この記事は、日本とポーランドの歴史的なつながりと、二つの国が相互に支援し合った経験について紹介しています。まず、1920年代に敦賀に受け入れられたポーランド孤児の話から始まり、その後、1995年に発生した阪神・淡路大震災に対するポーランドからの支援について紹介しています。
また、ポーランドの支援に応えて、日本の被災児がポーランドに招待された経験や、シベリア孤児救済に関する話も取り上げられています。この記事を通じて、日本とポーランドが過去に支援し合った経験に触れることで、相互に理解を深め、助け合いの精神を共有することの大切さを感じられるでしょう。
「共通の敵」という絆、日本とポーランドの軍事協力《親日国家ポーランド④》
Japan and Poland: Over 100 Years of Giving Back to Each Other
〜 100年の時を超えて 〜
第二次世界大戦後、国際関係の構造は東西両極に分かれました。ポーランドはソ連の同盟国となり、東側陣営に属することになりました。一方、日本はアメリカ合衆国の同盟国として、西側陣営に加わりました。この東西両極構造は、冷戦時代に東と西を分けた鉄のカーテンによってさらに強化されました。
このような状況のため、ポーランドやチェコスロヴァキア、ソ連は、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約に署名しなかったのです。
この条約は、日本が連合国との平和条約を締結し、戦後処理を終えるための重要な文書でしたが、東側陣営の国々は署名を拒否し、日本との正式な国交回復が遅れることになりました。
時代は冷戦!ポーランドと日本の公式な関係を復活へ!
1957年2月8日の「日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定」(日波復交協定)は、両国の戦争状態を終結させ、政治・経済・文化における公式の関係を復活させました。
しかし、政治体制の相違から、相互協力は緩慢にしか発展しませんでした。1970年代に経済協力が増大し、その後も両国関係の主軸となりました。
1980年代初頭にポーランド労働者が自由化を求めて一斉に声を挙げる「連帯」運動が始まり、その指導者レフ・ワレサへの親愛感が日本で引き起こされました。しかし、1981年12月にポーランドで戒厳令が施行されると、両国関係はまたしても制限されました。
1985年以降、両国関係は徐々に改善されました。例えば、安倍晋太郎外務大臣がポーランドを訪問し、1987年には国家評議会議長ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが日本を訪問しました。これらの訪問は、日本とポーランドの関係改善の証左となりました。
1989年にポーランドは民主国家となりましたが、その背景には東ヨーロッパ全体での政治的変化がありました。1980年代に始まった「連帯」運動は、ポーランドにおける民主化の火種となり、1989年には非共産主義政党が許可されるようになりました。同年6月に行われた総選挙では、民主化を求める野党が圧勝し、共産党政権は事実上崩壊し、ポーランドは民主国家となりました。
著しく改善された国家レベルの交流
この選挙後から、日本とポーランドの関係が大幅に改善しました。この関係の改善を示す訪問者は以下のとおりです。
- 海部俊樹 首相(1990年)
- 小泉純一郎 首相(2003年)
- 安倍晋三 首相(2013年)
- 池田行彦 外務大臣(1997年)
- 麻生太郎 首相(2007年)
- 河野太郎 首相(2018年)
一方、日本を訪れたポーランド政界の代表は
- レフ・ワレサ大統領(1994年)
- アレクサンデル・クファシニェフスキ大統領(1998年)
- レフ・カチンスキ大統領(2008年)
- ブロニスワフ・コモロフスキ大統領(2015年)
- ヤン・クシシュトフ・ビェレツキ首相(1991年)
- イェジ・ブゼク首相(1999年)
- マレク・ベルカ首相(2005年)
- クシシュトフ・スクビシェフスキ外務大臣(1994年)
- ブロニスワフ・ゲレメク外務大臣(2000年)
- ステファン・メレル外務大臣(2006年)
- ラドスワフ・シコルスキ外務大臣(2008年)
- ヴィトルト・ヴァシュチコフスキ外務大臣(2017年)
などが挙げられます。
「ポーランドを第二の日本にする」ポーランド第二代大統領が就任演説!
