堀越二郎が築いたゼロ戦は、日本の航空史において忘れられることのない遺産となっています。
堀越は、その卓越した技術と情熱を注ぎ込みながら、時代を超えた優れた航空機を生み出し、そのエンジニアリングの才能と困難に立ち向かう姿勢は、多くの人々に感銘を与えました。また、その功績は航空界だけでなく、日本の歴史にも大きな足跡を残し、今の私たちの暮らしに繋がっています。
この記事では、堀越二郎の生涯と彼が築いたゼロ戦の興味深いエピソードについて詳しくご紹介します。是非、その素晴らしい物語をお楽しみください!
Jiro Horikoshi: Zero Fighter Engineer
堀越二郎の夢と挑戦!ゼロ戦設計と戦時中の軌跡に迫る
ゼロ戦(零戦)といえば、日本が第二次世界大戦中に生産した最も著名な戦闘機の一つです。しかし、その背後には、技術者であり夢追い人でもあった堀越二郎(ほりこし じろう)の情熱が存在します。
世界の空を駆け抜けた名機「零式艦上戦闘機」
ゼロ戦は、日本海軍が第二次世界大戦中に使用した主力艦上戦闘機であり、その正式な名前は「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」です。「艦上」の部分は航空母艦に搭載される航空機を指す言葉で、この零式艦上戦闘機は旧日本海軍の艦上戦闘機として運用されました。
当時の連合軍はこの戦闘機を「Zeke」というコードネームで呼んでいましたが、実際の現場では「Zero」や「Zero Fighter」が一般的な呼び名でした。そのため、世界的には「零式艦上戦闘機」を「ゼロ戦」と略すのが主流となりました。
一方で、日本国内では正式名称「零式艦上戦闘機」から単純に「レイ戦」を略称とすることもあります。これは「零式」の読みが「れいしき」であることから来ており、「ゼロ戦」と「レイ戦」の両方が正しい呼び名として認知されています。
世界を席巻した航空技術の傑作
堀越二郎の手により設計された零戦は、その時代の最先端技術と創造力の結晶ともいえる優れた戦闘機でした。日本海軍の厳しい要求を満たすために生まれた零戦は、その性能で世界の水準を示しました。
- 驚異的な機動性と速度:零戦はその軽量な機体と高出力のエンジンにより、卓越した機動性と速度を誇りました。敵機との空中戦では、これらの特性を活かして有利な立場に立つことができ、初期の戦闘で数多くの勝利を収めました。
- 長大な航続距離:零戦のもう一つの大きな特徴は、その長大な航続距離でした。これにより零戦は遠距離の作戦行動にも対応でき、広大な太平洋上での作戦行動において重要な役割を果たしました。
- 優れた機体設計:零戦の機体設計は、軽量かつ強靭な構造により高い機体強度を実現しました。これにより、零戦は優れた運動性能と安定性を提供し、多くの戦闘状況に対応することができました。
これらの特性により、零戦は初期の太平洋戦争において連合軍の戦闘機を圧倒し、日本の航空優勢を支える重要な役割を果たしました。零戦の登場は、航空戦闘の歴史において重要な節目となり、その影響は現代の戦闘機設計にも引き継がれています。
零戦の生産工程と改良
零戦の生産に関しては、設計段階での生産効率が十分に考慮されていないことが指摘されています。多数の肉抜き穴の使用や、空気抵抗を減らすための沈頭鋲を機体全面に使用するなど、生産工程が複雑で時間を要しました。事実、P-51マスタングのような生産効率を重視した設計と比較して、零戦の生産工数は約3倍も必要でした。
しかし、当初の方針が少数精鋭の艦上戦闘機を目指していたことから、この工数の多さは許容されていました。大戦中期以降、後継機の開発が遅れ、生産数を増やす必要性が生じたため、設計変更による工数の削減が試みられました。
零戦の主要な型式とそのバリエーション
結果として、零戦は初期型の一一型から終戦時にテスト中だった五四型まで、細かいバリエーションを含めれば10種類以上にも及び、さらに練習機型なども生産されました。ここではその主要な型式について説明します。
- 零式艦上戦闘機二一型 (零戦21型): 1940年から生産開始され、太平洋戦争開戦時の主力戦闘機。その卓越した航続距離と機動性で連合国の戦闘機を圧倒しました。
- 零式艦上戦闘機三二型 (零戦32型): 高高度性能を向上させる目的で設計され、翼形状が改良された。
- 零式艦上戦闘機二二型 (零戦22型): 機銃を20mm機関砲に増強し、またエンジンも強化されました。この改良により、戦闘力は大幅に向上しました。
- 零式艦上戦闘機五二型 (零戦52型): 戦争中盤の1943年から生産開始され、零戦最多生産型となった。機体強度の向上と高高度性能の改善が行われましたが、戦局の進展に伴う連合軍の新型機との性能差は縮まることはなかった。
- 零式艦上戦闘機六二型 (零戦62型): 主に防御面での強化が図られた型式。機体に装甲を追加し、燃料タンクに自己封止機能を追加しています。
- 零式艦上戦闘機七二型 (零戦72型): 1945年に試作されたが終戦までには量産されませんでした。最大速度と上昇力を大幅に向上させるためのエンジン換装や機体形状の改良が試みられていました。
これら以外にも、長距離戦闘爆撃機型、水上戦闘機型、夜間戦闘機型など、多数のバリエーションが存在します。また、戦局が不利となった末期には特攻用として改造された零戦も存在しました。
堀越二郎の幼少期と初期の経歴
堀越二郎は1903年6月22日に群馬県藤岡市で生まれました。農家の4人兄弟の次男として育った彼は、幼少期から飛行機に強い興味を示しました。
飛行機への初めての接触
堀越二郎が生まれた1903年は、飛行機の時代の到来を告げる象徴的な年でした。ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功し、この新しい乗り物が人々の生活に大きな影響を与えることを予感させる出来事でした。
しかしながら、この期間は平和な探索だけで特徴付けられるわけではありませんでした。堀越が子供時代を過ごしていた当時、世界は大きな変動の中にありました。翌年の1904年には日露戦争が勃発し、日本はこの戦争で勝利を収め、アジアの小国が欧米の大国に勝利したという史上初の事例を生み出しました。これは日本にとっては勝利と成長の時期であり、国内は「大戦景気」に沸き立ちました。
このような時代背景の中で、飛行機は戦争の主力となり、飛躍的な進歩を遂げました。
第一次世界大戦が1914年に勃発すると、飛行機は軍事戦略の一部となり、その重要性はますます高まりました。堀越が成長するにつれて、欧州戦線での飛行機の空中戦のニュースや飛行機を題材にした雑誌の記事が日本でも広く報道され、堀越の興味と情熱を一層引き立てました。
この時代の葛藤と探求は、堀越二郎の人生とキャリアを形成する重要な要素であり、後に航空工学への道を選び、自身の才能と情熱を日本の航空産業の発展に捧げる決意を固めるきっかけともなりました。
文学と飛行機への情熱
堀越二郎が群馬県立藤岡中学校に通っていた学生時代は、彼の人生とキャリアにおける重要な期間でした。
文学への深い愛情
堀越は飛行機への情熱だけでなく、文学にも深い興味を持っていました。特に、彼は小説家の国木田独歩(くにきだ どっぽ)の作品を愛読していました。
国木田独歩は、日本の自然主義文学の草分けとされ、その作品は自然への深い敬意と、個人の自由と独立に対する強い信念を描いています。これらの作品を読むことで、堀越は人間の精神と自然の力の間の深いつながりを理解し、それが彼の航空技術者としての哲学を形成するのに一役買ったと考えられます。
「第一高等学校時代」知識とスキルの獲得
堀越二郎は、18歳で群馬県立藤岡中学校を卒業した後、第一高等学校(現在の東京大学教養学部等の前身)に進学しました。ここでは理科甲類に所属し、弓道部で活動しながら学び続けました。
学校の概要
第一高等学校は1877年に設立された伝統ある学校で、理科、文科、法科、医科の4学科が設けられていました。堀越は理科甲類に所属し、そこで複雑な科学的な問題を解決するための基礎を学びました。
また、西洋文化の教育を重視する教育方針が採用されていたため、彼は英語やフランス語、ドイツ語などの外国語も学びました。これらの言語能力は後の彼の航空機設計のキャリアにおいて、国際的な視野と知識を持つことを可能にしました。
このように、この時代の高等学校制度は現代と違い、エリート養成学校として運用されていました。
学生生活
堀越は弓道部に所属し、ここで培われた集中力と精神的な強さは、後の厳しい状況でも彼が持続性と献身性を保つことを可能にしました。また、山歩きを楽しむなど、アウトドア活動を通じて身体的な健康も維持しました。
