知られざる日本とポーランドの友好関係!日露戦争から続く絆を探る《親日国家ポーランド①》

この記事は、日本とポーランドの歴史的な友好関係について紹介しています。日露戦争での日本の勝利が、ポーランド人にとっても大きなインパクトを与え、ポーランドにおける親日感情の原点となりました。

記事では、捕虜となったポーランド人将校の喜びの様子や、ポーランドの独立運動についても触れられています。また、ポーランドと日本が一貫して友好関係を築いてきた歴史的事実や、個人的なエピソードも紹介されています。この記事を読むことで、日本とポーランドの深い絆や友好関係について理解を深めることができます。

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History of Poland

「123年の時を超え」ポーランドの独立が復活!!

ポーランドは10世紀に建国され、14世紀からヤギェウォ王朝時代に欧州の大国として繁栄しました。しかし、16世紀後半から選挙王制が導入されると、国力が低下し始めました。18世紀後半には、隣国のロシア、プロシア、オーストリアによって分割され、1795年にポーランドは一度消滅しました。

しかし、ポーランド人の民族意識は決して消えず、独立回復への願いが引き継がれました。その結果、123年間の分割の後、1918年11月11日にポーランドは独立を回復しました。この独立回復は、第一次世界大戦の終結とともに地政学的環境が整ったことが大きな要因となりました。

連合国の勝利により、ポーランドの独立を支持する声が高まり、特にアメリカのウィルソン大統領が提案した「ウィルソンの14ヶ条」の中で、ポーランドの独立が明確に言及されました。

ポーランド独立の父

120年間の分割に耐えた後、ついにポーランドは自由で独立した国家として復活しました。ユゼフ・ピウスツキ、ロマン・ドモフスキ、イグナツィ・ヤン・パデレフスキ、ユゼフ・ハレル将軍、イグナツィ・ダシンスキ、ヴィンツェンティ・ヴィトス、ヴォイチェフ・コルファンティといった政治指導者たちは、ポーランド独立回復の立役者として称えられています。

彼らは異なる政治的背景を持ちながらも、共通の目的であるポーランドの再建を目指して団結しました。この結果、ポーランドは独立国家として復活し、その後の困難な時代を乗り越え、現在の民主主義、自由市場経済を基盤とした国家へと発展していきました。

ポーランドの独立回復は、民族意識の強さや国民の団結、そして政治指導者たちの共通の目標と情熱が重要な役割を果たしたことを示しています。独立回復は、ポーランド人にとって人生における至上の歓喜であり、新たな国家の建設への希望が生まれた瞬間でした。

独立記念日は第一次世界大戦終戦日と同じ日!

Wirtualne Biało-Czerwone Iskry/YouTube

18世紀末、ポーランドは周辺の帝国によって領土が分割され、併合されました。しかしながら、第一次世界大戦の終結に伴い、ロシアは戦争から撤退し、オーストリア=ハンガリー帝国とドイツは降伏しました。このため、1918年にポーランドは自由を奪還することができました。

その独立記念日は、11月11日であり、同日は第一次世界大戦の終戦記念日でもあります。この独立記念日は、ポーランドの国民にとって非常に重要な祝日であり、国家のアイデンティティと民族の誇りを再確認する機会となっています。

毎年11月11日には、ポーランド全土で様々な祝祭行事やパレードが開催され、国民が独立回復の喜びを共有します。

1919年には日本とポーランドが国交を樹立!!