第二代ポーランド大統領であるレフ・ワレサは、1990年の就任演説で「ポーランドを第二の日本にする」と宣言し、国民から喝采を浴びました。ワレサ政権では、バルセロビッチ財務大臣が抜群の経済改革を実施しました。彼は1992年に日本の戦後復興を調査するために来日し、日本興業銀行(現みずほ銀行)などを訪れました。
戦後のポーランドはスターリンに支配され、一方で日本はマッカーサーに占領されました。しかし、日本は原爆の被害にも関わらず、19年後に東京オリンピックを開催し、さらに15年後にはハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という著作を出版しました。
この日本の戦後復興の成功は、共産体制崩壊後に発展を目指すポーランドにとって、驚くべき成功モデルとなっていました、しかも、日本は日露戦争やシベリア孤児救出、杉原千畝の活動などを通じて、常にポーランドの味方であり、見返りを求めることもありませんでした。
ワルシャワ日本大使館に元孤児たちが招かれる
1995年10月、ワルシャワの日本大使公邸で、8人の元シベリア孤児が招待されました。全員が80歳以上の高齢者でした。そのおばあさんの一人は涙を流しながら、「這ってでも日本に来たかった。お世話になった日本の皆さんにお礼を言いたかった」と話しました。彼女たちは、招待を受けて日本大使館に来ることができ、日本の代表者に感謝の気持ちを伝えることができました。
実は、これらの元孤児たちは、ポーランドに帰国後「極東青年会」という団体を組織し、戦前のポーランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行っていました。彼らはまた、日本への渡航資金を積み立てていましたが、第二次世界大戦と東西冷戦がその夢を断ち切りました。
元孤児たちは、70年以上前の日本での出来事を鮮明に覚えており、一人は日本の絵葉書が貼られたアルバムや、見知らぬ日本人から送られた扇子を大使に見せました。「私は、これのおかげで長生きできたのです」と言って、大阪カトリック司教団から贈られた聖母マリア像のカードを見せました。長い年月で紙は劣化していましたが、裏面に書かれた日本語の祈祷文はまだ残っていました。
その日、元孤児たちは日本での思い出を生き生きと語り、聞く人たちは当時の日本人の優しさや温かい眼差しを感じることができました。
語り継がれるシベリア孤児
ベリア孤児救済の話は、ポーランド国民に広く伝わり、多くの感謝状が届いています。そのうちの一つは、極東委員会の当時の副会長ヤコブケヴィッチ氏が書いた「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状です。彼はこう述べています:
「日本人は、ポーランドとは縁遠い異民族であり、日本は地球の反対側にある国です。それにもかかわらず、日本人は不運なポーランドの児童に深い同情を寄せ、憐憫の情を示してくれました。その恩に対し、我々ポーランド人は心に刻み、忘れることはありません。」
この言葉から、ポーランド国民が日本に対して抱く感謝と友情の深さが伝わります。
日本であの大地震が起きる……。
実は、シベリア孤児の物語はそこで終わらず、新たな繋がりが生まれます。1995年に発生した阪神大震災を受けて、ポーランド側が今度は日本の被災児を招待し、彼らがポーランドを訪れることになりました。
「今度はわれわれが救う」阪神淡路大震災で被災した日本のために!
1995年1月17日午前5時46分に、淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)が発生しました。この地震は、1923年の関東大震災以来の甚大な被害をもたらしました。
阪神・淡路大震災は、多くの建物が倒壊し、多数の死者・負傷者が出ました。地域のインフラも大きな被害を受け、電気や水道、交通などが一時的に寸断されるなど、日常生活にも大きな影響が出ました。
この大震災により、日本国内外から多くの支援が集まり、被災地の復興が進められました。
いち早く救助活動を開始!
1995年の阪神・淡路大震災発生時、世界各国から支援が集まりましたが、ポーランドもその中の一つで、いち早く救援活動に参加しました。これは、過去に日本がシベリア孤児救済でポーランドに対して支援を行ったことによる友情や感謝のつながりがあったことが背景にあると言われています。
ポーランドは、物資や医療支援などの形で日本に援助を行いました。また、阪神被災児を招待してポーランドを訪れる機会を提供するなど、相互の支援や連帯を示す活動を行いました。
日本の子どもたちを今度はわれわれが救おう!!
