【ロスチャイルド陰謀論(7)】ペリー来航と明治維新!ロスチャイルド家の影響を考える

19世紀の中頃、アメリカの提督マシュー・ペリーが日本に来航し、国際的な開国の契機を作りました。この出来事は明治維新につながり、日本の歴史における重要な転換点となりました。

しかし、その背後にはロスチャイルド家などの国際的な金融エリートの影響があったという見方が存在します。

【ロスチャイルド陰謀論(6)】衝撃の真実!「アヘン戦争」で明らかになった国家規模の陰謀の全貌
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米側史料を本格的に取り上げ、開国のシナリオを作った中心人物、アーロン・パーマーの、ペリー遠征に向けた世論操作、彼と東部エスタブリッシュメントとの繋がり等々、関係者の動きを点描しながら、日本に開国を迫ったアメリカの真意を明らかにしてゆく。今日まで一貫するアメリカの対日・対中政策の原型がまさにこのときに作られたことを示した「新・開国史」。(「BOOK」データベースより)

Meiji Restoration

明治維新とは“革命”

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明治維新(Meiji Restoration)とは、1853年んの黒船来航(ペリー来航)から1867年の大政奉還までの間に、日本で起きた政治的な革命のことを指します。

これによって徳川幕府の終焉が宣言され、明治天皇の下で新たな時代が始まりました。この維新は、日本の政治、社会、経済の構造に大きな変革をもたらし、日本を近代化し産業国家へと変貌させました。

ロスチャイルド家が日本の運命を握っていた!?

明治維新は日本が激動の時代を迎え、世界に向けて新しいステージをスタートした瞬間でありました。しかし、その背後での国際的な動き、特にロスチャイルド家との関連性についてはよく知られていません。

そもそもロスチャイルド家は、18世紀から19世紀にかけて欧州で金融業を牛耳り、その絶大な富と影響力で知られていました。

陰謀論の一つによれば、彼らは世界的な金融市場の支配を目指し、各国の政治・経済に大きな影響を及ぼしていたとされています。では、明治維新とロスチャイルド家はどのように結びついていたのでしょうか。

ロスチャイルド家が日本の開国に関与していたという説があります。

彼らは、日本の豊かな自然資源と人口を金融市場に組み入れ、さらに影響力を広げることを狙っていたとも考えられます。

特に、日本の鉄道網の発展に対する投資や、新政府との間で金融取引を結ぶことで、日本経済の急速な産業化を後押ししたとの指摘もあります。

しかしながら、こうした説は必ずしも確固とした証拠に基づいているわけではありません。

彼らが明治維新に深く関与していたという証拠はまだ見つかっていないため、この観点はあくまで一つの可能性であり、断定的なものではないということを明記する必要があります。

それでも、ロスチャイルド家が日本の開国と近代化に何らかの形で関与していた可能性は否定できません。

世界の金融をコントロールしていたとされる彼らの影響力を考えれば、こうした動きは十分に考えられるものです。

この視点から明治維新を考えることで、日本の近代化が国内の動きだけでなく、国際的な要素にも大きく影響されていたことが浮かび上がってきます。

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明治維新が明るく、素晴らしいものであった、という印象操作。これこそが、支配階級の仕掛けたそもそもの洗脳であった。たとえば、維新の時に内戦が始まっていたら日本は欧米に乗っ取られていた、というまことしやかな嘘。実は、外国勢力は日本の植民地化など狙っていなかったのだ!では何を狙っていたのか?現代につながる歴史の真実を抉り出すドクター苫米地の脱洗脳! (「BOOK」データベースより)

Perry’s arrival

幕末の大事件!黒船来航が導いた日本の開国と変革

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1853年、日本が鎖国政策を続けていた時代に、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が来航し、開国を求めました。

この来航は、「黒船来航」として日本史に名を刻み、日本の近代化の一歩を刻んだ出来事でした。

【理由】捕鯨のために日本を開国したかった

歴史的な観点から見ると、ペリー提督による「ペリー遠征」の主な目的は、捕鯨船への物資供給にあったと言えます。

捕鯨は当時のアメリカにおける主要産業の一つであり、日本周辺やアラスカ地域の海域での漁場の発見により、捕鯨船は日本の沿岸にまで進出するようになりました。

これにより、照明、潤滑油、テキスタイル加工など、さまざまな用途で使用される鯨油(「スイミングオイル」とも呼ばれる)の需要が高まりました。

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【本当の理由】アメリカのアジア進出の足掛かり

しかし、捕鯨産業の発展だけではなく、アメリカの目指す戦略には、日本との貿易関係構築というより大きな目的があったと考えられます。

アメリカは日本を潜在的な貿易相手と見なし、清朝中国との貿易の拠点として利用する意図がありました。

特に、アメリカはイギリス帝国との競争の中で、中国の茶や絹などを含む豊かな製品と大きな市場へのアクセスを求めていました。

ペリーの日本への到着は、地域での貿易関係の樹立、新たな市場へのアクセス、そして中国との貿易におけるイギリス帝国の支配を迂回するためのアメリカの広範な戦略の一部でした。

地理的に見て、日本は太平洋を挟んで西方に位置するため、アメリカは大西洋やインド洋の貿易路を迂回し、中国に直接到達するために、日本の地理的な利点を活かすことを目指しました。

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【疑惑】ペリーは琉球(沖縄)を占領する気だった?

