日本がポーランド独立支援!?日露戦争から今に繋がる絆!《親日国家ポーランド①》

日本がポーランド独立支援!?日露戦争から今に繋がる絆!《親日国家ポーランド①》

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日本の真実の歴史を記録・記憶している人たち。台湾、トルコ、ブータン、パラオ…名だたる国を抑えて“知日国”No.1に輝いたのは、中欧のあの国だった!亡国の民が信頼し、尊敬し、共鳴する、日本人が知らない日本の姿とは?真面目、責任感、誠実…親日国・ポーランドを通して見えてくる真実の日本。(「BOOK」データベースより)

History of Poland

「123年の時を超え」ポーランドの独立が復活!!

ポーランドという国が建国されたのは10世紀。14世紀から始まったヤギェウォ王朝時代には欧州の大国として繁栄し、16世紀に国土が最大となりました。しかし16世紀後半から選挙王制に移行すると、地方の貴族が勢力を持つようになり、徐々に国力が低下していきます。そして18世紀後半には、隣接していたロシア、プロシア、オーストリアの三国に分割され、1795年にポーランドは消滅。

外務省: わかる!国際情勢 Vol.22 ポーランドという国/Ministry of Foreign Affairs of Japan.2009

1918年11月11日、ポーランドは独立回復を果たしました。最初のポーランド共和国が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3大国による分割の結果消滅してから123年後の出来事でした。この期間、ポーランドは欧州の地図上からは姿を消していましたが、ポーランド人の心の中では決して消えることはありませんでした。123年の分割の間、ポーランド人は様々な方法で自主権を主張しようとしました。自由を求めて沢山の蜂起をしましたが、独立した主権国家を再建するための条件が地政学的環境で整ったのは、第一次世界大戦のときだけでした。

マテウシュ・モラヴィエツキ首相:西側の安全保障の基盤としてのポーランドの独立/駐日ポーランド共和国大使館 – 日本の中のポーランド – Gov.pl.2022

ポーランド独立の父

独立の父であったのは、ユゼフ・ピウスツキ、ロマン・ドモフスキ、イグナツィ・ヤン・パデレフスキ、ユゼフ・ハレル将軍、イグナツィ・ダシンスキ、ヴィンツェンティ・ヴィトス、ヴォイチェフ・コルファンティといった政治指導者です。彼らはさまざまな政治的環境の出身者でしたが、1918年における共通の目的であったのはポーランド人による自らの国家再建でした。

国家独立記念日 – 日本の中のポーランド/Portal Gov.pl

二度と来ないこの瞬間の空気を、当時の首相イェンゼイ・モラチェフスキは次のように書き伝えています――「ポーランド人をこのとき捉えた、この陶酔、この歓喜の忘我は言葉では伝えられない。120年ぶりに、頸木は消えた。自由だ! 独立だ! 統一だ! 私たちの国だ! 永遠に! 混乱? そんなもの何物でもない。より良くなるだろう。(……)これらの短い一日を経験しなかった人、このとき全国民とともに歓喜に我を忘れなかった人は、人生における至上の歓喜を知ることはないだろう」

国家独立記念日 – 日本の中のポーランド/Portal Gov.pl

独立記念日は第一次世界大戦終戦日と同じ日!

Wirtualne Biało-Czerwone Iskry/YouTube

18世紀末、ポーランドの領土は、分割され近隣の帝国に併合されていました。しかし、第一次世界大戦の終結に伴い、ロシアは戦争から撤退し、オーストリア=ハンガリー帝国とドイツは降伏しました。これにより、1918年にポーランドは自由を奪還することができました。第一次世界大戦の終戦記念日でもある11月11日に、ポーランドはその独立記念日を祝います。

ポーランド独立記念日/War Thunder

1919年には日本とポーランドが国交を樹立!!