ヨーロッパナビ EuropeNavi/YouTube

1919年3月に日本は独立ポーランドを正式に承認し、国交が始まりました。翌年の1920年には、両国は通商条約を調印し、軍事協力を締結しました。しかし、実は日本とポーランドの交流の歴史は、ロシアの支配下にあった時代である1904年の日露戦争の時代までさかのぼります。

親日国「ポーランド」

ポーランドは地理的に日本から遠い国でありますが、両国間には親善関係があり、特に日本の文化や技術に対する関心が高まっています。日本文化はポーランドの若者の間で大変人気があり、アニメ、マンガ、映画、音楽、ファッション、料理などが広く愛されています。

日本語を学ぶポーランド人
【iYuta】YouTube Channel/YouTube

ポーランドにおける日本語学習の人気は高く、親日的な雰囲気が広がっています。国立4大学の日本語専攻だけでなく、約60の機関や学校で日本語を学ぶことが

日本語弁論大会も国内で盛んで、日本語のスキルを競い合い、また日本文化や社会について学ぶ機会として重要視されていますできます。これは、日本文化への関心が高まっていることを示しています。

さらに、日本の武道、特に空手がポーランドで人気を博しており、国民に親しまれています。空手がポーランドで6番目の人気スポーツであることは、日本文化がポーランド社会に浸透している証拠です。

また、日本企業もポーランドに進出しており、ビジネスの面でも緊密なつながりがあることから、日本語能力を持つポーランド人には就職のチャンスが増えています。これにより、日本語を学ぶことのメリットが一層認識されています。

日系企業も進出!

2020年時点で356社の日系企業がポーランドに進出していることは、両国間のビジネス関係が強固であることを示しています。ポーランドは、労働力が豊富でスキルの高い労働者が多く、地理的にも欧州市場へのアクセスが良好であるため、日本企業にとって魅力的な投資先となっています。

また、ポーランド政府は外国企業に対して投資促進策を講じており、特別経済区や税制優遇などのインセンティブが用意されています。これにより、日系企業はポーランドでの事業展開を安心して行うことができます。

日本祭も開催!ワルシャワ日本祭
【iYuta】YouTube Channel/YouTube

ワルシャワ日本祭は、ポーランド大使館、日本人会、商工会が主催し、ワルシャワ市内のスウジェフ文化センターで開催されています。このイベントはワルシャワ最大の日本イベントであり、一日で約2万人が集まる盛大なものです。

ワルシャワ日本祭では、日本の伝統文化や現代文化が紹介され、日本料理や日本製品の販売、武道や日本舞踊のデモンストレーション、アニメや映画の上映、日本語講座など、さまざまなプログラムが提供されています。

このイベントは、ポーランド国内で日本文化への関心が高まる一因となっており、両国間の文化交流を促進しています。

「桜の花咲く国」

ポーランドがなぜ日本に対して親密な関係を築いているのかについては、歴史的な背景があります。ドイツに侵略された歴史を持ちながらも、旧同盟国である日本には親しい感情を抱いており、「桜の花咲く国」という美しい呼び名で呼んでいます。

実際、ワルシャワでは在留日本人よりも和食店の数の方が多いとされています。また、ワルシャワの国立歌劇場で唯一の常任指揮者を、日本人の今村能氏が務めていたこともあります。さらに、ポーランドに駐在する日本の外交官たちの多くは、日本語が堪能であることが知られています。

英国留学中の日本人には、ポーランド人の教師から、「自分は親から、『世界のどこかで日本人に出会ったら、できるだけ親切にして恩返しをしてほしい』と言われてきた」という逸話が伝えられ、親身に世話をしてくれたという話もあります。これらのことは、100年前にさかのぼる歴史に起因していると言えます。

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Japan’s victory in Russo-Japanese War

ポーランド人も歓喜した日露戦争での日本の勝利

Bogaczewicz/YouTube

ポーランドは1795年にロシア、プロイセン、オーストリアによって分割され、独立を奪われましたが、その後も独立運動が粘り強く続けられてきました。この運動に勇気を与えたのが、日露戦争であったと言われています。

『日露戦争』

The Great War/YouTube

日露戦争は、明治37年2月に勃発した戦争で、日清戦争で獲得した日本の利権を三国干渉によって返還させた上で、ロシアが中国の清王朝や朝鮮への進出を続けたことが背景にありました。

この戦いは、ロシアが南下を続ける遼東半島や満州での陸戦と、当時世界最強のロシアのバルチック艦隊がアフリカ経由で島国日本を目指して日本海軍との海戦を繰り広げたことで行われました。

ポーランドにとっては独立のチャンス!2人の指導者が来日!

