「共通の敵」という絆、日本とポーランドの軍事協力《親日国家ポーランド④》

今回は、日本とポーランドの軍事協力についてお話ししたいと思います。両国の関係は、1919年に国交が樹立された後、共通の敵であるソ連を警戒し、情報分野での軍事交流が緊密になっていきました。

この時期、両国は暗号解読の分野での協力を重視し、軍事能力の強化や連携を促進し、対ソ連戦略において重要な役割を果たしました。

この記事では、日本とポーランドが暗号技術に注力していた時期における軍事協力に焦点を当て、その成果や両国の協力が持つ意義について紹介します。

日本はポーランドの暗号解読技術を学び、自国の暗号技術の向上に役立てた一方で、ポーランドは日本の情報を得ることで、自国のソ連に対する諜報活動を強化することができました。

日本とポーランドの軍事協力は、第二次世界大戦前の緊張した国際情勢の中で、両国が互いの安全保障を確保し、対ソ連戦略を展開する上で重要な要素となっていました。

この記事を通じて、両国の協力の歴史を知ることで、今後の日本とポーランドの関係の発展につながることを願っています。

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日本の真実の歴史を記録・記憶している人たち。台湾、トルコ、ブータン、パラオ…名だたる国を抑えて“知日国”No.1に輝いたのは、中欧のあの国だった!亡国の民が信頼し、尊敬し、共鳴する、日本人が知らない日本の姿とは?真面目、責任感、誠実…親日国・ポーランドを通して見えてくる真実の日本。(「BOOK」データベースより)

Japan–Poland relations

両国の絆は諜報の世界でも!

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日本とポーランドの関係は、1919年に国交が樹立された後、共通の敵であるソ連を警戒し、情報分野での軍事交流が緊密になっていった。特に1923年にポーランド陸軍将校が招請されて以来、日本も陸軍将校を留学させるなどして、「暗号技術」の習得に努めてきた。この交流は、両国の軍事能力の強化や連携を促進し、対ソ連戦略において重要な役割を果たしていた。

この時期の日本とポーランドの協力は、特に暗号解読の分野で成果を上げている。日本はポーランドの暗号解読技術を学び、自国の暗号技術の向上に役立てた。また、ポーランドは日本の情報を得ることで、自国のソ連に対する諜報活動を強化することができた。

このような日本とポーランドの軍事協力は、第二次世界大戦前の緊張した国際情勢の中で、両国が互いの安全保障を確保し、対ソ連戦略を展開する上で重要な要素となっていた。

「連合国 vs 枢軸国」敵対関係にありながら協力関係

第二次世界大戦中、ポーランドは連合国側でドイツに抵抗し、日本はドイツと同盟を結ぶ枢軸国側に立っていました。そのため、両国は形式上は敵対関係にあったにもかかわらず、ポーランドの人々と日本の人々の間には悪感情がないとされています。

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著者発掘の一次資料による歴史解明!陸軍中野学校とは何だったのか?中野学校出身者はそこで何を学び、戦地でどのような役割を果たしたのか。満洲国、731部隊、南京虐殺から太平洋戦争までを、諜報・宣伝の観点から見直し、近代戦におけるインテリジェンスのもつ意味を明らかにする。(「BOOK」データベースより)

Makoto Onodera

諜報機関MI5が警戒した唯一の日本人「小野寺信」

小野寺信は、第二次世界大戦時にストックホルム駐在武官として活動し、イギリスの情報機関MI5から徹底的に監視されるほど重要視された日本人武官でした。彼は、ポーランドやバルト三国、ドイツの情報士官たちとの交流を通じて、情報戦略の深部に迫る秘密情報を数々入手しました。これにより、連合軍側から「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられるほどの存在となりました。

彼と異国の情報士官たちとのつながりは、「情(なさけ)のつながり」とも表現されるほど人間的な絆が深く、それが彼の情報収集能力に大きく寄与していたとされています。また、先述のように、彼はポーランドの情報士官ミハール・リビコフスキーをドイツの手から守るために協力したことでも知られています。

ソ連の情報を収集

小野寺信は、陸士卒業後にシベリア出兵に従軍し、ロシア人家庭に泊まり込みながらロシア語を習得しました。その後、参謀本部第二部(情報課)のロシア班に配属され、ソ連情報の収集のためにバルト三国の駐ラトビア日本大使館の駐在武官として派遣されました。

