【世界のスラム街】ブラジルの奴隷制度の歴史が生み出したスラム街《ファベーラ Part 3》

この記事では、ブラジルの歴史の中でも最も暗い時期である奴隷制度の始まりから、その廃止後の黒人たちの自由ながらも困難な生活、そして現代のファベーラの問題まで、多岐にわたって紹介します。

ポルトガルによる植民地化から始まったブラジルの歴史は、奴隷制度という悲しい出来事を経て、ようやく独立を果たしました。奴隷制度が廃止された後も、黒人たちは社会的・経済的な支援が不十分で、厳しい生活を余儀なくされました。

その結果、彼らは共同体を形成し、ファベーラに住むようになりました。しかし、ファベーラには貧困や治安の問題が深刻化し、市当局の対応が追いつかない状況が生まれました。

この記事を通じて、ブラジルの歴史と現在の社会問題について深く理解し、人種差別や不平等に対する問題意識を高めるきっかけになることでしょう。

【世界のスラム街】イエス・キリストが見守る犯罪都市リオデジャネイロ《ファベーラ Part.2》
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リオデジャネイロ、メキシコシティ、キューバ。 ROMANTICO=ロマンチック、劇的――「クレイジージャーニー」出演で大反響。 リオのファベーラに10年住み、そこに暮らす人々のリアルな日常を切り取る写真家・伊藤大輔初作品集。

History of Favela

奴隷制の下で栄えたブラジル「ファベーラの歴史」

CitiesX/YouTube

ブラジルの奴隷制度は、1500年代初頭のポルトガルによる植民地化から始まりました。

当時、ポルトガルは、アジアやアフリカの領土を持っていましたが、アジアへの貿易が競争にさらされるなどの理由から、新しい貿易ルートを探す必要がありました。

ブラジル植民地時代から独立まで

国連広報センター (UNIC Tokyo)/YouTube

1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達し、その後ブラジルも植民地化の脅威に晒されることになりました。1500年にはポルトガル人のカブラルがブラジルを「発見」し、それ以降、ブラジルはポルトガルの植民地となり、他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩んできました。

1511年には、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航路を発見し、ポルトガルのアジア進出が進んでいました。しかし、当時のポルトガル王マヌエル1世は、アフリカから航路を通じてブラジルへ進出することを決定し、ポルトガル人は、ブラジルに到着しました。

当初、ポルトガル人は古トゥピ語族を話す先住民(インディオ)と接触しましたが、ポルトガル宣教師達が彼らにポルトガル語を教えたことで、リングワ・フランカのリンガ・ジェラールという2つの言語が形成されました。

この頃、新キリスト教徒によってパウ・ブラジルという木の輸出が主要産業となり、土地はブラジルと呼ばれるようになりました。

1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダの攻撃を受け、北東部がオランダ領ブラジルとなりました。しかし、1661年にハーグ講和条約が締結され、オランダはポルトガルにオランダ領ブラジルを割譲しました。

パウ・ブラジルの枯渇後、北東部にサトウキビが導入されます。その農園で働く労働力として先住民が奴隷化されました。しかし、インディオの数が足りなくなると、西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主の大農園で酷使されました、

ブラジルは、奴隷貿易において最も多くのアフリカ人奴隷を輸入した国であり、約400万人以上が連れてこられたとされています。

奴隷たちは、劣悪な住環境で暮らし、家族を引き離されることもありました。教育や医療サービスにもアクセスがなく、厳しい生活条件の中で生きることを余儀なくされていました。

当時、黒人たちは主に砂糖、コーヒー、綿花などの大農園で、非常に過酷な労働を強いられ、虐待や拷問なども行われていましが、18世紀には、金やダイヤモンドの発見により、奴隷たちは鉱業でも働かされるようになりました。

また、19世紀に入ると、南部のリオデジャネイロとサンパウロ地域でコーヒー生産が拡大し、奴隷制度はさらに広がりました。

植民地からの独立

植民地時代のブラジルは、フランスやオランダによる侵略の試みがあったものの、ポルトガル・ブラジル植民地軍の反撃によって奪還されました。もし、占拠が継続していた場合、ブラジルの言語、法律、文化体系は現在とは異なるものになっていた可能性があります。

ブラジルが独立したきっかけは、18世紀末からミナスジェライス州を中心に陰謀が発覚し、それに加えてポルトガルがナポレオンによる大陸経済封鎖への参加を拒否したことに由来します。

フランス軍がポルトガル国境に迫った際、ポルトガル軍は訓練や休養が十分であり、兵器や弾薬も最新式であったため、互角以上に戦える状態にあったと言われています。

この戦争の後、ブラジルではポルトガル王室が移住し、ブラジルはポルトガルの支配下に置かれたままでした。しかし、王室が移住したことでブラジルの独立運動が加速し、1822年にブラジルは正式に独立を宣言しました。