また学業でも優れた成績を収め、同校での学業は、後の航空機設計者としてのキャリアを追求するための重要なスキルと知識を獲得するための糧となりました。
卒業が近づき、進路を決める時期になると堀越の心は空へと向かっていました。そして、ついに堀越は飛行機設計の道を選び、その夢を追求し始めることになります。
東京帝国大学の航空工学科での学生時代
1924年(大正13年)、21歳の堀越二郎は新設されたばかりの東京帝国大学(現在の東京大学)工学部の航空工学科に第5期生として入学しました。まだ新しい学科であったため、堀越が入学した時点での所属学生はわずか26人に過ぎませんでした。
当時の日本の航空工業は始動したばかりで、学科も新設されたばかりの段階でした。航空工学の講義は、今日から見れば満足すべき内容ではなく、教える側にとっても英語、ドイツ語、フランス語の原書が頼りとなり、学生は自力で学び、実習や見学から多くを得る状況でした。
堀越と彼の同期たちは、一年生の夏に実習として所沢の陸軍補給所を訪れ、木製羽布張り構造の陸軍制式機や全金属製のユンカースJF6旅客機など、戦利品としてドイツから送られてきた機体に目を見張りました。また、二年生の時には小石川の陸軍砲兵工廠で全金属製構造のKB飛行艇の試作を見学するなど、実地の航空工学に触れる機会が多くありました。
しかし、大学で金属構造の飛行機について学ぶ機会は、最終学年である三年生になってもありませんでした。
日本の航空を支えた卒業生たちの功績
1927年(昭和2年)3月、24歳の堀越二郎は大学を首席で卒業しました。一緒に卒業した同級生7人の中には、初の国産旅客機YS-11の開発者である木村秀政や、飛燕を開発した土井武夫といった、日本の航空機工学を推進し、当時の欧米に立ち遅れていた日本の航空産業を引っ張っていく人物が含まれていました。
航空業界への進出と初期の設計
1927年(昭和2年)4月、東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業した堀越二郎は、菱内燃機製造株式会社(翌年に三菱航空機に改称、現在の三菱重工)に入社しました。堀越は大学時代の優秀な成績が認められ、入社の声がかかったと言われています。
当時、三菱は経済恐慌の影響で業績が振るわず、優秀な人材を獲得し、育成することで業績の回復を図ろうとしていました。堀越は新たに試作する大型飛行艇の設計を任されることを期待されていました。
しかし、その当時の三菱航空機は業績不振という苦境に立たされており、堀越がその能力を存分に発揮することはなかったと伝えられています。
航空産業の未来を切り拓く堀越二郎の海外派遣
1927年10月20日、堀越二郎は三菱航空機の研究部風洞係に配属されました。風洞は航空機の設計において非常に重要な役割を果たす装置で、ここで彼は航空機の空気力学について深い理解を得ることができました。そして、1929年には機体部設計課に配属され、飛行機の設計に直接携わるようになりました。
1929年6月、三菱航空機は堀越に対して「支度金四百円」(現在の約100万円相当)を与え、単独でヨーロッパ、アメリカに1年半派遣することを決定しました。
当時、日本の航空学は、アメリカやヨーロッパに比べて約30年遅れていると広く考えられていたため、これは日本が技術的に追いつくための試みでした。
堀越は海外で最先端の航空技術を学び、その知識を日本に持ち帰り、国産航空機の開発に役立てることが期待されました。
「海外派遣」欧米の航空機技術との出会い
堀越二郎はシベリア経由でドイツの航空技術大手ユンカース社へ向かいました。彼の任務は航空技術情報の収集でしたが、その滞在中に三菱からの指示が飛行艇の設計から陸軍向けの戦闘機設計へと大きく変更されました。これは彼にとって大きな不安材料となりました。
堀越はその状況を「旅行鞄を見るのも嫌になった」「早くイギリスに渡りたい」という言葉で書簡に綴りました。そして、ドイツ人の態度に失望し、「ドイツ人は利に敏く品格に劣る人種」と評しました。しかし、彼はその一方で、優れた飛行機を生み出しているドイツ人に触れ、日本人がそれ以上のものを作れないはずがないという思いを強くしました。
その後、堀越はドイツからイギリスへ、そしてアメリカへと足を延ばしカーチス社を視察しました。この一連の海外派遣期間中に、彼は欧米の最新の航空機技術を目の当たりにしました。そして彼は「適当な方針と組織と規模があれば、小型機で欧米に追いつくことは十分に可能だ」という確信を持つに至りました。
さらに、この期間中に堀越はジャン・カプローニ伯爵という人物に出会いました。カプローニ伯爵はイタリアの航空機メーカーの創業者で、彼の人格と哲学は堀越に深い感銘を与えました。カプローニ伯爵の考え方、つまり「飛行機は単なる戦争の道具ではなく、存在そのものが美しい夢である」は、堀越の航空機開発における思想を形成するきっかけとなりました。
特に、この考え方は後のゼロ戦開発における堀越の重要な信念となりました。堀越は「機能美」という概念を追求し、形状の美しさと優れた機能を両立させることを目指したのです。
「堀越二郎の性格特性」几帳面さとこだわり
堀越二郎は、非常に几帳面で規則正しい人間であったと言われています。この特性は彼の生活の様々な側面に現れていました。
例えば、堀越は客船の食堂での食事のメニューと領収書をすべて集め、保存していました。このような行為は彼の精密さと規則正しさを表しており、彼が設計者として優れていた理由の一つを示しているかもしれません。
また、生活面でもその几帳面さが現れていました。堀越は布団を部屋の壁に平行に敷くという特異な癖がありました。これは、どんな細部においても秩序と整然とした状態を求める、繊細な性格であったことを示しています。
このような几帳面さとこだわりは、堀越が設計する航空機の細部まで気を配り、優れた戦闘機を作り上げるための大切な要素となったのです。
「設計主任」堀越二郎のキャリア転機
1932年、29歳の時、堀越二郎は海軍の七試艦上戦闘機の設計主務者に抜擢されました。この機会は彼のキャリアにおいて大きな転機となりました。七試艦上戦闘機は、当時の主流であった複葉機と異なり、単葉機として設計されました。
家庭生活
同年、堀越は日本の大蔵官僚で、南満州鉄道副総裁の佐々木謙一郎の長女である佐々木須磨子と見合い結婚をしました。2人は6人の子供に恵まれ、幸せな家庭生活を送りました。堀越二郎の生涯は、航空技術の開発だけでなく、家庭生活においても充実していたことが伺えます。
七試艦上戦闘機の試験飛行とその影響
1933年、試作された2機の七試艦上戦闘機が試験飛行中に墜落しました。一号機は1933年7月の急降下試験中に垂直安定板が折損し、二号機も1934年6月の試験飛行中に墜落しました。これらの事故は、飛行時の安定性の問題が原因でした。
この時期、航空機の設計は複葉機が主流であったにもかかわらず、七試艦上戦闘機は単葉機として設計されました。しかし、その安定性の問題は解決されず、結果としてこの機体は実戦配備に至りませんでした。
しかし、これらの失敗は堀越二郎にとって貴重な教訓となり、特に堀越が後に設計するゼロ戦に生かされることとなりました。
各務原飛行場と七試艦上戦闘機の試験飛行
七試艦上戦闘機の試験飛行は、各務原飛行場で行われました。この飛行場は、1917年に完成し、日本で現存する最古の飛行場の一つです。
各務原飛行場は、長い歴史を持つ航空機の試験と訓練の場所であり、多くの初期の航空機がここで試験飛行を行いました。
九試単座戦闘機の設計と開発
1930年代中頃、日本海軍はまだ複葉の95式艦上戦闘機を運用していました。しかし、当時の世界的な航空技術の急速な進歩を背景に、複葉機の限界が見え始めていました。それは、近い将来に複葉機が旧式化することを意味し、海軍は新たな技術の導入を求める声が高まっていました。
このような状況の中で、日本海軍は、さらに進化した次世代の戦闘機を求めており、海軍機の試製3ヶ年計画の一部として新型戦闘機の開発を決定しました。そして、九試単座戦闘機の開発は、三菱と中島飛行機の2社が競争する形で行われることになりました。
このプロジェクトでは、堀越二郎が三菱の設計チームを率いており、後に傑作機である百式司偵を設計する久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎とともに、独自の視点と創造力を駆使して、新しい戦闘機の設計に取り組みました。
堀越二郎は1934年に九試単座戦闘機の設計と開発を本格的に開始し、その成果は後の日本海軍の航空力を大いに引き上げることとなります。
この戦闘機の設計では、以下のような数々の革新的な技術と設計が取り入れられました。
- 機体表面の空力的平滑化:機体表面を滑らかにすることで空気抵抗を極力低減しました。
