「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた絆の物語《親日国家ポーランド②》

ポーランドと日本には、歴史的なつながりがあります。その一つに、日本がポーランド・シベリア孤児を救出したことが挙げられます。1919年から1923年の間に、シベリアと満州から帰還できた約900名のポーランド児童を、他国が見捨てた中、日本政府と日本赤十字が救いました。この事実が、ポーランド人の中で日本への感謝と親しみを築く大きな要因となっています。本記事では、ポーランドと日本の歴史的背景や文化交流、そして親日国ポーランドの形成について探っていきます。

「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた奇跡の物語《親日国家ポーランド②》
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日本の真実の歴史を記録・記憶している人たち。台湾、トルコ、ブータン、パラオ…名だたる国を抑えて“知日国”No.1に輝いたのは、中欧のあの国だった!亡国の民が信頼し、尊敬し、共鳴する、日本人が知らない日本の姿とは?真面目、責任感、誠実…親日国・ポーランドを通して見えてくる真実の日本。(「BOOK」データベースより)

Japan Saving Polish Orphans in Siberia

日本が救ったポーランド・シベリア孤児の物語

Krzysztof Gonciarz/YouTube

ポーランドに多くの親日家がいる理由の一つとして、日本がポーランド・シベリア孤児を救出した歴史的な貢献が挙げられます。シベリア孤児とは、1919年から1923年の間にシベリアと満州からポーランドへ帰還できた約900名のポーランド児童のことです。

ロシア革命後の混乱で親を失ったシベリアのポーランド人孤児たち(政治犯などとして流刑にされたポーランド人の子供たち)は、飢餓や疫病に苦しみ、悲惨な状況に置かれていました。

他国が見捨てたこの孤児たちを救ったのは、日本政府と日本赤十字でした。この事実が、ポーランド人の中で日本への感謝と親しみを築く大きな要因となっています。

シベリアへの追放、19世紀ポーランド人の壮絶な物語

19世紀、ロシア帝国の支配下にあったポーランドでは、独立を目指して民衆蜂起が起こりました。1830年の11月蜂起と1863年の1月蜂起では、ポーランド人が立ち上がりました。

しかし、圧倒的な軍事力を持つロシア軍によってこれらの蜂起は制圧され、多くのポーランド人が政治犯としてシベリアへ追放される結果となりました。

戦場から逃れたポーランド人たちのシベリア生活

1914年、第一次世界大戦が勃発し、ポーランドはロシア帝国とドイツ帝国の主戦場となりました。

当時、ポーランドはロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国によって分割されており、独立国家ではありませんでした。戦争によってポーランドは大きな被害を受け、多くの民間人が戦火を逃れるためにシベリアへ避難しました。

推定で約20万人のポーランド人がシベリアに逃れたとされています。シベリアへの避難は、当時の戦場から離れていたため比較的安全であったとされていますが、厳しい気候や生活環境のために避難生活は決して容易ではありませんでした。

ロシア革命が勃発!その戦火がシベリアに迫る

1917年にロシア革命が勃発し、ボリシェビキ(共産主義者)がロシア政府を打倒してソビエト政権を樹立しました。その結果、ロシア帝国は内戦状態に陥り、混乱が全国各地に広がりました。この内戦は1918年から1922年まで続き、シベリアもその影響を受けました。

シベリアでは、白軍(反革命軍)と赤軍(ボリシェビキ軍)の間で激しい戦闘が繰り広げられました。さらに、同時期に連合国(イギリス、フランス、アメリカなど)がロシア内戦に介入し、シベリアにも部隊を派遣しています。このため、シベリアは戦場となり、民間人に対する影響も大きかったです。

ポーランド人避難民たちが抱えた極寒のシベリアでの苦難

シベリアでのポーランド人避難民たちの苦難は、言葉では表現しきれないほどの悲劇でした。内戦に巻き込まれ、家財産を失い、身一つで凍土の荒野をさまよう避難民たちは、飢餓、疫病、凍死といった恐ろしい運命に直面しました。