ブラジルの独立は、植民地時代からの長い歴史を経て実現されたものであり、現在のブラジルの文化や社会の形成に影響を与えています。

ブラジルが独立した1822年以降、国内では政治的混乱が続きました。最初の帝国時代は、ブラジル皇帝ペドロ1世の支配下で始まりましたが、彼の専制的な統治やスペインとの戦争、農業危機などの問題が発生しました。

1831年にペドロ1世が退位し、王子ペドロが5歳であったため3人の摂政が置かれ、混乱が生じました。ペドロ2世は1840年に14歳で即位し、イギリスなどへのコーヒーやゴムの輸出で経済が上向き、経済成長の時代となり、帝政は維持されたがブルジョワジーの成長も始まりました。

また、ペドロ2世は自由主義政策を取り、議会制度の拡大や公教育の普及など、政治的・社会的な改革を進めました。

イギリス主導?奴隷解放への道

ブラジルはイギリスからの借金によって多額の債務を抱え、イギリスはブラジルに対して奴隷貿易の禁止を強く求めました。

背景にはポルトガル経済危機

ブラジルがイギリスから多額の借金を抱えるようになった背景には、19世紀初頭のポルトガル王国の経済的危機があります。当時のポルトガルは、ナポレオンによる占領や植民地からの独立運動などによって深刻な財政難に陥り、ポルトガル政府は国内外での借金を余儀なくされました。

このような状況下で、ポルトガルは1815年にブラジルを王国として承認し、ブラジルがポルトガルの植民地として独立することを許可しました。しかし、ポルトガル政府は独立したブラジルからの経済的支援を求め、ブラジルはポルトガルに対して多額の資金援助を行いました。

その後、ブラジルは綿花やコーヒー、砂糖などのプランテーション農業が盛んになり、国際的な貿易が活発化しました。これによってブラジルの経済は急速に成長し、多くのイギリスの商人たちがブラジルに進出して商取引を行いました。

イギリスは、ブラジルのコーヒーなどの作物を積極的に輸入し、また、ブラジルに対して多額の融資を行いました。

このように、ポルトガルの経済危機やブラジルの経済成長、イギリスの商業活動などが絡み合い、ブラジルはイギリスから多額の借金を抱えることになりました。

「奴隷制度をやめろ」イギリスの要求をうけたブラジルは様々な政策を実施

イギリスは奴隷貿易を廃止する動きを進めており、ブラジルが奴隷制度を維持することに対して強く反発していました。イギリスは、ブラジルに対して奴隷制度の廃止を強く求め、債務返済の条件として奴隷貿易の禁止を課すなど、強い圧力をかけました。

ブラジルは、奴隷制度の廃止には反発しましたが、債務返済のためにイギリスの要求を受け入れざるを得なくなりました。

「奴隷貿易禁止条約」

これにより、1826年に「奴隷貿易禁止条約」が締結されました。

しかし、ブラジルは1831年に国内法を制定して奴隷貿易禁止の厳格な履行をイギリスにアピールしたものの、実際には見せかけで遵守されず、奴隷貿易は続いていました。

「アバディーン法」

イギリスは、さらなる圧力をかけるために、1845年にアバディーン法を制定し、奴隷貿易船を私掠船として拿捕し、関係者をイギリス法廷で裁く権限を認めました。

「エウゼビオ・デ・ケイロス」

その結果、ブラジルは1850年にエウゼビオ・デ・ケイロス法を制定し、奴隷貿易を完全に禁止しました。

奴隷貿易の非合法化は、奴隷制度そのものの正当性を喪失させました。このようにして、奴隷貿易の禁止が徐々に実現され、奴隷制度が次第に否定されるようになっていきました。

「出生自由法」

1871年に制定された「出生自由法」(またはリオ・ブランコ法、自由の腹Ventre Livre法)は、重要な法律で、奴隷制度の段階的な廃止に向けた一歩となりました。この法律は、奴隷の母親が産んだ子供を自由人として認め、生まれた時から奴隷の地位を受け継がないようにするものでした。

また、この法律は、新生児の解放を助成することを含んでおり、奴隷の子供たちが自由になるための資金援助を提供していました。

「セクサジェナリオス法」

さらに1885年には、60歳以上の奴隷解放の道筋を定めた「セクサジェナリオス法(またはサライヴァ・コテジッペ法)」が制定されました。

この法律の目的は、奴隷人口を徐々に減らし、最終的に奴隷制度を廃止することでした。

「黄金法法」

そして、1888年に「黄金法(Áurea法)が制定されました。

「黄金法」は、ブラジルの奴隷制度を完全に廃止する歴史的な法律でした。この法律によって、すべての奴隷を即座に解放し、奴隷制度を法的に終わらせました。当時のブラジル皇后イザベルがこの法律に署名し、その後まもなく発効されました。

