「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた奇跡の物語《親日国家ポーランド②》

 

「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた奇跡の物語《親日国家ポーランド②》

前回の記事を読む▼

日本がポーランド独立支援!?日露戦争から今に繋がる絆!《親日国家ポーランド①》
“https://diggity.info/culture/japan-poland-1/”

Japan Saving Polish Orphans in Siberia

シベリア出兵とポーランド孤児救出

Krzysztof Gonciarz/YouTube

ポーランドに親日家が多いのはポーランド・シベリア孤児を救出した日本の歴史的な貢献が大きな要因になっていると言われる。

日本発「人力」車イスでウクライナを救え/JBpress.2022

シベリア孤児とは、1919年から1923年の間にシベリアと満州から祖国ポーランドへ帰還することが出来た、およそ900名のポーランド児童のことを指します。

シベリアからの子どもたち

ロシア革命の直後の混乱の中で親を失ったシベリアのポーランド人孤児(政治犯等として流刑になっていたポーランド人の子弟)は、飢餓と疫病の中で悲惨な状態にありました。他の国が顧みなかった孤児たちを救ったのは、日本政府と日本赤十字でした。

外務省: わかる!国際情勢 Vol.22 ポーランドという国/Ministry of Foreign Affairs of Japan.2009

独立運動はロシア軍が制圧……。多くのポーランド人がシベリア送り

19世紀、ロシア帝国の支配下にあったポーランドで独立を勝ち取るための、民衆蜂起が始まった。

欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇/NEWSポストセブン.2019

 1830年の11月蜂起、そして1863年の1月蜂起でポーランド人が立ち上がった。だが、圧倒的軍事力を誇るロシア軍に制圧され、その結果多くのポーランド人が政治犯としてシベリアに送られたのだった。

欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇/NEWSポストセブン.2019

「第一次世界大戦では戦火を逃れるため」ポーランドからシベリアに避難

そして1914年、第一次世界大戦時、ポーランドは、ロシア軍とドイツ軍の主戦場となってしまい、多数のポーランド人がシベリアへと逃げていった。その数20万人。

実は知られていない超親日国の数々。あの国と日本の「ちょっといい絆」物語/GetNavi web.2017

ロシア革命が勃発!その戦火がシベリアに迫る

(前略)1917年(大正6)にロシア革命が起こると、内戦がシベリアにまで混乱をもたらします。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

革命の中でポーランは独立を回復!でもシベリアからの帰国が困難だった……。

第一次世界大戦中にロシア革命が勃発したことを受け、1918年にポーランド共和国として独立を達成した。

ポーランド人/ポーランド王国/世界史の窓

 戦後、ポーランドは独立を回復したが、大戦末期に起こったロシア革命によって祖国への帰国は困難となった。

欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇/NEWSポストセブン.2019
餓死、病死、凍死、シベリアで追い詰められるポーランド人

ソビエト軍(赤軍)と反革命軍(白軍)がシベリア各地で戦い、ポーランド人たちもそれに巻き込まれていきました。大半のポーランド人が家財産を失い、難民となって、凍土の荒野をさまようことになります。餓死、病死、凍死する人が続出しました。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

難民たちは暖をとるために燃やせるものはすべて燃やし、脱出の頼みの綱であるはずの鉄道の枕木(まくらぎ)すら燃やさざるを得ず、それが尽きると次々に凍死していったといいます。脱出を図った600人のポーランド人婦女子を乗せた列車が燃料不足で立ち往生し、全員が凍死するという痛ましい事件もありました。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

食べ物を先に子供たちに食べさせていた母親が遂に力尽き、その胸にすがって涙を流しながら死にゆく子供たち…。そんな光景があちらこちらで見られたといいます。

惻隠(そくいん)の情/心をはこぶ、人をつなぐidex!.2016

その頃、日本を含む連合国はシベリアに出兵していた

The Front/YouTube

当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました(シベリア出兵)。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020
「対ソ干渉戦争」ソヴィエト政権を警戒した国々が軍をシベリアに派遣

1917年(大正6年)、ロシアで二月革命、十月革命が相次いで起きた。

チェコ軍団のシベリア軍事郵便/Hi-HO

ソヴィエト政権を警戒する連合国は十月革命直後から干渉の機会を伺っていましたが、それぞれの思惑を抱え、共同行動を取る体制が出来ません。

United States and the Russian Civil War The Betty Miller Unterberger Collection of Documents/Gale
「チェコスロヴァキア軍を救出」大義名分を掲げて軍を派遣
CriticalPas/YouTube

