【ロスチャイルド陰謀論(8)】明治維新は本当に正義?その背後にあった影の存在を探る

明治維新は日本の歴史において極めて重要な出来事の一つとされていますが、その中には正義に照らして疑問符を付ける向きもあります。

この記事では、明治維新がもたらした変革と発展に焦点を当てつつ、その背後にあった影の存在を探ります。

【ロスチャイルド陰謀論(7)】ペリー来航と明治維新!ロスチャイルド家の影響を考える
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幕末動乱期ほど、いい加減な美談が歴史としてまかり通る時代はない。京都御所を砲撃し朝敵となった長州を筆頭に、暗殺者集団として日本を闇に陥れた薩長土肥。明治維新とは、日本を近代に導いた無条件の正義なのか?明治維新そのものに疑義を申し立て、この国の「近代」の歩みを徹底的に検証する刮目の書(「BOOK」データベースより)

Ryoma Sakamoto

武器商人“坂本龍馬”

Katsurahama #2

明治政府は日本の近代化と西洋化を推進しましたが、その背後には強力な軍事力を持つ新政府の存在がありました。

幕府を倒すため、そして新政府を維持するために、西洋の軍事技術を活用し、軍事力を大いに強化しました。

この時期には、新しい軍制度が導入され、兵役義務が全国民に拡大されました。このような軍事力の強化が明治政府の真の姿であり、これらは影で操られていたという説があります。

江戸幕府の終焉の道を切り開いた男

坂本龍馬は、その一生を通じて多くの歴史的役割を果たしました。

その中でも特に注目すべきなのは、幕末の動乱の中で多くの重要人物と交流し、攘夷(じょうい)、討幕、開国といった当時の日本を二分するような立場の違いを超えて影響力を行使したことでしょう。

龍馬は自身が所属する長州藩と薩摩藩という、当時の日本の二大勢力を結束させ、彼らに共通の敵、すなわち江戸幕府への対抗手段を見つけさせました。

つまり、坂本龍馬は実質的に「江戸幕府の終焉の道を切り開いた男」とも言えます。

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自由と独立を追い求める脱藩者

文久二年(1862年)、坂本龍馬は土佐藩の侍でありながら、藩の規則に違反して伊予国(現在の愛媛県)へと脱藩しました。

それは、自身の思想や目標を追求するための勇敢な一歩でした。脱藩後の龍馬の行動は、捕縛を避けながらも、その抱負を追求するために絶えず動き続けた彼の姿を物語っています。

龍馬は、幕末の江戸幕府の海軍大将であった勝海舟と出会い、共に海軍教練所の設立を夢見るようになりました。

この夢は、近代的な海軍力を持つことにより、日本が外国勢力に対抗できるようにするという壮大な計画でした。

龍馬は土佐の若者たちを集め、勝海舟の元に弟子入りし、「順動丸」と呼ばれる船に乗って江戸へ向かいました。

この時、龍馬は脱藩浪人として「指名手配中」の身でしたが、彼はその身の危険を顧みず、目標に向かって突き進んだのです。

文久3年(1863年)、勝海舟の尽力により、龍馬は脱藩の罪から解放され、神戸海軍操練所の所長頭となりました。

しかし、龍馬の独立心は強く、土佐藩からの帰国命令には従わず、再び脱藩の身となりました。これは、自由と独立、そして彼自身の理想と信念を追求するための行動でした。

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「亀山社中」龍馬のビジョンと日本近代化の一歩

幕府の目先のことばかりの政策に失望した坂本龍馬は、勝海舟を通じて薩摩藩に亡命を求めました。その間、彼は龍馬はたな新たなビジョンを追求しはじめ、新しいビジネスを開始します。

慶応元年(1865年)、龍馬は長崎で「亀山社中(かめやましゃちゅう)」という商船会社を設立しました。これは日本初の商社であり、海運、貿易、植民地事業、投機など多岐にわたるビジネスを展開しました。

社名の「亀山」は地名から採られ、「社中」は「人々の集まり」を意味します。

亀山社中は船舶の運航や輸送サービスを提供するとともに、武器の取引なども行いました。これにより、竜磨は徳川幕府の打倒を間接的に後押しする役割を果たすことになります。