ブラジルの奴隷制は完全に廃止されました。これにより、約250万人の黒人奴隷が自由の身となりました。

「黄金法」は反対の動きもなく、すんなりと可決されましたが、実際には問題が残されていました。その問題は、黒人奴隷の労働力がもはや必要とされなくなり、黒人たちのための働き口がなくなってしまったことで、彼らが生活できなくなってしまったという点です。

奴隷制度の廃止は、黒人奴隷に自由をもたらしましたが、その後の社会的・経済的な支援が十分に行われなかったため、彼らは新たな困難に直面することになりました。

解放された黒人奴隷たちが生活をスタート

黒人奴隷は奴隷制度の廃止によって自由を得ましたが、それは名目上の自由でしかありませんでした。社会的・経済的な支援が不十分であり、彼らが働き口を見つけることは難しかったため、多くの黒人は厳しい生活を強いられました。

その結果、黒人たちは互いに助け合い、支え合いながら生きるために、同じような境遇にある人々と共同体を形成し、丘(ファベーラ)に住むようになりました。そこは貧しい人々が劣悪な環境下で暮らす場所であり、黒人たちはそこで団結し、共同で生活の質を改善しようと努力したのです

巨大なスラム街!“ファベーラ”の誕生

その後、ブラジルの東北部からの国内移住者たちが、都市部での低賃金労働を求めて流入し始めました。彼らもまた、安価な住宅や社会的な支援が不十分な状況下で、ファベーラに住むようになりました。ファベーラの人口は急速に増加し、それに伴って住環境や治安の問題が深刻化しました。

市当局はファベーラの急速な成長に対応できず、そのコントロールが難しくなっていました。貧困や失業、薬物乱用、犯罪が蔓延する一方で、ファベーラ内のインフラ整備や公共サービスの提供が遅れがちでした。

これらの問題はファベーラの住民たちの生活をさらに困難にし、都市全体の問題としても深刻化していきました。

そもそも、ファベーラの建設は19世紀後半の内戦に端を発します。北東部バイーア州で1896-97年頃、反乱軍に対し、政府が元黒人奴隷を徴兵して派兵しました。勝利した兵隊たちがリオに戻ると、給料は止まり、彼らは「プロビデンシア」という公共の丘に家を建てました。その際、反乱軍に勝利した丘に茂っていた植物(ファバ)にちなんで「ファベーラの丘」と名付けたという説があります。

ブラジル国内で公式に「ファベーラ」という言葉が使われたのは、116年前の1900年11月4日のことです。当時のリオ市警察署長が、プロヴィデンシアの丘を「Morro da Favela」と公文書に記載したのが最初と言われています。同様のスラム街が他の地域にも広がり、「ファベーラ」という言葉が一般的に使われるようになりました。

Providência

大都市圏で急拡大するファベーラ

その後、ファベーラはブラジルの都市部で急速に広がり、特にリオデジャネイロやサンパウロなどの大都市では顕著になりました。ファベーラの発展の背後には、経済成長や都市化、不平等の拡大が影響しています。

経済成長に伴って、人々はより良い仕事や教育機会を求めて都市部へ移住しました。しかし、多くの移住者が低賃金の仕事しか得られず、都市部の住宅市場では家賃が高騰しました。これらの要因が、人々が安価な土地に不法占拠して住むファベーラを形成する原因となりました。

また、ファベーラの発展は社会的不平等の拡大にも関連しています。ブラジルでは、所得格差が大きく、富裕層と貧困層の間の経済的格差が顕著です。これにより、低所得者や社会的弱者がファベーラに住むことが一般的になりました。

さらに、ファベーラの住民は政府から十分な支援やサービスを受けておらず、教育や医療、インフラなどの面で劣悪な状況が続いています。一部のファベーラでは犯罪組織が支配しており、治安の悪化や麻薬取引が問題となっています。

近年では、政府や非営利団体がファベーラの改善に取り組んでいます。これにより、一部のファベーラではインフラ整備が進み、教育や文化活動が盛んになるなどのポジティブな変化も見られています。しかし、依然として多くの課題が残されており、ファベーラの改善にはさらなる努力が求められています。

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 “シティ・オブ・ゴッド”と呼ばれたブラジル・リオデジャネイロの貧民街を舞台に、暴力と貧困に埋め尽くされた子どもたちの日常を実録タッチで描いた衝撃の犯罪ドラマ。年端も行かぬ少年が殺人に手を染め、やがて街を仕切るギャングへと成長し激しい抗争に明け暮れる姿を壮絶な暴力描写で綴っていく。(「allcinema」データベースより)

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