1853年5月26日、マシュー・ペリー提督は艦隊を率いて上海を出発し、琉球王国(現在の沖縄県)の首都那覇の沖に到着しました。

彼らは武装して首里城に進みましたが、彼らが受けたのは表面的な歓迎だけでした。

一部の艦隊を那覇に残したペリーは、6月14日から18日にかけて小笠原諸島を探検しました。そして7月8日、彼は4隻の艦隊と共に浦賀湾(現在の神奈川県横須賀市)に到着しました。

これが「ペリーの黒船来航」として記憶されています。

この時期、アメリカはすでにアジアで進出を果たしていた西洋列強に追いつこうとしており、琉球を東アジアでの重要な基地として開放することに戦略的な関心を抱いていました。

一部の見解では、ペリーが琉球を占領しようとしたのは、アメリカがイギリスとアジアで競争し、その地域での影響力を強化したいという意志によるものだとされています。

ペリーはフィルモア大統領に対して、「友情よりも恐怖に訴える方が効果的である」と助言し、大統領は「必要であれば琉球(沖縄)を占領せよ」と指示したとされています。

この琉球への関心は、アメリカが西洋列強のアジアへの進出に追いつき、その地域での地位を強化することを目指していたことを示しています。

しかしながら、ペリーが琉球を占領しようとしたという説は広く受け入れられているものではなく、歴史家の間では意見が分かれています。

【ロスチャイルド陰謀論】開国と世界金融の支配を狙った?

このようなアメリカの意図と、日本の開国を結びつける背後には、大金融力を持つロスチャイルド家が関与していたとする説が存在します。

黒船来航とロスチャイルド家の繋がりを検証

この説では、ロスチャイルド家は日本の開国を通じて東アジア市場に進出し、その後の中国との貿易を拡大する機会を作り出すことを目指しており、そのために、ロスチャイルド家が資金提供をペリーの来航が実現したとされています。

ただし、この説には必ずしも明確な証拠は存在しないため、それが事実であると断言することはできません。

しかし、陰謀論にもかかわらず、ロスチャイルド家が当時の世界経済に及ぼしていた影響を考慮すると、このような観点が完全に無視されるべきではないとも言えます。

この視点から見ると、明治維新以降の日本の近代化は、単に国内の動きだけでなく、国際的な要素にも大きく影響されていた可能性があることが示されます。

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ペリー提督とロスチャイルド家の関係性

1837年、フランクフルトを拠点とするロスチャイルド銀行は、オーガスト・ベルモントをアメリカの代表として派遣しました。

ベルモントはロスチャイルド家の利益拡大に貢献し、「オーガスト・ベルモント商会(August Belmont & Co.)」という自身の銀行を設立しました。

ベルモントはアメリカ政治において著名な存在となり、1856年にアメリカの民主党の指導的地位に就き、その地位を約20年間保持しました。

その影響力は政治だけでなくビジネス界にも及んでいました。

また、オーガスト・ベルモントは、ペリー提督の娘であるキャロラインと結婚しました。そしてモルガン家とも結びつき、「ボストン財閥」を作り上げました。

これの事実から、一部ではペリー提督がロスチャイルド一族とつながりを持ち、東インド会社のアヘン商人とも関連していたとの説が唱えられています。

しかし、オーガスト・ベルモントとロスチャイルド家の銀行業務には確かに関連性がありますが、ペリー提督とロスチャイルド家やイギリス東インド会社との直接的な関連を示す証拠は見つかっていません。

特に、ペリー提督と東インド会社のアヘン商人との直接的な関連性については、現在のところ証拠はありません。

これらの関連性については、推測や仮説が存在するものの、これらの仮説を裏付ける具体的な証拠はまだ見つかっていません。

このような説が生まれる背景には、世界的な金融機関であるロスチャイルド家や東インド会社が19世紀の世界経済や政治に与えた影響と、これらの組織と個々の歴史的人物との間に可能性として存在する繋がりへの関心があると考えられます。

これらの議論は、当時の政治、経済、社会という広い文脈の中で理解する必要があります

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日本開国へ…1854年の「日米和親条約」

1854年3月31日に締結された平和友好通商条約、別名日米和親条約は、日本の孤立期を終わらせ、アメリカとの限定的な貿易と外交関係を開始する一歩となりました。

この条約の詳細について掘り下げていきましょう。

目的: 日米和親条約の主な目的は、アメリカと日本の間に平和、友好、親善の基盤を築くことでした。また、この条約は日本の近代化と国際交流の基礎を作ることを意図していました。

