愛媛県松山市には、日本とロシアの「絆」の物語が残されています。日露戦争時代には、松山にロシア兵の捕虜収容所が設置され、多くのロシア人捕虜が収容されました。しかし、日本政府は国際法を遵守し、捕虜たちに人道的な待遇を与えました。
捕虜将校には自由散歩制度が設けられ、豊かな消費が行われ、地元経済が活性化しました。捕虜たちは松山市との交流を深め、後には日露友好の象徴となりました。
この記事では、松山に収容されたロシア人捕虜たちの生活や体験について紹介しています。戦争がもたらした悲惨な現実を忘れず、平和を願う思いを込めて、ぜひ読んでみてください。
Bonds between Japan and Russia
時を超えて繋がる日露の絆
愛媛県松山市は、日露戦争時にロシア兵の捕虜収容所が設置されていた場所であり、日本とロシアの間に「絆」の物語が存在します。
日露戦争で日本が勝利……。大量のロシア人兵捕虜が日本の収容所に
日露戦争は、1904年から1905年の間に日本とロシア帝国が争った戦争で、日本にとって国家存亡を賭けた困難な戦いでした。
主に日本が朝鮮半島と満州地域の支配権を確保しようとする目的で戦われました。この戦争で日本は力を合わせて懸命に戦い、多くの犠牲が出ましたが、勝利を収めました。
戦争の間、日本は約79,367人のロシア兵士を捕虜とし、そのうち約72,000人が収容所に収監されました。
当時の捕虜の扱いの取り決め「ハーグ陸戦条約」
ハーグ陸戦条約は、戦争における捕虜の取り扱いに関する国際的な規定の範例でした。1899年に発効されたこの条約は、戦争における陸上戦の法と慣例を定めていました。
日露戦争では、日本はこのハーグ陸戦条約を意識して戦争を行い、捕虜に対する取り扱いにも同条約の規定に従いました。条約には、「博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加フヘカラス」という一条があり、捕虜に対して人道的な取り扱いを求めていました。これは、捕虜を侮辱や虐待せず、できるだけ博愛の精神で扱うことを目指すものでした。
この条約のおかげで、日露戦争における捕虜の扱いは、当時の国際法や人道に基づいて行われました。
「愛媛県の松山市」最初のロシア兵捕虜収容所
日露戦争時代には、日本全国にロシア兵捕虜の収容所が設置されましたが、その中で最初に開設されたのが松山でした。1904年(明治37年)に松山に設置された捕虜収容所では、延べ6,000人のロシア兵捕虜が収容されたとされています。
松山の収容所では、主に寺院が収容施設として利用されました。大林寺をはじめとする法竜寺、雲祥寺、妙静寺、正宗寺、妙丹寺、山越の8つの寺院などが収容所として機能していました。さらに、公会堂や民間の住宅も収容施設として使用されたことがあります。
しかし、戦時中の損害や経年の劣化などにより、当時の施設がそのまま残っている所は少なく、また、当時の面影を残している所も多くはありません。
それにも関わらず、松山での捕虜収容所の歴史は、日本とロシアの間の友情や相互理解を育むきっかけとなり、後世に語り継がれる貴重な物語として今日まで残っています。
松山に送られるロシア兵捕虜
日露戦争では、松山からも多くの兵士が出征し、熾烈な戦闘の中で命を落としました。そんな松山に、日本では初めてロシア人捕虜が連れてこられました。
当初、ロシア人捕虜たちは、「国の敵」「肉親の仇」として松山の人々から厳しい仕打ちを受けることを恐れていました。しかし、上陸後まもなく、その予想は外れました。
日本政府は、帝国の品位を守るために、ハーグ陸戦条約に従って捕虜優遇策を採用し、愛媛県では「捕虜は罪人ではない」という訓告を発し、当時約3万人に過ぎなかった松山市民はこの考えに従ってロシア兵捕虜を手厚く迎え入れました。その結果、市民とロシア兵の間で交流が盛んに行われるようになりました。
官民あげてロシア兵捕虜を“おもてなし”
日露戦争時における松山のロシア捕虜たちへの待遇は、官民一丸となって驚くほど手厚かったとされています。
市長が三等車で捕虜が一等車が捕虜
松山でのロシア捕虜たちの歓迎は、地元の名士や関係者が多数出迎えるという手厚いものでした。例えば、松山を訪れる際に使用された「坊っちゃん列車」では、捕虜たちは一等車に乗せられ、市長以下の者たちは三等車に乗るという配慮がされていました。
当時の一般的な日本人よりも恵まれた食事
彼らは観光客並みのもてなしを受け、食事も充実した内容で提供されました。
例えば、朝食にはバターを添えたパンと牛乳入りの紅茶が提供されました。昼食には、バターを添えたパン、スープ、玉子付きのライスカレー、そして紅茶が出されました。夕食には、バターを添えたパン、野菜スープ、タンカツレツ、紅茶が提供されました。
まさに破格の待遇
当時、巡査の初任給の日給が1日あたり40銭であったことを考えると、日本政府がロシア捕虜に提供した給養糧食費は確かに莫大な金額でした。将校には1日あたり60銭、下士官以下には30銭が食費として支給されていました。これに対して、自国の兵卒の在営時の食費が1日あたり16銭にすぎなかったことを考慮すると、ロシア捕虜に対する待遇は破格のものであったと言えます。
給料が支払われていた?