ヨーロッパナビ EuropeNavi/YouTube

その後1919年3月に、日本は独立ポーランドを承認し、正式な国交が始まりました。1920年には通商条約が調印され、軍事協力が締結されました。

ポーランド出張・赴任に行く前に知っておきたい友愛の歴史やビジネスマナー/アイザック外国語スクール

しかし、当館が所蔵している記録に見られる両国の交流の歴史は、ポーランドがロシアの支配下にあった日露戦争の時代(一九〇四年) にまでさかのぼる。

特別展示「日本とポーランド―国交樹立一〇〇周年―」について(p.95)/外務省ホームページ

親日の国「ポーランド」

ポーランドは地理的には日本から非常に遠い国ですが、実は大変に親日的な国であり、若者を含めて日本に対する関心や知識は高いものがあります。

ポーランド・ウッジ大学の学生と交流-藤井(和)・田中ゼミ/関西学院大学.2012
日本語を学ぶポーランド人
【iYuta】YouTube Channel/YouTube

ポーランドは親日的な国で、ポーランドの10都市ほどに日本語学校(日本語教室)があり、日本人日本語教師が活躍しています。

日本語教師としてのウクライナ支援/日本語教師海外派遣手配ブログ

欧州の大学で日本語を学ぶ4人に1人はポーランド人、文部科学省奨学生合格者数は非漢字圏トップ(2014年には中国と並んで世界一位)。

ワルシャワ日本語学校 / ポーランド / ポーランド孤児/Warszawska Szkoła Języka Japońskiego

日本の外務省の HPによれば、「ポーランドの国立4大学の日 本語専攻の定員は 600人、その他に約 60の機関や学校 で日本語を学ぶ定員は約 4,500人」「国中で日本語弁 論大会が盛ん」「日本の武道も盛んで、特に空手は同国 で6番目の人気スポーツ」。実際に、2018年のワルシャ ワ大学の日本語専攻の入試の倍率は 27倍と超難関だっ た。

ポ ー ラ ン ド(p.30)/我が国随一の交流ソサイエティ「ディレクトフォース」
日系企業も進出!

(前略)ビジネス面ではすでに356社の日系企業が進出しており(2020年時点)、日系企業が安心して事業を行う基盤が整っています。

有望な投資先として注目を集めるポーランド/EY Japan.2021
日本祭も開催!
【iYuta】YouTube Channel/YouTube

ポーランド大使館、日本人会、商工会により主催されるワルシャワ日本祭はワルシャワ市内のスウジェフ文化センターにて行われ一日で約2万人を動員するワルシャワ最大の日本イベントになっています。

ヨーロッパ3ヵ国、3週連続での神輿渡御が決定、6月9日からドイツ,ポーランド,スロベニアへ。神輿テーマのドキュメンタリー映画上映会も同時開催。/PR TIMES.2019
「桜の花咲く国」

ポーランドはなぜこんなに親日なのか。ドイツに侵略される歴史がありながらも旧同盟国の日本には親愛を抱き、「桜の花咲く国」と美しい呼び名で呼ぶ。

ポーランド孤児・「桜咲く国」がつないだ765人の命/現代書館ウェブショップ – STORES

 ワルシャワでは、在留日本人の数よりも、和食店の数のほうが多いと現地の人々は笑う。ワルシャワの国立歌劇場で唯一の常任指揮者を、日本人の今村能氏が務めていたこともある。また、日本のポーランド大使館の外交官の多くは日本語が堪能である。

ポ ー ラ ン ド(p.30)/我が国随一の交流ソサイエティ「ディレクトフォース」

 英国留学中の日本人に、ポーランド人の教師が、「自分は親から、『世界のどこかで日本人に出会ったら、できるだけ親切にして恩返しをしてほしい』と言われてきた」と、親身に世話をしてくれたという逸話もある。同様の話は少なくないようだ。

ポ ー ラ ン ド(p.30)/我が国随一の交流ソサイエティ「ディレクトフォース」

 こうしたことの理由は、100年前に遡る。

ポ ー ラ ン ド(p.30)/我が国随一の交流ソサイエティ「ディレクトフォース」
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日本の真実の歴史を記録・記憶している人たち。台湾、トルコ、ブータン、パラオ…名だたる国を抑えて“知日国”No.1に輝いたのは、中欧のあの国だった!亡国の民が信頼し、尊敬し、共鳴する、日本人が知らない日本の姿とは?真面目、責任感、誠実…親日国・ポーランドを通して見えてくる真実の日本。(「BOOK」データベースより)

