【ロスチャイルド陰謀論(6)】衝撃の真実!「アヘン戦争」で明らかになった国家規模の陰謀の全貌

アヘン戦争は19世紀に中国で発生した事件で、中国がアヘン中毒の流行という深刻な問題に直面しました。しかし、この戦争は単なる麻薬の流入問題だけではありませんでした。

今回は、アヘン戦争を通じて明らかになった国家規模の陰謀に焦点を当て、その全貌に迫ります。

【ロスチャイルド陰謀論(5)】命懸けの抵抗!ジャクソン大統領 vs 中央銀行
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清朝末期。大英帝国の新興資本は、市場を求め中国進出を企てていた。彼らが流入させた阿片の暴利を貪る特権商人、官僚達の中に、国を憂う清廉潔白な実力官吏・林則徐と豪商・連維材がいた。明治維新を始めとした近代アジア史に強烈な衝撃を与えた事件を活写する陳文学の最高峰。(「BOOK」データベースより)

Opium War

「アヘン戦争」

VICE/YouTube

アヘン戦争は、1840年から1860年にかけて、イギリスと清(現在の中国)の間で発生した一連の戦争です。イギリスは、中国へのアヘン販売を巡って中国と対立し、結果的に戦争に至りました。

戦争の背後には、清がアヘンの取引を禁止したことに対するイギリスの反発と、商業的な利益を求める欧米の国際的な圧力が存在しました。

陰謀論では、ロスチャイルド家がアヘン戦争の引き金となったとされます。彼らは、金融資本を通じて戦争を資金提供し、戦争の結果として生じる商業的利益を独占したと主張されています。

イギリスの中国との紅茶貿易とアメリカ独立戦争

18世紀のイギリスでは紅茶が貿易赤字と経済に大きな影響を与えていました。

最初の頃は、イギリス東インド会社は副次的な市場から紅茶を入手していましたが、18世紀初頭には直接中国から紅茶を輸入するようになりました。

イギリス政府は紅茶に重税を課すことで利益を得る一方、その高価な商品となった紅茶は密輸されることも一般的でした。

しかし、イギリスの生活と産業にとって必要不可欠になっていった紅茶は、需要が増えても中国からしか入手できませんでした。

結果として、大量の銀がイギリスから中国へ流出し、イギリスの貿易赤字は拡大し続けました。中国からの重要な商品を買う機会はほとんどありませんでした。

アメリカ独立戦争と貿易赤字

さらに厳しい状況となったのがアメリカ独立戦争です。

イギリスは北アメリカの重要な植民地を失い、中国への銀の支払いの負担が国の財政に重くのしかかりました。イギリスは2億5000万ポンドの巨額の資金をこの戦争に費やし、戦後は大きな国債を抱えることとなりました。

紅茶消費の継続

それでもなお、紅茶はイギリスで人気のある飲み物のままでした。

18世紀以来、イギリスは世界最大の紅茶消費国の一つとなり、紅茶はイギリスのアイデンティティの一部とも言える存在となっています。

一人当たりの年間供給量は1.9キログラム(4.2ポンド)と、その消費量は非常に高いものでした。

薬物が引き起こす悲劇、アヘン戦争の道

19世紀初頭、イギリスの貿易赤字は続く一方でした。

しかし、その解決策が見つかったのは、清朝中国でのアヘン喫煙の普及でした。

アヘンはケシの種から抽出された麻薬で、伝統的にはインドで薬や娯楽として使用されてきました。しかし、このアヘンは間もなく中国で一大ブームを巻き起こすことになるのです。

イギリスの綿製品とインドのケシ

同時期、イギリスは産業革命により大量の安価な綿製品を生産するようになり、その生産過剰は国内だけでは消費しきれない状況でした。

そこでイギリスは植民地であるインドにこれらの製品を輸出し、インドの伝統的な織物産業は壊滅的な打撃を受けました。

しかし、その一方でインドはケシの生産が盛んな地域でもありました。

三角貿易の確立

そこでイギリスは、アヘンの原料となるケシの栽培をインドで推進し、アヘンを生産するようになりました。

そして、このアヘンを中国に輸出し、そこで得た利益をもって中国からの紅茶を購入するという、三角貿易のパターンを確立しました。

これにより、イギリスの貿易赤字の問題は一時的に解消され、中国との貿易が盛んになりました。

Poppy Field

貿易の覇権、東インド会社の拡大とイギリスの影響力

17世紀から19世紀初頭にかけて、インド亜大陸は香辛料、織物、そしてその他の高級品で知られ、ヨーロッパの富裕層にとって魅力的な存在となっていました。

この地域は無限の可能性を秘めた土地と見なされ、1600年にはイギリスの商人たちはエリザベス1世女王に謁見し、東インドへの航海と貿易の独占権を要求しました。

これにより、商人たちは自身の資本を約7万ポンド投資し、イギリス東インド会社を設立しました。

その後、東インド会社は自身の軍隊を有し、巨大な影響力と権力を持つ主要なグローバルプレイヤーへと成長しました。

18世紀中頃から19世紀初頭にかけて、会社は世界の貿易の半分を支配し、その取引商品は綿、絹、藍染め、砂糖、塩、香辛料、硝石、紅茶、そしてアヘンを含む基本的な商品でした。