シベリアに逃れたポーランド人避難民たちは、この内戦による混乱に巻き込まれることになりました。食料や燃料が極度に不足し、生き残るためには限りある資源を使い果たさざるを得なかった状況で、多くの人々が命を落としました。

燃料不足で立ち往生した列車に乗っていた600人のポーランド人婦女子が全員凍死するという悲惨な事件も起こりました。

子供たちに食べ物を先に与え、自らの命を犠牲にする母親たちの姿もあちこちで目にしたとされています。彼らは、家族や親しい人々と共に、極寒のシベリアで最後の時を迎えることになりました。

日本軍がシベリアに駐留し続けた理由とその影響

CriticalPas/YouTube

1917年にロシアで二月革命と十月革命が相次いで起きたことで、世界情勢は大きく変化しました。連合国はソヴィエト政権を警戒して干渉の機会を伺っていましたが、各国の思惑が異なり、共同行動を取る体制が整っていませんでした。

そんな中、シベリア鉄道沿線でチェコスロヴァキア軍団の反乱が発生しました。第一次大戦でオーストリア軍の下で戦い、ロシア軍に投降して捕虜となっていたチェコ人とスロバキア人がフランス軍指揮下に置かれることになり、西部戦線で対独戦に参加することが決まりました。

しかし、輸送計画が頓挫し、ソヴィエト政権と対立したチェコスロバキア軍団が決起しました。

これを受けて、連合国はチェコスロヴァキア軍団を救出するという大義名分を得て、対ソ干渉戦争を本格化させることになりました。1918年(大正7年)8月2日、日本はシベリア出兵を宣言しました。

シベリア出兵は、イギリス、フランス、アメリカと共同で行われ、シベリアに集結していたチェコスロバキア軍の救出を目的として始められました。この出兵により、連合国はソビエト政権への圧力を強めることができました。

第一次世界大戦終結後の連合国の撤退

1918年11月、ドイツが停戦協定を結び、第一次世界大戦は終わりを迎えました。戦争が終わると、「チェコスロヴァキア軍を助ける」という口実がなくなり、アメリカなどの国はシベリアからの撤退を開始しました。1920年までに多くの国がシベリアから兵を引き上げてしまいましたが、日本軍は撤退せずに極東地域に留まり続けました。

連合国軍の撤退後、なぜ日本軍は留まり続けたのか?

列強干渉軍は、ロシアの反革命軍(白軍)らと共にボルシェビキ勢力と各地で戦闘を繰り広げましたが、各国軍が撤収した後も日本軍は撤収せずに戦い続けました。日本が撤退しなかった理由は、革命の波及を恐れてこの地に緩衝地帯を作りたかったという安全保障上の理由が主でした。

日本は自国の安全保障を確保するために、シベリアに留まり続け、極東地域での影響力を維持しようとしました。

しかし、これは後の国際関係や日本の立場に悪影響を及ぼすことになり、日本軍は最終的に1922年にシベリアから撤退しました。この出兵は、日本の国際評価を低下させる要因の一つとなりました。

ロシア革命後のポーランド人たちの困難な状況

1918年、シベリアにいたポーランド人たちはポーランドが独立を回復したことを知りましたが、大戦末期に起こったロシア革命によって祖国への帰国は困難な状況になっていました。1919年、ウラジオストクにいたポーランド人たちは、せめて子供たちだけでも救いたいという思いから、ポーランド救済委員会を設立しました。

アンナ・ビェルキェヴィチ(1877-1936)が会長に、ユゼフ・ヤクブキェヴィチ(1892-1953)が副会長に就任しました。ヤクブキェヴィチは医師であり、彼らはシベリアにいるポーランドの子供たちを帰国させるために、資金集めに奔走しました。

