この記事は、日本における神道と仏教の関係について解説しています。日本人が、生まれたときに神社でお宮参りをし、お葬式はお寺で行われるなど、神道と仏教が独自に結びついた形で存在していることを紹介しています。
また、日本人が柔軟な宗教観を持っていることを示す年末の除夜の鐘や元日の初詣、七福神などの風習や、祭りや修行法についても触れています。さらに、明治維新以降に起こった神仏分離政策や廃仏毀釈の歴史的背景にも触れながら、日本人の宗教観や信仰心について考察しています。
Japanese religion
なんでもあり!?日本人の宗教観を知る。
日本では、多くの人々が雑多な信仰を持っており、それぞれの宗教が生活の中で自然に受け入れられている。子どもが生まれたときには神社でお宮参りをし、お葬式はお寺で行われるといった、神道と仏教が独自に結びついた形で存在している。このような日本独特の信仰観は、神道と仏教が長い歴史の中で共存し、互いに影響し合った結果、生まれてきたものである。
日本の柔軟な宗教観による多文化共生
日本ではキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などの世界の宗教も尊重され、受け入れられている。これは、日本の宗教観が柔軟であり、お互いの違いを認め合い、尊重することができるからだ。その結果、異なる宗教や文化が融合し、日本独自の宗教文化が生まれている。
例えば、クリスマスの時期には、街はイルミネーションで飾られ、多くの日本人がこのイベントを楽しみにしている。年末にはお寺で除夜の鐘を聞き、元日には神社で初詣を行うことも、日本人が柔軟な宗教観を持っていることを示している。
また、ユダヤ教のハヌカーやイスラム教のラマダンなど、さまざまな宗教行事が日本のカレンダーに取り入れられて、多文化共生が促進されている。
さらに、宗教的な儀式だけでなく、異文化間の交流を促す祭りやイベントも日本では盛んに開催されている。インド文化を祝う「インド・フェスタ」や、ブラジル文化を楽しむ「ブラジルデイ」など、国際的なお祭りが日本各地で開かれ、参加者たちが多様な文化を体験し、お互いの違いを理解し合う機会を得ている。
心の安らぎを与える日本の宗教観
日本の宗教観は、人々が精神的なサポートを求める際にも役立っている。例えば、心の悩みを抱えた人々が、神社や寺院で心を落ち着かせ、慰めを見つけることができる。このように、宗教は人々の心の支えとなり、日本社会において重要な役割を果たしている。
このように生活の中に様々な宗教との繋がりがあるが、日本人は無宗教と思っている人が多い。
異なる宗教や文化が結びついた多様な神々の集まり「七福神」
日本の「七福神」は、まさに異なる文化と宗教が結びついた多様な神々の集まりです。インド、中国、そして日本の神々が一堂に会することで、その寛容さと多様性が象徴されています。以下に、七福神について詳しく紹介します。
- 弁財天(弁天) – ヒンドゥー教のサラスヴァティー神からきており、音楽や知恵の神とされています。
- 毘沙門天 – ヒンドゥー教のクベーラ神が起源であり、財宝や武勇の神として信仰されています。
- 布袋尊 – 仏教の菩薩であり、布袋和尚という中国の仏教僧がモデルとされています。無病息災や豊穣の神とされています。
- 福禄寿 – 中国の道教の神で、福徳・寿命・財を象徴し、幸運と長寿をもたらすとされています。
- 寿老人 – 中国の道教の神で、寿命を司り、長寿と縁結びの神として信仰されています。
- 大黒天 – ヒンドゥー教のシヴァ神と日本神話のオオクニヌシが結びついた姿で、五穀豊穣や商売繁盛の神として信仰されています。
- 恵比寿 – 日本神話に登場するエビス神で、神道固有の神です。漁業や商売繁盛を司る神とされています。
これらの七福神は、日本人にとって幸福をもたらす神々として信仰されており、全国各地に神社や寺院があります。また、「七福神巡り」という行事も行われており、七福神をめぐることで運気や福運を招くとされています。
お寺と神社合同のお祭り「赤田大仏祭り」
秋田県の無形民族文化財である「赤田大仏祭り」は、江戸時代に赤田の閑居様と慕われた是山(ぜさん)和尚が、長谷寺に赤田の大仏と呼ばれる長谷十一面観音像を造ったことから始まったとされています。この祭りは、神仏混合の全国的にも珍しい祭典で、長谷寺と赤田神明社の合同祭として毎年8月21日から22日に行われます。