また、その事業モデルは現代の企業組織の原型とも言えるもので、亀山社中はしばしば「日本初の株式会社」と称されます。

龍馬は亀山社中を通じて、日本の近代化に向けた道筋をつけるとともに、自身の理想とする社会を創出するための具体的な手段を模索しました。

龍馬のビジョンと行動力が結びついた結果、亀山社中は幕末から明治維新への過渡期における重要な役割を果たし、新時代の到来を先導する存在となりました。

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経済的連携を通じた政治的変革!薩長同盟と亀山社中

坂本龍馬が討幕のために薩摩藩と長州藩、いわゆる薩長同盟の成立を仲立ちしたことは広く知られています。

しかし、薩長同盟の成立に至るまでの経緯は、一筋縄でいったものではありませんでした。それは、龍馬が率いる亀山社中が経済的連携を通じて彼らを結びつける役割を果たしたからこそ実現したのです。

薩摩藩と長州藩は、それぞれ異なる政治的背景と利害関係を持つ犬猿の仲でありましたが、龍馬は亀山社中を通じてこれらの藩との間で経済活動を展開しました。

特に、薩摩藩と長州藩との間での武器貿易は重要であり、これにより両藩は共通の目標に向かって連携することを可能としました。

この経済的な連携は、薩摩藩と長州藩との間に信頼関係を築くことにつながり、それは最終的に政治的な連携、すなわち薩長同盟の成立へと繋がりました。

このようにして、龍馬と亀山社中は経済活動を通じて政治的な変革を引き起こすという、まさに「経済が政治を動かす」という例を見せたのです。

この薩長同盟の成立は、明治維新の重要な契機となりました。

トーマス・グラバーとの関係を確立

坂本龍馬と亀山社中は、幕末の大きな政治的変動に大きく貢献しました。その一つが、長州藩が資金を提供し、薩摩藩の名の下に「連合船ユニオン号」を購入したことでした。

この船は300トンで、当時の価格で37,700両に相当する大型の軍事船でした。

この連合船ユニオン号の購入を通じて、龍馬はイギリス人商人トーマス・グラバーとの繋がりを築きました。

グラバーは長崎を拠点に活動し、幕末の日本で初めて鉄道や蒸気船を導入するなど、日本の産業革命を先導する役割を果たしました。

購入した連合船ユニオン号は、薩摩藩と長州藩が共同で運用するという、新たな形の軍事力を両藩にもたらしました。

この強力な軍事力を背景に、両藩は幕府に対し政治権力を天皇に譲るように圧力をかけ、これが「大政奉還」として知られる歴史的な行動に繋がります。

しかし、幕府から見れば、この行為は違法な武器密輸の黒幕に対する重大な譲歩であり、強力な武力を持つ藩に対し自身の権力を譲ることになるため、深い憤りを感じていたと思われます。

亀山社中から海援隊へ!土佐藩の近代化への道

土佐藩は当時、軍事力の強化を切望しており、坂本龍馬とその亀山社中が薩摩藩と結びつく事態に注目しました。

亀山社中が持っていた海事に関する専門知識は、藩の目標達成において重要な価値がありました。

このため、藩は龍馬の脱藩行為を許し、亀山社中を土佐藩の新たな子会社として設立することを決定しました。そして、龍馬を船長とする海援隊が誕生したのです。

海援隊は、国家の近代化を目指す脱藩者たちを教育し、商業的な利益追求と土佐藩の支援を両立させる役割を果たしました。また、幕府打倒の運動にも密かに関与していました。

しかし、1867年、龍馬が京都の大宮屋旅館で暗殺され、海援隊の中心的存在を失いました。翌年、土佐藩によって海援隊は正式に解散されました。

坂本龍馬の遺産を継いだ企業「三菱」

しかし、その影響はこれで終わりではありませんでした。

三菱という名の会社が、龍馬の死後、海援隊(亀山社中)の事業を引き継ぎ、さらにグラバー商会の日本での利権を全て引き継ぐという形で、海援隊の遺産を継承しました。この会社は土佐藩出身の岩崎弥太郎によって設立されました。

三菱はその後、急速に成長し、明治時代の主要な資本グループへと成長を遂げることとなりました。

このように、龍馬と海援隊の活動は、間接的ながらも日本の産業と経済の発展に対して大きな影響を与えたのです。

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「三菱重工業」とその軍事産業の成長

グラバー邸は、明治維新後、一見すると普通の外国人の別荘に見えるかもしれませんが、幕末には武器や弾薬の取引の舞台となった場所です。

三菱重工業(MHI)は昭和14年(1939)にこのグラバー邸をグラバーの子孫から購入しました。

三菱重工業は1884年に長崎で造船業として創業し、船舶、重機械、航空機、鉄道車両の製造に従事してきました。同社は特に大日本帝国海軍との重要な契約に関与してきました。