日本政府が直接ロシア捕虜の給料を支払っていたわけではありませんでした。日露戦争の際にはフランスがロシアの利益代表国になっており、ロシア政府がフランスを通じて日本政府に捕虜になっていたロシア兵の給料を送っていました。そして、日本政府はその給料をロシア捕虜に渡していたのです。
この関係に関する記録として、外務省記録「日露戦役ノ際帝国ニ於テ俘虜情報局設置並俘虜関係雑纂」があります。この記録は、日露戦争時のロシア捕虜の扱いや給料支払いに関する情報がまとめられており、当時の日本政府の対応や国際関係についての貴重な資料です。
将校クラスの捕虜は自由を謳歌
当時の日本では、ロシアの捕虜に対して人道的な扱いが重視されていました。食糧に関しては、自国の将兵よりも高い経費がかけられ、特に将校クラスにはさらに待遇が良かったです。
捕虜将校には自由散歩制度が設けられており、月水金は午前6時から正午まで、火木土は正午から午後6時まで、自由に外出することができました。
多くのロシア兵将校は十分なお金と時間を持っていたため、道後温泉本館の最高級の部屋で入浴したり、遊廓を訪れたり、家具を購入したり、松山市内の商店街でアルコール類の購入や、夕食のためのコックを雇うことができました。
ロシアにいた奥さんを呼び寄せて民家で暮らす
バーグ条約(ハーグ陸戦条約)に基づいて、ロシアの捕虜将校の妻子が日本に呼び寄せられることが許可されました。実際に、16組の家族が日本に来ることが許可されました。
例えば、松山の収容所に収容されていたロシア人将校フォン・タイルの妻ソフィアは、日本に来ることが許可され、夫の看病に専念することができました。ソフィアは「日露戦争下の日本」という本を書き、戦争中でも日本の民家を借りることができ、収容所に通うことができたと述べています。
日露戦争の勝利を県知事が謝罪
日本が日露戦争に勝利した後、戦勝の祝賀行列が市内で開催され、お祭りのような盛り上がりを見せました。しかし、愛媛県知事は捕虜の感情を考慮し、「お国の傷病兵(捕虜)の心を傷つけて申し訳ない」と感じ、ロシア人捕虜の将校の夫人であるソフィアにわざわざ謝罪に訪れたと言われています。
一般兵士は自由とまではいかなかったが…。温泉やスイミングを楽しんだ
下士卒の捕虜たちは、将校に比べて自由散歩が許可されませんでしたが、集団で様々な活動に参加しました。道後温泉での入浴や梅津寺での海水浴、石手川での水浴などを一緒に楽しむことができました。
また、1905年7月末には、大街道の新栄座で観劇が行われました。さらに、愛媛県民有志は、郡中や砥部焼の窯元への遠足や自転車競技大会などを催し、捕虜たちとの民間交流を盛んに行っていました。
学校や協議会にご招待
学校では、運動会や競技会にロシア兵を招待するなどして交流を深めました。また、市民は日常生活の中でロシア兵に温かくもてなしをし、互いの文化を理解し合う機会を提供しました。
愛媛県では、ロシア兵捕虜の取り扱いに関心を持ち、小学校の児童に対して注意を促すなどしていました。たとえば、「松山へも、ロシアの軍人さんが、たくさん見えていますが、それを見にいったり、悪口を言ったり、指差したりしては、お国のためによくありません」という注意喚起が行われました。
現実にはトラブルも
捕虜と収容所側や市民との間には、言語や文化の違いからトラブルが生じることがありました。ロシア語と日本語のコミュニケーションが難しく、互いの意思を理解し合えないことが原因となったり、異なる文化や生活様式に戸惑いを感じたりすることがあったためです。
さらに、捕虜としての身分による自由の制限は、彼らのストレスや不満を増大させる要因となりました。
捕虜のおかげで松山の街が活性化!?