かつてシベリア孤児たちは、大阪での療養後、神戸から出航し、ロンドンを経由して祖国ポーランドへと帰国しました。その孤児たちが、今度はの阪神・淡路大震災で親や兄弟を亡くした子どもたちのために立ち上がりました。
ポーランド人物理学者「フィリペック」
フィリペックさんは、東京のポーランド大使館で4年間勤務していた物理学者で、シベリア孤児の美談を知った一人でした。彼は大使館勤務中に阪神大震災の惨状を目の当たりにし、これが日本への恩返しの好機だと考えました。そこで、企業や芸術家などを訪れ、協力を依頼しました。
日本でもいくつかの音楽家や企業、個人がこれに呼応し、2回に分けて合計60人の阪神大震災の被災児がポーランドへ招待されました。1995年のポーランド招待に小学校5年生で参加した岡﨑拓さんは、現在常磐大学総合政策学部で助教を務めています。
岡﨑さんは、「ポーランドの人々から孤児を救ってくれた日本へのお礼を言われ、子ども心に驚きました。どこに行っても温かく歓迎してくれて、うれしかったですね」と語っています。この経験がきっかけで、彼はポーランド経済の研究者となり、大学で教鞭を執るようになりました。
感謝の薔薇
1996年の夏、第2回目の被災児たちがポーランドを訪れました。彼らは3週間招待され、様々な場所を案内されました。震災孤児たちが帰国するお別れパーティーには、4名のシベリア孤児が出席しました。
高齢者で歩行もままならない中、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子供たちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理を押して参加しました。
ポーランドにはバラの花を贈る風習があります。恋人や夫婦では愛情を、親子では感謝の気持ちを込めて贈ります。4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児1人1人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれました。
75年前に日本の人々が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たちを慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返しをしたのです。
阪神淡路大震災が発生後
— 東京防衛隊 (@om0105576746) March 4, 2020
1996(H8)年震災孤児になった、子供をポーランドに3週間以上招き大歓迎
戦前に孤児になった、ポーランド孤児の生き残りの方が、体が動かない中
無理して、日本で震災孤児になったかわいそうな子に自信の体験を聞かせ、最後にバラの花を渡した pic.twitter.com/rSx6NLojAg
子どもたちが宿泊した施設はシベリア孤児記念小学校になった!
被災児たちがポーランドで収容された施設は、その後「ポーランド シベリア孤児記念小学校」として命名されました。この名称は、日本とポーランドの歴史的なつながりと、シベリア孤児たちがかつて受けた日本の支援を称えるものであり、両国の友好関係を象徴しています。
「ポーランド シベリア孤児記念小学校」の設立は、過去の出来事を後世に伝え、国際的な友情と協力の精神を育むための重要なステップとなりました。
ポーランドから少年少女舞踊合唱団が来日!元孤児たちメッセージが届けられる
1999年8月、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日しました。彼らはヘンリク・サドスキさん(88歳)からの感謝のメッセージを伝える役目を担っていました。
サドスキさんは、20世紀初頭に日本政府に救われたシベリア孤児の一人でした。彼は、シベリアでの劣悪な状況から日本に連れて来られ、その後祖国ポーランドへ送り届けられたことに感謝の意を示しました。
合唱団は、サドスキさんの感謝に満ちた思いを日本の人々に伝えました。サドスキさんはまた、救出当時の写真を携え、「一番大事にしている物を皇室に渡して」と頼みました。彼は、「孤児収容所を慰問した皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」と語ったという。
天皇皇后両陛下がポーランドをご訪問!元孤児たちと面会!
平成14年(2002年)7月、天皇皇后両陛下はポーランドを訪問されました。この訪問は、日本とポーランドの友好関係をさらに深めるものでした。ワルシャワでは、両陛下は無名戦士の墓に献花し、敬意を表されました。
また、ワジェンキ公園のショパン像の下で開かれたコンサートにも出席されました。このコンサートは、両国間の文化交流を促進するためのもので、日本とポーランドの絆をさらに強める機会となりました。
元孤児たちは日本への感謝を伝えた
当時90歳前後の元シベリア孤児たちのうち3人は、首都ワルシャワの日本大使公邸で天皇皇后両陛下との面会を果たしました。この貴重な出会いは、兵藤長雄大使が書籍『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』に記録しています。
アントニナ・リーロさんは、かすかな記憶に残る貞明皇后様の手の感触とぬくもりを今も忘れず、80年以上の時を経て再び日本の皇后様に面会できた喜びと、当時の日本で受けた恩への感謝の念で、美智子皇后の手をずっと握り続けました。
元シベリア孤児たちは帰国後も「日本への感謝の念を忘れない」という合言葉を大切にしており、「日本から受けた親切を宝物として生きてきました」「日本はまるで天国のようなところでした」と涙を流しながら語りました。
日本で治療を受けていたころ、施設を訪れたある女性に抱き上げられ、元気になるようにと優しく励まされたことがありました。
その女性は、大正天皇の皇后である貞明皇后でした。80年の歳月を経て、感謝の気持ちを対面がかなった皇后陛下に伝えることができたのは、彼らにとって非常に感動的な瞬間でした。
平成14年7月、上皇・上皇后両陛下(当時は天皇・皇后両陛下)は、ポーランドをご訪問されました。両陛下は、ヨーロッパで最も美しい公園の1つとされるワジェンキ公園内の水上宮殿前で、プウォツク少年少女舞踊合唱団による民族舞踊をご覧になりました。詳細は皇室16号に。#皇室 pic.twitter.com/CzNjtGluQI
— 季刊誌『皇室』 (@kikanKOUSHITSU) April 4, 2022
歴史に埋もれていた物語が復活!ポーランドと福田会との交流がスタート!