小野寺は北欧のストックホルムで、機密費を使って彼らに生活資金や物資を提供し、難民となったポーランド、エストニア、フィンランド、ハンガリーなどの小国の情報士官(インテリジェンスオフィサー)たちと、家族ぐるみで親密になることで、自分の協力者にすることに成功しました。

ソ連がバルト三国を併合!スェーデンに移動

ソ連がバルト三国を併合したことで、小野寺信はスウェーデンの日本大使館に移動しました。そこで彼は、ソ連からの独立を求めるポーランドやバルト三国の情報将校たちと共に「小野寺機関」を設立し、活動を開始しました。

その中心人物は、自称「亡命ロシア人のイワノフ」と名乗る男で、彼の正体はポーランド亡命政府(在ロンドン)の情報将校ミハール・リビコフスキーでした。

リビコフスキーは数十人の工作員を配下に持ち、小野寺から得た枢軸国側の情報をロンドンに提供する一方で、見返りとして連合国側の情報を小野寺に伝えていました。

小野寺はリビコフスキーを守り続けた

1941年7月、小野寺信が赴任してから約半年後、リビコフスキの部下がベルリンのティア・ガルテンでドイツの秘密国家警察(ゲシュタポ)に摘発されました。これにより、リビコフスキが満州の偽造パスポートを使用してストックホルム日本陸軍武官室職員として諜報活動を行っていることが発覚しました。

ナチス親衛隊(SS)の第四代指導者ハインリヒ・ヒムラーはリビコフスキを「世界で最も危険な密偵」とみなし、彼の逮捕に執念を燃やしました。

リビコフスキの部下は、ポーランド地下組織のリーダーであり、ベルリン満州公使館で働いていました。また、彼はかつてリトアニアのカウナス日本領事館で杉原千畝領事代理に協力していたこともありました。

しかし、リビコフスキはドイツだけでなく、日独伊三国同盟締結後にドイツ一辺倒になったベルリン日本大使館でポーランドとの諜報協力を主導していた陸軍中野学校の初代校長、秋草俊からも嫌悪されていました。

ドイツはベルリンの大島浩大使を通じてリビコフスキの身柄引き渡しを何度も求めましたが、小野寺はこれを断固として拒否しました。

日本のパスポートを発給

彼はゲシュタポに命を狙われるリビコフスキを武官室で保護し続け、さらなる身の安全のためにストックホルム公使館の神田襄太郎代理公使に依頼して日本パスポートを発給しました。

その時、偽名ピーター・イワノフに漢字を当てて「岩延平太」としたことで、リビコフスキは「日本人になれた」と感謝の意を示しました。

ナチス・ドイツの圧力によってリビコフスキーはロンドンに亡命

1944年、ドイツの圧力によりスウェーデンがリビコフスキーに国外退去を命じることとなりました。リビコフスキーは小野寺に対して、ロンドンの亡命ポーランド政府のもとからも日本のために情報を送り続けると約束しました。

【トップシークレット】「ヤルタ会談の詳細」が届けられる!!

1945年2月半ば、亡命ポーランド政府から小野寺へ極秘の書簡が届いたことが、その後の日本の運命に大きな影響を与えました。書簡の内容は、クリミア半島のヤルタで開催された米英ソの首脳会談で決定された対日密約についてでした。

日本敗北に関連する極めて重要な情報

この密約により、ソ連がドイツ降伏の3ヵ月後に日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日戦に参戦することが決定されました。また、その見返りとして、日本領の南樺太(カラフト)と千島列島がソ連に引き渡されることとなりました。

「今度は我々が日本を救う」

この情報は、日本にとって衝撃的なものでした。ソ連が日ソ中立条約を破り参戦すれば、日本の敗北はほぼ確実となり、祖国の土地を失う危険が迫っていたのです。この事態は、ポーランドが独ソ戦で祖国の地を奪われた状況と似ていました。

日本とポーランドの絆

ポーランド政府が小野寺に連合軍のトップシークレットである極秘情報を知らせた理由は、長年にわたる日本とポーランドの友好関係と相互支援に基づいていました。

日露戦争でのポーランド人捕虜への寛容な扱い、シベリアでのポーランド人孤児救出、杉原千畝の「命のビザ」、そして小野寺のリビコフスキへの庇護は、日本に対するポーランドの感謝の念を示しています。