この活動により、多くのポーランド人子供たちが救済され、祖国への帰国が可能となりました。ポーランド救済委員会の努力は、シベリアにいるポーランド人たちに希望を与え、彼らの困難な状況を少しでも改善する手助けとなりました。

「頼みの綱だったのに」シベリア出兵中の連合国は次々と撤退

アンナ・ビェルキェヴィチとユゼフ・ヤクブキェヴィチが率いるポーランド救済委員会は、シベリアにいるポーランドの子供たちを帰国させるための資金集めに努力しました。しかし、インフレによって集めた資金が価値を失い、状況は厳しくなりました。

さらに、シベリア出兵中のアメリカ、イギリス、フランスも撤兵し、支援を期待していたこれらの国からの援助も受けられなくなりました。

孤児たちの叫びに応えた日本の決断

そんな中、国際社会で唯一、救いの手を差し伸べ国がありました。それが日本でした。

「ポーランドの孤児たちに救いの手を!」日本赤十字社が協力

アンナ・ビエルケビッチ会長は、ポーランドの子供たちを救済するために、日本との関係を利用しようと決意しました。しかし、彼女は周囲から日本人に対する否定的な意見を聞かされ、不安を抱えながら日本へ向かいました。

1920年6月、ビエルケビッチ会長は日本の外務省を訪れ、フランス語で書かれた文書とその日本語訳を提出し、孤児たちの窮状を訴えました。

外務省は彼女の訴えに同情し、日本赤十字社に連絡を取りました。しかし、政府の立場上、経費の問題で直接支援を行うことは困難だと伝えられました。それでも、日本赤十字社は協力を申し出、物資や資金の提供などの形で支援を行いました。

たった17日で孤児救出が決定!!

日本赤十字社は、日本政府からの要請を受け、シベリアのポーランド孤児救済を異例の速さで決定しました。陸海軍大臣の認可を得た後、日本赤十字社の社長石黒忠悳は外務大臣に救済活動の受諾を伝えました。

彼は、この問題が国際関係や人道上非常に重要であり、救援が必要であると認め、日本赤十字社が児童たちを収容して給養することを決定しました。

原敬内閣、陸軍大臣の田中義一大将、海軍大臣の加藤友三郎も了承し、日本政府、日本赤十字社、および日本軍がシベリアのポーランド孤児救援に立ち上がりました。

この決定は、ポーランド救済委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチが来日してからわずか17日目にして下されたもので、非常に迅速な対応であったと言えます。

救出された孤児たちの驚くべき生存記録

孤児たちの受け入れが決定されると、救済委員会のアンナ・ビエルケヴィッチ女史は興奮と喜びに満ちた様子でその朗報をウラジオストクに持ち帰りました。これにより、孤児救出作戦が始まることになりました。

当時、孤児だったダニレビッチ氏は、街には飢えた子供たちがあふれており、日本の兵隊を見ると「ジンタン(仁丹)、クダサイ」とせがむ姿があったと語っています。日本の兵隊たちは優しく、彼もキャラメルをもらったことがあると振り返っています。

孤児たちの中には、空腹をしのぐために雪を食べている子供もいました。シベリアはまさに地獄のような状況でした。

陸軍の協力で実現した奇跡の救出作戦がスタート!

日本赤十字社の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を受けて、決定からわずか2週間後には、56名の孤児たちが第1陣としてウラジオストクを出発し、敦賀経由で東京に到着しました。

1922年8月までに、日本が救出したポーランドの孤児たちは合計で765人に上りました。救出された子どもたちの年齢は12歳や13歳が大半でしたが、中には2歳の幼児も含まれていました。

温かい手を差し伸べた敦賀港 ── ポーランドの孤児たちの日本到着記

福井県土木部/YouTube

敦賀港に到着したポーランドの孤児たちの滞在は短いものでしたが、当時の敦賀の人々は、菓子、玩具、絵葉書などの差し入れや宿泊・休憩所などを提供するなど、できる限り温かい手を差し伸べました。