ポーランドの一部の政治勢力や民族解放運動の指導者たちは、日露戦争でロシアが弱体化すれば、ポーランドに対する態度が変わるのではないかと考えていました。

彼らはこの戦争を、1795年の第三次分割で失った独立を回復するための機会と見て、活用しようとしました。一方、日本側の軍部にとっては、ポーランド人によるロシア軍情報や武装蜂起、シベリア鉄道網の攪乱工作は、ロシア軍の弱体化につながるという利益がありました。

ユゼフ・ピウスツキ(社会党)・ロマン・ドモフスキ(国民民主党)

ポーランドの社会党と国民民主党は、日露戦争をポーランド問題の解決に利用しようとしましたが、両党の立場が異なっていたため、日本側との接触や交渉は密かに別々に行われました。

ポーランド社会党は社会主義政策を掲げ、民主主義と社会改革を目指していたのに対し、国民民主党はポーランドの伝統的な保守的価値観に基づく独立回復を主張していました。

両党は共にポーランド独立回復のために日本側から支援を受けようとしていましたが、その手段や目的が異なっていたため、接触は別々に行われることになりました。

そして、いよいよ日露戦争が勃発すると、2人のポーランド人指導者が日本を訪れます。一人は、後に初代国家元首となるポーランド社会党の活動家であるユゼフ・ピウスツキであり、もう一人は穏健派のポーランド国民民主党の代表であるロマン・ドモフスキでした。

「武装蜂起に賛成」ユゼフ・ピウスツキ

ポーランド社会党の活動家たちは、日本からの援助を受けて、ロシアに対する武装蜂起を計画しました。この蜂起によって欧州地域のロシア軍を増強し、極東地域におけるロシア軍の弱体化を狙いました。

蜂起のために、シベリア鉄道職員を利用して、鉄道や前線の設備などへの破壊工作を行うことも提案されました。また、ポーランド人兵士に革命文書を頒布し、脱走を促す工作も考えられました。

これらの活動は、日本の敵であるロシアの弱体化を促すことを目的としていました。この中で、ユゼフ・ピウスツキが率いる「ポーランド軍団」が結成され、1904年7月に来日して、ポーランド革命運動への援助を求めました。また、戦場で戦って捕虜になったポーランド人軍人の待遇改善も求めました。

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「武装蜂起に反対」ロマン・ドモフスキ

実はユゼフ・ピウスツキの来日の 2 カ月前、1904年5月〜7月に、ポーランドの政治家ロマン・ドモフスキは日本を訪れ、自身の考え方を伝えるために働きかけました。彼は武装蜂起には反対しながらも、日本との連携を模索し、参謀本部の両将と面会し、覚書を作成しました。

また、彼はポーランド人兵士が日本軍に投降するよう呼びかける声明文の作成にも関与しました。このようなドモフスキの活動は、日本陸軍の情報将校である明石元二郎大佐の後押しによって実現されました。

明石は日本とヨーロッパ諸国との連携を強化するために、外交交渉や諜報活動を行い、ドモフスキが日本政府と接触し、ポーランドの立場を伝えることができました。日本政府はピウスツキへの直接的な協力を避けつつ、ポーランド人兵士の日本軍への投降を促す声明を発表しました。

Piłsudskiego
偶然にも日本でばったり会った二人

ピウスツキとドモフスキは互いの来日を知らず、ある時偶然出会いました。二度目に会った時には、二人は9時間もの長時間にわたって議論を行ったそうです。ドモフスキはポーランドの保守を重視し、一方のピウスツキは世界を広く見ていました。当然のことながら、二人の意見は一致しませんでした。そしてその年の7月、別々に帰国することになりました。