祭りの前半、8月21日には、大仏の分身を入れた御神輿が長谷寺から赤田神明社に移され、一夜を明かします。翌日、8月22日には、御神輿が再び長谷寺を目指して赤田神明社を出発し、神仏が一堂に会する壮大なパレードが繰り広げられます。
この赤田大仏祭りは、神道と仏教が共存する日本の宗教文化の象徴であり、地域住民や観光客にとっても大変楽しみなイベントです。
神社で神主とお坊さんが一緒にお参り「報賽式」
報賽式(ほうさいしき)は、約770年の歴史を持つ、禅宗の僧侶が筥崎宮にお参りするという非常に珍しい伝統行事です。
この行事は、鎌倉時代の1241年に始まりました。承天寺の開祖である弁円(聖一国師)が、宋での修行を終え帰国の途についた際、海上で嵐に遭遇しましたが、八幡神の加護により無事帰国することができました。弁円はその恩返しとして、翌年に八幡神を祀る筥崎宮でお礼参りを行ったのが、報賽式の始まりとされています。
報賽式は、現在でも毎年、禅宗の僧侶たちが参拝し、八幡神への感謝の意を表しています。この行事は、宗派を超えた異宗教間の交流や理解を促進する機会となっており、日本の宗教文化の寛容さと多様性を象徴しています。
疫病退散の願いを込め!時を超えて約550年ぶりに復活「北野御霊会」
2020年9月4日、京都市上京区の北野天満宮で、祭神の菅原道真を慰霊し、新型コロナウイルスなどの疫病退散や健康、安全を祈願する神仏習合の「北野御霊会」が、約550年ぶりに再興されました。北野天満宮と比叡山延暦寺の関係者が参列する儀式で、1467年に始まった応仁の乱以降、途絶えていたこの行事が再び開催されました。
北野天満宮の東川楠彦権禰宜は、「感染拡大で不安が広がるなか、寺社が心を一つにして疫病退散を願うことは非常に意義があると思います。古くからの儀式なので長く続けていきたいです」と語っていました
この再興された北野御霊会は、神道と仏教が協力し、共に疫病退散を願うことで、異なる宗教が協調して人々の安全と健康を祈る重要なイベントです。このような神仏習合の行事は、日本の宗教文化の寛容さや多様性を示し、宗教間の理解と協力を促進します。
Shinbutsu-shūgō
日本の宗教文化の特徴「神仏習合の歴史と意義」
神仏習合(神仏共存)は、日本の宗教文化の特徴であり、伝統的に日本古来の神々と仏教は、他宗教において見られるような深刻な対立や抗争を避け、融合・共存しながら独特の展開を見せてきました。
神仏習合とは、日本に元来あった神様の信仰である神道と、外国から伝わった仏教の信仰がひとつになった宗教の考え方です。奈良時代に始まり、仏教が日本に伝えられて以来、仏教は神道の信仰と調和し、共存して発展してきました。
初期の日本では、仏像が導入された際、最初にできた寺院では神道と仏教を一緒に祭っていました。これらの仏像は「仏神像」と呼ばれており、仏教を神道に取り込む形で完全な神仏習合を実現していたのです。
神仏習合は、日本の宗教文化の寛容さや多様性を示し、宗教間の理解と協力を促進しています。また、このような信仰の融合が、日本独自の美術や建築、文学などの発展にも大きく寄与してきました。
山岳信仰と実修実験の道「修験道」
修験道は、約1350年前の飛鳥時代に役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれた「実修実験の道」であり、日本古来の山岳信仰と民族信仰に根ざしています。日本人は昔から山に神々が宿ると信じ、山の神を信仰してきました。この信仰は、自然崇拝に源を発するもので、山や自然に対する畏敬の念を持つことが特徴です。
修験道は、山を聖域と見なし、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自己と他者の救済を目指す山岳信仰の宗教です。修験を行う者は「山伏(やまぶし)」と呼ばれ、彼らは修行や祈祷を通じて霊的な力を培うことを目指します。修験道という名称は、「修行して験力を顕す道」を意味し、その道を求める者たちの精神を表しています。
修験道は、日本人古来の山岳信仰に、インドの仏教や中国の道教・儒教などの外来宗教が結びついたものであり、さらに神道や陰陽道、民間信仰なども取り入れられ、独自の形を成している。
日本固有の山岳信仰と仏教が結びついた宗教
修験道は、日本固有の山岳信仰と仏教(特に密教)が結びついて成立した宗教であり、その特徴として神仏習合性が非常に濃厚です。修験道の信者たちは、神と仏を対等に見なし、両者を調和させることを重視しています。
