ブラジル、その色鮮やかな文化と熱狂的なカーニバルで知られる国。しかし、この華やかさの影には、深い歴史的背景を持つ、複雑な社会問題が隠されています。
《ファベーラ②》リオデジャネイロの二面性…キリストの恵みと街の暗部【世界のスラム街】
History of Favela
奴隷制の下で栄えたブラジル「ファベーラの歴史」
ファベーラはブラジルの歴史、それも奴隷制の歴史が深く関わっています。
ブラジルの奴隷制度は、1500年代初頭のポルトガルによる植民地化から始まります。
ポルトガルの新しい貿易ルートを探す航海
当時、ポルトガルは、アジアやアフリカの領土を持っていましたが、アジアへの貿易が競争にさらされるなどの理由から、新しい貿易ルートを探す必要がありました。
コロンブスがアメリカ大陸を発見
1492年にイタリア出身のコロンブスがアメリカ大陸に到達し、その後ブラジルも植民地化の脅威に晒されることになりました。
ポルトガル人がブラジルを発見
1500年にはポルトガル人のカブラルがブラジルを「発見」し、それ以降、ブラジルはポルトガルの植民地となり、他の南北のアメリカ大陸とは異なった歴史を歩んできました。
ブラジル進出を開始
1511年には、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航路を発見し、ポルトガルのアジア進出が進んでいました。
しかし、当時のポルトガル王マヌエル1世は、アフリカから航路を通じてブラジルへ進出することを決定。これによって、ポルトガル人がブラジルに到着しました。
ブラジルと名付けられる
当初、ポルトガル人は古トゥピ語族を話す先住民(インディオ)と接触しましたが、ポルトガル宣教師達が彼らにポルトガル語を教えたことで、リングワ・フランカのリンガ・ジェラールという2つの言語が形成されました。
この頃、新キリスト教徒によってパウ・ブラジルという木の輸出が主要産業となり始め、その名前から、この地はブラジルと呼ばれるようになりました。
オランダの支配下と奴隷制
1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダの攻撃を受け、北東部がオランダ領ブラジルとなりました。
しかし、1661年にハーグ講和条約が締結され、オランダはポルトガルにオランダ領ブラジルを割譲しました。
農園での労働として先住民が奴隷化
パウ・ブラジルの枯渇後、北東部にサトウキビが導入されます。その農園で働く労働力として先住民(インディオ)が奴隷化されました。
人手不足を補うため黒人奴隷がブラジルに連行される
やがて、先住民の数が足りなくなると、西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量にブラジルに連れてこられ、ポルトガル人農場主の大農園で酷使されました、
ブラジルは、奴隷貿易において最も多くのアフリカ人奴隷を輸入した国であり、約400万人以上が連れてこられたとされています。
奴隷たちは、劣悪な住環境で暮らし、家族を引き離されることもありました。教育や医療サービスにもアクセスがなく、厳しい生活条件の中で生きることを余儀なくされていました。
当時、黒人たちは主に砂糖、コーヒー、綿花などの大農園で、非常に過酷な労働を強いられ、虐待や拷問なども行われていましが、18世紀には、金やダイヤモンドの発見により、奴隷たちは鉱業でも働かされるようになりました。
コーヒー生産と奴隷制度の拡大
また、19世紀に入ると、南部のリオデジャネイロとサンパウロ地域でコーヒー生産が拡大し、奴隷制度はさらに広がりました。
ブラジルがポルトガルと手を組み土地の奪還に成功
オランダ植民地だったブラジルは、フランスからもさらなる侵略を試みられました、しかし、ブラジル植民地軍はポルトガルと共にこれらを返り討ちにし、ついにこの地を取り返しました。
もし、オランダの占拠が継続していた場合、ブラジルの言語、法律、文化体系は現在とは異なるものになっていた可能性があります。
ブラジル独立の戦い
ブラジルが独立したきっかけは、18世紀末からミナスジェライス州を中心に陰謀が発覚し、それに加えてポルトガルがナポレオンによる大陸経済封鎖への参加を拒否したことに由来します。
フランス軍がポルトガル国境に迫った際、ポルトガル軍は訓練や休養が十分であり、兵器や弾薬も最新式であったため、互角以上に戦える状態にあったといわれています。
この戦争の後、ブラジルではポルトガル王室が移住し、ブラジルはポルトガルの支配下に置かれたままでした。
しかし、王室が移住したことでブラジルの独立運動が加速し、1822年にブラジルは正式に独立を宣言しました。
ブラジルの独立は、植民地時代からの長い歴史を経て実現されたものであり、現在のブラジルの文化や社会の形成に影響を与えています。