日赤は、習慣や言葉が違う孤児たちを世話するために、ポーランド人の付添い人を10名の孤児に1人の割合で、合計65人一緒に招くという手厚い配慮をしました。

敦賀の人々が送る孤児たちへの贈り物

敦賀市民が自分の着ていた服のうち最もきれいなものを脱いで与えたり、髪を結っていたリボンや櫛、飾り帯、さらに指輪までも惜しみなく彼らに与えたという記録が残っています。

敦賀の人たちは孤児たちが到着するたびに、町を挙げて歓迎し、港は人であふれていました。子供たちにはポーランドの旗や赤十字の旗、日本の旗が渡され、歓声が上がりました。

子供たちは消毒液の入ったプールで身体を洗い、新しい服が用意されていました。日本人が出迎えて到着を祝い、靴を脱ぐように指示されました。

昼食は床に置かれた草のマットで日本人のように足をたたんで座り、美味しい食事を楽しみました。その後、敦賀の人たちからのお菓子のプレゼントが贈られました。

ひと時の休憩の後、孤児たちは列車で敦賀を出発し、東京や大阪の収容施設へと向かいました。その列車の中でも、柔らかいソファがある一等席に乗せてもらったと記されています。

希望の灯りをともす福田会育児院 ── ポーランド孤児たちの新しい家

Aiko i Emil/YouTube

その後、子どもたちは全員無事に祖国へ帰還することができました。第一陣の375人を受け入れた施設は東京の福田会育児院(現在の社会福祉法人福田会)で、140年前に設立されました。福田会は日赤本社病院に隣接しており、設備が整っていて運動場や庭園もあり、子どもたちを収容するのに適した環境でした。

孤児たちが福田会育児院に到着した翌日から、慰問の人々がお菓子や玩具を持って訪れ、1人ひとりに優しく声をかけました。孤児たちの服や肌着もすぐに新調されました。新聞記者から質問に答える姿も健気でしたが、親について尋ねられると沈黙し、涙を見せました。彼らにとって、悪夢を語るには幼すぎるのです。

福田会育児院では、歯科治療や理髪を無料で提供する人たちや寄付金、寄贈品が次々と寄せられました。孤児たちは大人たちの言いつけを守り、規則正しい生活を送りながら、朝食前と就寝前には毎日必ずお祈りをしていました。昼間は読書など自由に過ごしていましたが、各団体の配慮により、活動写真を観たり、手品を観たり、動物園や博物館を見学したり、遠足や日光への一泊旅行に連れて行ってもらうなど充実した日々を送りました。

記者が見たポーランド孤児たちの“笑顔”と“涙”

新聞記者たちも、孤児たちの支援に貢献しました。当時の現地新聞は、連日、孤児たちの滞在に関するニュースを報道しました。記者たちは子供たちにカメラを向け、質問を投げかけました。通訳を介して、孤児たちは丁寧に答えていましたが、親のことを尋ねられたときには、花がしぼむように沈黙し、涙をこぼしました。

記者たちは後悔し、「すまなかったね」と頭を下げました。その拍子に、記者たちの目からも涙が滴りました。涙した記者たちは互いに励まし合い、良い記事を書くことで、日本中、そして世界中に、孤児たちの物語を知らせる決意を固めました。

このようにして、新聞記者たちの報道を通じて、孤児たちの事情が広まり、多くの人々が彼らの支援に参加することができました。

『極東の叫び』:シベリアの孤児たちの運命を伝えた雑誌

一方、ポーランド救済委員会のビエルケヴィチ会長は、ポーランド人に関する情報を日本社会に広く知ってもらうために、日本の新聞に連載記事を発表したり、日本語での印刷物を刊行したりしました。1921年9月から1922年5月にかけて、隔週雑誌『極東の叫び』を発行しました。この雑誌では、記事をポーランド語、英語、日本語の3カ国語で併記し、毎回2,000~4,000部を東京、横浜、京都、大阪、神戸で販売しました。

