ケンタッキーフライドチキンが日本で大ブームとなった理由や、日本独自のイベント「チキン感謝祭」など、KFCの日本での歴史や文化について知りたいですか?
この記事では、KFCが日本での1号店をオープンした背景や、クリスマスにケンタッキーを食べる文化が広まった経緯、さらにはKFCが日本で使用する鶏肉やオリジナルチキンの調理方法など、KFCに関するさまざまな興味深い情報を紹介しています。また、阪神タイガースとの絡みや、カーネル・サンダースの人形にまつわるエピソードなど、KFCの日本における歴史を楽しみながら読み進めることができます。
KFC Holdings japan
日本のケンタッキーの始まり
日本で3番目に大きなファストフードチェーンとして知られるケンタッキーフライドチキン(KFC)は、愛称「ケンタ」や「ケンタッキー」で親しまれています。1970年に名古屋市西区に1号店を開店して以降、2020年時点で全国に1132店舗を展開しています
7月4日「フライドチキンの日」
日本のケンタッキーフライドチキン(KFC)は、同国での1号店オープンを祝うために、7月4日を「フライドチキンの日」として記念日に登録しています。7月4日は、日本で初めてKFCが営業を開始した日であり、フライドチキンの普及とKFCブランドの発展を祝う特別な日です。
この日を機に、日本のKFC店舗では様々なイベントやプロモーションを行い、多くの人々にフライドチキンの美味しさとKFCの歴史を伝えています。また、フライドチキンの日は、顧客に感謝の意を示すとともに、社員に対する研修や交流の機会を提供するためにも利用されています。
9月9日「カーネルズ・デー」
日本のケンタッキーフライドチキン(KFC)は、創業者カーネル・サンダースの誕生日である9月9日を「カーネルズ・デー」と名付け、特別なイベントやプロモーションを行っています。この日は、心を込めて食事を提供し、お客様に満足してもらうことへの喜びを再確認する機会となっています。
カーネルズ・デーでは、日本全国のKFC店舗で、創業者カーネル・サンダースの精神を讃えるイベントや、顧客に感謝の意を示す特別なサービスが実施されます。また、この日を通じて、社員に対する研修や交流の機会を提供し、KFCの伝統とサービス精神を継承するための取り組みが行われています。
ニワトリの供養と感謝「チキン感謝祭」
日本のケンタッキーフライドチキン(KFC)は、1974年から毎年「チキン感謝祭」という名の、ニワトリへの感謝と供養を込めた感謝祭を開いています。日本では年間約2200万羽のニワトリが消費され、ピース数にして約2億ピースとなっています。
「チキン感謝祭」は、関東では東伏見稲荷神社、関西では住吉大社で行われています。参列者は黒いスーツを着用し、天に召されたニワトリたちに深い敬意を示し、神事によって次の1年間に安心安全で美味しいチキンが提供できるよう祈祷が行われます。
日本KFCの広報担当者は、チキン感謝祭の目的について次のように説明しています。「KFCでは、おいしく安全で健康的なチキンをお客様にご提供するために、たくさんの関係者が日々情熱をもって取り組んでいます。その関係者とともに、鶏への感謝と供養を目的に執り行っています」。
このイベントは、KFCが鶏肉を使った製品を提供することに対する責任感と敬意を示すものであり、日本KFCの独自の取り組みです。
日本のオリジナルチキンとカーネル・サンダースの日本への愛着
日本のKFCでは、オリジナルチキンに使用する鶏肉は、国内にある200のKFC登録飼育農場で飼育されたハーブ鶏を使用しています。
店舗では1ピースずつ手作りで調理され、11種類のハーブ&スパイスで味付けされます。高品質の100%植物油を使用し、最高温度185℃で約15分間、圧力釜で揚げるカーネル秘伝の調理法は、日本にKFCが誕生して以来、変わることなく続けられています。
カーネル・サンダースの日本への愛着
カーネル・サンダースは生前に3回来日し、その都度、「日本が大好き」と語っていました。その理由は、日本のKFCが彼が1939年に完成させたオリジナルチキンの調理法と味をもっとも忠実に守り続けていることが挙げられます。
日本のKFCは、カーネル・サンダースの伝統と味を大切にしており、そのため彼は日本に特別な愛着を持っていたと言われています。
