リオデジャネイロは、美しいビーチやカーニバルで有名なブラジルの都市ですが、一方で、治安の悪さや犯罪率の高さでも知られています。特に、リオデジャネイロのファベーラ(貧困地区)では、麻薬密売や暴力沙汰などの事件が日常茶飯事で、住民たちは常に命の危険にさらされています。
ファベーラに住む人々は、住居不足や貧困など、多くの問題を抱えており、社会的な支援や解決策が必要です。しかし、政府からの支援が十分ではなく、住民たちは自らの力で共同体を築き上げ、犯罪や社会問題に立ち向かっています。
本記事では、リオデジャネイロのファベーラにおける犯罪の実態や、住民たちが抱える問題について探っていきます。
【世界のスラム街】ブラジル社会の闇と犯罪組織の支配下にある住民たち《ファベーラ Part 1》
Rio de Janeiro
イエス・キリストが見守るブラジルの闇「犯罪都市リオデジャネイロ」
リオデジャネイロは、ブラジルの南東部に位置する都市で、ブラジルの中でも最も人口が多く、観光地としても有名です。リオと略されることが多く、ブラジルの首都ではありませんが、文化・経済面での重要性が高く、オリンピックやワールドカップなどの大規模な国際イベントも開催されました。
リオデジャネイロには、美しいビーチや自然景観、文化的な観光スポットが多数あり、観光客にとって魅力的な場所です。代表的な観光スポットには、コルコバードの丘や、イパネマビーチ、サンバドローム、リオのカーニバルなどがあります。
リオデジャネイロの歴史
リオデジャネイロの歴史は植民地時代から現代まで多様な出来事があります。
リオデジャネイロは、1502年にポルトガルの航海者ガスパール・デ・レモスが、現在のリオデジャネイロに到着したことで名前が付けられました。彼はこの地域を「リオデジャネイロ」(1月の川)と名付けたが、実際には川ではなく湾であった。
1565年にポルトガル人セルジオ・デ・マカがリオデジャネイロ市を設立しました。この時期、フランスの探検家がリオデジャネイロの湾で植民地を築こうと試みたが、ポルトガル人によって追い出されました。
17世紀には、リオデジャネイロはブラジルの砂糖生産の中心地として発展し、奴隷労働を利用して繁栄しました。
1763年、ポルトガル領ブラジルの首都がサルバドールからリオデジャネイロに移されました。その後、1808年にはポルトガル王室がナポレオン・ボナパルトの侵略から逃れるためにリオデジャネイロに移り、ブラジルに王室が設立されました。
これにより、リオデジャネイロは新世界初のヨーロッパの王室の所在地となり、文化や経済が大きく発展しました。
1822年にブラジルが独立し、リオデジャネイロはブラジル帝国の首都となりました。1889年には、ブラジルが共和国に移行し、リオデジャネイロは引き続き首都の地位を維持しました。しかし、1960年にブラジルの首都がブラジリアに移転され、リオデジャネイロはその地位を失いました。
それでもリオデジャネイロは、観光地としての魅力やカーニバルの祭典で国際的な知名度を維持し、今日までブラジルの文化、経済、政治の中心地として重要な役割を果たしています。
危険な犯罪都市
リオデジャネイロは世界有数の犯罪都市としても知られています。
犯罪発生件数は増加傾向にあり、2015年の統計によれば、人口10万人当たりの殺人発生件数は日本の25倍、強盗発生件数は660倍に上ることが報告されています。
リオデジャネイロ市は、治安の改善に向けた取り組みを行っていますが、未だに犯罪の多発や治安の悪さが問題となっています。
警察や治安部隊の増強や、治安カメラの設置、警戒態勢の強化などが行われていますが、根本的な解決策としては、社会的な不平等や教育の問題、貧困などに取り組むことが必要とされています。
また、リオデジャネイロに訪れる観光客にとっても、治安の悪さは懸念材料となっています。観光客は、特に夜間や人気のない場所での行動には注意が必要であり、貴重品の管理や、公共交通機関の利用時の警戒が求められます。
ファベーラの数はリオだけで約1300!