修験道の聖地「六郷満山」
六郷満山(ろくごうまんざん)は、大分県北東部の国東半島にある寺院群で、両子寺を中心とし、多くの修験者によって修行の地として利用されてきました。また、古くから山岳宗教として栄えており、神仏習合の発祥の地とされる宇佐神宮(八幡総本宮)も含まれています。
六郷満山の開祖・仁聞菩薩の弟子たちが僧侶として活動していたとされる弥勒寺跡が宇佐神宮の境内に存在します。僧侶たちは、この地から国東半島の山々へ修行の場を広げていきました。
また、天台宗の開祖である最澄も、中国へ渡る前と帰国後に六郷満山を参拝したと伝えられています。最澄は、中国で学んだ教えを日本に持ち帰り、天台宗を確立し、密教の普及にも貢献しました。
六郷満山は、日本の神仏習合文化の発祥の地として重要な地域であり、現在も多くの人々が訪れ、神々や仏陀に祈りを捧げる場所として親しまれています。
日本の宗教文化に根付く山岳仏教寺院群「六郷」
六郷満山は、古代国東半島の来縄、田染、安岐、武蔵、国東、伊美の六つの郷を指し、山岳仏教寺院の集合体を意味する「満山」という言葉を組み合わせた名称です。
神仏習合文化が栄えた山岳宗教の聖地「国東半島」
国東半島(くにさきはんとう)は、宇佐神宮や弥勒寺に伝わった天台宗の実践の場として、九州地方で最初に仏教が栄えた地域とされています。この地域は、宇佐・八幡神の影響を強く受けつつ、厳しい地形を活かした山岳宗教と融合して、独特の六郷満山文化を築き上げました。
神仏習合の文化が色濃く残る六郷満山では、神社と寺院が一体となって存在する場所や、神社の規模が寺院と同等であるような例も見られます。また、寺院によっては、後背の耶馬(岩峰)の中に多くの修行の場(岩屋や無明橋など)が設けられていることも特徴的です。
六郷満山の開祖「仁聞菩薩」
国東半島の六郷満山は、養老2年(718年)に仁聞菩薩(にんもん ぼさつ)によって、神仏習合の原点となる山岳宗教が開かれた地域です。仁聞菩薩は宇佐八幡神の化身(生まれ変わり)とされ、国東半島に28の寺院を開基しました。
これにより、「神を仏とし、仏を神とする」という神仏習合の独特な仏教文化「六郷満山文化」が開花しました。
六郷満山を巡る鍛錬の道「峯入行」
峯入行(みねいりぎょう)は、六郷満山を開山した仁聞菩薩が修行を積んだ聖地を巡る修行方法です。国東半島の山々をつなぐ険しい道を歩き、約150kmの距離を約1周します。この修行は、仁聞菩薩の教えに従って、自己を鍛錬し、心身を浄化することを目的としています。
現在でも、多くの僧侶たちが峯入行を通じて仁聞菩薩の教えを実践しています。2017年4月には、江戸時代まで実施されていた183ヶ所を巡る峯入行が、白装束をまとった僧侶たちにより約1ヶ月間実施されました。
神様たちは仏様が変身した姿「本地垂述説」
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)は、日本の神仏習合の考え方の中でも特に進んだものです。この説では、日本の神々は実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現であるとされます。
本地垂迹説はもともと天台宗において、永遠の釈迦(久遠実成)と歴史的実在の釈迦(始成正覚)を区別するために用いられた概念で、仏教が根本であり、神道がその後に出現したものという考え方が取られています。これは、もともと日本にあった神仏習合の考え方とは正反対の立場をとっています。しかし、この概念が日本の神仏関係に応用されることで、神仏習合の一形態として発展しました。
仏が神を守る「神宮寺」
神仏習合は古代日本において広く行われ、その結果として、多くの神社に隣接する形で「神宮寺」と呼ばれる寺院が建立されました。神宮寺は、仏教の仏が神道の神を守ることを目的(または口実)として設立されたもので、神仏の調和を体現する場所となりました。
現在でも、有名な神社の多くには、かつて神宮寺が存在したり、現存する場合もあります。例えば、鹿島神宮(茨城県)、諏訪大社(長野県)、上賀茂神社・下鴨神社(京都府)、住吉大社(大阪府)、宇佐八幡宮(大分県)などがその代表例です。また、皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮(三重県)にもかつて神宮寺が存在しました。
神道と仏教が完全に習合