日本独自!!オリジナルチキンの超絶プロフェッショナル「QRマイスター」
日本独自の制度である「ORマイスター」は、2013年に創設され、現在は世界でたった2人しかいません。KFCが出店する125の国や地域の中で、日本だけがこの称号を持つプロフェッショナルを抱えています。
ORマイスターの「OR」は、オリジナル・レサピー・チキンの略で、彼らはオリジナルチキンの専門家として、カーネル・サンダース創業者の精神を受け継ぎ、知識や調理法を伝承しています。
ORマイスターの選出プロセス
KFCのオリジナルチキンを調理するには、独自の認定資格である「チキンスペシャリスト」が必須です。チキンスペシャリストは、S、A、B、Cのランク分けがあり、約6,000人いるうち、わずか1%ほどのSランクの人の中から、試験に合格した者だけがORマイスターの称号を手に入れることができます。
試験には筆記試験、調理の実技試験、そして面接試験が含まれ、オリジナルチキンの知識から店舗経営に至るまで、総合的な知識が審査されます。全ての基準をクリアすると、ORマイスターになることができます。
ORマイスターの役割
ORマイスターは、KFCの創業者であるカーネル・サンダースが1939年に完成させたオリジナル・レサピー・チキンの味を受け継ぐ最高ランクのスペシャリストです。彼らは、調理法や知識を伝承し、オリジナルチキンに関する最高の専門家として、その品質と伝統を維持する重要な役割を果たしています。
三菱商事とケンタッキー・フライド・チキンの連携
ケンタッキーフライドチキン(KFC)が日本国内で使用するチキンの約半分は、三菱商事から調達されています。これにより、KFCは安定した供給を受けることができ、日本国内の多くの店舗で美味しいチキンを提供し続けることができています。
一貫した取り組みと品質管理
三菱商事グループは、穀物の集荷から飼料製造、そして鶏肉の生産まで一貫して行っています。これにより、品質管理が徹底され、KFCが求める高い品質基準を満たすチキンが提供されています。
ケンタッキーフライドチキンと三菱商事の強力なパートナーシップ
KFCと三菱商事は、長年にわたって強力なパートナーシップを築いてきました。両社の協力関係は、KFCが日本での事業を展開する上で重要な要素となっており、安定したチキン供給と品質管理が実現されています。
日本のKFCの歴史は万博から始まる
日本でのケンタッキーフライドチキン(KFC)の歴史は、1970年3月から大阪で開催された日本万国博覧会(大阪万博)に遡ります。当時、KFCはアメリカ館内に実験店を出店し、初めて日本人にその味を紹介しました。会期中には1日あたり280万円の売上を記録するなど、大成功を収めました。
1974年7月4日 日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社 設立
大阪万博での好評を受けて、1970年7月に日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(KFCJ)が設立されました。その後、アメリカ合衆国への敬意を込めて、アメリカ独立記念日と同日である同年7月4日に、日本でのKFCの創業が始まりました。
開店前の期待と現実
当時の1号店の店長の大河原毅(おおかわら たけし)は、売り上げに苦戦していました。オープンしても利益が上がらず、後に1号店の出店場所として名古屋を選んだことが間違いだったと認識されました。
オープンの時間が迫ってくる中、店の前には行列ができました。大河原は喜び、商品を大量に作り始めました。開店と同時にオーダーが押し寄せてくると予測していたからです。しかし、テープカットが行われると、実際に集まった客たちはオープン祝いに寄せられた花を次々と取り返すだけでした。
最初の試練となった開店祝いの花
クリスマスには決まって行列ができる「ケンタッキー」で最初に求められたのは、開店祝いの花ばかりでした。このエピソードは、現在では笑い話として語られています。
「クリスマスにはケンタッキー」嘘が生んだ日本のカルチャー
KFCが日本で1号店をオープンした当時、日本ではクリスマスを大々的に祝う習慣はほとんどありませんでした。クリスマスケーキを食べる習慣やカップルがイチャつく風景は見られませんでした。さらに、チキンを食べる習慣もほとんどありませんでした。
売り上げが苦戦