- 逆ガル翼と薄い楕円形の主翼:逆ガル翼を持つ試作一号機から進化し、最終的には薄い楕円形の主翼を採用しました。
- 沈頭鋲の採用:機体表面に突起が出ない沈頭鋲を使用することで、空力的に理想的な形状を追求しました。
- 落下式増加燃料タンクやフラップの導入:機体の重量を必要に応じて調整できる落下式増加燃料タンクや、飛行性能を向上させるフラップなど、新たな機構を多く採用しました。
これらの革新的な設計により、1935年に三菱案(堀越)が採用されました。
九試単座戦闘機の競争試作
中島飛行機の設計は、主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であり、リブは木製の羽布張りでした。その操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hに達した。
この速度は、当時審査中の次期艦上戦闘機である九五式艦戦の最高速度352km/hを大きく上回るものでした。これは中島飛行機の技術力の高さを示していました。
しかし、中島製の九試単座戦闘機は、堀越二郎技師が設計した三菱製九試単座戦闘機の性能が非常に優れていたため、結果的には採用されませんでした。
三菱製九試単座戦闘機の開発と評価
堀越二郎の設計による三菱製九試単座戦闘機は、1935年1月に試作1号機が完成し、同年2月4日に初飛行が行われました。
海軍九試単座戦闘機の設計完成と試験飛行
試験飛行は各務原飛行場で行われ、その試験飛行には堀越の大学の同窓生である土井武夫を招待していました。土井は後に日本のエースパイロットとして名を馳せる人物で、この試験飛行は二人の友情を深める機会となりました。
試験飛行の晩、堀越二郎は長良川ホテルに滞在していた海軍将校2人を招待しました。そこでは3人が集まり、歓談を行いました。この機会に堀越は新たな戦闘機の詳細な設計について議論を深め、海軍との関係を一層強固にしたと考えられます。
この試作機は一連のテスト飛行で、予想最高速度407km/hを大きく上回る驚異の速度、451km/hを記録しました。これは海軍の性能要求351km/hを100km/hも上回るものでした。
飛行テストにおいて、機体が着陸時に上昇する「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れる「ピッチング」以外に大きな問題は見つからなかったとされています。そのため、これらの問題が解決された場合、堀越二郎の設計した機体の可能性は極めて高いと評価されました。
九試単座戦闘機は試作機が2機、増加試作機が4機製作され、2号機以降は逆ガル翼が廃止されました。これにより、1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題は解決され、他の問題も解決されたことから、2号機の形式で生産が進められました。
三菱製九試単戦は、速度だけでなく、格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回る性能を持っていました。その優れた性能は、当時の横須賀航空隊分隊長であった源田實大尉に、「天下無敵の戦闘機」と言わしめるほどでした。
1936年11月19日、エンジンを寿2型改(632馬力)に換装した量産機が、九六式1号艦上戦闘機として正式に採用されました。堀越二郎の設計した戦闘機は、日本海軍の戦闘力向上に大いに貢献し、その名を航空史に刻むこととなりました。
堀越二郎の設計へのこだわり
堀越二郎は、九試単座戦闘機の設計・開発にあたって、非常にこだわりの強い人物であったことで知られています。部下から上がってきた部品の設計図を何度でも突き返し、その徹底した指導ぶりから「ああ言えば堀越」と呼ばれることもありました。
堀越は、機体の美しさと機能を両立させることに最もこだわりました。その結果、九試単座戦闘機の設計では、日本の国情や独自の考え方、哲学を反映させた設計が行われました。彼の設計には、日本人の血の通った飛行機や欧米に負けない飛行機を創り出すという強い意志が込められていました。
その緻密な設計思想は、堀越が唯一の設計者として名を連ねた航空機、九試単座戦闘機の成果にも表れています。堀越は技術の進歩だけではなく、飛行機そのものの美しさという観点からも設計を進め、その美的感覚は後世にも影響を与え続けています。
堀越二郎も自身が設計した、戦闘機の中でこの九試単座戦闘機を最も気に入っていたとされています。
九六式艦上戦闘機
1936年11月19日、エンジンを寿2型改(632馬力)に換装した量産機が、九六式1号艦上戦闘機として正式に採用されました。堀越二郎の設計した戦闘機は、日本海軍の戦闘力向上に大いに貢献し、その名を航空史に刻むこととなりました。
安全革命!着陸時に起こる驚きの仕掛け
九六式艦上戦闘機は、その機体構造と設計において、当時の世界水準を大きく超える新たなアプローチが取られました。全金属製の低翼単葉機であり、これは海軍の制式艦上戦闘機としては初めてのことでした。複葉が標準的だった艦上戦闘機において、単葉を採用したことは大変革新的でした。
空力的な洗練とともに軽量化にも力が注がれており、運動性能もまた複葉に遅れを取ってはいませんでした。さらに、表面に沈んで見えなくなる特徴を持つ釘「沈頭鋲(ちんとうびょう)」を全体に使用し、空気抵抗をできる限り削減しました。また、日本製実用機種として初めてフラップを採用し、固定脚にフェアリング(覆い)をかぶせて空気抵抗の削減を図りました。
さらなる安全性向上のため、着陸時にフラップを作動させると、連動式のセーフティーバーがコックピットの後方からせり上がるという工夫も施されました。これにより、機体の転覆時にコックピットが潰れるのを防ぐ仕掛けが加えられました。
九六式艦上戦闘機の特徴と戦果
九六式艦上戦闘機は、1937年8月22日に日中戦争が勃発し、空母加賀に配備されました。9月4日には中国軍のカーチス・ホークを3機撃墜し、初の戦果を挙げました。さらに同年12月9日には、「片翼の帰還」事件が発生しました。これは、空戦中に中国空軍のカーチス・ホークⅢと空中衝突し、大きく左翼を失った九六式艦上戦闘機が、巧みな操縦によって帰還に成功した事例です。
この機体はその後、ゼロ戦が制式化されるまでの間、一部の空母で運用が続けられました。1942年頃には全機が引き揚げられ、訓練などの二線の任務に就くようになりました。九六式艦上戦闘機は、その時代において世界最優秀の戦闘機と言っても過言ではない名機でした。連合軍からはMitsubishiの“Claude”というコードネームで呼ばれていました。
堀越二郎とキ-33試験
1937年1月23日から25日まで、堀越二郎は立川航空技研で行われたキ-33の試験に立ち会いました。キ-33は日本の航空技術の進歩を示す名機の一つで、零式艦上戦闘機と並んでその優秀さが認識されています。
立川航空技研は、航空機の研究開発や試験飛行を行う日本の主要な施設でした。堀越二郎がここでキ-33の試験に立ち会ったことは、彼の航空機設計者としての才能と業績をさらに証明するものでした。堀越二郎は、設計した航空機がその性能を最大限に引き出すよう、綿密なテストと評価を行っていました。このような努力が彼の航空機が名機として認識される一因となったのです。
堀越二郎と海軍航空機の設計
1937年5月12日から13日までの間、堀越二郎は日本海軍の航空廠を訪問し、Heinkel He 118急降下爆撃機の見学、九六艦戦の打ち合わせ、そして十一試艦爆の質疑を行いました。
Heinkel He 118はドイツのHeinkel社が開発した急降下爆撃機で、当時の最新鋭機でした。この機体を見学することで、堀越二郎は最新の航空技術を取り入れ、自身の航空機設計の視野を広げました。
同時に、九六艦戦の打ち合わせに参加することで、堀越二郎は日本海軍の主力戦闘機の開発にも深く関与しました。九六艦戦は当時の日本海軍の主力戦闘機であり、その性能向上のための打ち合わせに堀越二郎が参加したことは、彼の航空機設計者としての技術と知識が高く評価されていたことを示しています。
さらに、十一試艦爆の質疑についても堀越二郎は航空廠を訪れました。十一試艦爆は日本海軍が開発した艦上爆撃機で、その開発に関する質問や疑問を解決するために堀越二郎が訪問したと考えられます。これらの活動を通じて、堀越二郎は日本海軍の航空機開発において重要な役割を果たしていました。
日中戦争とゼロ戦(十二試艦上戦闘機)計画
1937年、日中戦争が勃発しました。この戦争をきっかけに、日本海軍は新型艦上戦闘機の開発を計画しました。既存の九六式艦上戦闘機の性能向上や新技術の導入など、さまざまな戦闘状況に対応するためのニーズが存在していました。