武装蜂起は行われなかったが日本はポーランドに資金提供

結論から言うと、ポーランドでの蜂起は行われませんでした。

それでも、日露戦争中の日本とポーランド独立運動家との協力関係を象徴する出来事であり、両国間の連携が深まるきっかけとなりました。

日本は資金援助の代わりにロシアの軍事情報などを提供し、ポーランド独立運動家がロシア帝国に対抗する力をつける手助けをしました。また、ポーランド人捕虜への特別待遇を申し入れることで、ポーランド人の支持を集めることができたとされています。

このような協力関係は、日露戦争において日本にとって有益であり、またポーランド独立運動家にとっても同盟国を得ることができる重要な機会でした。ピウスツキとドモフスキは、それぞれ異なる立場からポーランドの独立を追求しており、日本との協力を通じてその目的を達成しようとしました。

二人とも日本にポーランド人捕虜の特別待遇を申し入れ

ピウスツキとドモフスキがともに日本にポーランド人捕虜への特別待遇を求めたことは、日露戦争中の日本とポーランド独立運動家との協力関係を示す重要なポイントでした。

この特別待遇は、ポーランド人捕虜が日本軍の捕虜として扱われる際、同胞としての連帯感を強めることを目的としていました。

「敵の敵は味方」ユゼフ・ピウスツキは投降を呼びかけるビラを配布

戦争中に、ユゼフ・ピウスツキは、ロシア帝国に対抗するために「敵の敵は味方」の原則を活用し、ポーランド人兵士と予備兵に対して投降を呼びかけるビラをばらまき、彼らが日本軍に投降することを促しました。

これにより、ロシア帝国からの独立を目指すポーランドの独立運動家たちは、日本と共同で戦うことができると期待していました。

投降したポーランド人兵士たちは、日本の収容所、特に松山の収容所に送られました。

ロシアから無理やり徴兵されたポーランド兵

日露戦争当時、ロシア帝国は多民族国家であり、捕虜として捕らえた兵士はロシア人だけでなく、ポーランド人、ウクライナ人、タタール人、ユダヤ人、フィンランド人など様々な民族がいました。

ロシア帝国の支配下の中で、差別や不平等な待遇を受けていた彼らは、徴兵制度によって無理やりロシア軍に参加しており、中には戦争を望んでいない兵士も多く含まれていました。

ポーランド人の徴兵者も多く、捕虜として捕らえられたロシア兵8万人のうち、約20%(1万6千人)がポーランド人だったとされています。彼らは、自らの民族意識や独立志向から、ロシア帝国に対して必ずしも忠誠心を持っていなかったことが指摘されいます。

ポーランド人兵士たちは、自らの民族意識や独立志向から、ロシア帝国に対して必ずしも忠誠心を持っていなかったことが指摘されています。

ポーランド兵の捕虜を手厚くもてなした

日露戦争時、日本は敵国の捕虜をジュネーブ条約に従って手厚く扱うことで国際的な評価を高めました。日本は捕虜たちに対して適切な食料や医療を提供し、人道的な待遇を保証しました。これにより、日本は国際社会からの評価を高めるとともに、捕虜たちとの関係を改善しました。

特に、ロシアに徴用されたポーランド人兵士に対しては、より配慮が示されました。彼らは同じ敵国であるロシア帝国に対する共通の目的を持っていたため、日本は彼らを特別扱いしました。ポーランド人捕虜たちは、文化や言語の違いを尊重され、日本の収容所で比較的良好な待遇を受けました。

この結果、ポーランド人捕虜たちは日本に感謝の意を示し、日本とポーランド独立運動家の関係がさらに強化されることにつながりました。また、これによって日本は、ポーランド独立運動家からの情報や支持を受けることができました。

ポーランド人兵士は尋問に喜んで応じる

川上俊彦書記官は、ロシア語の専門家として日本軍に貢献し、愛媛県松山市の捕虜収容所でポーランド人兵士たちの尋問にあたりました。彼は大本営からの要請に応じて、敵情やその他の情報収集のために尋問を行いました。

ドモフスキもこの出張に同行し、彼の存在はポーランド人兵士たちに安心感を与えました。

ポーランド人兵士たちはドモフスキが同行していることで、日本側への信頼感が高まり、喜んで質問に応じました。この結果、日本軍は彼らから貴重な情報を入手することができ、戦争遂行に役立てることができました。

大本営への報告書には、ポーランド人兵士たちが協力的であったことが記されており、これは日本とポーランド独立運動家との友好関係が効果を発揮したことを示しています。

「マツヤマ!マツヤマ!」叫びながら投降した兵士はポーランド人だった!?