日本で突如出現したKFCは、初期のうちは客足が伸びず、売り上げが苦戦していました。1号店の出足が失敗したものの、次々と新しい店舗が出店されました。
2号店は大阪の枚方に、3号店は大阪の東住吉区に出店しました。この時期の展開は、日本マクドナルドが銀座の一等地に初出店したことと比較すると、地味なものでした。しかし、これらの店舗も売り上げが伸びず、累積赤字が増えていきました。
苦戦が続く中、三菱商事からの出向者は戻り、中途採用された人たちも次々と去っていきました。この状況を乗り越えるためには、新たな戦略と独自のキャンペーンが求められていました。
クリスマス会のサンタクロース役
1973年12月、ケンタッキーの店舗が100店舗に迫る頃、東京・青山の店舗近くのキリスト教系の幼稚園から、大河原毅にサンタクロース役を依頼されました。幼稚園は小柄な尼さんばかりで、クリスマス会にサンタクロースがいませんでした。フライドチキンを買うという条件で、大河原にサンタクロースに扮装してもらいたいとの相談がありました。
大河原は快く引き受け、サンタクロースに扮装して、フライドチキンのバーレルを抱えて教室内を踊り歩きました。
日本を変えた大河原の嘘
数年後、テレビ局からKFCに取材がありました。リポーターが「アメリカでもこの時期には皆さんフライドチキンを食べるのですか?」と尋ねました。大河原は、「はい。その通りです。これはアメリカの風習です!」と胸を張って答えました。大河原のこの一言がきっかけで、KFCは日本で爆発的なブームを迎えることになります。
クリスマスにフライドチキンを食べることが、日本の独自のクリスマス文化として確立され、多くの人々に親しまれるようになったのです。
ちなみに、当時のことを大河原は、「チキンではなく、七面鳥を食べていることは知っていました。しかし、『はい』と答えました。嘘をついたのです」と振り返りました。そして、「今も後悔しています。しかし、多くの人が気に入っているようです」と語っています。
クリスマスキャンペーンの全国展開
1974年、KFCの「クリスマスにはケンタッキー」キャンペーンは全国展開され、日本中の家庭でフライドチキンを楽しむことが、クリスマスの新たな習慣となりました。このキャンペーンは大成功を収め、KFCは日本での地位を確立しました。
大河原は、このクリスマスキャンペーンの創設者として、KFC日本の成長とクリスマス文化の普及に大きく貢献しました。彼のリーダーシップと独自の発想が、KFC日本の成功の要因となりました。
1号店の大河原店長が代表取締役社長に就任
大河原の功績を受け、1984年には代表取締役社長に就任しました。彼はその後も、KFC日本のさらなる発展に尽力し、日本の食文化に大きな影響を与え続けました。
日本発祥!?カーネル・サンダース人形誕生秘話
1971年頃、カーネル・サンダースの人形が日本で登場しました。原型は、カナダのあるフランチャイズ店がイベント用に作ったもので、偶然訪れた日本の幹部が面白いアイディアだと考え、日本に持ち帰りました。
日本には、不二家の「ペコ」ちゃんをはじめとするマスコット人形の文化があります。カーネル・サンダース人形も、そのような文化を受け継いで作られました。試作品がすぐに作成され、すぐに受け入れられました。
カーネル・サンダース人形は、子供たちの心を捉え、フライドチキンの売り上げを急増させました。これにより、日本のKFCの人気がさらに高まりました
タイトル: カーネル・サンダース人形の特徴とリアリティ
カーネル・サンダース人形は、身長173cm、重量26kgです。実際のサンダースが60歳のときの身長は180cm、体重は90kgだったと言われており、人形は実際の姿より7cmほど低いです。
カーネル・サンダース人形では、リアリティを重視し、度数が3.25の老眼鏡が使用されています。この眼鏡は、眼鏡の産地として有名な福井県鯖江市で作られており、日本の伝統工芸品の技術が生かされています。
日本の伝統工芸品との関連
カーネル・サンダース人形が、福井県鯖江市の眼鏡を使用することで、日本の伝統工芸品とのつながりが表現されています。これにより、日本の文化とKFCのイメージが融合され、より深い印象を与えています。
カーネル・サンダース人形の「おかえり!カーネル」事件
