この記事では、第二次世界大戦中にポーランドで活動したシベリア孤児たちの物語を紹介します。彼らは自分たちが経験した孤児の苦しみを共有し、互いに助け合って孤児院を設立し、レジスタンス運動にも参加しました。また、日本との交流も深め、日本文化を広める活動も行っていたとされています。
戦争が再び彼らに迫ったとき、彼らは自分たちが保護していた孤児たちを守るために、ナチスに対する抵抗運動に参加しました。そして、再び日本人が彼らの窮地を救うこととなりました。
この記事が、勇気と人間性を持ったシベリア孤児たちの物語を通じて、戦争の犠牲者を思い出し、平和について考えるきっかけになれば幸いです。
「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた絆の物語《親日国家ポーランド②》
Warsaw Uprising
『ワルシャワ蜂起』
1921年3月にポーランドが独立したという表現は、実際の歴史とは異なります。第一次世界大戦後、1918年11月11日にポーランドは再び独立国家となりました。
ポーランド・ソビエト戦争は1919年から1921年にかけて行われ、1920年の「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれるポーランド軍の勝利がその戦争の決定的な瞬間とされています。しかし、戦争は正式には1921年3月のリガ平和条約によって終結しました。
戦争が終わり、独立を維持したポーランドは、国の再建や家族の再会などが期待された時期でした。孤児たちが祖国に帰国したのはちょうどその頃でした。
それらの子どもたちにとって、祖国での新しい生活が始まることで、平和で安定した未来への希望が見えたことでしょう。
帰国後のシベリア孤児たちは日本への感謝を込め「極東青年会」を設立
孤児たちの中には、身寄りがなく母国語を話せない子供たちもいました。そこでポーランド救済委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチは、バルト海沿いの施設で孤児たちを集めました。彼らはポーランド語を学びつつ、「日本への感謝を忘れるな」という合言葉のもと、日本で覚えた歌も歌い継がれました。
成長した孤児たちは後に「極東青年会」を設立し、かつて大阪で収容された孤児のイェジ・ストシャウコフスキが会長に就任しました。1930年代後半には、同会の会員数は640人を超えました。
孤児たち戦火が迫る…。第二次世界大戦の始まり
彼らは互いに助け合い、親睦を深める活動を行い、自分たちの経験をもとに孤児院を開設しました。さらに、日本大使館と交流を持ち、日本との友好関係を築きました。彼らは月給の一部を貯金し、「いつか日本を訪れたい」と夢見ていました。しかし、帰国から17年後、彼らに再び戦争の影が迫りました。1939年、ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。
ナチス・ソ連に分割占領されポーランドは再び国家が消滅
1939年8月に締結された独ソの「秘密議定書」で、ドイツはポーランドの西半分、ソ連は東半分をそれぞれ占領・併合することを決めました。9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました(ソ連は9月17日に侵攻)。その後、ポーランドの土地と人々は存在し続けましたが、国家としてのポーランドは一時的に消滅しました。
この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつてウラジオストックで日本に救われたチューマ将軍でした。そして、彼の指揮下で抵抗運動の中心となったのが、シベリア孤児であったイエジ青年でした。
ポレジスタンス運動の中核を担ったのがシベリア孤児の一人
イェジはロシア領キエフスで生まれ、シベリアで孤児となりました。1920-1921年にポーランド人孤児救済組織が設立され、日本赤十字の協力で375人の子供たちが日本に来ました。
そして、翌年にはアメリカ経由でポーランドに戻りました。さらに1922年には、同様に390人の孤児が日本に来て、健康を回復しポーランドに戻りました。イェジもその中の1人でした。
「極東青年会」を設立
イェジはポーランドに戻った後、1928年に日本との交流を目的とした「極東青年会」を設立しました。イェジ・ストシャウコフスキ氏が設立したこの組織は、当初12名の会員から数年後には600名を超える大きな団体となりました。
ポーランド全域で活動を展開し、ポズナン、ウッジ、ルウフ、グディニアなどの都市でも活動していました。さらに、「若いシビリアク」という新聞も発行し、日本文化を広める活動も行っていたとされています。
「極東青年会」の幹部と共にレジスタンス運動に参加
第二次世界大戦が始まり、ポーランドがドイツとソ連によって再び分割されると、極東青年会の発起人であるイェジ・ストシャウコフスキ氏は、ドイツ軍に占領されたワルシャワで孤児たちのために孤児院を設立しました。さらに、彼は極東青年会の幹部を緊急に招集し、レジスタンス運動への参加を決定しました。この決断により、彼らは戦争の中で孤児たちを支援しながら、同時にポーランドの抵抗運動にも貢献することとなりました。
1万人を超える組織に成長
彼らはシベリアでの悲劇を子どもたちに繰り返させたくないという強い思いがありました。年長の子供たちは、ドイツ軍に対する抵抗活動や破壊活動にも従事しました。そして、シベリア孤児だけでなく、彼らが面倒を見ていた孤児たちや戦争で親を失った戦災孤児たちも参加し、組織はやがて1万数千人規模に拡大しました。
孤児院にナチスが押し入る!!再び日本人が窮地を救う!!