日露戦争時、日本はポーランド人捕虜の扱いに特別な配慮を示し、彼らがロシア兵と一緒に収容されると虐待される可能性があることを考慮し、別の収容所を用意しました。松山のほか、大阪浜寺や千葉習志野でもロシア人とは別の収容所が設けられました。

戦場で、ロシア兵士が戦いが劣勢になると「マツヤマ」と叫んで次々に投降する現象が起こりました。これらの兵士はほとんどがポーランド人であり、彼らは松山での寛容な待遇を知っていたため、積極的に投降しました。松山では、雲祥寺がポーランド人兵士の主な収容所として使用されました。

『海南新聞』(明治37年7月20日)によれば、「波蘭人ばかりで新来俘虜中の八名と昨日退院の下士一名を加へて九十二名」と報じられています。また、ポーランド人兵士に関して、「ロシア人と比べると性格が柔和なようだが、怠惰なようにも見える」「慎み深い」といった印象が記されています。

日本人と結婚も…。

『海南新聞』(明治38年7月12日)によると、ポーランド人将校の1人は、日本人女性との結婚を真剣に考えていたようです。記事には、「……その将校はかなりの好色家であるが、相当の教育を受けた人間で慎み深く、容易に色に出はさずれども、何とかして日本の相当教育のある女性を自分の妻にし、平和が回復した後には日本に帰化して一生を送りたいというような心を、こっそりと抱いているところで、適当な女性を見つけようと探しているとのことである」との記述があります。

日露戦争の日本勝利はポーランド人も歓喜!!

彼らポーランド人は、日本の勝利をまるで自分たちの勝利のように大喜びしました。『愛媛新聞』の前身である『海南新聞』の「俘虜彙聞」(1905年7月12日)によれば、捕虜となったポーランド人将校が日本海海戦での日本の大勝利を知り、手を叩いて喜び、興奮して踊り出す様子が描かれています。

また、同じ将校が、旧ポーランド領内での内乱(おそらく独立派によるデモ)についても、喜びのあまりほとんど狂気に陥るかのような様子で喜んでいたことが記されています。

親日国家「ポーランド」の原点

日露戦争当時、捕虜となったポーランド人兵士たちは、日本での捕虜生活を通じて、日本人の文化や人々に対する好印象を持ち帰りました。これが、ポーランドにおける親日感情の原点となっています。

日本が開国からわずか40年余りで近代化を達成し、強大なロシア帝国と戦って勝利を収めたことは、ポーランド人にとって大きなインパクトを与えました。その結果、ポーランドでは日本関連書物が多く出版され、日本への関心が高まりました。

日本の勝利から10年……。ポーランドがロシアから独立!

1908年、日本の勝利を受けて、ピウスツキは民間の軍隊を組織し、ポーランドの独立運動を盛り上げました。その後、第一次世界大戦とレーニンによるロシア革命がロシアを弱体化させる中、ピウスツキらはポーランド独立を主張しました。

1918年、アメリカのウィルソン大統領が主導したパリ講和会議で、ポーランドの独立が承認され、ついに123年ぶりに独立を回復することができました。

ポーランドが日本軍将校へ勲章を叙勲

1928年3月、ユゼフ・ピウスツキ元帥の提案により、在日ポーランド共和国武官であるヴァツワフ・イェンジェイェヴィッチが、日露戦争で功績を残した日本軍将校に勲章を授与しました。

