーネル・サンダースが顧客を増やし、売り上げを順調に伸ばしていたものの、不運にも全てを失うほどの災難が襲いかかりました。10年以上かけて築き上げたサンダース・カフェとモーテルで、1939年に火災が発生しました。その時、サンダースは49歳で、ビジネスがようやく軌道に乗り始めたばかりでした。

ほとんど全てを失ったサンダースは、「もうレストランはやめよう」と考えましたが、サンダース・カフェに足を運ぶ多くのお客さんから励まされ、再起を決意しました。

普通の人であれば、火災のような壊滅的な出来事に直面した後、混乱し失意に陥り、自分の運命を嘆くことでしょう。時が経てば、命が助かったことに感謝し、生活のために新たな仕事を探すことになるでしょう。しかし、カーネル・サンダースはそのような普通の人とは違い、彼は不屈の精神で立ち向かいました。

サンダースはノースカロライナ州に所有していたモーテルを売却し、銀行からお金を借りて再びレストラン事業を立ち上げることを決心しました。彼はレストランに専念することを選び、51歳で再々起のスタートを切りました。

historical diorama

困難を乗り越え、繁盛を勝ち取った

1941年、51歳のサンダースは困難を乗り越え、新たに142席もある大規模な「サンダース・カフェ」を建設し、再び挑戦を開始しました。彼はその後、サンダース・カフェを15年間運営し、繁盛させることに成功しました。この期間中、彼はケンタッキー・フライドチキンの味やレシピをさらに磨き、多くの顧客を魅了し続けました。

飛行場建設事業に投資して失敗

カーネル・サンダースは、飛行場建設という新たな事業に投資しましたが、事業提案者とケンカ別れになり、プロジェクトがうまく進行しませんでした。その結果、市が管理を引き継ぐことになりましたが、これによってカーネルは投資したお金を回収することができず、さらに莫大な税金を支払わなければならなくなりました。これによって、彼は多額の借金を抱えることになってしまったのです。

妻ジョセフィンと離婚

1947年、カーネル・サンダースは57歳で、さらなる波乱に直面しました。39年間連れ添った妻ジョセフィンから離婚を切り出されたのです。サンダースは戸惑いつつも、子どもたちが成長したこともあり、離婚に応じることにしました。

サンダースは妻に対して責任を果たし、慰謝料を支払い、彼女が生活に困らないよう配慮しました。離婚後も、彼は事業に専念し、ケンタッキー・フライドチキンを成長させ続けました。

「カーネル・サンダース」を名乗る

1950年にケンタッキー州知事ローレンス・ウェザビーによって再びケンタッキー・カーネル(名誉大佐)に任命された後、サンダースはその立場にふさわしい服装を身につけるようになりました。

彼はヤギひげを生やし、はじめは黒のフロックコートを着用していましたが、後に白のスーツに変更しました。また、ストリング・タイも着用していました。

このような服装と彼が「カーネル」の肩書きを自ら名乗ることで、彼はケンタッキー・フライドチキンの創始者としてのイメージを強化しました。このイメージは、現在でもケンタッキー・フライドチキンのブランドとして世界中で認知されています。

クラウディア・プライスと結婚

第二次世界大戦の混乱を乗り越えた後、カーネル・サンダースはクラウディア・プライスと出会い、結婚しました。クラウディアは元従業員であるため、サンダースの仕事に対する理解が深く、協力してレストランの経営に取り組み、事業を発展させ続けました。

決定的な危機から逆転のアイデア。

1952年、交通量の激減と新たな高速道路の計画により、サンダース・カフェは大打撃を受け、その繁栄は次第に衰えていきました。カーネル・サンダースは、レストラン以外の事業にも手を出しましたが、うまくいかず、多額の借金を抱えることになりました。

62歳にして絶望の淵に立たされたカーネル・サンダースに、妻のクラウディアは「まだあなたにしかできないことがあるのでは?」と励ました。

クラウディアの言葉に勇気づけられ、サンダースは新たなアイディアを思いきました。それは、フランチャイズという形で他のレストランにフライドチキンのレシピと調理法を提供するというアイデアでした。

友人のピート・ハーマンに助けを求めたことから全てが始まる

カーネル・サンダースははそのアイディアを友人であり、レストラン経営者のピート・ハーマンに持ちかけることにした。

1951年、サンダースはシカゴで開催された全米レストラン協会の講習会でピート・ハーマンと出会っていた。ハーマンもまた、サンダースと同様にレストランを経営しており、両者はすぐに意気投合しすることになります。