十二試艦上戦闘機計画要求書
1937年5月19日、海軍航空本部は「十二試艦上戦闘機計画要求書案」を発行し、三菱(三菱重工業株式会社)と中島(中島飛行機株式会社)に開発要求を提示しました。特に、九六式艦上戦闘機の航続距離が1200kmと短く、中国内陸部での作戦に支障が出たため、航続距離の向上が求められました。
この要求書は新型艦上戦闘機の性能や機能などを詳細に定めており、日本海軍の新たな戦闘機開発に対する野心と期待が表れています。
これを受けた三菱は、前作である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎を設計主務者として抜擢しました。
ゼロ戦への道のり!堀越二郎と和田中佐の協力
1937年8月、ゼロ戦の主任設計者である堀越二郎は海軍の和田中佐と会談を行いました。この重要な会談では、新たに開発されるべき艦上戦闘機、つまり後のゼロ戦の基本設計や性能要件について詳しく話し合われました。
この会談の中で堀越と和田は共同で作業を進め、設計思想や性能要件を最終的に決定しました。この共同作業は、海軍の要求を満たしつつも、堀越の独自の設計思想を活かすための重要なプロセスでした。
和田中佐は当時、海軍の技術兵器廠の主任技術士官であり、ゼロ戦の開発に深く関わっていました。彼の存在がゼロ戦開発の中心にいたことは、堀越が海軍と緊密に連携して航空機の開発を進めていたことを示しています。
「厳しい要求を突破する技術」ゼロ戦開発の課題
1937年10月5日、日本海軍航空本部から「十二試艦上戦闘機計画要求書案」が正式に交付されました。日本の航空業界は、前年に全金属製で低翼単葉翼の九六式艦上戦闘機が制式採用され、世界初の沈頭鋲を採用したことで、技術評価が一段と高まっていました。
主任技術者に任命された三菱重工の堀越二郎は、29人のエンジニアやアシスタントたちと共に航空機の開発に挑むことになりました。
しかし、新たに開発が求められた戦闘機に対する要求は、非常に高度で困難なものでした。
ゼロ戦への挑戦と成功
1938年1月17日、海軍は中島飛行機と三菱重工業の技術者を集め、次世代戦闘機の開発に向けた新たな要求を提示しました。
海軍の要求は極めて厳しいものでした。新型戦闘機は、既存の九六式艦上戦闘機の優れた旋回性能を保ちつつ、最高速度を1時間あたり70km以上向上させ、時速500km(距離にして2000km以上)を発揮することが求められました。さらに、巡航速度で6時間以上の飛行が可能で、20mm機銃を2挺増設することも求められました。
これらの要求は、航空機開発の現場にとっては一種のパラドックスを提示していました。運動性能を高めつつ、最高速度と航続距離を拡大することは、技術的に極めて困難な課題でした。更には、これらの要求が互いに相容れない要素を含んでいました。
ゼロ戦開発の挑戦…技術的矛盾と折衝の難しさ
堀越二郎とそのチームが直面した難題は、技術的な困難さだけではありませんでした。航空機の性能向上は、通常、速度、旋回性能、航続距離の三つの要素の間でトレードオフの関係が存在します。大きな主翼を設けると、翼面荷重を下げて旋回性能を向上させることができますが、その一方で抵抗と重量が増え、結果として速度が低下します。
これらの物理的な制約と戦術的な要求との間には深刻な矛盾が存在していました。中島飛行機は、これらの要求の実現が不可能と判断し、試作機製造から撤退しました。一方、堀越は海軍に対して「航続力、空戦性能、速度のどれを重視して開発したらよいのでしょうか」と訴えました。
しかし、海軍からの答えは一致しませんでした。源田少佐は「戦闘機で最も大切なのは格闘戦性能である」と主張し、一方、柴田武雄少佐は「これからはスピードと航続距離が第一である」と述べました。互いに一歩も譲らず、優先順位は決まりませんでした。
堀越が社内報告書に記した会議の様子は、その苦悩を如実に伝えています。「同一機に実現しようとは甚だ虫のよき要求」「『余り要求の標準が高過ぎし』と申し述べたり」という言葉は、ゼロ戦開発の厳しさを物語っています。
それでも、堀越とそのチームは開発を続けました。
ジュラルミンで軽量化
1937年3月16日から17日にかけての訪問で、堀越二郎は新たな技術をゼロ戦の開発に導入する重大な決定を下しました。彼が訪れたのは住友金属工業で、そこで堀越はゼロ戦に超々ジュラルミン(ESD)を採用することを決定しました。
ESDは、住友金属工業が1936年に開発した極秘のアルミニウム合金で、通常のデュラリューミンよりも強く、軽く、延性に優れていました。ESDの採用は、ゼロ戦が軽量でありながら強靭な構造を持つことを可能にし、その機動性と性能を大幅に向上させることに寄与しました。
さらに、ESDの採用は、ゼロ戦のテスト中に主翼に現れる亀裂の問題に対する解決策ともなりました。ESD合金にクロムを添加することで急激な亀裂の発生を防ぎました。
ESDの使用は主翼構造など特定の部位に限られましたが、それでもゼロ戦の全備重量は約2,360キログラム(5,200ポンド)の機体の重量を約30キログラム軽減することに成功しました。全体的に見て、ゼロ戦にESDを採用することは、第二次世界大戦中の優れた性能と機動性に大きく貢献した重要な技術革新でした。
プロジェクト説明書の提出
1937年4月9日、堀越二郎はゼロ戦に関する重要な文書を海軍に提出しました。この文書はプロジェクト説明書と呼ばれ、彼自身が執筆したもので、図面以外の部分も含まれていました。
このプロジェクト説明書は、ゼロ戦の開発における重要なステップでした。説明書には、ゼロ戦の設計や仕様について詳細に記載されていたと考えられます。この説明書は海軍によって審査され、その結果を基に堀越二郎と彼のチームは海軍からのフィードバックを得ることができました。
この説明書の提出は、ゼロ戦の設計が確定的な形を取り始め、その開発が具体的な方向性を持つようになった重要な時点であったと言えるでしょう。
第12回試作艦上戦闘機計画検討会
1938年4月13日、堀越二郎は航空兵器廠で開催された第12回試作艦上戦闘機計画(ゼロ戦)の検討会に出席しました。この重要な会議において、堀越二郎は海軍に対してゼロ戦の開発における巡航力、速度、戦闘力の優先順位について質問しました。
この堀越二郎からの質問は、海軍内部で大きな議論を引き起こしました。開発の方向性を明確にするためには、どの要素を最も重視すべきかについての海軍の具体的な指示が必要であるというこの問いには、開発の進行を左右する可能性があったからです。
実物大模型の検討会
1938年4月27日から28日にかけて、三菱舞子試作工場でゼロ戦(十二試艦上戦闘機)の実物大模型の検討会が行われました。この検討会では、模型が詳細に検証され、その設計、構造、そして性能特性が評価されました。ここでのフィードバックは、最終的な設計調整や改善の指針となりました。
初期構造検査
さらに、1938年12月26日から28日にかけて、ゼロ戦の初めての実物の構造検査が三菱舞子試作工場で行われました。この検査では、実際のゼロ戦の各構造部品が徹底的に評価され、その耐久性、強度、そして機能性が確認されました。この検査を通じて、さらなる改良の必要性や問題点が明らかになり、開発チームに重要な洞察を提供しました。これらの工程を経て、堀越二郎と彼のチームは、ゼロ戦の完成に向けて着実に進んでいきました。
試作一号機(A6M1)と完成と新機軸の採用
1939年(昭和14年)3月15日、数々の工夫と努力の結果、A6M1試作一号機が完成しました。この三菱A6M1は、名古屋航空機製作所(三菱重工業)で製造されました。
堀越二郎とそのチームによる数々の工夫と努力の結晶でしたが、それは開発段階での複数の課題を解決するための試練の連続でもありました。
多岐にわたる要求
新たな戦闘機の開発にあたっては、長距離飛行の能力と戦闘機としての性能の両立が求められました。これらを実現するためには、新技術の導入とその試行錯誤が必要でした。それらは重量軽減、空気抵抗の減少、安全性・操縦性の向上といった要素を包含していました。
翼面荷重と急降下制限速度
翼面荷重の目標を105kg/m²以内という低い値に設定したことは、ゼロ戦にとって優れた空戦性能を生み出す一方で、急降下制限速度を低く抑える必要が出てきました。これは戦闘機としての性能と飛行性能の間のトレードオフと言えるでしょう。
フラッター現象と視界の問題
開発段階でのフラッター現象による事故が発生し、その対策技術の未熟さが問題となりました。また、照準器や前方視界が悪く、射撃のチャンスを活かすことができなかったことから、先制攻撃を加える能力に問題がありました。これらの課題を解決するためにも、新たな技術や設計手法の採用が求められました。