孤児院にはナチスへの抵抗のための武器が隠されており、そのためナチス憲兵が何度か孤児院に踏み込んだことがあります。
ドイツ兵を引き上げさせた日本の歌
日本大使館の書記官が急報を受けて駆けつけ、孤児院が日本大使館によって保護されていることを強調しました。そして、イエジ部隊長兼孤児院院長に向かって、「ドイツ兵に日本の歌を聞かせてほしい」と頼みました。イエジたちは、「君が代」や「愛国行進曲」などを日本語で大合唱し、ドイツ兵たちは驚き、「大変失礼しました」と言って引き上げました。
当時、日本とドイツは三国同盟を結んでいたため、ナチスも日本大使館に敬意を払わざるを得ませんでした。日本大使館はこの同盟関係を最大限に利用し、イエジ部隊を何度も保護することに成功しました。
ポーランド国軍傘下の部隊『特別蜂起部隊「イェジキ」』誕生
イェジキ部隊は、ポーランド国軍の傘下において特別蜂起部隊として活動しました。彼らの名前は、「イェジの子供たち」を意味し、戦争孤児たちや極東青年会のメンバーが参加していたことから、その名が付けられたとされています。イエジ部隊長の下、この孤児部隊はナチスへの抵抗を続けました。
イェジキ部隊は最大で1万5000人の戦闘員を擁し、ワルシャワ地区だけでも3000人が正規戦闘員として登録されていました。
彼らはゲリラ戦や破壊工作を行い、ナチスの占領に対抗するために奮闘しました。この部隊は、ポーランドの抵抗運動の一翼を担い、国民の自由と独立を取り戻すために戦ったのです。
イェジキ部隊の活動は、第二次世界大戦の歴史の中で重要な役割を果たしました。彼らの勇敢な抵抗は、戦争が終わった後も多くの人々に勇気と希望を与えることになり、ポーランドの独立回復に大きな影響を与えたと言われています
『ワルシャワ蜂起』ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起きた武装蜂起
ワルシャワ蜂起は、1944年8月1日から10月2日まで続いたポーランドの抵抗運動による武装蜂起で、ドイツ占領下のワルシャワで発生しました。この蜂起は、ポーランド国内軍(Armia Krajowa)を中心とした地下組織によって主導されました。目的は、ナチス・ドイツからワルシャワを解放し、ポーランドの主権と独立を回復することでした。
バグラチオン作戦
1944年6月22日に開始されたバグラチオン作戦は、ソビエト連邦赤軍による大規模な攻勢で、第二次世界大戦中の東部戦線で行われました。この作戦の主な目的は、ドイツ国防軍の中央軍集団を壊滅させ、占領下の東部ヨーロッパからドイツ軍を撤退させることでした。
バグラチオン作戦は、ソビエト赤軍にとって大成功でした。ソ連軍は、圧倒的な数の兵力と戦車を投入し、ドイツ軍の防衛線を突破しました。この攻勢により、ドイツ軍の中央軍集団は壊滅状態に陥り、多くの部隊が撤退を余儀なくされました。
ドイツ軍は、東部占領地域から部隊をかき集め、戦線の穴を埋めるために必死に防戦を展開しました。しかし、ソビエト連邦赤軍の攻勢は止まることなく、ドイツ軍は次第に後退を余儀なくされていきました。
ソ連がワルシャワ市民に武装蜂起を呼びかける
ドイツ軍は東部戦線で連続的な敗北を喫し、ソビエト連邦赤軍はポーランドへと進撃しました。1944年7月30日のモスクワ放送がポーランド語で、ポーランド人に対し、解放が近いことを告げ、彼らに武器を取ってドイツ軍に対抗するよう呼びかけました。この放送は、ポーランド人の心を奮い立たせ、彼らの抵抗意志を高めました。
ソ連の援軍を期待して市民が武装蜂起
当時、ポーランド国内軍の指導者たちは、ソビエト連邦と共に戦うことでドイツ軍を倒すことができるかもしれないという期待を持っていました。しかし、彼らはソビエト連邦の支援に慎重であり、モスクワ放送に対する信頼は薄かった。
それでも、パルチザン兵士や市民は、蜂起を開始して1週間以内にソビエト軍が助けに来ると信じていました。
ワルシャワ市内では、蜂起前から亡命政府による行政活動が展開されていました。これには、少年少女による郵便配達、スープ配給所の設置、映画館の運営などが含まれていました。また、短波放送も開始され、情報伝達が行われていました。