独立後の混乱の中での成長
ブラジルが独立した1822年以降、国内では政治的混乱が続きました。
最初の帝国時代は、ブラジル皇帝ペドロ1世の支配下で始まりましたが、ペドロ1世の専制的な統治やスペインとの戦争、農業危機などの問題が発生しました。
1831年にペドロ1世が退位すると、王子ペドロが5歳であったため3人の摂政が置かれ、さらなる混乱が生まれました。
王子は1840年に14歳でペドロ2世として即位すると、イギリスなどへのコーヒーやゴムの輸出で経済が上向きになり、経済成長の時代となり、帝政こそ維持されましたが豊かなブルジョワジー(中産階級)の成長も始まりました。
また、ペドロ2世は自由主義政策を取り、議会制度の拡大や公教育の普及など、政治的・社会的な改革を進めました。
「奴隷制度をやめろ」イギリスからの要求
その後、ブラジルはイギリスからの借金によって多額の債務を抱え、イギリスはブラジルに対して奴隷貿易の禁止を強く求めました。
背景にはポルトガル経済危機
ブラジルがイギリスから多額の借金を抱えるようになった背景には、19世紀初頭のポルトガル王国の経済的危機があります。
当時のポルトガルは、ナポレオンによる占領や植民地からの独立運動などによって深刻な財政難に陥り、ポルトガル政府は国内外での借金を余儀なくされました。
このような状況下で、ポルトガルは1815年にブラジルを王国として承認し、ブラジルがポルトガルの植民地として独立することを許可しました。
しかし、ポルトガル政府は独立したブラジルからの経済的支援を求め、ブラジルはポルトガルに対して多額の資金援助を行いました。
その後、ブラジルは綿花やコーヒー、砂糖などのプランテーション農業が盛んになり、国際的な貿易が活発化しました。
ブラジルが急成長、イギリスからの借金が膨らむ
これによってブラジルの経済は急速に成長し、多くのイギリスの商人たちがブラジルに進出して商取引を行いました。
イギリスは、ブラジルのコーヒーなどの作物を積極的に輸入し、また、ブラジルに対して多額の融資を行いました。
このように、ポルトガルの経済危機やブラジルの経済成長、イギリスの商業活動などが絡み合い、ブラジルはイギリスから多額の借金を抱えることになりました。
イギリスの奴隷制度廃止要求を受け入れ、廃止に動く
その頃のイギリスは、奴隷貿易を廃止する動きを進めており、ブラジルが奴隷制度を維持することに対して強く反発していました。
そしてイギリスは、ブラジルに対して奴隷制度の廃止を強く求め、債務返済の条件として奴隷貿易の禁止を課すなど、強い圧力をかけ始めました。
当初ブラジルは、奴隷制度の廃止には反発しましたが、債務返済のためにイギリスの要求を受け入れざるを得なくなりました。
「奴隷貿易禁止条約」が集結
これにより、1826年に「奴隷貿易禁止条約」が締結されました。
しかし、ブラジルは1831年に国内法を制定して奴隷貿易禁止の厳格な履行をイギリスにアピールしたものの、実際には見せかけで遵守されず、奴隷貿易は続いていました。
「アバディーン法」奴隷貿易線をイギリスは拿捕が可能に
イギリスは、さらなる圧力をかけるために、1845年に「アバディーン法」を制定し、奴隷貿易船を私掠船として拿捕し、関係者をイギリス法廷で裁く権限を認めました。
「エウゼビオ・デ・ケイロス」奴隷貿易が完全に禁止
その結果、ブラジルは1850年に「エウゼビオ・デ・ケイロス法」を制定し、奴隷貿易を完全に禁止しました。
奴隷貿易の非合法化は、奴隷制度そのものの正当性を喪失させました。このようにして、奴隷貿易の禁止が徐々に実現され、奴隷制度が次第に否定されるようになっていきました。
「出生自由法」奴隷制度廃止への一歩
1871年に制定された「出生自由法」(またはリオ・ブランコ法、自由の腹Ventre Livre法)は、重要な法律で、奴隷制度の段階的な廃止に向けた一歩となりました。
この法律は、奴隷の母親が産んだ子供を自由人として認め、生まれた時から奴隷の地位を受け継がないようにするものでした。
また、この法律は、新生児の解放を助成することを含んでおり、奴隷の子供たちが自由になるための資金援助を提供していました。
「セクサジェナリオス法」奴隷解放の道筋が決まる
さらに1885年には、60歳以上の奴隷解放の道筋を定めた「セクサジェナリオス法(またはサライヴァ・コテジッペ法)」が制定されました。
この法律の目的は、奴隷人口を徐々に減らし、最終的に奴隷制度を廃止することでした。
「黄金法法」奴隷制度を完全に廃止
そして、1888年に「黄金法(Áurea法)が制定されました。
「黄金法」は、ブラジルの奴隷制度を完全に廃止する歴史的な法律でした。この法律によって、すべての奴隷を即座に解放し、奴隷制度を法的に終わらせました。