シベリア孤児の話は日本では歴史に埋もれていましたが、ポーランド国内では語り継がれていました。2010年に、当時のポーランド駐日大使がジョギング中に「福田会」の看板を見つけ、「孤児たちが世話になった施設では」と考え、福田会に連絡しました。
施設側にその歴史を知る人はいなかったのですが、大使から詳しい話を聞いたことがきっかけで、改めて日本とポーランドの交流が始まりました。
1920~1922年に日本赤十字が救出したポーランド人孤児は、当時1歳から16歳までの計765人でした。現在は全員が亡くなっていますが、その子孫たちが今も日本を訪れています。
「絆の架け橋」東日本大震災では再び日本のために動く
2011年3月11日14時46分頃、東日本大震災が発生しました。震源地は三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmでした。マグニチュード(M)は9.0で、これは日本国内観測史上最大規模であり、アメリカ地質調査所(USGS)の情報によれば1900年以降、世界でも4番目の規模の地震でした。
この地震に伴って発生した大津波は、東北地方の太平洋沿岸部をはじめとする各地を襲い、福島第一原子力発電所での事故を引き起こしました。東日本大震災による被害は、死者1万5,900人、行方不明者2,525人(令和3年(2021年)6月10日時点)に上りました。
特に被害の大きかった岩手県、宮城県、福島県の東北3県をはじめ、全国の避難者数は発災直後約47万人に上りました。
多くの被災者が避難所生活を強いられ、福島県では原子力発電所の事故の影響を受け、福島第一及び第二原子力発電所周辺住民に対し避難指示が発令されました。しかし、令和2年3月までに、帰還困難区域を除く全ての地域で避難指示が解除されました。
再びポーランドに子供たちを招く「“絆の架け橋”プロジェクト」
2011年3月11日に発生した東北大震災を受けて、ポーランド伝統空手道協会の主催で「絆の架け橋」プロジェクトが立ち上げられました。このプロジェクトでは、被災した岩手県および宮城県の中高生30名が、2011年7月24日から2週間、ポーランドで夏休みを過ごしました。
ポーランド滞在中、子供たちは道場・スタラヴィェシの欧州武道センターに宿泊し、スポーツやリクレーションの授業、文化ワークショップ、ポーランド語の授業、ポーランドの子どもたちとの交流、近郊への小旅行などを楽しみました。
また、彼らはクラクフ、ヴィェリチカ、ワルシャワを訪れ、アンジェイ・ワイダ監督との面談やポーランド共和国大統領夫人による歓迎も受けました。この「絆の架け橋」プロジェクトは、1920年代に日本赤十字社がポーランドのシベリア孤児を救済したことや、1995年の阪神淡路大震災で被災した日本の子供たちがポーランドに滞在したことに続く、ポーランドと日本の友好関係を築く試みでした。
2011年3月の震災に対する連帯を示すポーランド社会の一連の活動の一環として、「絆の架け橋」プロジェクトは、ポーランドと日本間の人的・社会的関係を構築・強化する新しい無償の提案として歴史に刻まれています。
東日本大震災から今日で10年となった。気仙沼市出身の太田さんは地震発生後、避難所に向かう途中で津波にのまれたが、市職員が投げ入れたロープにつかまり奇跡的に助かった。
— Zachariasz Popiołek (@ZacharyPopiolek) March 11, 2021
隣の仮設住宅に住んでいた子供は「絆の架け橋プログラム」に参加し、ポーランドに滞在することで悲惨な実情から抜け出すこと pic.twitter.com/B3bXCXNAbG
仙台の学校に届いたポーランドからの手紙
東北大震災が発生した直後、世界中の人々の視線が日本に向けられました。