リオデジャネイロのファベーラは、丘を埋め尽くす不法建築の家々が立ち並び、コルコバードのキリスト像がその上から街を見下ろしている景観が特徴的なスラム街です。
約1300カ所のファベーラがあり、リオの人口(約630万人)のほぼ4分の1がファベーラの住民とされています。
州内の多くのファベーラでは、重火器を持った麻薬密売組織間の抗争や治安当局との銃撃戦が頻繁に起こっています。
しかしながら、住民たちは日常生活を送っており、メインストリートには商店が立ち並び、リオの中心部へ向かう公共バスが走行しています。急な坂が多いため、交差点にはバイクタクシーが待機し、近距離の移動に利用されています。
建物間には急な階段が設けられ、その下には下町の商店街が広がっています。買い物袋を持った高齢者が階段を登る姿がよく見られます。ファベーラでは、貧困や犯罪が問題となっている一方で、地域住民が助け合いながら生活しており、ブラジルの伝統文化や音楽が根付いています。
リオの5大ファベーラ
リオデジャネイロには多くのファベーラがありますが、その中でも特に有名なファベーラを以下に紹介します。
- ホシーニャ (Rocinha)
- リシャンジャ (Riachinha)
- アレマオ (Alemao)
- ビジガル (Vigario Geral)
- マンゲイラ (Mangueira)
これらのファベーラは、規模が大きく、社会問題が深刻なことで知られています。一方で、住民たちは自らの力で生き抜き、共同体を築いている姿も見られ、ファベーラ内での文化や習慣、独自のルールなどが存在しています。
地図上に存在しない街
ブラジルのリオデジャネイロにあるファベーラは、市の約4分の1の人口が暮らしているにも関わらず、市の地図には載っていませんでした。これは、当局がファベーラを危険で目障りな場所と見なし、地図作製者を派遣したり、正式な住所を設定したりすることを拒否していたためです。
不満を持つ住民たちは、自ら地域の地図を作成することを決意しました。これにより、地図が作成されることで当局に対して公共サービスの提供を求める圧力がかけられることを期待しています。
住民たちの目的は、地図によってファベーラの存在を認めさせ、インフラや公共サービスの改善を実現することです。
主役はファベーラの住民たち!サンバとファベーラの深い関係
リオのカーニバルの踊り手の多くは、ファベーラの住民です。ブラジル音楽の中でもサンバとショーロが有名ですが、特にサンバはファベーラに住む黒人たちの音楽が起源であり、カーニバルで演奏されるようになって発展しました。
サンバは19世紀末の準備期間を経て、20世紀初頭にリオの中心街で誕生し、その後貧しい人々が住むファベーラや郊外へと広がりました。この音楽はブラジルの国民音楽としての地位を確立し、特に1917年にリオの中心街で生まれたサンバは、大衆音楽界で正統とされています。
サンバとカーニバルが融合
カーニバルは、キリスト教のイースター前のレント(四旬節)という食事を節制する期間を前に、食べ納めをするお祭りの起源があります。リオのカーニバルは18世紀頃に始まり、サンバを中心に徐々に規模を拡大していきました。
その発展において、異教徒のアフリカ系奴隷が生み出したサンバが中心的な役割を果たしたことは、リオのカーニバルが持つユニークなポイントです。アフリカ系奴隷の文化とキリスト教の伝統が融合し、独自のカラフルでダイナミックな祭りとして世界的な注目を集めるようになりました。
リオのカーニバルは現在では、音楽、ダンス、仮装、パレードなど様々な要素を含んだ大規模な祭典となっており、毎年多くの観光客が訪れています。カーニバルはブラジルの文化的多様性を象徴し、国内外の人々に楽しまれている重要なイベントです。
治安改善のため!!リオのファベーラに警察や軍を投入!
リオデジャネイロでは、2016年のオリンピック開催を機に治安改善が図られました。この取り組みは、ジョゼ・マリアノ・ベルトラメがリオデジャネイロ州の保安長官に任命されたことがきっかけで始まりました。
彼はリオデジャネイロの人口の約20%が住むファベーラ(スラム街)の浄化に乗り出しました。
軍の全面的な支援を受けた治安部隊は、ファベーラを一つずつ制圧してギャングを逮捕・追放しました。その後、住民40人に対して1人の警察官が配置されるという密度で治安の確保が行われています。
警察とギャングが裏で密約!?