Japan-Poland

捕虜の中にポーランド人!?日露戦争から今に繋がる絆

Bogaczewicz/YouTube

ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続けられたが、彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。

知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか/MEGA2NEWS.2017

『日露戦争』

The Great War/YouTube

日露戦争は、日清戦争で獲得した日本の利権を三国干渉で返還させた上で、ロシアが中国の清王朝や朝鮮へ進出したことを背景に明治37(1904)年2月に勃発した。この戦いはロシアが南下を続ける遼東半島や満州での陸戦と、アフリカ経由で島国日本をめざす当時世界最強のロシアのバルチック艦隊と日本海軍の海戦で行われた。

日露戦争・日本海々戦と竹島/島根県

ポーランドにとっては独立のチャンス!2人の指導者が来日

 当時、ロシア帝国の支配下にあったポーランドにとって、日本がロシアと事を構えれば、独立回復のチャンスでもあった。日露戦争が勃発するや、2人のポーランド人が日本を訪れた。

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019
ユゼフ・ピウスツキ(後の初代国家元首)・ロマン・ドモフスキ(国民連盟代表)

 一人は、後に初代国家元首となるポーランド社会党の活動家、ユゼフ・ピウスツキ。もう一人は、穏健派のポーランド国民連盟の代表、ロマン・ドモフスキだった。

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019
「武装蜂起に賛成」ユゼフ・ピウスツキ
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 日露戦争開戦前、後の初代国家元首となるポーランド社会党の活動家であったユゼフ・ピウスツキは、日露戦争を機にロシアに対する武装蜂起を考えた。

欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇/NEWSポストセブン.2019
ポーランド軍を創設して日本軍と共にロシアと戦う

積極的協力を訴えたピウスツキらは、「ポーランド軍団」を創設して日本軍とともにロシアと戦うことも提案したほか、ロシア軍の中のポーランド人兵士の積極的投降や情報提供なども申し入れた。

【正論】日本とポーランド知られざる絆/JAPAN Forward.2019
「武装蜂起に反対」ロマン・ドモフスキ
Piłsudskiego

実は、ユゼフ来日の 2 カ月前の 5 月に、日本政府にピウスツキへの協力はしないよう働きかけるため、ドモフスキという政治家が日本を訪れていました。

新会員 長田佳宏/小川真生/鈴木彰男;もうひとりのピウスツキ(p.10)/北海道ポーランド文化協会

ドモフスキは武装蜂起には反対しつつも、日本支持を表明して連携を探った。

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019

 1904年5月-7月の間日本に滞在したドモフスキは、参謀本部の児玉源太郎参謀本部次長および福島安正第二部長の両将に面会しており、両将の勧めでロシア情勢とポーランド問題とポーランド人の要望に関する覚書を作成し、さらに彼はポーランド人兵士に対するロシア軍からの離脱と日本軍への投降を呼びかける日本政府の声明文の作成にも携わった。ちなみにこのときのドモフスキの両将への面会を後押ししたのが、かの明石元二郎大佐だった。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018
偶然にも日本でばったり会った二人

ピウスツキとドモフスキは互いの来日を知りませ んでしたが、あるとき偶然出会ってしまいます。二 度目に会った時には、二人は 9 時間におよぶ議論 をしたそうです。ドモフスキはポーランドの保守が 第一でしたが、ピウスツキはもっと広く世界を見て いました。とうぜん意見は一致せず、その年の 7 月、 別々に帰国の途につきました。

新会員 長田佳宏/小川真生/鈴木彰男;もうひとりのピウスツキ(p.10)/北海道ポーランド文化協会
武装蜂起は行われなかったが日本はポーランドに資金援助

結局、ドモフスキの訴えの影響もあってか、ポーランドでの蜂起は行われませんでしたが、 日本が資金援助を行うかわりに、ロシアの軍事情報等の提供を受ける形で日露戦争中の日本とポーランドの独立運動家は協力関係を持ちました。