新たな設計手法と重量軽減
新たな設計手法としては、胴体を前後に分割して主翼と一体化した胴体前半部と後半部を小さなボルトで結合する新方式が採用されました。
また、新開発の翼型、小型昇降舵、定速式プロペラ、沈頭リベット、超々ジュラルミン(ESD)、水滴型密閉風防、流線形の増槽、引き込み脚、20mm機銃などの新機軸を取り入れました。
特に重要だったのは重量軽減で、これには堀越技師が細部設計まで強度計算を行い、グラム単位で取り組んでいました。これらの工夫と努力により、試作一号機は海軍からの厳しい要求を満たすことができました。
A6M1試作一号機の完成検査と地上試験
1939年3月17日、最初のゼロ戦試作機(A6M1試作一号機)の完成検査が同工場で行われました。様々な新技術や工夫を盛り込みながらも、この新型戦闘機は海軍からの厳しい要求を満たす形で完成し、検査を通過しました
そして、翌日の1939年3月18日には、この試作機の地上試験が同工場の西広場で行われましたこの試験は約1時間にわたり行われ、その間にエンジン、操縦系統、降着装置、電子装備などの機能が確認されました。こうした地上試験は、実際の飛行試験に先立ち、新型機の基本的な動作を検証するための重要なプロセスであり、同時に最後の安全確認でもあります。
この地上試験は、午後12時45分から13時40分までの55分間行われ、結果としてA6M1試作一号機は無事に試験を通過しました。これにより、次の段階である飛行試験へと移ることが可能となりました。
試作一号機の各務原飛行場への運搬
1939年3月23日午後7時過ぎ、完成した試作一号機が各務原飛行場へと運ばれていきました。その際、特殊な運搬方法が採用されました。通常であればトラックを使用するところですが、試作一号機の運搬には2台の牛車が使用されました。
その理由は、当時の道路が不整地で満ちていたため、車輌で運搬すると機体が振動で損傷を受ける可能性があったからです。牛車ならば振動を緩和でき、また機体をゆっくりと安全に運べると考えられたためです。
運搬は夜間に行われ、提灯を持った男たちが三菱マークを掲げて先導しました。その様子は市電までもが停車するほどの大規模なもので、運搬には約48kmを1日がかりで行いました。そして、試作一号機は無事に各務原飛行場に隣接する三菱の格納庫に到着しました。
「歴史を彩る航空伝説」各務ヶ原飛行場のゼロ戦初飛行
1939年4月1日、歴史に残るゼロ戦の初飛行が岐阜県の各務ヶ原飛行場で行われました。この日は絶好の飛行日和で、空は晴れ渡り、風はほとんど吹かず、陽炎が地上を揺らしていました。
その日の飛行スケジュールは以下の通りでした。
- 16:30 – 第1回地上走行
- 17:00 – 第2回地上走行
- 17:30 – 第3回地上走行の後、離陸
振動問題に立ち向かう!ゼロ戦の改良と進化
ゼロ戦は約500メートルの距離を、高度10メートルで飛行しました。試作機の初飛行により、設計主任の堀越二郎による手書きの記録には大きな安堵の気持ちが述べられています。
しかしながら、試験飛行が進むにつれて新たな課題も明らかになりました。特に、初期の問題としては、機体に振動が発生する事が挙げられます。この問題に対処するために、ゼロ戦はさらなる改良を施され、3日間の慣熟飛行が行われました。
その後、4月17日には、3枚のプロペラが取り付けられ、振動問題が大きく軽減されました。6月5日には、エレベーター制御システムの初期剛性低減の初の試験飛行が行われました。
「ゼロ戦の日」 零式艦上戦闘機の初の公式試験飛行
1939年(昭和14年)の7月6日、海軍による初の公式試験飛行が行われました。この日は、以後「ゼロ戦の日」として記念されることになります。
この日、十二試艦戦試作一号機のコックピットには、海軍航空廠飛行実験部の戦真木成一大尉と中野忠二朗少佐が座りました。彼らの任務は、この新型戦闘機の機動性、耐久性、全体的な性能をテストし、その結果を海軍へ報告することでした。
この試験飛行は成功裏に終わり、その後も零式艦上戦闘機のテスト飛行は日常的に実施されるようになります。これは、機体の性能を最大限に引き出すため、そして潜在的な問題を早期に発見し、改善するための重要な手段となりました。
この日から始まる一連のテスト飛行は、ゼロ戦が次々と驚異的な性能を発揮し、その評価を高めていく契機となったのです。
「玉井屋旅館」開発チームの滞在地
この頃、ゼロ戦の開発に深く関与していた堀越二郎を含む開発チームは、この旅館に滞在していました。玉井屋旅館は、開発チームがゼロ戦の開発作業を行うための場所として提供されました。
この旅館は、開発作業を進めるうえで重要な役割を果たしました。開発チームはここで集中的に作業を行い、互いに情報を交換し、新しいアイデアを生み出しました。また、開発チームはこの旅館で休息を取り、リフレッシュすることもできました。
ゼロ戦の初飛行と引渡し
1939年9月13日、長い開発と試験の後、ゼロ戦はついに正式な引渡し飛行を行いました。この日はゼロ戦が最初に空に舞い上がった、とても特別な日となりました。
その飛行は成功裏に行われ、翌日、ゼロ戦は各務ヶ原を出発しました。その目的地は厳重に秘密にされていたが、飛行機は午前10時に指定された場所に無事に到着しました。
これにより、ゼロ戦は正式に日本海軍の一部となり、その優れた飛行性能と戦闘力を前線で発揮する準備が整いました。この引渡し飛行は、ゼロ戦が多くの戦闘で活躍する前哨戦とも言える重要なイベントであり、その後の太平洋戦争における日本海軍の航空戦力を象徴する出来事となりました。
この引渡し飛行は、開発チームにとっても大きな喜びであり、彼らの長い努力が遂に実を結んだ瞬間でした。しかし同時に、これは新たな挑戦の始まりでもありました。ゼロ戦がどのように実戦で活躍し、どのような戦果を上げるのか、その全てがこれから始まる新たな物語であったのです。
フラッター現象と試作第二機の事故…その詳細と原因
1940年3月11日、零式艦上戦闘機の試作第二機は試験飛行中に急降下し、その過程で機体が空中で解体するという重大な事故を引き起こしました。地面に墜落したこの機体からテストパイロットの奥山正美さんが投げ出され、命を落としました。この事故は、尾翼部分に存在した設計上の欠陥が原因であり、特に昇降舵に質量バランスがなかったことが指摘されています。
「フラッター」現象
ここで注目すべきなのが「フラッター」という現象です。フラッターとは、飛行機の固有振動が複数組み合わさって、一定の速度以上で不安定になり、激しく振れ出す現象のことを指します。空気力と機体特性の複合作用によって起きるこの振動は、飛行機が一定の速度を超えたときに発生し、主翼や補助翼などの振動が相互作用することで多様な形で表れます。
事故当時、飛行機の速度は高くなかったため、フラッターは「主翼曲げ-補助翼」タイプの比較的穏やかなものであり、補助翼の前縁にマスバランスを取り付けることで対策が可能でした。しかし、飛行機の高速化に伴い、予想もできなかった大事故が引き起こされることとなりました。
航空界の重大事故からの教訓
堀越二郎主任設計者は、事故の原因を解明し、再発防止のための改良を行う重大な責任を感じ、即座に横須賀へと向かいました。
事故原因の調査では、昇降舵を連結するパイプに取り付けられているはずのマスバランスがなく、おそらくは事故発生前から脱落していたと判断されました。これが昇降舵フラッターを引き起こし、事故につながったと結論づけられました。そのため、すぐにマスバランス腕の補強という対策が施されることとなりました。
この昇降舵フラッターによる事故は、日本海軍機において確認された唯一の例であり、その後の飛行機設計において重要な教訓を提供しました。
前線への早期投入とゼロ戦の勃興
1940年(昭和15年)7月、性能に優れた新型戦闘機、十二試艦戦の試験飛行が行われていました。その噂はすでに前線の海軍航空隊に伝わっており、前線部隊は航続距離の長さと強力な武装を持つ新型戦闘機の投入を切望していました。
そんな中、海軍は一歩を踏み出します。通常であれば実用試験の結果や制式採用を待つべきところでしたが、その戦局の切迫した状況と十二試艦戦への絶大な信頼感から、1940年7月、試験中でありながらも十二試艦戦を中国の前線部隊に派遣することを決定しました。
この海軍の異例の決断は、十二試艦戦への高い期待と、そしてそれが生み出す可能性への信頼の表れでもありました。一刻も早い実戦配備を求める声に応え、その期待を裏切らない性能を発揮するであろうと確信されていた十二試艦戦――それが後に「ゼロ戦」として語り継がれる戦闘機の出発点でした。
実戦部隊へのゼロ戦の初配備