最初のフランチャイズ店「 ケンタッキーフライドチキン(KFC)」誕生

1952年、オーストラリアへのキリスト教大会へ向かう途中、カーネル・サンダースはピート・ハーマンの店に立ち寄りました。彼はハーマンに自家製のフライドチキンを作って振る舞い、その味を試してもらいました。

しかし、その時点ではまだハーマンは自分の店でフライドチキンを売る決意をしていませんでした。失望したカーネルはオーストラリアへ向かい、大会が終わって帰国した後、再びハーマンの店を訪れました。

驚いたことに、店の窓には「どこか新しく、どこか違う―ケンタッキー・フライドチキン」という2メートルもある文字が記されていました。ハーマンはついにカーネル流のフライドチキンを販売することを決めたのです。

ハーマンは、「僕はケンタッキーに行ったことはないけれど、ケンタッキーという言葉には南部のもてなし精神を感じる」として、このネーミングを選びました。

カーネル・サンダースもこのネーミングを気に入り、「最初にフライドチキンを提供したのもケンタッキー州だったからね」とコメントしました。

Statue of Colonel Sanders & first franchisee Pete Harman

チキンをバーレルに詰めるスタイルを発明

KFCの独自の樽型パッケージ「バーレル」は、フライドチキンの持ち運びに便利であり、また独特の魅力を持っています。そのアイディアは、KFC最初のフランチャイズオーナーでありカーネル・サンダースの親友ピート・ハーマンから生まれました。

ある時、ピート・ハーマンはKFCのオーナー仲間から、「大量のバーレル型の容器を持て余している」という話を聞きました。当時、自動車が普及し始め、ピクニックに出かける人が増えていました。ピートは、屋外でチキンを楽しめるように、バーレルにチキン、ロールパン、グレイビーソースを詰め合わせて販売することを考えついたのです。

このアイディアはすぐに実現され、バーレルパッケージはKFCの象徴的な商品となりました。家族や友人と一緒に、屋外でKFCのフライドチキンを楽しむことができるようになり、多くの人々に喜ばれました。

再び全てを失う

最初のフランチャイズ契約を結んだピート・ハーマンの成功を受けて、カーネル・サンダースは各地のレストランに飛び込み、フライドチキンの素晴らしさを紹介することで、KFCのフランチャイズビジネスを拡大していきました。1955年には、クオリティ・サービス・クリーンネス(QSC)を重視したKFCコーポレーションが設立されました。

しかし、運命のいたずらか、サンダース・カフェがあるコービン市を迂回する新しいハイウェイが開通し、カフェの売り上げが激減しました。経済的困難に直面したサンダースは、1956年にカフェをオークションにかけ、75,000ドルで売却せざるを得なくなりました。その代金は、税金と未払い手形の支払いに充てられました。

年金だけでは生きていけない

65歳で無一文になったカーネル・サンダースは、年金生活で余生を過ごすことを決めました。しかし、彼が自分の年金がいくらもらえるのかを調べたところ、なんと月105ドルしかないことが分かりました。これに愕然としたサンダースは、老後の生活が心もとないと感じ、改めて自分にできることを見つけて生涯働き続けることを決意しました。

カーネルと秘密のレシピ

カーネル・サンダースは、かつてオリジナルチキンのレシピをユタ州のレストラン経営者ピート・ハーマンに買ってもらったことを思い出し、自身のレストランでフライドチキンの売上が好調だったことに着目しました。

カーネル・サンダースは「わしに残った財産は、フライド・チキンのレシピだけ。ハーマンだけでなく多くのレストランで自慢のフライド・チキンを売ってもらって儲ければいいのだ」とひらめいたのです。

このアイディアに基づき、カーネル・サンダースはフライドチキンのレシピを直接使用して事業を行うのではなく、レシピをフランチャイズ方式で販売し、ロイヤルティをロイヤルティを得るための売り込みを開始しました。

出店の資金がなくても利益が入ってくるこの方法は、一文無しになっていたカーネルにとって最適なビジネスモデルでした。

過酷な旅が始まる

初期のKFCフランチャイズ契約は、ラフなものでした。カーネル・サンダース自身が加盟希望者のもとへ出向き、調理方法を伝授する形でトレーニングを行っていました。当時のフランチャイズ加盟料は存在せず、フライドチキン1本あたり4セント(後に5セント)のロイヤリティを払うというシステムでした。