1944年8月1日 17時 武装蜂起が始まる
翌日、モスクワ放送に懐疑的だったポーランド国内軍の指導者たちが作戦会議を開催しました。この会議では、即時蜂起派と慎重派の間で激しい論争が展開されました。
即時蜂起派は、ソビエト連邦赤軍がすぐにポーランドに到着すると信じており、ドイツ軍を撃退する絶好の機会だと考えました。彼らは、抵抗運動を加速し、ポーランドの解放を目指すべきだと主張しました。
一方、慎重派は、ソ連軍の支援が不確実であることを懸念し、蜂起のタイミングを見極めるべきだと主張しました。彼らは、ソ連との関係やソ連軍の真の意図を慎重に評価し、適切なタイミングで蜂起を開始すべきだと考えました。
会議の結果、ポーランド国内軍は、蜂起を開始することを決定しました。
1944年8月1日 ワルシャワ蜂起開始
944年8月1日、17時にポーランド国内軍は、ワルシャワ蜂起の一斉開始を決定しました。この決定は、ポーランド国内軍がナチス・ドイツ軍に対する抵抗を加速し、ポーランドの独立回復を目指すための重要なステップでした。
ワルシャワ蜂起は、国内軍、地下抵抗運動のメンバー、そして一般市民、女性や子供までも戦いに参加しました。
ワルシャワ市民は、ソ連側のラジオ放送が呼びかける武装蜂起に胸を躍らせました。放送によれば、蜂起が開始されれば、ソビエト連邦赤軍が間もなく到着し、支援を行ってくれるとされていました。この確信により、市民たちはナチス・ドイツに対して蜂起を決意したのです。
劣勢になる中でソ連の援軍を待つが…。
ワルシャワ蜂起の初期段階では、蜂起軍は一部の地域で成功を収め、ナチス・ドイツ占領地の一部を奪還しました。彼らは勇敢な戦いを展開し、一時的にはドイツ軍に対抗することができました。
しかし、次第にナチス・ドイツは増援部隊を送り込み、反撃を開始しました。蜂起軍は次第に劣勢に立たされ、厳しい戦況の中で戦い続けることとなりました。
蜂起を呼びかけた張本人「ソ連」は彼らを見殺しにした
蜂起軍は、ソ連軍の援軍を頼りに戦っていましたが、ソ連軍は動きませんでした。
連軍がワルシャワ蜂起への支援を行わなかった理由の一つは、戦後のポーランド政府に関する政治的な意図があったとされています。蜂起は、亡命中のポーランド共和国政府主導で行われており、これはソ連の目論んでいた共産党政府樹立の計画と対立するものでした。
スターリンは、亡命政府による影響力の拡大を阻止し、戦後のポーランドで共産主義政権の確立を目指していました。そのため、ソ連軍はワルシャワ市内への進軍を意図的に遅らせ、蜂起軍がドイツ軍によって鎮圧されるのを待ち構えていたと言われています。
ナチス・ドイツの徹底的な攻撃によってワルシャワが壊滅……。
大半の兵員が火器を持っていないポーランド国内軍は、装備面で圧倒的に優れていたドイツ軍に対して劣勢でした。さらに、共同で戦うはずだったソビエト軍が裏切りによりワルシャワ蜂起は失敗に終わりました。
9月末には、国内軍はほぼ潰滅状態となり、市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定されています。鎮圧後、約70万人の住民は町から追放されました。
蜂起終結後も容赦のない攻撃で街は廃墟と化した
ワルシャワ蜂起終結後も、ドイツ軍の破壊部隊と火炎放射部隊による破壊活動は、1945年1月半ばまで続いた。これにより、ワルシャワの残った建物もほぼ完全に廃墟と化しました。1
945年初めには、ワルシャワは建築物の約84%を失い、産業インフラと歴史的建造物が90%、住宅が72%破壊されました。ワルシャワ蜂起の後、街はほとんど壊滅状態となり、100万人以上だった人口は数千まで減少しました。
対照的に、ドイツの占領から無血解放されたパリは、大きな破壊を受けずに済みました。しかし、ワルシャワは連合国側の唯一の首都として、ほぼ完全に破壊されました。ワルシャワ蜂起の悲惨な記憶は、60年が経った現在も、欧州大陸に重苦しいわだかまりとして残っています。
大戦終結後にワルシャワは完全修復を実現!!