『極東の叫び』では、シベリアのポーランド人孤児の引き揚げの経過や、子どもたちの日本滞在の様子、時事問題などが取り上げられました。さらに、日本への感謝とともに、更なる支援を促すことを目的として努力しました。

支援が集まり続けた!日赤病院の功績

日赤病院は、孤児たちの治療に積極的に携わり、彼らの健康を維持するために尽力しました。また、民間からの支援を広げるため、ポスターを製作して関係者や新聞社に配布するなど、広報活動にも力を入れました。

この結果、1年間で多くの寄付金や物品が集まり、これらはポーランド救済委員会に引き渡されました。寄付された資金や物品は、孤児たちの生活環境や教育、医療ケアに使われ、彼らの福祉向上に大きく貢献しました。

一人一人の寄付がもたらした子供たちの笑顔

大勢の個人寄付者のおかげで、児童たちに素晴らしい生活が保証されました。福田会施設に滞在中、児童たちはとても良好な生活環境に恵まれました。彼らには適切な食事、衣類、医療ケアが提供され、安全で清潔な寝室が用意されました。

また、児童たちの教育面でもサポートが行われました。日本語を学ぶ機会が提供され、彼らの母国語であるポーランド語を維持するための授業も実施されました。さらに、遠足や文化行事が企画され、児童たちは日本の文化や習慣に触れる機会を持ちました。

ポーランドの孤児たちを支援する貞明皇后の思い

1921年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援していた貞明皇后(大正天皇の皇后)が日赤本社病院を訪れ、ポーランドの孤児たちと親しく交流しました。その際、特に可憐な3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチに目を止め、彼女の頭を何度も撫でながら、健やかに育つようにと励ましの言葉をかけました。

アンナ・ビェルキェヴィチが語る、日本でのポーランド孤児支援の思い出

日本赤十字社は、アンナ・ビェルキェヴィチのポーランド孤児支援への尽力を称え、彼女を名誉会員に加えました。

アンナ・ビェルキェヴィチは、日本での経験について回想し、「日本での私たちの仕事は、素晴らしいおとぎ話のような思い出を残しました。子どもたちが日本国民から受けた繊細な善行は、言葉で表すことができないほどです」と語っています。

アメリカにも広がったポーランド孤児救済

この頃、ユゼフ・ヤクプキェヴィッチは、アメリカ合衆国に向かい、シベリアのポーランド孤児たちを救済する使命を果たすため、活動を開始しました。彼はアメリカ国務省から児童(総数369名)の移送許可を取り付けることに成功しました。

これらの孤児たちは、シアトルに到着後、ポーランド系アメリカ人の孤児院に入りました。彼らは、1922年にポーランドへと帰国することができました。ユゼフ・ヤクプキェヴィッチの努力により、アメリカでもシベリアのポーランド孤児たちが救済され、無事に祖国へ帰ることができたのです。

シアトルのポーランド文化会館には、ポーランドへの帰途、シアトルに到着した孤児たちの大きな記念写真が掲げられています。この写真には、日本語、ポーランド語、英語の三か国語で説明が添えられており、多くの人々にその歴史的な背景を伝えています。

日本赤十字社は児童救済活動を続行!

これらの帰国事業が大成功を収め、また日本人がアンナ・ビェルキェヴィチの事業を評価したことから、日本赤十字社は引き続きシベリアの児童救済活動に取り組むことを決定しました。

日本赤十字社は、シベリアに取り残された児童たちを救済し、彼らが安全に祖国に帰還できるように支援を続けることが重要だと判断したのです。

この写真は、シベリアのポーランド人孤児たちがシアトルを経由してポーランドに帰国する途中で撮影されたもので、彼らが遠い異国の地で受けた支援や友情の証となっています。

大阪市民の支援が救ったポーランド人孤児たち

ホームメイト・リサーチ13/YouTube

1922年には、第二次救済事業として3回にわたって計390名のポーランド人孤児たちが日本に来ました。

彼らは大阪府東成郡天王寺村(現在の大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」に収容されました。この寄宿舎は新築の2階建てで未使用だったため、清潔で広い庭園があり、整った環境でした。