当時のブラジル皇后イザベルがこの法律に署名し、その後まもなく発効。こうして、ブラジルの奴隷制は完全に廃止されました。
これにより、約250万人の黒人奴隷が自由の身となりました。
奴隷から解放された黒人たちの仕事がなく生活が困難に
「黄金法」は反対の動きもなく、すんなりと可決されましたが、実際には問題が残されていました。
その問題は、黒人奴隷の労働力がもはや必要とされなくなり、黒人たちのための働き口がなくなってしまったことで、彼らが生活できなくなってしまったという点です。
奴隷制度の廃止は、黒人奴隷に自由をもたらしましたが、その後の社会的・経済的な支援が十分に行われなかったため、彼らは新たな困難に直面することになりました。
黒人たちは共に助け合い一緒に丘(ファベーラ)に住むようになった
黒人奴隷は奴隷制度の廃止によって自由を得ましたが、それは名目上の自由でしかありませんでした。
社会的・経済的な支援が不十分であり、彼らが働き口を見つけることは難しかったため、多くの黒人は厳しい生活を強いられました。
その結果、黒人たちは互いに助け合い、支え合いながら生きるために、同じような境遇にある人々と共同体を形成し、丘(ファベーラ)に住むようになりました。
そこは貧しい人々が劣悪な環境下で暮らす場所であり、黒人たちはそこで団結し、共同で生活の質を改善しようと努力したのです
国内の移住者が仕事を求め流入、居住地は丘(ファベーラ)
その後、ブラジルの東北部からの国内移住者たちが、都市部での低賃金労働を求めて流入し始めました。彼らもまた、安価な住宅や社会的な支援が不十分な状況下で、丘(ファベーラ)に住むようになりました。
次第に無法地帯になっていく
丘(ファベーラ)の人口は急速に増加し、それに伴って住環境や治安の問題が深刻化、市当局はファベーラの急速な成長に対応できず、そのコントロールが難しくなっていました。
貧困や失業、薬物乱用、犯罪が蔓延する一方で、丘(ファベーラ)の内部でのインフラ整備や公共サービスの提供が遅れがちでした。
これらの問題はファベーラの住民たちの生活をさらに困難にし、都市全体の問題としても深刻化していきました。
内戦で元黒人奴隷を徴、勝利した兵たちが丘(ファベーラ)に居住
そもそものファベーラの建設は、19世紀後半の内戦に端を発します。
北東部バイーア州で1896-97年頃、反乱軍に対し、政府が元黒人奴隷を徴兵して派兵しました。勝利した兵隊たちがリオに戻ると、給料は止まり、兵たちは「プロビデンシア」という公共の丘(ファベーラ)に家を建てました。
その際、反乱軍に勝利した丘に茂っていた植物(ファバ)にちなんで「ファベーラの丘」と名付け、これ以降ファベーラと呼ばれる様になったという説があります。
1900年11月4日 ファベーラ誕生
ブラジル国内で公式に「ファベーラ」という言葉が使われたのは、1900年11月4日のことです。
当時のリオ市警察署長が、プロヴィデンシアの丘を「Morro da Favela」と公文書に記載したのが最初と言われています。
同様のスラム街が他の地域にも広がり、「ファベーラ」という言葉が一般的に使われるようになりました。
都市部でファベーラが急拡大
その後、ファベーラはブラジルの都市部で急速に広がり、特にリオデジャネイロやサンパウロなどの大都市では顕著になりました。
経済成長の格差により、安い土地に不法に居住
ファベーラの発展の背後には、経済成長や都市化、不平等の拡大が影響しています。
経済成長に伴って、人々はより良い仕事や教育機会を求めて都市部へ移住しました。しかし、多くの移住者が低賃金の仕事しか得られず、都市部の住宅市場では家賃が高騰しました。
これらの要因が、人々が安価な土地に不法占拠して住むファベーラを形成する原因となりました。
経済格差により貧困層がファベーラに居住
また、ファベーラの発展は社会的不平等の拡大にも関連しています。
ブラジルでは、所得格差が大きく、富裕層と貧困層の間の経済的格差が顕著です。これにより、低所得者や社会的弱者がファベーラに住むことが一般的になりました。
巨大スラム街の誕生
しかし、ファベーラに住む人々は政府から十分な支援やサービスを受けれず、教育や医療、インフラなどの面で劣悪な状況に置かれました。
一部のファベーラでは犯罪組織が支配するようになり、治安の悪化や麻薬取引も横行していきました。
このようにして、今の巨大なスラム街「ファベーラ」が誕生しました。
読者の皆様へ
このように、ファベーラはブラジルの歴史と密接に関連しており、根深い問題になっています。
しかし近年では、政府や非営利団体がファベーラの改善に取り組んでおり、一部のファベーラではインフラ整備が進み、教育や文化活動が盛んになるなどのポジティブな変化も見られています。
それでも、依然として多くの課題が残されており、ファベーラの改善にはさらなる努力が求められています。