特別展示「日本とポーランド―国交樹立一〇〇周年―」について(p.97)/外務省ホームページ

二人とも日本にポーランド人捕虜の特別待遇を申し入れ

 ここで注目すべきは、ピウスツキとドモフスキがともに、ポーランド人捕虜への特別待遇を申し入れたことである

【日本-ポーランド国交樹立100年 蘇る美しき絆】両国の絆は「日露戦争」にさかのぼり… ポーランド独立を支援した明石大佐/zakzak.2019
「敵の敵は味方」ユゼフ・ピウスツキは投降を呼びかけるビラを配布

ユゼフ・ピウスツキは「敵の敵は味方」であるとし、ポーランド人兵と予備兵に投降を呼びかけるビラを撒いたそうです。そして投降した兵士は松山の収容所に送り込まれました。

河添惠子さんの講演会「ポーランドと日本の熱き絆」を聞いてみた/ポラ恋

ポーランド兵の捕虜を手厚くもてなした

日露戦争時、日本が敵国の捕虜をジュネーブ条約遵守のもとに手厚く扱ったことは後に世界に有名になった。捕虜の中でもロシアに徴用されたポーランド人兵士には特に配慮したという。

ポーランドとの絆/企業OBペンクラブ
ポーランド人兵士は尋問に喜んで応じる

ロシア語を専門としていた川上俊彦(かわかみ・としつね)書記官は、大本営の要請により、愛媛県松山市の捕虜収容所に出張し、敵情などの情報収集のため、ポーランド人兵士の尋問にあたりました。この出張にはドモフスキも同行しており、ポーランド人兵士は喜んで質問に応じたことが大本営への報告書に記されています。

特別展示「日本とポーランド―国交樹立一〇〇周年―」について(p.97)/外務省ホームページ

「マツヤマ!マツヤマ!」叫びながら投降した兵士はポーランド人だった!?

松山では、ロシア兵士と一緒になると虐待されるというので、区別して収容所を作った。松山のほか、大阪浜寺、千葉習志野でも同じようにロシア人とは別の収容所を用意した。戦場で、ロシア兵士は戦いが劣勢になると「マツヤマ」と叫んで次々投降した。これらの兵士は皆ポーランド人で、松山での寛容な待遇を知っていたからであった。

ポーランドとの絆/企業OBペンクラブ

ロシア軍のなかには何十万人ものポーランド人 が徴兵されており、日露戦争で日本軍の捕虜とな ったロシア兵約8万人のうち約 20%(1万6千人)は ポーランド人といわれます。

日本に親近感を持つポーランド人(p.6)/松本 照男.北海道ポーランド文化協会

松山では、雲祥寺がポーランド人兵士の主な収容所として使われました。『海南新聞』(明治37年7月20日)には、「波蘭人ばかりで新来俘虜中の八名と昨日退院の下士一名を加へて九十二名」と記されています。また、ポーランド人について、「ロシア人と比べると性格が柔和なようだが、怠惰なようにも見える」「慎み深い」といった印象が記されています。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン
日露戦争から繋がったロシアとの絆 ── 1枚のコインに刻まれた愛の物語
日本人と結婚も…。

ポーランド人将校の1人は、日本人女性との結婚すら考えていたようです。『海南新聞』(明治38年7月12日)には、「……其将校は頗(すこぶ)る好色家であるが相当の教育ある人間で慎み深く容易に色に現はさゞれども何とかして日本の相当教育ある女を我が妻とし平和克復の後には日本に帰化して一生を送りたいなどゝ心私かに期し抵(いた)る処で適当の女を得んと漁り居るとの事である」との記述があります。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン
日露戦争の時のロシア軍は多国籍軍

日露戦争時の捕虜については「ロシア人捕虜」と言いがちですが、当時のロシア帝国の陸海軍はロシア人兵士だけではなく、ロシア軍兵士として徴兵されたポーランド人やウクライナ人、タタール人、ユダヤ人、フィンランド人などが混ざった多国籍軍でした。ロシア帝国による従属民族への差別支配がロシア軍にも反映しており、内部の対立が激しく、そもそも日本と対戦する気持ちのない非ロシア人兵士が多かったのです。