日本が深い悲しみに包まれた中でも、避難所で助け合う被災者たちの姿や組織的でプロフェッショナルな救援活動などが、冷静さ、真面目さ、我慢強さ、秩序を重んじる心、公共心といった日本人の美徳を世界に示し、再評価されることになりました。
この期間中、千羽鶴を折るイベントや『ふるさと』を歌う集いなど、世界各地で日本文化を体験する機会が増えました。さまざまな国から募金活動やチャリティーイベント、追悼行事が開催され、物心両面での支援が集まりました。
ポーランドでも、日本語を学ぶ若者たちが行動を起こし、それが後に「日ポ史上初」となる交流事業につながりました。
仙台白百合学園中学との交流
2011年の秋、仙台白百合学園中学・高等学校に届いたボロボロの段ボール箱は、ポーランドのクラクフ市の日本語学校からの贈り物でした。中には200通もの手紙とテディベアの携帯ストラップが入っており、手紙には日本の被災者への心配と応援の言葉が綴られていました。
津波の映像に衝撃を受けたポーランドの生徒たちは、自分たちができることとして被災者へ手紙を書くことに決めました。送り先を探し当てた仙台白百合学園への手紙は、シベリア鉄道やナホトカ、新潟を経由して5ヶ月かけて届けられました。
仙台白百合学園の生徒と教職員は、200通の手紙に感動し、返事を書いて交流が始まりました。同学園では、韓国やフィリピンとの国際交流事業が以前から行われており、生徒たちの国際教育への関心は強かった。しかし、この震災をきっかけに実現したポーランドとの交流は、地球の裏側からの強い絆を実感させるものとなりました。
ポーランドからの生徒たちが滞在する期間中、学園全体が活気に溢れました。この交流を通じて、日本とポーランドの人々が互いに心を通わせ、国境を越えた友情が育まれました。
日本とポーランド史上初の高校短期留学プログラム
ポーランドからの女子高校生8人は、仙台白百合学園で同世代の生徒とともに授業に参加し、課外活動を楽しむなど、充実した日本滞在を送りました。また、宮城県中部の東松島市矢本にある仮設住宅を慰問し、被災地の現状を見て、被災者への支援や励ましの言葉を伝えました。
帰国前には東京に数日滞在し、東京スカイツリー、浅草、秋葉原周辺、新宿などの観光名所を訪れました。これらの経験を通じて、ポーランドの高校生たちは日本の文化や暮らしを深く理解することができました。
このプログラムは、日本とポーランドの間で史上初となる高校短期留学プログラムとされており、両国の友好関係をさらに強化する契機となりました。
【ポーランドからのお見舞い】先日ポーランドで日本語を学ぶ学生さんが,仙台白百合学園の生徒さん方と気仙沼市を訪問しボランティア活動をされました。震災以来多くの支援を受けていますが,今でもとても心配してくれているお気持ちに感謝いたします。 pic.twitter.com/zkRiwY4kHN
— 気仙沼市秘書広報課 (@hisho_kesennuma) December 18, 2013
シベリア孤児記念学校が設立!!
2018年11月20日にポーランドのツェレスティヌフ郡、スタラ・ヴィエシに誕生した『シベリア孤児記念小学校』は、日本とポーランドの歴史的なつながりを象徴する学校として、両国間の交流を促進する役割を担っています。
その校旗には、日本の桜の花と「日の丸」が描かれており、日本とポーランドの友好関係を示しています。
シベリア孤児記念小学校という校名に対しては、当初反対する意見も多かったとされています。シベリア孤児というつらい過去を象徴する言葉を学校名にすることに対する反対でした。しかし、校長先生が「歴史を忘れてはいけない。
この学校を日本とポーランドの交流の拠点となる学校にしたい」という願いを持ち、地域の人々に説得しました。結果として、地域の人々もこの考えに賛同し、多くの小学生が通う学校になりました。
2019年には国交樹立100周年を迎えた!