第二次世界大戦終結後、ワルシャワ市民は町の再建に取り組みました。壁にあったひび割れ一つまで正確に再現することを誓い、市民たちは完全修復を実現させました。その結果、1980年に「ワルシャワ歴史地区」としてユネスコ世界遺産に指定されることとなりました。
現在の古い町並みは、戦後に修復されたものであるにもかかわらず、忠実に再現されており、その美しさから戦争の痕跡がほとんど感じられません。これは、戦争に翻弄されたワルシャワ市民の執念とも言えるでしょう。
ワルシャワ蜂起博物館では、蜂起に際しての市民の高揚感や徹底抗戦の意志が伝わってきます。ある外交官は、「ナチスに抵抗せず、戦火を逃れて美しい街並みを保った他国の都市からは、ワルシャワ蜂起は無謀だったと見下されている。しかし、市民は蜂起の歴史を誇りに思っている」と話しています。
ワルシャワ市民の姿勢は、戦争の悲劇を忘れず、犠牲者を追悼し、平和を求める強いメッセージを伝えています。ワルシャワの復興は、戦争の破壊から立ち上がり、困難に立ち向かう人々の力を示しています。
“ワルシャワ蜂起が始まった時間に”1分間の黙祷が捧げられる
ワルシャワ蜂起は、1944年8月1日午後5時(17時)ちょうどに始まりました。これは、旧ソ連の呼びかけにポーランド国内軍が応じる形で行われた蜂起でした。そのため、今でも毎年8月1日の17時ちょうどに、ワルシャワ市民は1分間の黙祷を捧げる習慣があります。
この時間に、市民は動きを止め、犠牲者を追悼し、蜂起の勇敢な闘いを称えます。この瞬間は、過去の悲劇を忘れず、平和への願いを込めた特別な時間です。ワルシャワ市民のこの慣習は、戦争の惨禍を風化させず、歴史の教訓を次世代に伝える重要な役割を果たしています。
イェジは『ワルシャワ蜂起』を生き延び1991年5月に亡くなった
イェジは、ワルシャワ蜂起の際にワルシャワの旧市街やカンピノスの森で戦い続け、660名の戦死者を出しました。彼は、失敗したワルシャワ蜂起を生き延びることができました。イェジは、1991年5月に亡くなるまで、日本の歌を覚えていたと言われています。
アウシュビッツに収容された生還した孤児も……。
シベリア孤児の中には、戦争が進むにつれてレジスタンス運動に参加し、その活動が露見してアウシュビッツ強制収容所に収容された者もいました。アウシュビッツは、ナチス・ドイツがポーランド領内に建設した最大規模の強制収容所・絶滅収容所であり、多くのユダヤ人、ロマ、ポーランド人、その他の民族や政治犯が収容され、数百万人が犠牲となりました。
生還したシベリア孤児たちは、戦争の惨禍を身をもって体験した生き証人であり、その証言は歴史を忘れないための重要な教訓です。彼らの物語は、戦争の悲惨さを語り継ぎ、未来の世代に平和と理解を求めるメッセージを伝えることができます
日本との絆は時を超えさらに続いていく……。
1995年(平成7年)には、約50年前のワルシャワ蜂起から時が経ち、日本は阪神淡路大震災によって大きな被害を受けました。その際、迅速に救援活動を行った国の一つとしてポーランドがあります。
さらに、地震で孤児となった子供たちをポーランドが招待しました。震災孤児の帰国を祝うお別れパーティーには、かつて日本に親切にされた4名のシベリア孤児が出席し、涙ながらに恩返しを果たしたと話しました。
「共通の敵」という絆、日本とポーランドの軍事協力《親日国家ポーランド④》