日露戦争時代の松山市では、将校クラスの捕虜が持っていた大金によって、豊かな消費が行われ、地元経済が活性化しました。菓子屋や洋食屋、洋服屋、靴屋などの新しい商店が出現し、商人も長崎や神戸からやってきました。
湊町は長崎町や露西亜町と呼ばれるほどに栄え、捕虜景気は地方都市にも大きな経済効果をもたらしました。また、捕虜たちは当地の生活にも参加しており、女学生や教員と一緒にテニスコートで写真に残っています。
「彼女たちはわれわれ兵士にとって天使……」ロシア兵が看護婦に感激
日露戦争中、赤十字の看護婦たちは捕虜たちの世話を献身的に行いました。彼女たちの世話は肉親同様で、昼夜問わず働きながらも、負傷兵のために尽力していました。
看護婦たちは嫌な顔をせず、戦争がもたらした犠牲に対する同情から生まれた献身的な介護は、捕虜たちにとって非常に心強いものでした。彼女たちの存在は、日本とロシアの間における人間的なつながりを築く一助となったと考えられます。
「マツヤマ!マツヤマ!」噂が広まりロシア兵が続々と投降!?
「坂の上の雲」は、司馬遼太郎による日本の小説で、日露戦争を背景にした物語が展開されます。この小説の一部に、当時の日本政府が戦時捕虜に対して国際法を遵守し、ロシア捕虜を優遇していた様子が描かれています。
特に松山の収容所が最も有名であり、戦線にいるロシア兵にも知られていたことが記述されています。彼らは、「マツヤマ」と連呼しながら日本軍陣地に投降するほど、その評判が広まっていたと言われています。
「母国に帰国したくない」戦争終了後に日本に残る兵士も(笑)
捕虜たちの中には、日本での暮らしに慣れ親しんでしまい、看護師を慕ったり、収容所の移転を嫌がる者もいました。また、帰国したくないと感じる捕虜たちは、戦争が当分続くことを願っていました。
1905年(明治38年)の9月5日にポーツマス条約が締結され、捕虜の引き渡しが始まりました。しかし、その際に日本帰化を望む捕虜も少なからずいました。
残る兵士のために帰国を拒否!
ワシリー・ボイスマン大佐
ワシリー・ボイスマン大佐は、日露戦争時にペレスウェート戦艦の艦長を務めていましたが、投降し、1905年1月23日に松山の収容所に収容されました。彼は、自分の階級や負傷兵であることから日本軍が帰国を促したにもかかわらず、「兵と共にいる」として辞退し、松山に留まりました。
結局、彼は日本で病気が悪化し、亡くなりました。ボイスマン大佐のこの決断は、「武士道精神」とも称され、彼のロシア兵だけでなく、多くの日本人も感動しました。
「日露友好のかけ橋」ロシア人墓地
日露戦争終了までに、約60,000人の捕虜兵が松山捕虜収容所に送られましたが、そのうち約4,000人が傷病兵でした。温暖な気候と温泉地であることが、傷病兵が多く送られた理由と考えられます。
松山の人々は、博愛の精神で看護治療にあたり、ロシア兵から感謝されていました。98人が亡くなり、その中にはワシリー・ボイスマン大佐も含まれていました。
松山のロシア人墓地では、祖国の方向を向いて98本の墓標が整然と並んでおり、慰霊祭や教会祭が行われています。地元の中学生、老人会、墓地保存会が清掃活動を継続しているのも特徴です。
多くの人たちの協力で建立されたこの墓地は、ワシリー・ボイスマン海軍大佐をはじめとする98人のロシア兵士のために、地元の老人会、婦人会、中学校が慰霊祭や清掃活動を続けています。墓碑は祖国を望むように北向きに建てられています。
1994年には、ロシアの有志から日露友好の証として、ボイスマン大佐の胸像が製作・寄贈されました。2008年に改装工事が完了し、多くの観光客が訪れるようになりました。ボイスマン像の土台には「日露友好のかけ橋」と刻まれています。
毎年3月には慰霊祭
毎年3月に行われる慰霊祭は、日ロ関係者やボランティア、地域住民、中学生などが参加しています。この慰霊祭は、1902年から続けられており、ロシア兵士たちの魂を慰めるための行事となっています。また、毎月清掃活動を行っている勝山中学校の生徒たちも参加し、在大阪ロシア連邦総領事館の関係者も来賓として招かれています。
3月15日、M.#ガルージン 駐日ロシア大使は、四国の愛媛県松山市訪問の途上、1904〜1905年 #ロ日戦争 の間にこの地で亡くなったV. #ボイスマン海軍大佐 をはじめとするロシア兵の眠る墓地を訪れました。大使は日本の地に眠る士官、兵士、水兵たちの墓に花輪をささげ、彼らを偲びました。 pic.twitter.com/ukIt0AAfzw
— 駐日ロシア連邦大使館 (@RusEmbassyJ) March 23, 2019
3月15日、M.#ガルージン 駐日ロシア大使は、四国の愛媛県松山市訪問の途上、1904〜1905年の #ロ日戦争 中この地で亡くなったロシア軍人が葬られている墓地を管理する、#勝山中学校 の先生方および生徒と面談しました。 pic.twitter.com/KEhhu4XR9I
— 駐日ロシア連邦大使館 (@RusEmbassyJ) March 23, 2019