盛大な勲章授与式は、駐日ポーランド公使館武官のヴァツワフ・イェンジェイェヴィチ中佐の管轄の下、1928年3月に東京の帝国ホテルで開催されました。

ピウスツキの墓には日本の靖国神社の土が撒かれた

彼が1935年に死去した際、日本からは陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長など高位の軍事関係者が弔問に訪れました。

そして、ピウスツキの墓に靖国神社の土が撒かれました。靖国神社は、日本の戦没者を祀る場所であり、その土をピウスツキの墓に撒くことは、日本が敬意をもって追悼していることを示しています。

絆は時代を超えて繋がっていく

にポーランド大使となる兵藤長雄氏は、外務省入省後、1961年に英国の陸軍学校に留学し、ロシア語を学びました。その時の先生であるグラドコフスキ氏は、元ポーランド陸軍将校でした。

彼は兵藤氏を自宅に招き、特別に勉強を助けてくれました。兵藤氏が、なぜ自分にだけこんなに親切にしてくれるのかと聞いたところ、グラドコフスキ先生は父親の話をしました。

グラドコフスキ先生の父親は、日露戦争でロシアに徴集され、捕虜となって日本で数ヶ月過ごしました。その間、見知らぬ日本人たちから温かいもてなしを受け、深い感銘を受けたそうです。

彼は、日本人の優しさと善意を終生忘れず、息子にその話を詳しく伝え、「もし日本人に出会ったら、できるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と言い続けたといいます。

その言葉通り、グラドコフスキ先生は兵藤氏に親切に接し、「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と語りました。

「日本はポーランドの味方だと感じていた」

駐日ポーランド大使館のウルシュラ・オスミツカ一等書記官は、日本とポーランドの歴史的な友好関係について語ります。彼女によれば、日露戦争当時のポーランド人は日本を味方だと感じており、ユゼフ・ピウスツキなどは日本と一緒に戦いたいと考えていました。ポーランド人は日本を応援し、日本がロシアに勝利したことで、日本はポーランド人にとってヒーローとなりました。これが、日露戦争で活躍した日本軍人51人にポーランド政府から勲章が贈られていることの証左です。

また、オスミツカ一等書記官は、第一次世界大戦後の1920年にポーランドとロシアが戦争になり、ピウスツキがモスクワまで攻め込んで勝利したことを語ります。さらに、第二次世界大戦でも、日本がドイツと同盟を結んでいるにもかかわらず、ポーランドと日本は水面下で繋がり、情報分野で協力し合っていたといいます。これは、ポーランドと日本が一貫して友好関係であったことを示しています。

オスミツカ一等書記官は、「これからも両国はそうあってほしい」と述べ、日本とポーランドの友好関係が続くことを願っています。驚くべきことに、日本はドイツと同盟を結びながらも、ドイツによって占領されたポーランドと情報分野で繋がっていたのです。

そして絆を深める一つの出来事が……。

ポーランド人にとって、長年の抑圧の歴史の中で、日本が遠く東の小さな国でありながら、彼らを支配していたロシアに勝利したことは非常に衝撃的でした。

さらに、もう一つ、ポーランド人に感動を与えた出来事がありました。それは、ロシア革命後の混乱期に、シベリアで困難に直面していた765人のポーランド人孤児が、1920年と1922年の2度にわたって日本によって救出されたことです。

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日本・ポーランド国交樹立100周年記念出版! 多数のユダヤ人を救った杉原千畝大使とポーランドの関係は有名だが、 戦前の日・ポ関係は、大国ロシアを挟んだ地政学的特殊性によって 日露戦争、第一次、第二次世界大戦と続く「革命と戦争」の時代にあって、 極めて特異な交流があった。 特にロシアの脅威に晒され、またヨーロッパで苦難の道を歩んだ ポーランドの持つ各国の情報は、日本にとって貴重なものであった。 本書は、軍事関係だけでなく皇室も含めた両国の交流と 知られざる日本外交の側面を描いた旧著に大幅な増補を加えた決定版である。(「Books」出版書誌データベースより)
「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた絆の物語《親日国家ポーランド②》

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