「本地垂迹説」の広まりによって、神道と仏教が密接に結びつくようになり、神宮寺が神社に隣接するように建立され、神道と仏教の間の境界線は曖昧になりました。結果として、神仏は完全に習合し、それぞれの宗教の信仰が一体化していくようになりました。
日本の宗教と神仏習合の歴史
日本の歴史の中で、宗教は国民の心をつなぎ、和合を重んじる精神性を形成する役割を果たしてきました。
聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉を背景に、奈良時代から平安時代にかけて、日本の神々と仏教が習合し、神仏習合という信仰が確立されました。この神仏習合は、神社と寺院が共存し、神と仏が同じものとして崇拝される信仰で、長い間続いたのです。
しかし明治維新(1868年)の時期に、日本の近代化が急速に進み、政府は神仏分離政策を推進しました。
明治維新の頃に神道と仏教が分離させられる「神仏分離政策」
明治維新は、日本が近代化と独立の精神を追求する時期でした。その過程で、政府は日本の伝統的な神道を重視し、外国から伝わった仏教を切り離そうとしました。これにより、「廃仏毀釈」や「神仏分離令」といった政策が実施されました。
お寺の破壊活動に発展「廃仏毀釈」
廃仏毀釈は、明治元年(1868年)に薩摩藩と長州藩が中心となって成立した新政権によって推進された思想政策で、仏教施設に対する無差別で無分別な攻撃や破壊活動を指します。
「廃仏毀釈」の言葉には、「廃仏」が仏教や仏法を廃することを意味し、「毀釈」の「毀」は壊す、または悪口を意味します。「釈」は釈迦のことや釈迦の教えを指します。「仏を廃して釈を毀る」という意味で捉えられます。このように廃仏毀釈運動は、仏教施設に対する破壊や攻撃を行うだけでなく、仏教そのものに対する否定や批判を含んでいました。
廃仏毀釈と庶民の反発
民衆は明治政府の対策を廃仏毀釈と捉え、廃仏毀釈運動を展開しました。その結果、堂塔や仏像、仏画、絵巻物、経典などが破壊されたり、焼却されたりしました。
寺院が庶民からの迫害を受けた理由は、お寺が権力と結びついていたことです。お寺は本来宗教的立場にあるべきなのに、歴史の中で権力者に庇護されてきました。特別扱いを受けてきた寺院は、一般庶民から見ると優遇され、権力者の隠れ蓑に見えていたのかもしれません。
失われた貴重な文化財と政策の失敗
明治政府の本来の目的は、仏教そのものを排斥することではなく、神社から仏教色を一掃し、「神仏習合」の慣習を禁止することでした。政府は神社を天皇と国民をつなぐ中継地として位置づけようとしていました。民衆の廃仏毀釈運動に対して、神仏分離が廃仏毀釈ではないことを説明しました。
しかし、その過程で多くの貴重な古文書や文化財が失われてしまいました。また、当初の意図を超えて、江戸幕府に仕える立場であった寺院に対して反感を抱いていた地方の神官や国学者などが、過激な「廃仏毀釈」運動へと発展させるよう扇動しました。結果的に、運動は仏教施設の破壊や仏教文化の喪失に繋がり、当初の政府の意図からはずれた方向へ進んでしまったのです。
明治維新における神仏分離と国家神道の成立
明治維新の時代に国家神道が生まれました。これは、政府が国民の統一意識を高めるために、神道を国家の公式宗教と位置づけ、天皇をその中心とすることを目的としていました。その結果、明治以前には僧侶が行っていた神社での神事が神官によって行われるようになり、神道と仏教が明確に分けられるようになりました。
また、この過程で、神社に設置されていた仏像や仏具などは破壊されることになりました。これは、神仏習合が禁止され、神社から仏教の要素を排除するための措置でした。神仏習合の時代には一体となっていた神道と仏教が、明治時代に入ると別々の宗教として位置づけられるようになり、それぞれ独自の発展を遂げることになりました。
天皇崇拝と国民意識強化を目指す政策がもたらしたもの
明治政府は、神道を天皇崇拝のイデオロギーとして整理し、序列化することで、国家統一と国民意識の強化を図りました。伊勢神宮を頂点とする神道の序列化により、「国体」思想が強化され、日本を神の国として特別視する考えが広まりました。
この「国体」思想は、祭政一致の国家主義と軍国主義に繋がっていき、明治時代以降の日本の政治や社会に大きな影響を与えました。天皇を神聖視し、その権威を重視することで、国民の一体感を高め、国家の統一と強化を目指しました。この思想は、日本の近代史を通じて重要な役割を果たし、日本の政治・社会・文化に多大な影響を与えたといえます。
GHQが推進した「神道指令」とは?