7月21日、初期生産機であるA6M2が第12航空隊に配備され、中国の漢口基地に進出しました。制式採用前の機体が前線に送り込まれるという異例の措置であったにもかかわらず、この時点でゼロ戦はすでにその優れた性能で注目を浴びていました。
そして、わずか3日後の7月24日に、十二試艦戦は日本海軍により正式採用され、零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」の名前で広く知られるようになっていきます。
初陣とその後の活
ゼロ戦の初陣は、1940年9月13日に中国大陸の重慶上空で行われました。前月の8月19日に初出撃が行われましたが、この時は敵機との接触はなく戦果を挙げることはできていませんでした、
9月の初陣では、進藤三郎大尉の指揮する13機のゼロ戦は、中華民国空軍のソ連製戦闘機約30機との激しい空戦を繰り広げました。その結果、ゼロ戦は一機も失うことなく、27機の敵機を撃墜したとされています。この撃墜数は日本側の記録であり、中華民国側の記録では被撃墜13機、被弾損傷11機とされています。どちらの記録にせよ、ゼロ戦がその初陣で示した優れた性能と戦闘力は驚異的なものでした。
以後、ゼロ戦は「向かうところ敵なし」とも称されるほどの圧倒的な活躍を見せ、その戦果は日本国内だけでなく海外でも大きな話題となりました。開発者たち、堀越二郎や松平精らの技術者たちにとっても、自らが開発に関与したゼロ戦がここまでの活躍を見せるとは思いも寄らなかったでしょう。
一方でこの初陣は、開発者たちの努力と技術が戦場で結実し、成功という形で報われた瞬間でもありました。ここからゼロ戦の伝説が始まったのです。
紀元2600年とゼロ戦の名前の由来
1940年(昭和15年)は皇紀2600年に当たり、この年は全国的に大規模な祝賀行事が行われました。皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(紀年法)であり、神武天皇が即位した年を紀元前660年と定め、その年を皇紀元年としたものです。
主任設計者の堀越二郎はこの年、紀元2600年式典(11月10日)と祝賀会(11月11日)に、民間功労者として出席しました。
この皇紀2600年にちなんで、「零式艦上戦闘機」が採用されました。これが、一般に「ゼロ戦」として知られる海軍の戦闘機の名前の由来となっています。
「ゼロ(零戦)」の「零」は、採用年の皇紀下2桁の「00」から来ており、正式な読み方は「レイシキ艦上戦闘機」となりますが、現在では一般的に「ゼロ戦」と呼ばれています。
ちなみに、皇紀2601年には「一式戦闘機」(通称:隼)が採用されました。このように、当時の日本軍機の名称は、採用年の皇紀下2桁を冠するというルールが存在していました。
ゼロ戦の改良と進化
ゼロ戦が日本海軍の主力戦闘機として活躍していく中、一方で、その性能には幾つかの課題が存在していました。特にエンジンの「瑞星13型」のパワー不足は、ガソリンを満タンにし実弾を装填した実戦状況では、要求の時速500kmに達することが難しいという問題を生み出していました。
また、初期型ゼロ戦では機体の振動が問題となりました。この問題の解決策として、技術陣は2枚プロペラを3枚プロペラに変更し、振動の発生を抑えることに成功しました。しかし、それでもなお速度性能に対する不満が残っており、より強力なエンジンの搭載が求められました。そこで海軍は、三菱の「瑞星」よりもパワーのある中島の「栄」エンジンを装備することを決定。これにより、「瑞星」装備型をA6M1、「栄」装備型をA6M2と区分しました。
A6M2への変更はエンジンだけでなく、機首周辺、尾翼、後部胴体の設計にも大きな影響を与えました。特に機首部分は、「瑞星」エンジンから「栄」エンジンに変更することで、気化器の空気取入口がカウリングの下部に移動し、その形状も変化しました。また、後部胴体と尾翼も大きな変更が加えられ、胴体は若干太く長くされ、垂直尾翼も上方に延ばされて面積が拡大されました。これにより、初期型のゼロ戦で問題となっていた横方向の安定性不足も改善されました。
さらに、最近の調査では、5、6号機も「瑞星」エンジンを搭載して完成し、A6M2は3、4号機及び7号機以降となったという資料も見つかっています。これらの改良を経て、A6M2型ゼロ戦は零式艦上戦闘機として制式採用される基本型になりました。大きな設計の変更は無かったものの、各部の細かな改良によって完成度の高い機体となったのです。
ゼロ戦の飛行事故とその解決
昭和16年(1941年)の4月16日、空母『加賀』から飛び立ったゼロ戦が訓練中に重大な事故を起こしました。木更津上空での訓練中、ゼロ戦は高度3000メートルから50度の急降下を開始し、高度2000メートルで速度320ノット(時速約580キロ)まで上昇しました。その後、激しい振動が機体を襲い、操縦士は一瞬意識を失いそうになりましたが、冷静な操縦により無事着陸することができました。
この事故を受けて、松平精は直ちに事故調査に向かいました。事故を起こしたゼロ戦は、その時点で生産された約150機のうち、新しい140号機でした。事故機の操縦士は二階堂易中尉で、自民党元幹事長で内閣官房長官も務めた故二階堂進の実弟でした。
調査を始めた松平精は、二階堂中尉の話を詳しく聞き、事故機を様々な角度から調査しました。しかし、その時点では機体の状態から事故の原因を突き止めることはできませんでした。事故機の補助翼は左右ともに飛び出しており、その状態で着陸できたこと自体が奇跡的でした。事故原因の究明はこれからの課題となりました。
ゼロ戦のフラッター問題とその解決
昭和16年(1941年)の4月17日、松平精は航空技術廠の研究室で仕事をしていたところ、悲報が飛び込んできました。横空でゼロ戦が空中分解し、下川万兵衛大尉が亡くなったというのです。下川大尉はゼロ戦の実用実験を通じてその「育ての親」とも言える人物で、その死は松平にとっても大きな衝撃と悔恨をもたらしました。
事故を引き起こしたゼロ戦は、二階堂易中尉が事故を起こした同型のゼロ戦135号機で、同じ操作が試みられていました。同じ日、堀越二郎は名古屋を発ち、翌朝、横須賀の航空技術廠に出頭しました。
当時、海軍の試作機は必ずテスト飛行の前に機体の強度実験と振動実験を行い、安全性を確認していました。その中で、松平は振動実験の責任者として、ゼロ戦は時速500ノット以下ではフラッターは起こらないと判断していました。しかし、航空技術廠でただちに始まった事故調査では、フラッターの可能性が次第に浮上してきました。
松平を中心とする研究グループは、10分の1スケールの主翼模型を作成し、フラッター風洞実験を行うことで事故原因を究明することにしました。模型は田丸喜一によって製作され、桁と小骨を木材で作り、外板は薄い絹の布に寒天の水溶液またはドープを塗った緻密なものでした。
6月上旬、実験の準備が整いました。田丸が風速調整用のハンドルを回し、風速が上昇していく中、模型がねじれるように振動を始めた瞬間を見て、松平は原因がつかめた安堵とともに、自身が起こらないと思っていたフラッターのために人命を失ったという責任感を深く感じました。
この実験結果を実機に適用した結果、事故時の速度と一致することが判明しました。ゼロ戦の補助翼には当然マスバランスが取り付けられており、主翼の曲げ振動によるフラッターは出ないように設計されていました。しかし、それまでの飛行機にはなかった高速を達成できるようになったことで、主翼のねじれ振動が起こり、曲げ振動だけではバランスが取れなくなったのです。
松平はこの結果を上司に報告し、事故調査委員会で、自分の研究の至らなかったことを謝罪しました。辞職や懲罰を覚悟していた彼に対し、上司からは原因究明の労をねぎらう声が上がりました。その後も彼はテスト飛行の飛行機の胴体にもぐりこみ、実際に振動を体験するなどしながら、問題の解決に向けて精力的に取り組みました。
ゼロ戦と太平洋戦争
1941年(昭和16年)12月7日、太平洋戦争が勃発しました。日本海軍はアメリカ海軍の太平洋艦隊の本拠地であるハワイの真珠湾を攻撃し、この戦闘でゼロ戦は大きな役割を果たしました。
ゼロ戦は艦上攻撃機の護衛として、驚異的な運動性能を発揮し、アメリカ軍の戦闘機を圧倒しました。この日、ゼロ戦はその優れた性能を世界に示すこととなり、日本軍の攻撃の主力として、真珠湾攻撃の成功に大いに貢献しました。
なお、真珠湾攻撃に投入されたゼロ戦は、空母への搭載を前提に量産された「21型」でした。このタイプの特徴の一つが、翼端が50cmずつ折り畳める機能です。これにより、ゼロ戦は狭い空母内での機動性を確保し、より効率的に運用することが可能でした。
アメリカ軍のゼロ戦対策と訓練