リオデジャネイロでは、五輪開催期間中の治安維持が重要な課題であり、警察当局がギャングとの「密約」を結んでいたという噂は市民やメディアの間で広がりました。
噂された密約の内容は、五輪期間中はおとなしくしてほしいというものでした。
警察が市民に発砲
オリンピックの開催が成功するためには良い印象を与える必要がありますが、実際には警察が市民を狙撃して殺害しています。リオ五輪の開催が決定してから、警察や治安部隊は市民を2,500人以上殺害しました。同様に、2014 FIFAワールドカップの開催時には、警察がファベーラに集結し、怪しいと感じた市民に対して警告もなく発砲していることがありました。
リオ最大のファベーラ!!「ホシーニャ」
ホシーニャ(Rocinha)は、ブラジルのリオデジャネイロにある最大のファベーラで、人口は約70,000人から約100,000人と推定されています。ただし、正確な人口数は把握しきれず一説には25万〜30万人とも言われています。
リオデジャネイロ市内の南部に位置しており、サンコンラド地区とガーヴェア地区の間に広がっています。ブラジルのリオデジャネイロの南ゾーンにあるこのファベーラは、サンコンラド山の斜面に密集して建てられた家々が特徴です。
ホシーニャの面積はおおよそ2.13平方キロメートル(0.82平方マイル)と推定されています。ただし、密集している家屋や不法建築が多いため、正確な面積はわかりません。
ホシーニャの歴史
ホシーニャは、1930年代にリオデジャネイロの南部に成立し始めた。もともとは、農村部から都市部に移住してきた労働者たちが不法占拠によって建てた集落である。ブラジルでは20世紀初頭から、産業発展と都市化が急速に進行しており、多くの人々がより良い生活と仕事を求めて都市部に流入した。
しかしこの急激な人口増加に伴い、都市部で適切な住宅が供給されず、ファベーラと呼ばれるスラム街が次々と成立することになった。
ホシーニャは、リオデジャネイロの豊かなエリアであるサン・コンラド地区とガーヴェア地区に挟まれる形で成長した。その立地から、徐々に周辺地域からの労働者や移民が流入し、人口が増加していった。
また、1950年代からは政府による住宅政策が進められ、住民が土地所有権を獲得する機会も生まれるようになった。これにより、ホシーニャは安定したファベーラとして発展し始めた。
1970年代以降、ホシーニャの人口はさらに急増し、独自の経済活動や文化が栄えるようになった。しかし、同時に犯罪や麻薬組織の影響も広がっていく。
そして現在では、ホシーニャはリオデジャネイロ市内でも最大規模のファベーラとなりました。
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経済発展で大手の店舗が進出
この地域は、リオデジャネイロの高級住宅地や観光地に近いため、人々が利便性を求めてホシーニャに定住する傾向があります。
もちろん他のファベーラと同様に、麻薬組織が支配していることが多いと言われていますが、近年の経済発展に伴って、住民の所得が上昇し、銀行の支店や流通大手の店舗が進出するようになりました。
ホシーニャはファベーラの中でも特に経済的に安定していると言われ、住みたいと考える人が多いようです。そのため、家賃は意外に高く、みすぼらしい古屋でも数千万円で売買されることがあります。
ホシーニャでも観光ツアーを実施!
そんなホシーニャはツアーで巡ることができ、多くの観光客が訪れるファベーラとして知られています。高級ホテルから乗客を乗せたバンが急斜面を上っていくことで、乗客たちはスラム街の現実に直面することになります。
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生き生きとした生活をする住人たち
ホシーニャの住人たちは、共同体の結束力が非常に強く、お互いに助け合い、支え合って生活しています。また、ホシーニャには、様々な文化的なイベントや活動が盛んに行われており、住民たちはそれぞれの才能を活かし、生き生きとした生活を送っています。
しかし、ホシーニャは治安の悪さが問題となっており、住民たちは常に危険にさらされています。治安改善に向けた取り組みが進められていますが、根本的な問題解決には、貧困や社会的な不平等、教育の問題に取り組むことが必要とされています。
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