大阪でも、孤児たちに対する善意の心がたくさん寄せられました。慰問品や寄贈金が次々と集まり、慰安会も何度か開かれました。孤児たちは活動写真の上映会や動物園、博物館、大阪城の見学、各種団体による食事会やイベントなどで歓迎され、楽しい時間を過ごしました。

また、両親に連れられて慰問に訪れた少女が、孤児たちの着替えがないことを知り、自分の服を脱ぎ、ブローチや髪飾りなどすべてプレゼントしようとしたり、孤児たちの洗濯を手伝いたいと申し出たりして、定日定刻に一度も欠かさず寄宿舎へ通い続けた少女2人もいました。

大阪にも全国から寄贈品や寄付金が届けられ、貞明皇后は大阪にもお菓子料を下賜されました。

「ポーランド孤児たちを救うために」日本人看護師の勇気と決意

シベリアで苦しい状況に置かれていた孤児たちは、栄養失調で体が弱っており、腸チフスなどの病気にも容易にかかってしまう状態でした。シベリアの過酷な環境と食糧不足が、孤児たちの健康に大きな影響を与えていたことは間違いありません。

日本へ到着した彼らは、日本赤十字社や他の支援団体の協力により、医療施設で適切な治療や栄養補給を受けることができました。これにより、彼らの健康状態は徐々に回復していきました。

【伝説の看護師】松沢フミが救った孤児たち

松沢フミ(当時23歳)は、看護婦として腸チフスにかかった子どもたちのケアに尽力していました。当時の腸チフスは非常に危険な感染症であり、罹患するとほとんどの場合、死に至るとされていました。しかし、彼女はそのリスクを顧みず、子どもたちの側を離れることなく、献身的に看病し続けました。

腸チフスで手遅れと思われていた少女に寄り添い、毎晩彼女と一緒に寝ることで、少女が孤独に死なないように努めました。彼女は「この子には看てくれる父も母もいない。死んでも泣いて悲しんでくれる親はいない。死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」と言って、少女に愛情を注ぎました。

松沢さんの献身的な看護の甲斐があり、少女は奇跡的に回復しました。

しかし、松沢さん自身が子どもたちから腸チフスに感染し、残念ながら亡くなってしまいました。松沢フミさんが亡くなった際、その事実は当初、子供たちに伏せられていました。

彼女がいつも優しく接してくれたことから、子供たちは彼女のことを心から慕っていました。幼い子供たちは、松沢さんの姿が見えなくなって心配し、「フミさんは? フミさんは?」と周囲に問いかけました。やがて、子供たちは松沢さんが亡くなったことを知り、その悲しみから大声で泣き出しました。

松沢フミは、その献身的な看護により人道的行動の象徴となり、1921年にポーランドから赤十字賞、1929年に名誉賞を授与されました。

シベリアから救われた765人の命

1920年の第一次救済活動では、シベリアから救出された孤児たちは、横浜で適切な治療や看護を受けた後、米国を経由してポーランドに送還されました。

その後、神戸から出発し、インド洋、スエズ運河を経由してロンドンへと送られました。この救済活動により、765人の孤児たちが無事に故郷のポーランドへ帰ることができました。

君が代とポーランド国歌が交錯する別れの瞬間

2年後、ポーランド政府の要請に基づき、元気を取り戻した孤児たちは横浜港や神戸港から母国に向かいました。来るときはシベリアからでしたが、帰りは独立した祖国ポーランドへの帰国となりました。

出港前には日本全国から集まった衣服やおもちゃの贈り物が積み込まれ、布地の帽子や聖母マリア像が描かれたお守り、そして航行中寒くないようにと毛糸のチョッキが全員に支給されました。子供が好きなバナナやお菓子も持たせてもらいました。