戦後、GHQ(連合国総司令部)は、日本の非軍事化・民主化を目指していました。その中で、天皇を頂点とした国家神道が、日本人の団結力を高め、戦争に突き進む原因となったと考えられていました。このため、神社や神道に対する過激な意見も存在しましたが、GHQは神道指令を通じて、国家神道の解体を求めるだけでなく、国家と宗教の分離も目指しました。
神道指令の正式名称は、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」であり、神社神道と国家の分離に焦点を当てていました。これは、アメリカの国家と教会の分離の理念に基づいていたとされます。
「国家神道」の認識には誤解があった?
しかし、GHQの認識は一部に誤解が含まれていました。
「国家神道」という言葉は、敗戦後に「State Shinto」が翻訳されてから一般化したものであり、当時の日本ではあまり使われていませんでした。また、戦時中に神社に対する国費支出が減額されたことや、禁書とされた『国体の本義』が政府によって大量に配布されたものの、国民の関心が低かったといわれています。
しかし、戦後の日本の政治・宗教分離が進められたことで、日本は民主化・非軍事化の道を歩むことができました。この過程は、GHQの指導や日本人の努力によるところが大きいです。
「無宗教だけど神様はいる、そんな気がする」日本人特有の概念
日本人の多くが「無宗教」と自認しているとされますが、これは宗教的な所属が特定の宗派に限られないという意味であり、無神論者であるわけではありません。日本では、神道や仏教のような伝統的な宗教が根付いていますが、日本人は個別の宗教や教義に強くこだわることなく、神や仏に対して信仰や尊敬の念を持っています。
神社や寺院への参拝、節目の祭りや行事など、多くの日本人は宗教的な行為に参加していますが、これらの慣習は日本文化の一部として受け止められ、特定の宗教組織に所属することとは別のものとして捉えられています。
このような日本人の信仰心は、「無宗教」であるが故に柔軟で包容力があり、異なる宗教の神々や教えを尊重し合うことができるとも言われています。
そのため、日本人の「無宗教」の概念は、特別神を信じていないわけでもなく、あくまで特定の宗派に属さないだけである場合が多いです。
仏教と神道が融合して根付く日本の宗教文化
日本の宗教文化では、仏教と神道が長い歴史を経て、神仏習合という形で融合しています。そのため、日本人は意識的でなくても、仏教と神道の要素が人生の様々な儀礼や行事に取り入れられています。
仏教においては、ご祖先を敬うことが重要で、仏像や仏壇がその場所として使われることが多いです。また、日本では仏教が弔いや葬式に関わることが一般的で、慰霊や供養のために寺院を訪れる習慣があります。
一方で、神道は自然や季節の変化に対する感謝や神々への敬意を表す宗教であり、神社がその場所として機能しています。結婚式や初詣などの祭りや行事は、神社で行われることが多く、神道の要素が強く反映されています。
このように、日本人は意識的でなくても、神仏習合の文化が根ざしており、神道と仏教の両方の要素を人生の様々な場面で取り入れています。これは、日本の歴史や文化を理解するうえで重要な点です。