ポーランドからの情報提供は、「今度は我々が日本を救う」という思いの表れであり、彼らが敵味方の立場を超えて友情と信頼を重んじて行動したことが伺えます。

ポーランド亡命政府・参謀本部情報部長「スタニスロー・ガノ」

スタニスロー・ガノは、ポーランド亡命政府の参謀本部情報部長として、重要な情報を小野寺に伝える役割を果たしました。彼は、ナチスのゲシュタポが部下のミハール・リビコフスキーを目の敵にしていたことを知り、小野寺がリビコフスキーを保護し続けたことに感謝の念を抱いていました。

この感謝の気持ちが、ガノが小野寺に連合軍のトップシークレットであるはずの極秘情報を提供する動機となりました。友情と信頼を重んじることで、敵味方の立場を超えた協力が実現し、重要な情報が共有されることができたのです。

この情報は生かされることはなかった

小野寺がソ連の裏切りに関する重要な情報を日本の参謀本部に伝えたにもかかわらず、親ソ連派によってこの情報が握りつぶされ、戦争の結果に重大な影響を与えました。

情報が適切に扱われなかったため、日本はソ連の侵攻に対して十分な対策を講じることができず、多くの日本人が犠牲となったのです。

ソ連は、1945年8月9日に長崎に原爆が投下された直後に、日ソ中立条約を破棄し、満洲や南樺太に侵攻しました。その後、8月15日のポツダム宣言を受諾した後も、千島列島や北方四島を占領しました。

終戦後「スタニスロー・ガノ」は小野寺メッセージを贈る

終戦後、ガノは小野寺に感謝のメッセージを送り、もし日本の新生体制が彼に合わなければ、家族とともにポーランド亡命政府に身を寄せるよう勧めました。ガノはポーランドが経済的保障や身体保護を提供することを約束しました。

祖国をソ連に奪われ、共産化へと進んでいたポーランドの人々は、スターリニズムの恐怖を身に染みて知っていたため、ソ連が侵攻すれば大きな問題が起こることを熟知していました。このことから、ガノは小野寺にソ連参戦のヤルタ密約を伝え、戦後の身を案じたのでしょう。

リビコフスキーは小野寺と再会!親交を深めた

一方、リビコフスキーは小野寺に救われたことを生涯忘れず、米国籍を取得してカナダのモントリオールに移住した後も感謝の意を示し続けました。1987年に小野寺が亡くなるまでの間、二人は二度の再会とおよそ100通の手紙のやりとりを行いました。

小野寺の死から4年後、リビコフスキーも亡くなりました。その後、彼の妻ソフィーが小野寺家に送った手紙には次のような内容が記されていました。「ミハール(リビコフスキー)は、親愛なる友人マコト(小野寺)のもとへ旅立ちました。二人は今もきっと、より美しい世界で戦略について話し合っているでしょう。ただし、戦争ではなく、人類愛について語り合っていることでしょう」。

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イギリスの情報機関、MI5が徹底監視の対象として“個人ファイル”を作った唯一の日本人武官がいた。第二次世界大戦時にストックホルム駐在武官を務め、ポーランドやバルト三国、ドイツの情報士官たちと「情(なさけ)のつながり」を結んで深奥部に迫る秘密情報を数々手に入れ、連合軍側から「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられた男――小野寺信である。小野寺は、独ソ開戦や、アジアでの英軍の動き、さらに原爆開発情報など、様々な重要機密を探り当てていた。さらに、ヤルタ会談の直後には、ソ連がその3カ月後に対日参戦をするという情報まで掴んでいたのである。なぜ彼は、欧州の地で価値ある情報を入手できたのか。それは、小野寺が多くの人々と誠実な人間関係を結んだからこそだった。さらに、彼が心底からの愛国者であったことが、他国の愛国者からも信頼される要因となったのである。日本人として誇るべき一人の情報士官の生き方に迫る、感動の書。(「Books」出版書誌データベースより)

Chiune Sugihara

『命のビザ』を発給した外交官「杉原千畝」

TakashimayaTV/YouTube

杉原千畝は、日本外交史において非常に有名な外交官であり、海外でも広く知られています。彼は、第二次世界大戦中にリトアニアの日本領事館で勤務していた際、外務省の指示に反してユダヤ人難民にビザを発給し続けました。この行為により、多くのユダヤ人の命が救われました。

杉原千畝の人道的な行動は、戦争の状況下でユダヤ人を救済するためにリスクを冒したことが評価され、彼の名は「命のビザ」として世界中で称えられています。その功績は、日本外交官の中でも特に顕著であり、彼の勇敢な行動は国際社会において高く評価されているのです。

諜報員の顔も持ち合わせる

杉原千畝は、確かに人道主義者でありましたが、彼の行動はそれだけに基づいていたわけではありません。彼は、リトアニアという小国で働く日本の外交官として、また優れたインテリジェンス・オフィサーとしても知られていました。