ゼロ戦の優れた機動性は第二次世界大戦中、アメリカ軍にとって大きな脅威でした。そのため、アメリカ軍はゼロ戦に対抗するための新たな戦術を開発し、パイロット達にその戦術を教授することで対抗しました。
一つの戦術として、一対一の空戦を避け、二対一の空戦を行う方法がありました。この戦術は数的優位を保つことでゼロ戦の機動性を無力化しようとするもので、その結果、F4Fワイルドキャットといったゼロ戦に一見劣るとされた戦闘機でも、ゼロ戦に対抗することが可能となりました。
また、複数の敵との空戦に対する基本的な原則も教授されました。それは、自分を二人以上の相手の間に置かないようにし、地面に取られないようにする、というものでした。これにより、一度に効果的に戦えるのは一人だけなので、相手を一列に並べ、戦闘を制御することが推奨されました。
さらに、アメリカのパイロットはゼロ戦を正確に識別するための訓練を受けました。当時、自分たちのP-40と日本のゼロ戦を区別することが難しい状況下では、敵友の識別ミスが致命的な結果を招くことがあったため、この訓練は重要でした。
その一環として、「Recognition of the Japanese Zero Fighter(Jap Zero)」という教育用の短編ドラマも制作されました。これらの対策により、アメリカ軍はゼロ戦に対抗する戦術を開発し、戦局を有利に進めることができました。
防御力を犠牲にした攻撃力
堀越二郎、ゼロ戦の設計者は、「ゼロ戦の計画要求は九六艦戦とは段違いのもので、もしこのとおりのものができれば、攻撃力では世界にならぶものがないだろうという底のすこぶる苛酷なものだった。しかしここに見のがし得ない大きな過ちをやった。というのは、攻撃ばかりを考えて防弾を見のがしたことである」と語っています。堀越は「防弾がなかったのは当然」とも語り、後にゼロ戦に施された防弾装備については、「未熟者が増えたせいで不相応なものだった」と指摘しています。
ゼロ戦はその軽量化のため、防弾性能が犠牲にされていました。防弾ガラスは存在せず、パイロットは背後からの保護として一枚の装甲板しか持っていませんでした。初期の段階では、ゼロ戦の高い空戦能力が防弾性能の欠如を補っていましたが、真珠湾攻撃において9機のゼロ戦が撃墜され、その防弾装備の弱さが明らかになりました。しかし、その時点ではその背後の理由が解明されていませんでした。
戦争後半になると、アメリカ軍はゼロ戦の弱点である急降下時の耐久性の問題や防弾性能の欠如に気づき、それに対する対策を講じることに成功しました。しかし、それが行われた時には既に戦況は厳しくなっていました。
つまり、ゼロ戦は「超々ジュラルミン」などの軽量化技術によって驚異的な空戦能力を得た一方で、防弾性能は犠牲にされていました。設計者である堀越二郎自身も、攻撃に注力し防弾を見落としたと認めています。
初期の段階ではこの防弾性能の欠如は問題視されていませんでしたが、真珠湾攻撃の後、アメリカ軍は調査によってその弱点に気付きました。しかし、当時はその欠点の背後にある理由は知られておらず、対策は遅れました。
「アクタン・ゼロ」の捕獲とアメリカの対ゼロ戦戦術
1942年7月、一機の21型ゼロ戦がアリューシャン列島のアクータン島に緊急着陸しました。このゼロ戦はほぼ無傷であり、アメリカ軍によって回収され、「アクタン・ゼロ(Akutan Zero)」と名付けられました。この捕獲機体の存在により、アメリカ軍はゼロ戦について詳細に調査することが可能となり、ゼロ戦に対抗するための新たな戦術を模索するきっかけを得ました。
アメリカ軍は「アクタン・ゼロ」を用いて数多くの試験飛行を行い、ゼロ戦の弱点、特に急降下時の耐久性の問題や不十分な防弾能力を把握しました。これにより、ゼロ戦の優越性は戦争が進むにつれて徐々に失われていきました。
ゼロ戦を手に入れることで、アメリカ軍はその弱点を研究し、新たな戦術、「ブーム&ズーム」を採用することとなりました。この戦術は、直接的な空中戦闘を避け、高い高度から急速に降下して攻撃し、その後すぐに離脱するというものです。この戦術は、ゼロ戦の優位性に挑むのに非常に効果的であり、戦局に大きな影響を与えました。
ガダルカナル島の戦いとゼロ戦の改修
1942年8月、西太平洋のソロモン諸島のガダルカナル島を巡る日本とアメリカの間の激しい戦闘が始まりました。この戦闘は、アメリカ軍の反攻の初めてのステップとなりました。この戦闘の中でゼロ戦の改修命令が出されました。
当時、ニューブリテン島のラバウルに駐留していたゼロ戦部隊は、ガダルカナル島への攻撃部隊を支援するために約1500km飛行しなければならなかった。ゼロ戦は高い耐久性を持っていましたが、それでもこの距離は相当な負担でした。この問題に対処するため、ゼロ戦の主翼を航空母艦搭載機と同様のデザインに延長し、燃料容量を1時間分増加させる改修が行われました。これによって生まれたモデルは「22型」として知られるようになりました。
さらに同じ時期に、ゼロ戦は重要なエンジンアップグレードを受けました。「サカエ21」エンジンが新たに搭載され、「32型」と名付けられた新モデルが生まれました。しかし、ガダルカナルの戦闘と生産タイミングが重なったため、「32型」モデルはその性能を十分に発揮する機会を得ることができませんでした。
ゼロ戦の性能強化と生産減少
米軍は、ゼロ戦の弱点である急降下や高々度性能の低さをついて、より高性能の新鋭機を次々と投入し始めました。既にゼロ戦よりも速い機体も登場し、ゼロ戦は徐々に劣勢となっていきました。
この時期、堀越二郎は新たな高性能戦闘機「雷電」の開発に取り組んでいました。雷電は主に基地防空を担当する機体として設計されていましたが、完成は大幅に遅れ、その間にゼロ戦の性能を少しでも向上させるために新しい改修が行われました。排気管に改良が施され、機体の最高速度が20 km/h以上向上し、565 km/hに達しました。
これらの改修により生まれたのが「52型」ゼロ戦で、これが最も多く生産されたゼロ戦のバージョンとなりました。ただし、22型と比較して翼面積が小さくなったため、52型の格闘戦能力は低下しました。さらに、52型の生産はガダルカナルの戦闘とのタイミングが合わず、日本軍にとっては大きな敗北となりました。
日本本土への攻撃が進む中、三菱によるゼロ戦の生産は急速に減少しました。1944年10月には145機が生産されましたが、それが1945年7月にはたったの15機まで減少しました。この減少は、日本の航空産業と戦局全体の悪化を象徴しています。
「特攻攻撃」ゼロ戦の最期の戦い
1944年10月、戦局が悪化する中、日本は特攻攻撃という絶望的な作戦を開始しました。この作戦では、航空機に爆弾を積載し、敵艦船に自爆攻撃を行うというもので、ゼロ戦の52型モデルも特攻用の改修を受け、500kgの爆弾を搭載した戦闘爆撃機に改造されてしまいました。
日本の若きパイロットたち操縦するゼロ戦は、人間が操縦するミサイルと化し、多くのアメリカの艦船に損傷を与えました。
特攻攻撃は、連合軍の兵士たちに深い畏敬と同時に不信感を生み出しまし。その凄まじい攻撃を目撃したり経験した兵士は、強烈なショック、恐怖、過度の不安をもたらし、トラウマを植え付けました。
堀越二郎とゼロ戦の悲劇
ゼロ戦の設計者である堀越二郎は、新聞社から特攻攻撃を称賛する記事を執筆するよう求められました。しかし彼はゼロ戦がそのように使われることに深い悲しみを抱き、何も書くことができませんでした。「想像するだけで胸が詰まり、私は何も書くことができません。わが国が戦争を放棄したように、職業選びに失敗した私の子供たちが、持続的な職業を見つけることを心から願っています」と彼は述べました。これは、彼が自分の設計した機体が若いパイロットたちの命を奪う道具となってしまったことへの苦悩の表れでした。
ゼロ戦への評価の変遷と堀越二郎の感慨
特攻攻撃が開始された1944年ごろから、ゼロ戦への評価は大きく下がり始めました。
その評価に対して、ゼロ戦の設計者である堀越二郎は「ゼロ戦は若いとき鳴らした婦人のようなものである。若いころ見た人と晩年に見た人ではその批評が違う」という意見を辛辣だと感じながらも、「これには苦笑しながら同意せざるを得ない」と語っています。
これは、ゼロ戦が戦局の厳しさや戦闘環境の変化によって、その優れた能力が相対的に見劣りし、評価が変化したことを示しています。
そして、日本は終戦を迎えます。大空に飛び立った堀越の夢であるゼロ戦は、結局、一機も戻ることはありませんでした。
これは、戦争の結果としてゼロ戦が特攻機として使われ、多くのパイロットたちと共に海底に沈んだ事実を示しています。
堀越二郎が心血を注いで開発したゼロ戦は、自分の意図とは違う形で利用され、結果的に多くの命を奪う結果となった悲劇的な結末になってしまったのです。