また、イギリス東インド会社はイギリス帝国のインド支配の先駆けとなりました。

東インド会社法とその影響

1813年には、東インド会社法により東インド会社の権限が更新されました。この法律により、会社はインドの支配を続けましたが、その商業の独占権は除かれました。

ただし、紅茶とアヘンの貿易、そして中国との貿易はこの例外とされました。

東インド会社の終焉とその後の影響

しかし、1857年のインドの反乱(セポイの反乱)以降、イギリス王室が直接的な支配権を握り、イギリス東インド会社の支配は終焉を迎えました。

これは、イギリスによるインドの直接支配(ラージ)の始まりとなりました。

ロスチャイルド陰謀論と誤解

一部には、1813年の東インド会社によるインドでの商業の独占が終了した時に、ロスチャイルド家が植民地支配を引き継いだという誤った認識が広まっています。

しかし、実際にはロスチャイルド家が直接インドの植民地支配を引き継いだという記録は存在しません。

ロスチャイルド家は主にヨーロッパで金融活動を展開しており、19世紀にはヨーロッパの金融界で大きな影響力を持つようになりましたが、インドの植民地支配に直接関与したという記録はありません。

BBC Studios/YouTube

イギリス東インド会社の後継者としての「ジャーデイン・マセソン商会」

イギリス東インド会社が中国との貿易を独占していた時代、ジャーディン・マセソン商会やデント商会などの私営貿易会社が下請けとして中国貿易に関与していました。

1833年に東インド会社の独占権が廃止され、これによりイギリスの商人たちはアヘン貿易に自由に参加することができるようになりました。

その結果、東インド会社の独占権廃止からわずか1年で、イギリスへの紅茶輸入は4倍に増加しました。

マセソン商会がアヘン貿易の支配権を握る

ジャーディン・マセソン商会は1832年に中国の広州(現在の広州)でウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンによって設立されました。

彼らはイギリス東インド会社の元船医であり、東インド会社の補助的な役割を果たしました。

ジャーディン・マセソン商会はアヘン貿易を支配する重要な私営貿易会社となり、その活動は東アジア全体に広がりました。

マセソン商会とトーマス・グラバー

この商会は日本では、特に幕末から明治時代にかけて活動したトーマス・グラバーとの関連性で知られています。

グラバーは長崎でグラバー商会を設立し、西洋の工業技術の導入や武器の貿易などを通じて、日本の近代化に大きな影響を与えました。

グラバーとマセソン商会との関連性は、東西交流の歴史において重要な一部を占めています。

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アヘン流入の暗黒時代!清朝中国を蝕むイギリスの巨大影響

イギリスによるアヘンの大量販売は、清朝中国の社会経済状況に深刻な影響を与えました。アヘンが中国に流入するにつれ、社会のあらゆる階層でアヘンの常用者と中毒者が急増しました。

1839年までに、中国国内のアヘンの常用者は推定で1000万人、中毒者は200万人にも上りました。これは中国社会に大きな痛手を与え、国内の貿易収支は大幅な赤字に転じました。

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イギリスよアヘンを持ち込むな!アヘン焼却で燃え上がる衝突の予兆

1839年、清朝の学者で官僚の林則徐(りん そくじょ)は皇帝によって特命全権大使として任命され、広州に派遣され、アヘンの取り締まりを行いました。

彼の要求は厳しかったといいます。それは、「全てのアヘンを引き渡せ。二度と中国にアヘンを持ち込むな。アヘンを持ち込む者は死刑とし、アヘンは没収される。3日以内にアヘンを持ち込まないことを宣誓する書を提出せよ」というものでした。

アヘン戦争の引き金となったアヘン押収の決断

広州に到着した林則徐は約2万箱のアヘンを押収し、これを海水と石灰で回収不能にした後、23日間にわたって焼却しました。この行動はイギリス側に大きな衝撃を与えました。

当時のイギリスの駐華総監チャールズ・エリオットは抗議し、イギリスの商船を沖で留めましたが、林則徐は宣誓書を提出しなければ貿易は継続出来ない応じました。

しかし、この林則徐のアヘン貿易への強硬な態度が、アヘン戦争の最初の火種になりました。

イギリスの宣誓書提出の拒否と衝突の連鎖

アヘンの押収と処分の後、林則徐はイギリス商人に対して今後のアヘン貿易を控えるという宣誓書を提出するよう要求しました。

しかし、これに対してイギリスの駐華総監エリオットは頑なに拒否。その結果、林則徐は貿易を認めず、イギリス商人を広州から追放しました。

広州を追い出されたイギリス人たちは一時的にマカオへと避難しましたが、やがてそこからも追放され、香港島周辺で状況が変わるのを待つこととなりました。

その後、香港で一人の中国人がイギリスの水兵に殴られて死亡するという事件が発生します。清朝が犯人の引き渡しを要求した際、イギリス側はこれを拒否。

この事態に対し、林則徐は商船への食料供給を断ち、外国商人の拠点であったマカオを武力で強制的に封鎖しました。

「売人 対 警察」非道な理由で第一次アヘン戦争が勃発

林則徐の厳しい取り締まりに直面し、イギリス貿易監督官のエリオットはイギリス本国へ援軍を求めることになりました。そして、1840年の初めにイギリスは艦隊の派遣を決定しました。