2019年は、日本とポーランドが国交樹立100周年を迎える節目の年であり、両国間の友好関係を祝うため、様々な催しが行われました。その一つが、2019年7月1日に開催された川田大使夫妻主催の日本・ポーランド国交樹立百周年記念レセプションです。
このイベントには、秋篠宮皇嗣同妃両殿下や、ポーランドの政治家、日本研究者、在留邦人、日本企業関係者などが出席しました。
この機会を通じて、両国は友好関係を改めて確認し合い、今後の更なる交流拡大に向けてさまざまな試みが企画されています。
また、ポーランド下院議会は、国外在住ポーランド人児童救済委員会の功績について、さらに日本国民、特に貞明皇后の支援と誠意についても評価し、ポーランド極東児童救済委員会設立100周年を記念しました。
2020年 シベリア孤児が日本に到着して100年目!
2020年7月22日は、日本赤十字社によって救済されたシベリアのポーランド人児童第一団が日本に到着してから100年目になりました。
2020年7月22日は、日本赤十字社に救済されたシベリアのポーランド人児童第一団の日本到着から100年目にあたります。詳細を記したリリースおよび、コミックを下記にお送りします。ご一読いただけましたら幸いです。 pic.twitter.com/vyRmYYwf2Q
— 駐日ポーランド共和国大使館 (@PLinTokyo) July 22, 2020
ワルシャワの日本大使館の孤児の子孫たちが招かれる
1920年から1922年にかけて、ロシア革命後の混乱が続く極東シベリアに取り残されたポーランド人孤児765人が日本に救済されました。その100周年を記念するイベントが2022年10月7日に、在ポーランド日本大使館で開催されました。日本で療養後、ポーランドに送り届けられた孤児の子孫らが出席し、「日本人が手を差し伸べてくれたから、私たちが生まれてここにいる」と感謝の言葉を述べました。
大学教員のスワボミル・サマルダキエビチさん(53)は、16歳の時に祖父から幼少期の話を聞いたと振り返ります。シベリアでの厳しい生活や敦賀港での福田会での滞在などが語られましたが、祖父は話を続ける約束をして1週間後に亡くなりました。祖父が残した日本に関係する遺品は「渥美鷹夫 24」と署名されたはがき1枚だけでしたが、渥美氏が祖父にとって大切な人物だったことが伺えます。
会社員ルーカス・グラボウスキさん(25)は、4年前に日本でのインターンシップが決まった際、家族から曽祖父が8歳の頃に日本にいたことを知らされました。曽祖父のいとこが残した手記には、日本での暖かい体験が綴られており、グラボウスキさん自身も敦賀を訪れた際に町の人々から歓迎されたことを振り返ります。
このような出来事が、日本とポーランドの歴史的な繋がりや友好関係を示し、現代においても多くの人々の心に残り続けていることが分かります。
絆は時を超え……。新たな人道支援へと繋がっていく!
約100年前、東京の社会福祉法人「福田会」で撮影されたポーランド孤児たちの写真が残されており、子供たちが笑顔で写っている坂は現在も残り、救済の歴史を伝えるシンボルになっています。「福田会」の太田理事長は、現代だからこそ、人道支援の大切さを伝え続ける必要があると述べています。
2022年2月に起きたロシアによるウクライナ侵攻を受けて、福田会は日本各地から寄付を募り、ウクライナからの避難民に使ってほしいとポーランドへ送金しました。衛生用品や食料品として利用され、多くの避難民の命を救う手助けとなりました。
会社員のルーカス・グラボウスキさん(25)は、日本でのインターンシップが決まった際に、家族から曽祖父が8歳の頃に日本にいたことを教えられました。敦賀を訪れると、町が歓迎し、「曽祖父らが経験した日本人の温かさが心に染みた」と振り返りました。
ロシアによるウクライナ侵攻では、多くの子供たちが親を失ったり、肉親と離れ離れになったりしました。「孤児たちが100年前に日本から受けた恩を未来に伝え、同じ境遇にいるウクライナの子供たちを助ける」ことが、ポーランド孤児の子孫の責任だとグラボウスキさんは感じています。
絆の物語はさらに続いていく…。
100年前、敦賀に降り立ったポーランド孤児たちの物語は、現代にも伝わり、新たな人道支援へのインスピレーションとなっています。彼らが日本で受けた支援と温かさは、後世に感謝と助け合いの精神を広める重要な教訓として受け継がれています。