船で日本を離れるとき、感動的な出来事がおきました。ポーランド孤児たちは「日本を離れたくない」と泣き出しました。彼らは帰国することになりましたが、シベリアから来たときと違い、帰りは独立した祖国ポーランドへの帰国となりました。

祖国がどのようなところか知る前に、極寒の中争いの絶えないロシアで親を亡くした凄惨な記憶を植え付けられた孤児たちにとって、日本は初めて平和を感じ、愛を感じた温かい場所だったのでしょう。

出港の間際、子供たちは船のデッキに並び、両国の国旗を手にしながら、涙ながらに『君が代』と『ポーランド国歌』を斉唱し、「アリガトウ」、「サヨウナラ」と叫んで別れを惜しんだ。

その姿は見送る人々の涙を誘いました。見送る人々は、彼らと共に「君が代」を歌い、目に涙を浮かべながら、子供たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けていたという。

日本船の船長が見せた温かな心遣い

日本船の船長は、子どもたちにとってまさに父親のような存在でした。毎晩、ベッドを見て回り、一人ひとり毛布を首まで掛けては、子どもたちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめたと言われています。船長の優しさと温かさは、子どもたちに深い安心感と愛情を与えました。

「もしお父さんが生きていれば、お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ」と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。

ポーランドであふれた感謝の言葉

独立を回復したばかりのポーランドは、荒廃した国土を復興しようと意気込んでいました。そんな中、帝政ロシアに反抗し流刑になったポーランド人の子孫たちが、日本の支援により母国に戻ることができました。

これにより、ポーランド国民は興奮し、将来を担う子供たちを国の宝として大切にしようという気持ちが広まりました。

当時の新聞や雑誌、図書館や古文書館にある資料には、日本に対する感謝や賛美の言葉がたくさん記されています。例えば、「義侠心あふれる日本人」、「サムライ魂の日本民族」、「子供を国の宝として育てる日本人」、「桜の花咲く国からの帰国者たち」などの言葉が見られます。

日本とポーランドの友情物語『100年前の奇跡の救出活動』

独立直後の混乱により、ポーランドは帰国した孤児たちを受け入れる余裕がありませんでした。そのため、多くの子供たちはポーランド北部のヴェイヘローヴォにある施設で教育を受けました。

孤児たちの教育を担当したのは、救済委員会副会長のヤクブキェヴィチで、彼は日本に関する教育やイベントも積極的に行いました。彼は、日本に対する感謝の意を示すとともに、子供たちの将来を大切にしました。

子供たちは次第に社会復帰し、ヴェイヘローヴォの施設は現在、特別支援学校として利用されています。その建物は当時のままの姿で残り、廊下には日の丸とポーランド国旗をあしらった孤児救出のパネルが飾られています。

このことから、100年前の出来事が今もなお、世代を超えて伝えられていることがわかります。

語り継がれる恩返しの物語

その後、日本に救出されたポーランド人の孤児たちは、イェジ・ストゥシャウコフスキを会長とする極東青年会を設立しました。青年会はポーランドで「極東のエコー」を出版し、日本の文化を紹介するイベントや映画上映会を開催してポーランドの親日度を高めました。

1938年には434人もの会員を抱え、ポーランドの親日国の土台を築きました。この孤児救援劇は、今でもポーランドで語り継がれ、日本との絆を示す恩返しの物語として大切にされています。

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親日国家として知られるポーランド。その理由は何か? 20世紀初頭のシベリアには約20万人ものポーランド難民がいた。生き延びた孤児たちは日本による救済を願い、大歓迎と支援を受けて計765名が無事祖国へと帰った。本書では、数奇な運命に翻弄された孤児たちの生涯と、数々の感動秘話を活写。 ドイツに侵略された歴史をもちながら旧同盟国の日本を「桜の花咲く国」と美しく呼ぶポーランドの人々。端緒となった100年前のプロジェクトを詳述。(「Books」出版書誌データベースより)

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