彼は、同盟国ドイツとソ連(当時)の緊張関係の中で外交活動を行っていました。

1941年7月にドイツ保安警察(SIPO)が作成した報告書では、杉原千畝が日本の対ソ諜報活動に関与していると分析されています。

報告書によると、「日本の『東』部門――対ソ諜報の長は、ストックホルム陸軍武官の小野寺で、補助役がケーニヒスベルク(現・カリーニングラード)領事の杉原千畝と、ヘルシンキ陸軍武官の小野打寛」とされていました。

ソ連の情勢を探るため

1939年8月28日、杉原千畝はリトアニアのカウナスに領事館を開設するために赴任しました。当時、リトアニアには日本人がいなかったため、隣国ラトビアの公使館がその業務を兼任していました。では、なぜ領事館が設立されたのでしょうか。その理由は主にソ連の情勢を調査するためでした。

戦後、杉原千畝はカウナスでの活動についてロシア語で書いた10ページの報告書を残しています。この報告書は現在、ワルシャワのポーランド軍事博物館に保管されています。

報告書によれば、領事館の設立は陸軍参謀本部が主導し、杉原千畝が集めた情報は「外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の主な任務だと分かってきた」と記されています。

これらのことから、カウナスの領事館が諜報活動の拠点として機能していたことは明らです。

ユダヤ系難民がポーランドから押し寄せていた

当時のリトアニアには、ポーランドから避難してきたユダヤ系難民が大勢いました。しかし、ソ連によるリトアニア併合の可能性が高まっていたため、難民たちは国外への脱出を強く望んでいました

リトアニア(カウナス)着任から4日後「ナチス・ドイツがポーランドに侵攻」

杉原千畝がカウナスに着任してからわずか4日後、ナチス・ドイツ軍はポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。2週間後には、スターリン率いる赤軍が密約に従ってポーランドに侵攻し、ポーランドはドイツとソ連によって分割占領されました。

しかし、ポーランド政府は降伏せず、パリ、次いでロンドンに亡命政府を樹立し、ドイツとソ連の両国に対して抵抗を続けました。

ポーランドは当時、欧州最大のユダヤ人人口を抱えており、約300~400万人がいました。

リトアニアには、ポーランド軍の情報将校などが潜伏しており、ロンドンのポーランド亡命政府のための諜報活動を行っていました。杉原千畝にとって、これらの人々と親交を結ぶことが、諜報網構築のきっかけとなりました。

ポーランドは国際連盟の情報を日本に提供

杉原千畝が次第に情報ネットワークを構築していく中で、ポーランド亡命政権の諜報機関に関わる情報将校たちが接触を求めてきました。ポーランドは、かつて帝政ロシアを破った日本に対して親近感を抱いており、その後も親日国であることを続けていました。

1933年に日本が国際連盟を脱退した後も、孤立化しつつあった日本に対して、国際連盟での貴重な情報を提供し続けていたのです。

ポーランド諜報員のためにパスポートを発行!自由に安全に行動が出来た!!

一方で、ポーランドの諜報員たちは、日本や満州国のパスポートを手に入れることで自由に行動でき、さらにドイツやバルト・北欧諸国の日本公館に通訳などの名目で雇われることで安全を確保していました。

また、ポーランドの諜報機関や抵抗組織は、リトアニアを経由してベルリン、モスクワ、東京を往復する日本の外交クーリエを利用し、ポーランド国内やロンドン亡命政府と連絡を取り合うことができました。

『命のビザ』を発行する中でも情報を入手

杉原千畝は、ユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、彼らの人脈からも貴重な情報を手に入れていました。カウナスのインテリジェンス・オフィサーであった杉原にとって、ユダヤ人へのビザ発給は情報収集と密接な関係にありました。

しかし、彼は情報の世界に携わった者が語らないことを守り、生涯沈黙を守り続けました。それでも、戦後に小野寺信武官の妻、百合子が書いた『バルト海のほとりにて』によれば、杉原が築いたユダヤ・コネクションが重大なインテリジェンスをもたらしたことがわかります。

それは、ソ連の対日参戦を約束した「ヤルタ密約」でした。しかし、皮肉なことに、その重要な情報は電信上のミスや参謀本部の意図的な隠蔽により、政府の中枢には届かなかったのです。