そのような状況の中で、シベリア鉄道沿線でチェコスロヴァキア軍団の反乱が発生しました。第一次大戦でオーストリア軍の下で戦い、ロシア軍に投降し、捕虜になっていたチェコ人とスロヴァキア人をフランス軍の指揮下に置き、西部戦線の対独戦に従事させる協定がチェコ独立運動指導者トマーシュ・マサリクとフランス政府の間で締結され、ロシア領内のチェコスロヴァキア軍団をウラジオストーク経由で輸送する計画が立てられたものの、輸送計画が頓挫し、ソヴィエト政権と対立した軍団が決起しました。ソヴィエト政権からチェコスロヴァキア軍団を救出するという大義名分を得た連合国は対ソ干渉戦争を本格化させます。

United States and the Russian Civil War The Betty Miller Unterberger Collection of Documents/Gale

大正7年(1918)8月2日、日本はシベリア出兵を宣言しました。シベリア出兵は、イギリス・フランス・アメリカと共同で、シベリアに集結していたチェコスロバキア軍の救出を目的として始められました。

大正7年(1918)8月|シベリア出兵を宣言する/国立公文書館
救出が終わると連合国は次々と撤退……。

しかし、1918年11月、ドイツが停戦協定を結んだことで第一次世界大戦そのものが終わってしまいます。戦争が終わると、「チェコスロヴァキア軍を助ける」という口実もなくなり、アメリカなどの国はシベリアからの撤退を開始。1920年までに多くの国がシベリアから兵を引き上げてしまいました。

シベリア出兵の目的・経過を簡単にわかりやすく解説【社会主義潰しは失敗し、米騒動が起こる】/まなれきドットコム.2021
日本軍は安全保障上の理由からシベリアに駐留

(前略)残っていたのは日本軍だけだった。

手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡/FNNプライムオンライン.2020

(前略)列強干渉軍は、ロシアの反革命軍(白軍)らと共にボルシェビキ勢力と各地で戦闘を繰り広げたが1918年11月に第一次世界大戦が終わり、その後各国軍が撤収する中、日本軍は撤収せず極東地域に留まって戦い続けたのだった。日本が撤退しなかったのは、革命の波及を恐れ、この地に緩衝地帯をつくりたかったからにほかならない。つまり日本の安全保障上の理由からだった。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

「ポーランド救済委員会」悲惨な孤児をなんとか祖国に…。

1919年、ウラジオストクにいたポーランド人たちはせめて子供たちだけでも救いたいとポーランド救済委員会を設立しました。会長にはアンナ・ビェルキェヴィチ(1877-1936)が、副会長には医師であったユゼフ・ヤクブキェヴィチ(1892-1953)が就任し、シベリアにいるポーランドの子供たちを帰国させるための資金集めに翻弄しました。

ポーランド・シベリア孤児 記念小学校/ワルシャワ日本語学校
頼みの綱のシベリア出兵中の連合国は次々と撤退……。

会長にはアンナ・ビェルキェヴィチ(1877-1936)が、副会長には医師であったユゼフ・ヤクブキェヴィチ(1892-1953)が就任し、シベリアにいるポーランドの子供たちを帰国させるための資金集めに翻弄しました。しかしインフレにより集めた資金は紙くず同然となり、支援を期待していたシベリア出兵中の米、英、仏も撤兵してしまいます。

ポーランド・シベリア孤児 記念小学校/ワルシャワ日本語学校

そのとき国際社会の中で唯一救いの手を差し伸べたのは日本だった。

未来に伝えたい 100年前のニッポン人~ポーランド孤児救出の軌跡~/福井テレビ

国交を樹立したばかりの日本に救出を依頼

窮地に陥った救済組織のアンナ・ビエルケビッチ会長は、わらにもすがる思いで、国交を樹立したばかりの日本へ出発。

手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡/FNNプライムオンライン.2020

しかし、周囲からは「日本人は極めて利己的で不親切な人種であって、自己の利益とならざる事は何事もなさない」(ビエルケビッチ会長手記より)と忠告を受けていた。

手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡/FNNプライムオンライン.2020
「経費の関係上引き受けるのは不可能」外務省が日本赤十字に連絡

外務省はビエルケビッチ会長に同情しつつ、日本赤十字社に連絡。外務省が当時の日本赤十字社の社長に宛てた文書には「両国との国交とに鑑みできるだけ応じたいが、政府においては経費の関係上、これを引き受けるのは不可能」と記されている。

手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡/FNNプライムオンライン.2020
日本赤十字は救出を決断!わずか17日で孤児救出が決定!!