世界は日本が好き/コフレ|祥伝社WEBマガジン
ロシア人墓地 → ロシア兵墓地
ehimenp/YouTube

砥部町と隣接する松山市には日露戦争の際、捕虜収容所で死亡した兵士ら98人が眠る「ロシア兵墓地」がある。松山の収容所には一時、約4000人もの捕虜がいたという

「ショパンの国」と絆を育み40年 国際交流に捧げた男の生涯/日本経済新聞.2022

以前は「ロシア人墓地」と呼ばれていたが、同墓地の清掃奉仕をしている「ロシア兵墓地保存会」の菅田顕会長によると、調査が進むうちロシア人以外に帝政ロシアによって国を奪われた人々も多く含まれていることが分かり、平成25年からロシア兵墓地に改称されたという。

「ショパンの国」と絆を育み40年 国際交流に捧げた男の生涯/日本経済新聞.2022

98人のうちポーランド人は12人含まれている。ほかにウクライナ、ベラルーシ、バルト3国、トルコ系の人たちも埋葬されている。石柱の墓碑には1基ずつプレートが添えられ、名前とともにそれぞれの宗教が分かるようキリスト教のロシア正教、カトリック、イスラム教、ユダヤ教のマークが刻まれている。

「ショパンの国」と絆を育み40年 国際交流に捧げた男の生涯/日本経済新聞.2022
▪松山の墓地には様々な国や地域の兵士が埋葬されている

なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよんでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれています。

ロシア兵墓地 – 松山市/松山市公式ホームページ

日露戦争の日本勝利はポーランド人も歓喜!!

彼らは、日本の勝利をまるで自国の勝利のごとく狂喜乱舞しました。

日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳/致知出版社.2021
収容されていたポーランド捕虜は狂喜乱舞

現在の『愛媛新聞』の前身となる一紙『海南新聞』の「俘虜彙聞」(明治38年7月12日)には、「……一番町収容所に居る波蘭人某将校は過日も日本海ゝ戦で我が軍の大勝利となつた事が新聞号外に出たと聞き手を打つて喜び狂せん計りに踴躍し所謂手の舞ひ足の踏事を知らぬ有様であつたが近頃又本国の内乱を大に悦び喜悦のあまり殆ど発狂せん計り……」と、捕虜のポーランド人将校が、日本海海戦での大勝利を知らせる新聞号外に「狂喜乱舞した」こと、旧ポーランド領内での近頃の内乱(おそらく、独立派によるデモ)にも「発狂せん計りの喜びようだった」と記されています。

世界は日本が好き – コフレ/祥伝社WEBマガジン.2015

親日国家「ポーランド」の原点

この時期、日本で捕虜生活を送った数千人のポーランド人の日本への好印象が、ポーランドにおいての親日感情の原点となっています。

日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳/致知出版社.2021

開国そして近代化に着手して僅か40年余りの日本が、ポーランド人の宿敵で強大なロシア帝国との戦いに挑み、しかも大勝利という結果は彼らに強いインパクトを与え、日本関連書物の出版ラッシュとなりました。

日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳/致知出版社.2021

祖国へ帰還後、多くの人々が書いた「捕虜滞在記」などたくさんの回想録を読んでみますと、「サムライ魂あふれる日本人」「恩義にあつい日本人」等々、亡国のポーランド人捕虜を丁重に扱った日本人に対する感謝や恩義の記述があふれております。

日本に親近感を持つポーランド人(p.6)/松本 照男.北海道ポーランド文化協会

日本の勝利から10年……。ポーランドがロシアから独立!