交渉: マシュー・C・ペリー提督と日本政府の代表者との間で交渉が行われ、この条約が成立しました。ペリー提督は1853年7月に艦隊を引き連れて東京湾に入港し、日本に対してアメリカ船舶への物資供給を可能にするための港の開放を要求しました。ペリー提督は日本政府に検討の時間を与えるために一度日本を離れましたが、1854年2月に戻り、日本は最終的に条約の条件に合意しました。

内容: 日米和親条約は12の条項で構成されていました。条約はアメリカ船舶に特定の特権を与え、下田と函館の2つの港をアメリカとの貿易に開放しました。さらに、下田にアメリカ領事を設置することが規定されていました。また、難破した船の船員を保護し、外交代表の交換を行うことについても規定していました。

批准: 日米和親条約は、アメリカ大統領の批准と上院の助言と同意、そして日本天皇の批准を必要としていました。署名日から18ヶ月以内に批准手続きが完了することとされていました。

日米和親条約は、日本の歴史の重要なターニングポイントとなりました。この条約は日本が世界との交流を開始し、近代化を進めるきっかけを提供しました。

また、この条約は19世紀に日本が他の西洋諸国と締結した後続の条約の道筋をつけることとなりました。

不平等条約「日米修好通商条約」の成立とハリスの交渉術

日米和親条約の締結から2年後の1856年、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスが日本に到着し、更なる貿易機会の拡大を求めました。

この時期、中国は第二次アヘン戦争でイギリスとフランスに敗れ、不平等な条約を結ばされたばかりでした。

これを背景に、ハリスは将軍府に対し、イギリスとフランスが日本に対する侵略を企んでいるとして脅迫し、アメリカとの条約締結がそれを防ぐ手段であると主張しました。

長期の交渉を経て、ついに1858年7月29日(旧暦では1858年6月19日)に日米修好通商条約が締結されました。

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金儲けの錬金術「金銀交換比率」

しかし、この条約には日本にとって不利な要素が多く含まれており、不平等条約と広く認識されています。特に問題となったのが、金と銀の交換レートに関する項目でした。

日本の金が海外へ!日本のインフレと外国への富の流出

当時、外国では1gの金を得るためには15gの銀が必要だったのに対し、日本では同じ1gの金と交換するためにはたったの5gの銀が必要でした。

外国商人たちはすぐさまこの事実を利用し、日本から大量の金が流出する状況を引き起こしました。

ハリス自身も日記に、この方法を用いて富を蓄積したと書き残しています。

この結果、日本の金は大量に海外に流出しました。その流出量の推定値はさまざまですが、最低でも1万両から最大で2,000万両とも言われ、現在の推定値は約10万両とされています。

このような状況は、日本のインフレを悪化させました。

将軍府はさらなる流出を防ぐために新たな金貨「万延小判」を発行しましたが、これが通貨価値の減少を引き起こし、国内経済は大混乱に陥りました。

開国と西洋諸国との不平等な交渉を進めていた幕府への国民の不満と批判は高まる一方でした。しかも、ハリスの抗議を受け、万延小判の製造はわずか3ヶ月で停止されることとなりました。

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倒幕運動のはじまりのはじまり

日米修好通商条約の交渉が進む中、幕府内部では「尊王攘夷(そんのうじょうい)」派と「穏偏」派の二つの派閥が形成され、激しい対立が見られました。

「尊王攘夷」とは、天皇を尊び(尊皇)、外国人を追放する(攘夷)という思想を指します。

この派閥は、日米修好通商条約を受け入れない主な理由として、この不平等条約が皇室の許可を得ずに締結されたことを挙げていました。

当時の孝明天皇は、日本の不利な状況を避け、日本人とその伝統文化を保護するために、国の開放に反対していました。

開国の代償!幕府の決断で日本社会が分断

しかし、幕府はこれに反し、1858年に井伊直弼が天皇の承認を得ずに日米修好通商条約を締結しました。

その後も同様の条約がイギリス、オランダ、ロシア、フランスと順次締結され、日本は一挙に国際社会に足を踏み入れることとなりました。

これに対し、長州藩は一時的に「脱藩攘夷」を主張し、条約の破棄を求めました。しかし、「脱藩攘夷」の主張は過激であり、外国との武力衝突に繋がる可能性があった。

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尊皇攘夷の限界……薩摩長州の痛ましい経験と変化

1863年、薩摩藩は島津久光の行列に遭遇したイギリス人を殺害する事件(生麦事件)を引き起こし、これに対する報復として、イギリスは薩摩藩への攻撃(英薩戦争)を開始しました。

これにより薩摩藩は大きな打撃を受けました。同じ年、長州藩は下関海峡を通過する外国船に砲撃を行い、これに対する報復として4カ国の海軍艦隊からの激しい砲撃を受けました。

これらの出来事を経て、長州藩は「尊王攘夷」の達成が現実的には不可能であると痛感しました。

また、約1年前に薩摩藩も英薩戦争でイギリスに敗北し、「尊王攘夷」の困難性を痛感していました。これにより、薩摩藩と長州藩は「尊王攘夷」を巡って激しく対立する状況に陥りました。

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