世界をリードする技術を活かし、戦艦や戦闘機などの軍需品の製造にも取り組んできました。

第二次世界大戦終結後、財閥解体令が発効され、MHIは西日本重工業、中部日本重工業、東日本重工業の3つの企業に分割されました。

しかし、1964年に再統合され、三菱重工業株式会社として再出発しました。

現在、三菱重工業は誘導兵器システムを含むさまざまな製品を製造しています。

2017年において、三菱重工業の武器製造部門の売上高は35.7億ドル(約3,930億円)に達しました。

このように見ると、三菱重工業の軍事産業の発展は、坂本龍馬が築いた海援隊との深いつながりから見て取ることができます。グラバー邸の購入は、その象徴的な瞬間ともいえるでしょう。

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「明治維新」は、日本の近代革命である。しかし、それらは、「明治維新」の表の姿に過ぎなかった。国際秘密結社フリーメイソンが仕組んだ「明治維新」衝撃の「真実」を暴き、日本近代史の2大スキャンダルの闇に迫る!(「BOOK」データベースより)

Thomas Blake Glover

トーマス・ブレーク・グラバー

Shiso Productions./YouTube

1859年、日本が長い鎖国時代を終え、長崎港が世界に向けて開かれた時、外国人居留地が設立され、多くの外国商人がこの地に集まりました。

その中の一人がスコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)でした。

グラバーは若くして学校を卒業後、商社ジャーディン・マセソンに勤め、船積み係としてそのキャリアをスタートしました。彼は1857年に上海に移住し、その2年後、21歳で長崎に越してきました。

当初、グラバーは日本の緑茶の買い付けを行っていましたが、グラバーの野望はそれだけに留まらず、1861年にグラバーは自身の企業、グラバー商会を設立しました。

密貿易で栄えたグラバーの日本ビジネス

グラバーは当初、茶や生糸、コンブなどの輸出に力を入れたが、先輩商人の壁は厚く、大きな成功には至りませんでした。しかしその後、日本の幕末の動乱に目をつけ、倒幕派を支援することを決意します。

そして薩摩(鹿児島)、長州(山口)土佐(高知)などの西南雄藩をメインに船舶、武器、黒色火薬などの密貿易を行ないました。

特に、1862年(文久2年)頃から幕府が外国の軍艦導入を許可したことで、各藩は軍艦や武器の購入を競い始め、この軍需膨張に乗じて、グラバーは大いに財を成しました。

グラバーは長崎に2万坪の広大な邸宅を購入し、愛人を囲って華やかな生活を送りました。

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実は日本の内戦を望んでいた?「死の商人」としての顔

グラバーが武器や弾薬の販売によって、幕末の日本の政治状況を扇動していたのでは?という説が存在します。

確かに、グラバーは日本の幕末期の混乱を理解し、幕府に対抗する勢力に武器支援をしています。

このため「死の商人」との悪評も立っていました。さらにグラバーは「幕府に対する最大の反逆者だった」と自負したとされています。

グラバーの武器支援を受けた西南諸藩は、鳥羽・伏見の戦いという明治維新の転換点となる戦闘に挑みました。この戦闘は4日間続き、結果的に幕府軍が決定的に敗北したことで、大規模な内戦は回避されました。

グラバー商会は内戦に備えて大量の武器や船を買い占めており、在庫を売り払うことができず、売掛金の回収にも苦労しました。

その結果、グラバーは資金難に陥り自身の会社は最終的に1870年に破産しました。

しかし、この説は必ずしも全面的に受け入れられているわけではなく、グラバーが反幕府勢力を裏で扇動したと明確に証明する具体的な証拠はありません。

実際には、幕末期の武器貿易に関与していたのはグラバーだけでなく、他の多くの外国商人もいました。そして、明治維新の成立にはグラバーの存在だけではなく、他の多くの要素も重要な役割を果たしました。