カーネル・サンダースは2年間、限られた年金でガソリンを購入し、オンボロ車でアメリカ中を駆け巡りました。彼はいつも白いスーツを着ており、車の後部座席で寝ることもあり、スーツはしわだらけになっていました。

朝になると目を覚まし、また違う飲食店でレシピを売り込む日々を送っていました。食事をするお金もなく、チキンの見本をかじるだけで過ごすこともあったと言われています。65歳のおじいさんにはとても思えないような過酷な状況でした。

白いスーツは実演販売するための衣装だった

カーネル・サンダースは、ピート・ハーマンのレストランをモデルに、KFCのフランチャイズ契約を拡大しました。この頃から、カーネルは彼のトレードマークともなる白い上下のスーツにひもネクタイというスタイルを始めました。

白いスーツは、カーネル・サンダースにとって実演販売時のコック服として機能していました。この独特のスタイルは、彼の個性を象徴し、KFCのブランドイメージを強化する役割も果たしていました。

KFC founder Colonel Harland Sanders (1890–1980)
ピート・ハーマンの支援

ピート・ハーマンはカーネル・サンダースを熱心に支援し、彼のフライドチキン事業が成功する手助けをしました。彼はソルトレークシティに120もの看板を設置し、ケンタッキー・フライド・チキンの宣伝を行いました。

さらに、彼はラジオコマーシャルでもケンタッキー・フライド・チキンを宣伝し、その名を広めることに貢献しました。

Colonel Sanders & 1st franchisee Pete Harman

1009回の「NO!」と移動の苦労

カーネル・サンダースは、彼のオリジナルチキンのレシピを売るために全米を回りましたが、その過程で多くの困難に直面しました。彼がレシピを売り込もうとした際には、「NO!」と言われた回数がなんと1009回にものぼったと言われています。それでも彼はめげませんでした。

「できることはすべてやれ。やるなら最善を尽くせ」KFC成功の礎

どれほど断られ、罵られ、蔑まれても、カーネル・サンダースは自分に「できることはすべてやれ。やるなら最善を尽くせ」と言い聞かせ、決してあきらめませんでした。彼の強い精神力と執念が、最終的には大きな成果をもたらすことになりました。

1960年までにアメリカとカナダで205店、1963年には600を超えるフランチャイズ・チェーンを築き上げました。これは彼の孤軍奮闘が実を結んだ瞬間であり、彼の成功の礎となりました。

怖い(笑)サンダースの品質とサービスへのこだわり

ケンタッキーフライドチキンが急速に拡大する中、一部のフランチャイズ店ではマニュアルを守らず、味やサービスが悪いところもありました。

しかし、カーネル・サンダースはその度に警告し、聞き入れられなければすぐさま契約を取り消すという手段を取りました。彼の手づくりの味と心のこもったサービスへの信念は、強いこだわりのもとで守られ続けました。

例えば、あるフランチャイジーの厨房で料理の手順の一部が省略されたのを目にしたカーネル・サンダースは、怒りを露わにしました。

彼は杖をくるくる回すとテーブルを激しく叩き、正しい手順で調理できるまで店を閉めさせました。「ワシの指示どおり料理を作らないなら、お前の皮を剥いてやるぞ」と言ったと伝えられています。

彼は杖をくるくる回すとテーブルを激しく叩き、正しい手順で調理できるまで店を閉めさせました。「ワシの指示どおり料理を作らないなら、お前の皮を剥いてやるぞ」と言ったと伝えられています。

レシピだけじゃなくて理念が伝わる

カーネル・サンダースのこのような行動は、彼がKFCの品質とサービスに対する強い信念を持っていたことを示しています。彼は自分の名前が冠された商品には自分の信念が反映されることを望み、フランチャイズオーナーにもその理念を受け継いでいくことを強く求めました。このカーネルの姿勢が、現在のKFCの世界的な成功につながっていると言えるでしょう。

世界中で愛されるフードチェーン

1964年、カーネル・サンダースは高齢化と企業の将来を考慮し、自分の会社をジョン・ブラウン・ジュニア(後にケンタッキー州知事)とジャック・マッセイ(投資家)に200万ドルで売却しました。この取引には終身で毎年4万ドルの支給などの条件も含まれていました。売却に伴い、新会社のケンタッキー・フライド・チキン・コーポレーション(以下KFCコーポレーションと略称)が設立されました。