 日本が勝利すると1908年、ピウスツキは私設軍隊を創設し、独立の動きを強めていく。そして第一次世界大戦とレーニン率いるロシア革命によってロシアが弱体化した隙をついてピウスツキらはポーランドの独立を主張、1918年、アメリカのウィルソン大統領が主導したパリ講和会議もこれを追認、実に123年ぶりに独立を回復したのだ。

今年「独立100年」となるポーランドの独立と日露戦争/日刊SPA!.2018

ポーランドが日本軍将校へ勲章を叙勲

1928年3月、ピウスツキ元帥の提案により、在日ポーランド共和国武官であるヴァツワフ・イェンジェイェヴィッチが、日露戦争で功績を残した日本軍将校へ勲章を叙勲。帝政ロシアを破った日本人に対するポーランド人の好感情は今日まで続いている。

日本・ポーランド関係話題集(p.2)/Ambasada Japonii w Polsce.m平成23年

それは、ポーランド独立回復の礎石の一つとして歴史に刻まれていた、日本兵による対露戦勝への懸賞 の徴でした。盛大な勲章授与式は、駐日ポーランド公使館武官のヴァツワフ・イェンジェイェヴィチ 中佐の管轄の下、1928 年 3 月に東京の帝国ホテルで催されました。

「ポーランド・日本軍事協力の歴史的側面について――明日のポーランド軍隊記念日を迎えるにあたって」/Instytut Polski w Tokio.2020

絆は時代を超えて繋がっていく

後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。

知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか/MEGA2NEWS.2017

なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、深い感銘を受けた。

知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか/MEGA2NEWS.2017

父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、息子にその時の話を詳しく聞かせては「前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤氏に語った由である。

知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか/MEGA2NEWS.2017
「日本はポーランドの味方だと感じていた」

 駐日ポーランド大使館のウルシュラ・オスミツカ一等書記官はこう語る。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

「当時のポーランド人は、日本はポーランドの味方だと感じていましたし、ユゼフ・ピウスツキなどは日本と一緒に戦いたいと考えていました。そして日露戦争中、ポーランド人は皆日本を応援していました。そして小さな日本が大きなロシアに勝ったことで、ポーランド人にとって日本はヒーローになったんです。それは後に日露戦争で活躍した日本軍人51人にポーランド政府から勲章が贈られていることがその証左です」

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

 さらにオスミツカ一等書記官はいう。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

「第一次世界大戦後の1920年、今度はポーランドとロシアが戦争になったのですが、ピウスツキがモスクワまで攻め込んで勝利しました。そしてその後の第二次世界大戦でも、日本はドイツと同盟を結んでいるにもかかわらず、ポーランドと日本は水面下で繋がっており、情報分野で協力し合っていたんです。つまりポーランドと日本は、これまで一貫して友好であり続けてきたんです。…これからも両国はそうあってほしいですね」

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

 驚くべきことに、日本はドイツと同盟を結びながらも、ドイツによって占領されたポーランドと情勢を情報分野でずっと繋がっていたのである。

【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦/産経ニュース.2018

そして絆を深める一つの出来事が……。

このような屈従の歴史に虐げられてきたポーランド人にとって、自らを支配するロシアを極東の小国・日本が打ち破ったことは、あまりに衝撃的な出来事でした。

ポーランド孤児を救え!~日本とポーランドの友好を育んだ物語を多くの人に伝えたい/PHPオンライン衆知|PHP研究所.2018

そしてもう1つ、ポーランド人の心を揺さぶる大きな出来事がありました。それが、ロシア革命後の混乱の中、シベリアの地で苦境に陥っていたポーランド人の孤児たち765人を、大正9年(1920)と、大正11年(1922)の2回にわたって日本が救出したことです。

ポーランド孤児を救え!~日本とポーランドの友好を育んだ物語を多くの人に伝えたい/PHPオンライン衆知|PHP研究所.2018
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日本・ポーランド国交樹立100周年記念出版! 多数のユダヤ人を救った杉原千畝大使とポーランドの関係は有名だが、 戦前の日・ポ関係は、大国ロシアを挟んだ地政学的特殊性によって 日露戦争、第一次、第二次世界大戦と続く「革命と戦争」の時代にあって、 極めて特異な交流があった。 特にロシアの脅威に晒され、またヨーロッパで苦難の道を歩んだ ポーランドの持つ各国の情報は、日本にとって貴重なものであった。 本書は、軍事関係だけでなく皇室も含めた両国の交流と 知られざる日本外交の側面を描いた旧著に大幅な増補を加えた決定版である。(「Books」出版書誌データベースより)

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「ポーランド孤児を救え!」歴史に中に埋もれた奇跡の物語《親日国家ポーランド②》
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