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グラバー商会の日本の産業化と武器貿易への関与

1859年、スコットランド出身のトーマス・グラバーは上海でジャーディン・マセソン商会に参加し、同年中に長崎に到着。

ここでグラバーは「グラバー商会」を設立し、ジャーディン・マセソン商会の長崎支店として活動を始めました。

ジャーディン・マセソン商会はアジアでアヘン貿易を行っていたほか、綿花、紅茶、絹といった様々な商品の取引も手掛けていました。

グラバーの事業活動には、マセソン商会、幕府、さまざまな藩との間での仲介役として、新品や中古の船舶の売買を促進することが含まれていました。

利益は平等に分けられ、50%がジャーディン・マセソン商会に入りました。また、グラバーはフリーメイソンの一員でもありました。

戊辰戦争、すなわち幕府と朝廷に政治的権力を返すことを目指す勢力との間で戦われた日本の内戦では、グラバーは南部藩に戦艦や銃を多数販売しました。

供給先にはアメリカやイギリスの軍事専門家、おそらくは元将校が含まれていたと考えられています。長岡藩は将軍の同盟国であり、ガトリング砲2門と数千丁の近代的なライフル銃を保有していました。

一方、幕府は1866年に30,000丁のドライゼ式針銃の注文を行ったとされています。

フランスのナポレオン3世は吉田松陰に最新鋭のシャスポー銃2,000丁を提供し、個人護衛を装備しました。薩摩藩はヨーロッパの武器商人と直接取引し、自らの大砲を鋳造していました。

彼らはイギリスのスナイダー・エンフィールドやフランスのシャスポーなどの先進的なライフル銃にアクセスしていました。

このような活動を通じて、グラバーは日本の産業化の進展において重要な役割を果たしました。

その後グラバーは長州、薩摩、土佐の諸藩に機械、設備、船舶、武器などを供給し、最終的に徳川幕府を倒すことに貢献することになりました。

ロスチャイルド陰謀論と幕末日本の武器販売

陰謀論の一つに、ロスチャイルド家が、関連企業を通じて幕府に武器を販売していたという説があります。

この説では、戊辰戦争ではロスチャイルド家がフランスから幕府側に武器を供給し、一方で倒幕派にはグラバーを通じて武器を提供していたと主張されています。

そして、両陣営が互いに戦い続けることで、武器商人たちは利益を得ることができたとされています。

加えて、この陰謀論は、戦争の終結後に余剰の武器と弾薬が大量に残っていたアメリカ南北戦争にも言及しています。この余剰兵器が日本に輸出され、これもまたロスチャイルド家が関与していたと主張しています。

しかしこの陰謀論は、信頼性のある証拠や史料によって支持されていません。

このような陰謀論は、ロスチャイルド家にまつわるものであり、反ユダヤ主義のルーツを持ち、しばしば憎悪と差別を促進するために利用されています。

陰謀論!トーマス・グラバーと坂本龍馬の繋がり

トーマス・グラバーと坂本龍馬の関連性について述べる一部の陰謀論によれば、グラバーは坂本龍馬を自身の目的のために用いたとされています。

陰謀論の視点では、日本の各藩への武器の直接供給が露骨すぎるとし、明治維新が日本人自身によって達成されたという印象を保つために仲介者が必要だったと考えています。

そして、この仲介者の役割を果たしたのが、坂本龍馬であったとされています。

坂本龍馬が所属していた亀山社中のメンバーたちは、頻繁にグラバーの邸宅を訪れていました。

そのため、亀山社中の設立に際してグラバーが指導を行っていた可能性もあります。亀山社中は、武器を輸出する組織として立ち上げられ、初めて薩摩藩に武器を販売しました。そして、その武器は薩摩藩を通じて長州藩に密輸され、これが薩摩・長州同盟のきっかけとなったとされています。

しかし、これらの陰謀論は、グラバーが事件を操作したり、坂本龍馬の行動を制御したという考えを明確に支持する証拠には乏しいのが現実です。

この混乱した時期において、グラバー、坂本龍馬、そしてその他の様々な勢力が関わり合っていたことは確かです。しかし、彼らの相互の影響の程度や性質は、解釈や歴史家の間で議論の対象となっています。

坂本龍馬が薩摩・長州同盟の形成や幕府の打倒において果たした業績は広く認められています。

たとえグラバーが一部関与していたとしても、坂本の努力の意義や役割は影響を受けるものではありません。この時期の複雑さや複数の要素を考慮すると、一つの個人やグループの行動のみに成果を帰することは困難です。

歴史的な理論に対する評価は、十分な慎重さと批判的な視点が必要であり、利用可能な証拠を基に、明確で確信のある結論を導き出すことが求められます。

イギリスに密航の手助け!

グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディン・マセソン商会に依存していました。

その上、マセソン商会(香港)の信用状を元に、マセソン商会(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で薩摩藩の留学生の学資を提供していました。

その結果、実質的に薩摩留学生の支援者となったのはロンドンのマセソン商会でした。

長州ファイブ a.k.a マセソン・ボーイズ

この留学生グループには、「薩摩学生」及び「長州ファイブ(長州五人衆)」が含まれています。彼らは19世紀のイギリスへ留学し、日本の近代化に必要な知識と技術を学んだ者たちです。

薩摩学生は薩摩藩から19名が派遣され、1865年に陸海66日の危険な航海を経てイギリスに到着、ロンドン大学学院で学び始め、3年後に卒業しました。

長州五人衆は長州藩のメンバーで、1863年にイギリスへ渡りました。彼らはロンドンのマセソン商会の船で135日間の海の旅を経て、ロンドンのヴィクトリア朝時代のUCL(University College London)で学びました。

イギリス人からは、これらの留学生たちは「マセソン・ボーイズ」と呼ばれていました。

薩摩学生の中には、後の明治時代の初代内閣総理大臣である伊藤博文も含まれています。

薩摩学生と長州ファイブは、彼らが帰国後、日本の公共生活で卓越した存在となり、多くが明治維新において重要な役割を果たしました。

彼らが海外で得た経験と知識は、帰国後の明治政府の設立と新しい日本の形成に大いに寄与しました。

萩市観光課公式チャンネル「はぎたび-hagi tabi-」/YouTube

陰謀論と現実…ロスチャイルドとフリーメイソン

陰謀論によれば、長州五人衆はロスチャイルド家に可愛がられ、明治政府が成立した後には日本の最高指導者となったとされています。

さらに、フリーメイソンを主体としたロスチャイルド家の勢力が明治維新後の日本に浸透し、その後の日本の政策に影響を及ぼしたと考えています。

しかし、この視点には一部の歴史家や研究者から異議が唱えられています。

ロスチャイルド家やフリーメイソンが明治維新やその後の日本の政策に直接的な影響を及ぼしたとする確固たる証拠はまだ提供されておらず、ロスチャイルド家が薩摩学生や長州五人衆のいずれかを支持していたとする証拠も存在しません。

驚くべき説も浮上?!明治維新とアヘン戦争の意外な関連性

さらに、明治維新がイギリスのアヘン資金によるクーデターであったとする説も存在します。

確かに、イギリスを含む西洋の植民地勢力はこの時期にアジアにおいて大きな影響力を持っていました。しかし、イギリスのアヘンの資金が明治維新に直接関与したという主張を支持する十分な証拠はありません。

アヘン戦争は19世紀中にイギリスが中国とのアヘン貿易を巡って行った別の事件であり、明治維新とは直接的なつながりはありません。

イギリスのアヘン資金関与の真相

明治維新は日本全体の急速な変革をもたらし、経済への驚異的な影響を与えました。

1868年から1895年の間に、輸入と輸出は約4,500万ドルから約2,500万ドルに増加し、1885年から1910年の間の平均年間成長率は7%でした。

また、明治政府は軍事的な拡張を追求し、第一次・第二次中日戦争、日露戦争、第二次・第三次中日戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、第二次世界大戦など、さまざまな紛争に関与しました。

一方、アヘン戦争は1839年から1860年にかけて中国とイギリスを含む西洋列強との間で戦われました。これらの戦争は、西洋列強が中国の商品や市場への自由なアクセスを得ようとする時代の象徴でした。

アヘン戦争は貿易紛争と、イギリスが中国市場へのアヘンのアクセスを得ることを望んだ背景に戦われました。戦争の結果、中国は西洋との貿易が開放され、香港がイギリスに割譲されました。

結論として、明治維新時にはイギリスを含む西洋列強がアジアで大きな影響力を持っていましたが、明治維新におけるイギリスのアヘンの資金の直接的な関与を裏付ける十分な証拠はありません。

アヘン戦争は19世紀に別の出来事であり、貿易紛争とイギリスが中国市場へのアヘンのアクセスを得ることを望んだ背景で戦われたものです。

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