1969年にはKFCコーポレーションはニューヨーク証券取引所に上場され、経営の主体が変わることになりました。1982年に酒造会社のヒューブラインが経営権を持ち、その後1986年には飲料のペプシコが経営権を取得しました。この間、たばこ会社のR・J・レイノルズも一時経営に関与していました。

2002年にKFCコーポレーションはヤム・ブランズに社名を変更し、現在は世界的な外食企業となっています。ヤム・ブランズはKFCだけでなく、ピザハットやA&W(ハンバーガー)なども傘下に持っており、多様なブランドを展開しています。このような変遷を経て、カーネル・サンダースが創設したKFCは、世界中で愛されるフードチェーンとなりました。

ジョン・ブラウン・ジュニアの画期的なアイデア

ジョン・ブラウン・ジュニアは、創業者カーネル・サンダースを生きた商標として活用する画期的なアイデアを持っていました。彼はカーネル・サンダースの白いスーツとステッキというスタイルを活用し、メディア露出を増やしました。

カーネル・サンダースは広告人間としてテレビや雑誌に登場し、企業のロゴタイプにもカーネル・サンダースの肖像が使われました。

この戦略により、カーネル・サンダースの顔はアメリカ特許商標庁の「トレード・マーク登録番号810835」として登録され、世界中のKFCの看板や人形、パッケージ、テレビ・コマーシャルでお客様に笑顔でアピールし続けています。

ジョン・ブラウン・ジュニアのこのアイデアは、KFCのブランドイメージの形成に大きく貢献しました。カーネル・サンダースの顔とスタイルは、今やKFCというブランドと密接に結びついており、世界中の人々に親しまれています。

晩年のカーネル・サンダース

1964年に経営から退いた後も、カーネル・サンダースはKFCの親善大使として世界中を巡りました。彼は品質と味にこだわる職人気質であり、現場で働くスタッフを大切にする気持ちを持ち続けました。90歳で亡くなるまで、彼は現役で働き続けました。

亡くなる年もカーネル・サンダースは世界各国のKFC店舗を訪れていましたが、その年の5月には日本を訪れていたことが伝えられています。

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カーネル・サンダースの慈善活動

カーネル・サンダースは、ロータリークラブとフリーメイソンのメンバーでもあり、多くの慈善活動に取り組んでいました。彼の取り組んだ慈善活動には以下のようなものがあります。

  1. 孤児院の子供たちに毎日アイスクリームを提供する活動。
  2. 肢体不自由児のための基金を設立し、支援を行っていた。
  3. 病院や医学研究、教育、ボーイスカウトなどの活動に資金を提供していた。
  4. 日本を訪れた際には交通遺児との交流を行っていた。

これらの活動を通して、カーネル・サンダースは社会貢献に積極的に取り組んでいました。彼の営利活動だけでなく、こうした慈善活動にも力を注いでいたことが彼の人間性を示しています。カーネル・サンダースの精神は、今日のKFCやその他の企業にも引き継がれ、様々な形で社会貢献活動を行っています。

最初のKFC店舗が博物館に!

最初の店舗は、現在「Harland Sanders Cafe and Museum」として、観光客やファンに訪れる場所となっています。この博物館は、ケンタッキー州コービンに位置し、ケンタッキー・フライドチキンの創業者であるカーネル・サンダースの歴史や業績を称えています。

アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されたこの博物館では、創業当時の店舗の様子を再現し、カーネル・サンダースの銅像や使用されていたレジ、調理器具などが展示されています。また、カーネル・サンダースの人生や成り上がりを描いた写真や資料も展示されており、彼の功績を偲ぶことができます。

無料で観覧することができるこの博物館は、ケンタッキー・フライドチキンのファンや歴史に興味を持つ人々にとっては、貴重な場所となっています。その歴史と文化的価値から、多くの人々が訪れる観光スポットとなっており、創業者のカーネル・サンダース氏の偉業を今後も伝え続ける役割を果たしています。

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「白い上下のスーツにステッキ姿、温和な笑みを浮かべながら店の前に立っている老紳士の人形」といえば、誰もがケンタッキー・フライド・チキンの創始者であるカーネル・サンダースを思いうかべることだろう。しかし、彼の生い立ち、ケンタッキーを始めるにいたった経緯などは、謎に包まれたままだった。カーネルは、65歳で年金生活を捨て、事業を興し、フランチャイズ制度を初めて確立し、世界的企業にまで発展させた偉大な人物である。本書は、その波乱に富んだ知られざる彼の生涯を著した初めての書の文庫化である。(「BOOK」データベースより)

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