日本政府から要請を受けた日本赤十字社は、孤児救済を異例の早さで決断。

8/15「ポーランド孤児たちの“アリガトウ”」/FM FUKUOKA (エフエム福岡)

そして陸海軍それぞれの大臣の認可を受けた上で、日赤社長の石黒忠悳(いしぐろただのり)は、外務大臣にこう伝えます。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

「本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件にして、救援の必要を認め候(そうろう)につき、本社において児童たちを収容して給養いたすべく候」

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

救済の受諾表明でした。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

 原敬内閣、陸軍大臣・田中義一大将、海軍大臣・加藤友三郎も了承。こうして日本政府および日本赤十字と日本軍が、各国が見放したシベリアのポーランド孤児救援に立ち上がったのである。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

ポーランド救済委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチが来日してから17日目のことで、異例の早さでの決定です。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

 孤児受け入れの朗報が伝わると、「興奮と混乱、笑いと喜びの爆発だった」と会長(救済委員会)のビエルケヴィッチ女史は語っている。

萩原タケ/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

アンナは驚喜して、この朗報をただちにウラジオストクに持ち帰ります。こうして孤児救出作戦が始まることになりました。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020
孤児としてシベリアにいた人は当時のことを振り返る

孤児だったダニレビッチ氏はこう語っています。 

(限定連載)いま伝えたい服部剛の感動の日本史講義【第3回】「ポーランド孤児を救助せよ!」/WEB chichi – 致知出版社.2020

「街には飢えた子供があふれていました。その子たちは、日本の兵隊さんを見ると『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』とせがむのです。日本の兵隊さんは優しかった。私もキャラメルをもらったことがあります。孤児の中には空腹で雪を食べている子供もいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした」 

(限定連載)いま伝えたい服部剛の感動の日本史講義【第3回】「ポーランド孤児を救助せよ!」/WEB chichi – 致知出版社.2020

決定の2週間後には孤児救出を開始

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第1陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。

多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話/まぐまぐ!.2016

22年8月までに、日本が救出したポーランド孤児は計765人に上った。

【知られざる第一次世界大戦の偉業】シベリア出兵とポーランド孤児救出劇 現在も続く両国の友好/zakzak.2018

12、13歳が大半で中には2歳の幼児まで含まれていた。

萩原タケ/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

孤児が到着した港「敦賀港」

福井県土木部/YouTube

敦賀港は、明治から昭和初期にかけて、シベリア鉄道を経由してヨーロッパ各都市と日本を結ぶ国際港として発展した港です。

歴史を伝える「シベリア孤児来日100周年記念レリーフ」/大塚オーミ陶業株式会社.2020

 彼らの敦賀での滞在は数時間、長くても1日というものでしたが、当時の敦賀の人々は、菓子・玩具・絵葉書等の差し入れや宿泊・休憩所などを提供するなど、できる限りの温かい手を差し伸べました。

日本ポーランド文化交流協会メールマガジン(2021年4月)/一般社団法人 日本・ポーランド文化交流協会

 習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添い人を付けたほうがよい、と考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

特別寄稿=日本ポーランド友好物語=語り継がれるシベリア孤児救済 サンパウロ市在住・酒本恵三/ブラジル知るならニッケイ新聞WEB.2020

記録では、孤児を哀れんだ敦賀市民が、自分の着ていた服のうち最もきれいな衣服を脱いで与えたり、髪を結っていたリボンや櫛(くし)、飾り帯、さらに指輪までも惜しみなく彼らに与えたという。その様子を幾つか拾ってみる。

関心高まるポーランド孤児救済/世界日報.2022

「敦賀の人たちは孤児たちが到着するたびに、町を挙げて歓迎しました」「港は人であふれていました」「船から降りると、ある子供にはポーランドの旗を、次の子には赤十字の旗を、別の子には日本の旗を渡してくれました」「『バンザイポーランド バンザイコドモポーランド』と叫んでいました」など、歓迎の様子を伝えている。