1985年10月16日、阪神タイガースは21年ぶりにリーグ優勝を決めました。大阪・道頓堀に集まったファンは狂喜乱舞し、選手たちのヒッティングマーチを歌い、似ている選手に扮したファンが戎橋から川に飛び込んでいました。
しかし、三冠王のバースに似ている人はいなかったため、近くのケンタッキーのカーネル人形を胴上げして道頓堀に投げ込みました。その夜、カーネル人形は川底に沈んでしまいました。
以降、阪神タイガースは暗黒時代に突入し、有望な新人選手との契約に失敗することが続き、日本一にもなれませんでした。カーネル人形は、川底清掃やテレビ番組「探偵!ナイトスクープ」の捜索にも関わらず見つからず、阪神タイガースの成績とカーネル人形の行方が結びつけられ、“カーネルの呪い”とささやかれるようになりました。
カーネル人形の奇跡の生還
阪神タイガースは、2003年と2005年にリーグ優勝を果たしましたが、日本一を逃し、カーネルの呪いが続いているとされていました。
2009年の奇跡の発見
2009年3月、水辺工事中の工事関係者によって、カーネルが投げ込まれた地点から約180メートル下流の川底からカーネル・サンダース人形が発見され、奇跡の生還と話題になりました。
カーネル・サンダース人形は、大阪市中央区道頓堀の新戎橋下流付近で上半身が発見されました。ダイバーが午前9時前に川に潜り、右手と下半身を引き揚げました。足首から先と左手は見つからず、工事関係者は見つかる可能性が低いと判断し、捜索を終了しました。
『おかえり!カーネル』人形
発見されたカーネル・サンダース人形は、日本ケンタッキー・フライド・チキンの各店頭のカーネル人形と区別するため、『おかえり!カーネル』人形と名づけられました。この発見はファンに喜ばれ、カーネルの呪いに終止符が打たれることが期待されました。
カーネル人形の修復作業は文化財並み
救出劇から約2ヶ月後、カーネル人形の修復作業は着々と進んでいました。KFC側からの依頼で、文化財保存のNPO法人「文化財保存支援機構」(東京都)が大阪市内でカーネル人形の表面のはく落止めなどの作業を続けていました。
修復作業では、表面の汚れを落としコーティングした程度に留まっていました。しかし、「体内は骨粗しょう症のような状態」(同社)で劣化していたため、展示に耐えられるよう内側を強化しました。別々に見つかった上半身と下半身も結合されました
表面の塗装はかなりはげ落ちていましたが、まだ見つかっていない左腕、眼鏡、ステッキ以外はほぼ当時の姿に復元されました。
日本ケンタッキーのコメント
日本ケンタッキーの渡辺正夫社長兼最高経営責任者(CEO)は、「文化財並みの修理で、24年間の苦労を封じ込めていただき大変うれしい」とあいさつ。「呪い」については「カーネルの生前の人柄を考えると仮に道頓堀に入れられても人を呪うようなタイプではない。これをきっかけに阪神が急浮上することを願っている」と話しました。
神社でおはらい
痛みが激しいカーネル・サンダース人形は、約3ヶ月の修復作業を経て回復しました。
修復作業が終わったカーネル人形は、所有者である日本ケンタッキー・フライド・チキンによって、大阪市住吉区の住吉大社で開催された「チキン感謝祭」でお披露目されました。神事の後には、阪神の監督と同姓の真弓常忠宮司からお守りも贈られました。
渡辺社長は、「カーネルともども、阪神も急浮上してくれれば」と低迷するタイガースにもエールを送りました。
修復されたカーネル人形、阪神甲子園店にお目見え
阪神球団が甲子園球場の守護神としてカーネル人形を迎え入れようと獲得に動いたが、最終的に甲子園球場の事情が障害となり、「野球と直結していない」や「企業色が強い」といった理由で甲子園永住が認められず、破談になりました。
2010年3月19日、阪神甲子園店近くに『おかえり!カーネル』人形がお目見えし、25年ぶりに接客を開始しました。記念セレモニーでテープカットが行われ、人形が店内のガラスケースに収められました。
吉田義男(元阪神タイガース)が感慨深く語る
元阪神タイガース監督の吉田義男さん(当時76歳)が偶然店の前を通りかかり、カーネル人形と初対面。吉田さんは1985年に阪神が日本一になったときの監督で、「表情がいいですなあ。ランディ・バースを思い出した」と話していました。
現在は本社に勤務されている
しかし、2013年3月の阪神甲子園店の改装工事を機に、カーネル人形の“本社栄転”が決まりました。