また、あまり知られていない事実として、杉原はカウナス(リトアニア)だけでなく、次の赴任地であるプラハ(チェコスロバキア)でもユダヤ人にビザを発給していました。

難民は敦賀港に到着

リトアニアの首都カウナスで、杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人たちは、シベリア鉄道でロシアを横断し、ウラジオストクへ向かいました。そこから船で日本の敦賀に上陸し、その後横浜や神戸へ移動し、最終的にはアメリカなど他国へと渡りました。

敦賀の人々は、到着したユダヤ人たちを笑顔で花を持って出迎え、銭湯を無料で開放したり、リンゴを無償で配布するなど、言葉や文化が違う異国での暮らしを心身ともに支える温かい支援を行いました。

シベリア孤児や命のビザと深く繋がりがある「人道の港」

敦賀港は、国際港として発展し、1920年代にはロシア革命の動乱でシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、1940年代には杉原千畝氏が発給した「命のビザ」を持ったユダヤ難民が上陸した唯一の日本の港でした。

当時の敦賀の人々は、彼らを温かく迎え入れ、その歴史を「人道の港」として語り継がれています。このような歴史が敦賀港を特別な場所として、国際的な人道支援の象徴として位置づけています。

2008年にはポーランド政府から復興勲章を授与!

ポーランド大使館では、リトアニア領事だった杉原千畝の写真を展示することがあります。「東洋のシンドラー」と称された杉原千畝は、「命のビザ」を通じて多くのユダヤ人を救いました。これらのユダヤ人たちは、ポーランド国籍を持っており、彼らの子孫は現在25万人にも上ります。

2008年にポーランド政府は、杉原千畝に対してポーランド復興勲章を授与しました。また、近年では、外交官であった根井三郎の同様の功績も顕彰されるようになりました。これらの人々は、戦時中にユダヤ人を救うために努力し、その功績が国際的に認められています。

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これまで杉原千畝の物語に欠けていたこと、それは第二次大戦中のリトアニアの状況だ。杉原はなぜ何千通ものヴィザを発給したのか。リトアニア人歴史家が自国の史料から周辺国の関係と難民の状況を読み解き、知られざる「命のヴィザ」の全貌を明らかにする。(「Books」出版書誌データベースより)

Kiichiro Higuch

もう一つの命のビザ!「樋口季一郎」

樋口季一郎(ひぐち きいちろう)陸軍中将は、日本陸軍の軍人であり、ポーランドの駐在武官の第一号として任命されました。彼は、日本とポーランドの軍事協力と情報交換を促進するために、1922年から1925年の間、ポーランドに駐在しました。この期間は、両国が友好関係を築く上で重要な時期でした。

オトポール事件

樋口季一郎中将は、オトポール事件でその名が知られています。オトポール事件は、1938年に満州国のハルビンで発生した事件で、ユダヤ人が対象となる迫害や強制収容所への送還を防ぐため、樋口が彼らを保護し、その命を救ったことから注目されており、「東洋のシンドラー」と呼ばれ、その功績が後世に語り継がれています。

彼の名は、ユダヤ民族に貢献した人々を記録したエルサレムの「ゴールデンブック」にも掲載されています。

日本陸軍暗号技術の発展に貢献

樋口季一郎がポーランドで築いた人脈は、日本陸軍暗号技術の発展に大きく貢献しました。彼の同期である百武晴吉がポーランドで暗号研究に取り組んだことで、日本陸軍の暗号技術は高度なレベルに達しました。

第二次世界大戦中、日本海軍の暗号は連合軍に解読され、作戦計画がアメリカ側に筒抜けになってしまいました。これが日本の敗戦の大きな要因の一つとされています。しかし、日本陸軍の暗号は最後まで解読されず、逆に陸軍はソ連の軍事暗号をある程度解読できていたのです。

樋口がポーランドで広げた人脈は、百武の暗号研究を支え、日本とポーランドが機密情報を交換できる深い信頼関係を築くための土台となりました。この関係は、国家間で最も重要な信頼関係の一つとして機能し、両国間の協力と情報交換に大きく寄与しました。

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第二次世界大戦直前、ナチスの迫害から逃れたユダヤ難民を酷寒の満州で救済。ポツダム宣言受託後はソ連の北海道侵攻を阻止。二つの奇跡を起こした偉大なる人道主義者、陸軍中将・樋口季一郎。その史実に再びスポットライトが当たる。直筆原稿を再検証、ここに新たな史実が加わる。(「紀伊國屋書店」データベースより)


100年の年月を超え繋がるポーランドと日本の絆《親日国家ポーランド⑤》

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