関心高まるポーランド孤児救済/世界日報.2022

さらにポーランドの子供たちは「私たちは裸になり消毒液の入ったプールに入りました。そこから出ると新しい服が用意されていました」「玄関で日本人が出迎えて到着を祝ってくれ、靴を脱ぐように言いました。靴がない人は足を洗うように言いました」「昼食は床にある草のマットに置かれ、私たちは日本人のように足をたたんで座りました」「昼食はとてもおいしかったです。昼食の後、お菓子を頂きました。これは敦賀の人たちからのプレゼントだと言われました」。ひと時の休憩の後、孤児たちは列車で敦賀を出発し、東京や大阪の収容施設へと向かった。その列車の中でも「ぎゅうぎゅう詰めの列車に押し込められると思っていましたが、柔らかいソファがある一等席に乗せてくれました」と記している。

関心高まるポーランド孤児救済/世界日報.202

<第1陣>375人の受け入れ「福田会」

Aiko i Emil/YouTube

その後、子どもたちは一人も欠けることなく無事に祖国へ帰還することになるのですが、第一陣375人を受け入れた施設が東京の福田会育児院、現在の社会福祉法人 福田会(ふくでんかい)。今から140年前に設立されました。

ポーランドと日本の養護施設 90年を経ての交流再開/Japoland.2016

福田会は日赤本社病院に隣接し、設備も整い構内には運動場や庭園があり、子供達を収容するのに適した環境であった。

ポーランド人のシベリア孤児 数百名を救出した話(p.2)/はやぶさ国際特許事務所.平成31月1月号

孤児たちの第一陣が福田会育児院に到着した翌日から、慰問の人々がキャラメルやビスケットなどのお菓子や玩具を持参して駆けつけ、1人ひとりに優しく声をかけて回っています。孤児たちの服や肌着も、すぐに新調されました。新聞記者の質問にも孤児は健気に返事をしていましたが、親について尋ねられると沈黙し大粒の涙を見せたそうです。悪夢を語るには、余りに幼すぎて可哀想すぎました。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン

福田会育児院には、歯科治療や理髪を無料で申し出る人たち、寄付金、寄贈品の申し入れなどが続出しました。孤児たちは大人たちの言いつけを守り、規則正しい生活を送りながら、朝食前と就寝前には毎日必ずお祈りをしていました。普段、昼間は読書をするなど自由に過ごしていましたが、各団体の配慮により、活動写真を観たり、手品を観たり、動物園や博物館を見学したり、遠足や日光への一泊旅行に連れて行ってもらうなどしました。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン

メディアは連日孤児たちのことを報道

 これには新聞記者たちも貢献した。

萩原タケ/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

(前略)現地新聞は連日、新聞紙面に彼らの滞在についてのニュースを載せました。

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/Instytut Polski w Tokio

彼らは子供たちにカメラを向け、質問した。孤児たちは通訳を介して丁寧に答えていたが、親のことを聞かれたときには、花がしぼむように沈黙し、はらはらと涙をこぼしたという。後悔したのは記者たちだった。「すまなかったね」と頭を下げ、その拍子に記者の目から思わず涙が滴った。涙した記者たちは、互いに励まし合いながら、良い記事を書き、日本中に、否世界中に知らせようと決意したという。

萩原タケ/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
ビエルケビッチ会長は日本社会に現状を訴え続ける

一方、ポーランド救済委員会のビエルケヴィチ会長は、ポーランド人に関する情報を日本社会に広く知ってもらえるよう、日本の新聞に連載記事を発表したり、日本語での印刷物を刊行したりしました。1921年9月から1922(大正11)年5月にかけて、隔週雑誌『極東の叫び』を発行し、記事をポーランド語、英語、日本語の3カ国語で併記し、毎回2000~4000部を東京、横浜、京都、大阪、神戸で販売しました。シベリアのポーランド人孤児の引き揚げの経過や子どもたちの日本滞在の様子、時事問題などを記し、日本への感謝と共に更なる支援を促そうと努力しました。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン
日本赤十字病院も世間に訴えかけた

日赤病院も、次々と送り込まれる孤児たちの治療に携わるのみならず、民間から広く浄財を募るためポスターを製作して関係者や新聞社に配布し、1年間で集まった寄付金と物品をポーランド救済委員会に引き渡しています。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン
そして大勢の寄付が集まり生活が保証された!