戦後の航空産業と航空技術者の役割
1945年8月15日、日本が第二次世界大戦から降伏し、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が設置された後、日本の航空産業は厳しい制約を受けました。
航空機の研究、設計、製造は一切禁止され、これは航空に関連する学問や教育にも及びました。この制約により、ゼロ戦のような戦闘機の生産は当然のこと、民間航空機の開発も行えない状況に日本の航空産業は追い込まれました。
これらの制約は日本の航空技術者たちに深刻な影響を与え、多くの人々が職を追われることとなりました。研究開発が禁止されるという事態は、航空産業だけでなく、技術革新そのものを阻害する結果となりました。この状況は7年間続き、その間に日本の航空産業は大きな衰退を経験しました。
この禁止が解除されたのは1952年の日本の独立回復時でした。しかしその時には、日本の航空産業はかつての姿を失っていました。
ゼロ戦の主任設計者である堀越二郎を始めとする航空技術者たちは失業し、彼らの多くは違う分野での仕事を見つけるか、または引退することを余儀なくされました。
航空技術者たちの転職と新たな挑戦
戦後、航空技術者たちの中には多様な分野へと足を踏み入れ、新たな挑戦を始めた人々がいました。その代表的な例が、戦闘機「キ94」の設計主任を務めていた長谷川龍雄です。彼は終戦後、自動車製造会社トヨタに入社し、大衆車の「パブリカ」や「カローラ」の初代モデルの開発主任を務めました。航空技術者の彼が自動車の設計に携わることで、トヨタの自動車製造には飛行機設計の要素が取り入れられることとなりました。
また、航空技術者が活躍したのは自動車分野だけではありませんでした。ゼロ戦の墜落事故調査で活躍した松平清は戦後、鉄道技術研究所に所属し、鉄道の研究に取り組みました。
松平はその中で、鉄道の揺れとゼロ戦にあった不安定な翼の振動現象が似ていることを発見し、鉄道脱線事故の原因を解明することに成功しました。この研究は、その後の新幹線などの高速鉄道の設計に大いに役立てられました。
この間、ゼロ戦の主任設計者であった堀越二郎も新たな仕事を見つけ、鍋釜や農機具の製造に取り組みながら戦後の混乱を凌いでいました。堀越はもともと航空機の設計に深い情熱を持っていたため、この新しい生活は彼にとって大きな挑戦であったと言えるでしょう。
しかし、彼の技術者としての経験と知識は、この新たな仕事にも生かされ、戦後の復興に貢献することとなりました。
日本の航空産業の復活と堀越二郎の再出発
1952年は日本の航空産業にとって大きな転機となりました。この年にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本は正式に独立を回復しました。
そして、これに伴い航空法や製造事業法が施行され、日本の航空機産業は再開の道を歩み始めました。具体的には、朝鮮戦争の真っただ中にあったこの時期、米軍機の修理から始まる日本の航空機産業の再生が始まったのです。
終戦から約10年が経った1954年には、東京大学の航空学科が再開され、航空関連の教育も再び行われるようになりました。このころから日本は再び飛行機を作り出す環境が整い始め、その動きが加速していきます。
そして1957年、財団法人輸送機設計研究協会が設立され、「純国産」の飛行機作りの構想が具体的な形となり始めました。
このプロジェクトは、通産省(現在の経済産業省)の主導により国産旅客機製造計画として具現化し、その中にはゼロ戦の設計者である堀越二郎をはじめ、隼の設計者太田稔、紫電改の設計者菊原静雄、飛燕の設計者土井武夫など、戦前の航空機設計のエキスパートが名を連ねました。
この航空機設計のエキスパートたちは、戦争を通じて得た技術と経験を活かし、次世代の若者たちに航空機設計の知識と技術を伝えるという重責を担いました。そして、実際の設計作業を指導したのは、その中でも特に優秀で知られていた東條輝雄でした。彼は東條英機元首相の息子であり、航空機設計者としての高い技術力と独自の視点を持っていました。
「YS-11」の開発と戦後復興の象徴
1957年、日本の航空産業は新たな一歩を踏み出しました。国内初の旅客機「YS-11」の基本設計が開始されたのです。この機体構造自体は戦前から戦後にかけて大きく変わった部分はありませんでしたが、飛行機に積まれる電子機器の高性能化やジェットエンジンの普及といった技術革新が進んでいました。
しかしこのプロジェクトには大きな課題がありました。日本の航空機産業は戦前から戦中にかけて主に軍用機の開発に力を注いでおり、民間用の旅客機を作る経験はほとんどありませんでした。
そのため、旅客機「YS-11」の開発はさまざまな困難に見舞われました。一例として、開発の初期段階で「雨漏りする」という問題が発生しました。これは、ハンガー内での開発作業がほとんどであり、戦闘機の開発に慣れきっていた技術者たちは、「飛行中の快適な空間」の確保という新たな課題に直面したのです。
一方で、このような課題を乗り越えるために、戦時中の経験が大いに活かされました。例えば、「YS-11」の開発初期には飛行中の安定性に問題がありましたが、飛燕の設計者である土井武夫が戦時中に培った知識と経験を活かして、翼の取り付け部にくさびを取り付けるという解決策を提案しました。
こうした戦時中のノウハウを組み込んで開発された「YS-11」は、1964年の東京オリンピックでの聖火輸送にも活用され、戦後の日本復興の象徴として大きな役割を果たしました。
航空技術者が残した影響
更に、日本の航空技術者たちは、その深い知識と豊かな経験を活かし、航空産業以外の多くの分野で貢献を果たしてきました。以下に、それらの分野と技術者たちがもたらした具体的な成果を紹介します。
高速鉄道の開発
新幹線の開発には航空技術者が重要な役割を果たしました。松平精はゼロ戦の機体振動の研究から得た知識を活かし、新幹線の異常振動を抑えるための台車を開発しました。
また、航空機設計の経験を持つ三木忠直は新幹線の車体設計を担当し、その結果、世界最高水準の速度と安全性を備えた新幹線が誕生しました。彼らの技術は21世紀に入っても受け継がれ、台湾の高速鉄道の開発にも貢献しました。
医療技術の革新
深海正治は、ゼロ戦の機銃の研究において得た知識を利用して、胃カメラの開発に成功しました。この内視鏡技術は医療診断の大幅な進歩をもたらし、多くの疾病の早期発見に貢献しました。
宇宙探査のフロンティア
空技術者の影響は宇宙領域にも広がりました。ペンシルロケットを開発した航空技術者の糸川英夫の名前は、宇宙探査機「はやぶさ」の目指す小惑星「イトカワ」という星に刻まれました。糸川は日本の宇宙開発のパイオニアと称され、彼の業績は生誕100年記念サイトにも記載されています
堀越二郎 「 教育者とパイオニア」
堀越二郎は航空技術者だけでなく、教育者としても活動し、その影響力は幅広い領域に及びました。彼は東京大学、防衛大学校、日本大学で講師や教授として多くの学生を指導し、自身の専門知識と経験を伝えることで、日本の航空技術の発展に寄与しました。
堀越の生涯は航空の歴史と密接に結びついていました。彼が生まれた1903年にはライト兄弟が初の動力飛行を成功させ、堀越自身もその後の生涯で飛行機の発展とともに歩みを進めました。彼は日本の航空技術の発展に大いに貢献し、一時期は世界の頂点にその名を刻んだのです。
彼の業績は、航空機の設計や製造における革新的なアイデアを数多く含んでいます。これらのアイデアは航空業界の発展に対して大きな貢献をし、彼が去った後もなお日本の航空産業に影響を与え続け、新たな技術開発や研究の刺激を提供しています。
1982年に78歳で亡くなった堀越二郎ですが、その生涯は飛行機の発展とともに進み、その業績は日本の航空史に深く刻まれています。そのため、彼は日本航空産業のパイオニアとして記憶され、敬意を持って称えられ続けています。
ジブリ映画「風立ちぬ」
堀越二郎の生涯と業績は、宮崎駿監督のスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画「風立ちぬ」の題材にりました。
映画「風立ちぬ」では堀越の航空技術者としての苦悩と倫理的な問題を詳細に描き出し、その人生と業績が航空史において広く認識されるきっかけになりました。
また、映画のタイトル「風立ちぬ」は、堀越二郎の友人であった文学者・堀辰雄の同名の小説から引用されました。堀辰雄と堀越二郎との深い繋がりは、映画に重要な影響を与えています。これらの要素が組み合わさり、堀越二郎の業績を新たな視点から浮かび上がらせ、その生涯と業績をより深く理解する機会を提供しました。