(前略)大勢の個人寄付者のおかげで、児童たちに素晴らしい生活が保証されました。福田会施設に滞在中、児童たちはとても良好な生活環境に恵まれ、彼らのために学業・遠足・文化行事が企画されました。

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/Instytut Polski w Tokio

貞明皇后が接見

1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話/MAG2NEWS.2016

日本赤十字社がビエルケビッチを名誉会長に!

それから間もなく、日本赤十字社 は顕彰の印として、A・ビェルキェヴィチを名誉会員に加えました。

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センター.2020

アンナ・ビェルキェヴィチは回想しています――「日本において、私たちの仕事は、素晴らしいおとぎ話のような思い出を残しました。子どもたちが日本国民から繊細な善行をどれほど受けたかを言葉で表すことはできないでしょう」

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センター.2020

第1陣の孤児たちが無事ポーランドに帰国!さらなる救済活動を継続!!

このころ、同様の使命を帯びてアメリカ合衆国に向かったのがユゼフ・ヤクプキェヴィ チで、彼は児童(総数 369 名)の移送に対する国務省の許可を取り付け、彼らはシアトル 到着後、ポーランド系アメリカ人の孤児院に入り、1922 年にポーランドに戻りました。

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センター.2020

シアトルのポーランド文化会館には、ポーランドへの帰途、シアトルに到着した孤児たちの大きな記念写真が掲げられており、日本語、ポーランド語、英語の三か国語で説明があります。

 山田総領事(2017.6~2020.7)の見聞禄/在シアトル日本国総領事館.2018

この帰国事業が大成功を収め、また日本人がアンナ・ビェルキェヴィチの事業を評価したため、日本赤十字社は引き続きシベリアの児童救済活動を決断(後略)

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センター.2020

<第2陣>390人の受け入れ「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」

ホームメイト・リサーチ13/YouTube

1922年には第2次救済事業として3回に亘って390名が来日している。第2次の孤児達は、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」に収容された。この寄宿舎は新築2階建で未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所であった。

ポーランド人のシベリア孤児 数百名を救出した話(p.2)/はやぶさ国際特許事務所.平成31月1月号

大阪でも、善意の心が孤児たちにたくさん向けられました。慰問品や寄贈金が次々と寄せられ、慰安会も何度か行なわれました。活動写真の上映会や動物園、博物館、大阪城の見学、各種団体による食事会やイベントなどで孤児たちは歓迎され、楽しい時間を過ごしました。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン

また、両親に連れられ慰問に訪れた少女が、孤児たちの着替えがないことを知り、自分の服を脱ぎ、ブローチや髪飾りなどすべてプレゼントしようとしたり、孤児たちの洗濯を手伝いたいと申し出たりして、定日定刻に一度も欠かさず寄宿舎へ通い続けた少女2人もいたそうです。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン

大阪にも全国から寄贈品や寄付金が届けられ、貞明皇后は大阪にもお菓子料を下賜されました。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

命をかけて孤児たちを介護した伝説の看護婦「松澤フミ」

 シベリアで死の淵を彷徨ってきた孤児たちは栄養失調で身体も弱り、腸チフスなどの病気が猛威を振るうこともありました。

惻隠(そくいん)の情/心をはこぶ、人をつなぐidex!.2016

日本赤十字看護大学には当時感染症と戦っていた看護師の松澤フミの記録が残っている。

FNSドキュメンタリー大賞 未来に伝えたい 100年前のニッポン人〜ポーランド孤児救出の軌跡/TVでた蔵.2020

そんな彼らが、ひと夏を日本で過ごし、人々の愛情に包まれ、まるで別人のように元気をみなぎらせていったのです。

日本人が命を落としてまでもポーランド人に手を差し伸べていた過去/MEGA2NEWS.2016

看護婦をしていた松澤フミさんという若い女性は、腸チフスにかかった子どものそばを、片時も離れませんでした。当時、腸チフスは、罹ったら最後、十中八九、死に至るといわれていました。

日本人が命を落としてまでもポーランド人に手を差し伸べていた過去/MEGA2NEWS.2016

収容施設では、衰弱した大量の孤児を看護師が付きっきりで看病しました。手遅れと思われた腸チフスの少女を担当した松沢フミさん(当時23歳)は、「この子には看てくれる父も母もいない。死んでも泣いて悲しんでくれる親はいない。死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」と毎晩、少女に添い寝しました。当時、腸チフスは罹ったら死に至る感染症として恐れられていましたが、甲斐あって少女は奇跡的に回復します。

(限定連載)いま伝えたい服部剛の感動の日本史講義【第3回】「ポーランド孤児を救助せよ!」/WEB chichi – 致知出版社.2020

しかし、松沢さんはチフスに冒され、亡くなりました。

(限定連載)いま伝えたい服部剛の感動の日本史講義【第3回】「ポーランド孤児を救助せよ!」/WEB chichi – 致知出版社.2020

いつも優しかった松澤さんの死は子供たちには伏せられましたが、事情を知らない幼い子たちは「フミさんは? フミさんは?」と周囲に問いかけ、やがて亡くなったことを知ると、子供たちは号泣したといいます。

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語/和樂web.2020

松澤フミはその功績が讃えられ、ポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞を授与されている。

ポーランド孤児を救った日本人/世界の民謡・童謡 WORLDFOLKSONG.COM

(前略)病んだ子どもたちから感染して腸チフスで亡くなった松沢フミ看護師は人道的行動の象徴になりました。

日本赤十字社に救済された 在シベリアポーランド児童の日本到着 100 周年/Instytut Polski w Tokio

救出した765人すべての孤児たちがポーランドに帰国!

一九二〇年の第一次救済活動では横浜から米国経由でポーランドへ送還されま年の第一次救済活動では横浜から米国経由でポーランドへ送還されま運ばれて看護を受けた後、神戸からインド洋、スエズ運河を経てロンドンへ送られました。

企画展示 「外交史料館に聞いてみよう!「外交史料Q&A」展」について(p.132)/外務省ホームページ

このようにして765人の孤児が無事にポーランドに戻ることができたのです。

 山田総領事(2017.6~2020.7)の見聞禄/在シアトル日本国総領事館.2018

「日本を離れたくない」帰国の際には別れを惜しむ孤児たちの姿

2年後、彼らは帰国することになりました。来るときはシベリアからでしたが、帰りは、独立した祖国ポーランドへの帰国となりました。

ポーランドの孤児を救え(4.24 校長講話)/一宮市立木曽川中学校のトップページ.2017

 ポーランド政府の要請に基づき、元気を取り戻した孤児たちは横浜港や神戸港から母国に向かった。

【知られざる第一次世界大戦の偉業】シベリア出兵とポーランド孤児救出劇 現在も続く両国の友好/zakzak.2018

出港前には日本全国から集まった衣服やおもちゃの贈り物が積み込まれ、布地の帽子や聖母マリア像が描かれたお守り、そして航行中寒くないようにと毛糸のチョッキが全員に支給された。子供が好きなバナナやお菓子も持たせてもらった。

ポーランド孤児を救った日本人/世界の民謡・童謡 WORLDFOLKSONG.COM

船で日本を離れるとき、感動的な出来事がおきた。ポーランド孤児たちは「日本を離れたくない」と泣き出したのだ。

【知られざる第一次世界大戦の偉業】シベリア出兵とポーランド孤児救出劇 現在も続く両国の友好/zakzak.2018

祖国がどのようなところか知る前に、極寒の中争いの絶えないロシアで親を亡くした凄惨な記憶を植え付けられた孤児たちにとって、日本は初めて平和を感じ、愛を感じた温かい場所だったのでしょう。

ポーランド出張・赴任に行く前に知っておきたい友愛の歴史やビジネスマナー/アイザック外国語スクール.2022

出港の間際、子供たちは船のデッキに並び、両国の国旗を手にしながら、涙ながらに『君が代』と『ポーランド国歌』を斉唱し、「アリガトウ」、「サヨウナラ」と叫んで別れを惜しんだ。

ポーランド孤児を救った日本人/世界の民謡・童謡 WORLDFOLKSONG.COM

その姿は見送る人々の涙を誘った。

萩原タケ/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

見送る人々は、彼らと共に「君が代」を歌い、目に涙を浮かべながら、子供たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けていたという。

萩原タケ/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
毎晩孤児たちの無事を確認した日本船の船長

子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、一人ひとり毛布を首まで掛けては、子どもたちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。

日本人が命を落としてまでもポーランド人に手を差し伸べていた過去/MEGA2NEWS.2016

「もしお父さんが生きていれば、お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ」

日本人が命を落としてまでもポーランド人に手を差し伸べていた過去/MEGA2NEWS.2016

と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。

日本人が命を落としてまでもポーランド人に手を差し伸べていた過去/MEGA2NEWS.2016

ポーランドであふれる感謝の言葉

独立を回復したばかりで、荒廃した国土復興の意気に燃えるポーランドの社会状況のなかで、帝政ロシアに反抗して流刑になったポーランド人の子孫の子供たちが日本の援助で母国に戻ってきたことに、興奮しないポーランド人はいなかったでしょう。国の将来を担う子供たちは国の宝、という気分が国中を支配したのも当然といえましょう。

日本に親近感を持つポーランド人(p.8)/松本 照男.北海道ポーランド文化協会

当時の新聞雑誌類を図書館や古文書館、知人の蔵書などで数多く読みましたが、「義侠心あふれる日本人」「サムライ魂の日本民族」「子供を国の宝として育てる日本人」「桜の花咲く国からの帰国者たち」等々、日本への賛美や感謝の文字があふれています。

日本に親近感を持つポーランド人(p.8)/松本 照男.北海道ポーランド文化協会

助けてくれた日本に恩返し!!

帰国後、独立直後からの混乱で、祖国ポーランドは孤児たちを受け入れる余裕を持ち合わせていませんでした。そのため多くの子供たちはポーランド北部にあるヴェイヘローヴォの施設で教育を受けます。

ポーランド・シベリア孤児 記念小学校/ワルシャワ日本語学校

子供たちの教育に当たったのは救済委員会副会長のヤクブキェヴィチでした。日本に関する教育やイベントも多く行われました。ヤクブキェヴィチは日本を伝えることで日本への恩を返そうとしたのです。彼は教育の力を信じ、子どもたちの世話をしました。こうして子供たちは社会復帰を果たしていくのです。

ポーランド・シベリア孤児 記念小学校/ワルシャワ日本語学校

その場所は現在、特別支援学校となり、当時孤児たちが過ごしたレンガ造りの建物がそのままの姿で使用されている。

欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇/NEWSポストセブン.2019

 驚くべきは、廊下に日の丸とポーランド国旗をあしらった孤児救出のパネルが飾られ、100年前の出来事が今もしっかりと語り継がれていることだった。

欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇/NEWSポストセブン.2019
孤児たちは日本の文化をポーランドで紹介

その後、第二次救済で救われたイェジ・ストゥシャウコフスキが会長(当時18歳)となり孤児たちを中心とした極東青年会が設立されました。青年会はポーランドで「極東のエコー」を出版したり、「日本の夕べ」というイベントの開催、日本の映画上映会などを通して日本の素晴らしさを伝えていきました。戦前の1938年には434人もの会員を抱えていました。青年会の活動によってポーランドの親日度は高まっていき、親日国ポーランドの土台を作った大きな活動となったと言えます。

ポーランド・シベリア孤児 記念小学校/ワルシャワ日本語学校

今も語り継がれ恩返しは続いている

日本では、この感動的な史実はほとんど知られていない。だが、ポーランドでは今でも、この孤児救援劇が語り継がれ、恩返しが続いている。

【知られざる第一次世界大戦の偉業】シベリア出兵とポーランド孤児救出劇 現在も続く両国の友好/zakzak.2018
created by Rinker
親日国家として知られるポーランド。その理由は何か? 20世紀初頭のシベリアには約20万人ものポーランド難民がいた。生き延びた孤児たちは日本による救済を願い、大歓迎と支援を受けて計765名が無事祖国へと帰った。本書では、数奇な運命に翻弄された孤児たちの生涯と、数々の感動秘話を活写。 ドイツに侵略された歴史をもちながら旧同盟国の日本を「桜の花咲く国」と美しく呼ぶポーランドの人々。端緒となった100年前のプロジェクトを詳述。(「Books」出版書誌データベースより)

この記事の続きを読む▼

無事に帰国したシベリア孤児たちに再び戦火が……。孤児たちは武器を取りナチスに立ち向かった《親日国家ポーランド③》
“https://diggity.info/culture/japan-poland-3/”
Previous post 日本がポーランド独立支援!?日露戦争から今に繋がる絆!《親日国家ポーランド①》
Next post 無事に帰国したシベリア孤児たちに再び戦火が……。孤児たちは武器を取りナチスに立ち向かった《親日国家ポーランド③》

当サイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。
Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについてはプライバシーポリシーをご覧ください

X