こうして、第一次アヘン戦争が始まりました。この戦争は、麻薬売人が警察と戦争を引き起こしたと言われる、不義の戦争として歴史に悪名を刻み続けています。

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戦争の裏にマセソン商会のロビー活動

マセソン商会は、第一次鴉片戦争が勃発した時期において、鴉片の輸出において主導的な役割を果たしていました。中国がアヘンの輸出を禁止する決定に対抗し、同社はイギリス議会におけるロビー活動を展開しました。

これがイギリス帝国艦隊が中国に展開する際の、決定打になりました。

アヘン貿易は倫理的な懸念からイギリス国内で大いに批判を受けていました。

特にアヘン戦争が差し迫る中、ウィリアム・グラッドストン(後の首相)をはじめとする議会内では「恥知らずな不正」と酷評されることもありました。

しかし、マセソン商会は巨額の資金をロビー活動に投じ、議会の反対派を説得することに成功しました。その結果、中国への軍事遠征の予算案は、賛成271票対反対262票の僅差で可決されました。

これにより、イギリスは16隻の戦艦と27隻の輸送船からなる大艦隊を中国へと派遣しました。目標は中国の主要都市である南京の占領であり、遠征軍はその進撃を開始しました。こうして、アヘン戦争が始まりました。

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屈辱の南京条約…中国主権の侵害と不平等条約の幕開け

技術的・軍事的に優れたイギリスは清国(現:中国)に比較的容易に勝利を収めました。第一次アヘン戦争は1842年8月29日に締結された南京条約により終結しました。

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南京条約の主な内容

南京条約は、以下の主な項目を含んでいます。

  1. 香港割議: 清朝は香港島をイギリスに割譲しました。これにより、イギリスは香港を基地として活動し、後に中国との間で一連の不平等条約を締結する基盤を築きました。
  2. 5つの都市の開港: 清朝は広州、福州、上海、寧波、厦門といった港湾都市を開港し、イギリスとの貿易を拡大しました。これにより、イギリスと他の西洋諸国は中国との貿易を行う権利を得ました。
  3. 通商関税の引き下げ: 清朝はイギリスとの間の関税を引き下げることに同意しました。これにより、イギリスと他の西洋諸国の商品が中国市場に進出しやすくなりました。
  4. イギリス人の治外法権: 南京条約により、イギリス人は中国の法律の適用を受けず、イギリスの裁判所によって裁かれることが規定されました。これはイギリス人に対する特権的地位を確立し、後の西洋諸国との不平等条約にも反映されました。
  5. アヘンの破壊: 南京条約では、中国がイギリスによって供給されたアヘンを没収・破壊することが義務付けられました。この破壊費用は中国が負担することとされました。
  6. 東インド会社への債務の返済: 中国がイギリス東インド会社に対して負っていた債務を返済することが定められています。
  7. 戦費の支払い: 中国はアヘン戦争中にイギリス軍が負担した費用に対する補償を支払うことに同意しました。この補償の総額は、広州の引き渡し費用を除いて2100万ドルと定められました。

さらに、明示されてはいないものの、イギリスは中国とのアヘン貿易の公式な承認を成功させました。アヘン戦争の責任を負った林則徐は降格され、新疆イリ地域に追放されました。

南京条約は、中国にとっての不平等条約の最初の例となりました。この条約は中国の主権を侵害し、西洋列強によって支配される道を開く一連の不平等条約の始まりとなりました。

中国にとって、この屈辱的な条約はその後の国際関係に大きな影響を与え、中国の近代史における重要な転換点となりました。

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南京条約後の自由港化とアヘン商人の台頭

南京条約の調印後、上海は自由港となり、多くの商人や商社を引き寄せました。その中には、広州でアヘン貿易に関与していたマセソン商会やデント商会などの注目すべき企業が含まれていました。

ジャーディン・マセソン商会の上海進出

マセソン商会は、広州でアヘン貿易を行っていたグリーン商会の後継者として知られています。彼らは南京条約後に上海へと事業を拡大し、幅広い貿易活動に従事しました。

マセソン商会は、アヘン貿易や綿花、紅茶、絹などの輸入・輸出において上海を拠点とし、上海の経済発展に大きく貢献しました。

デント商会の上海進出

デント商会もまた、広州でアヘン貿易に関与していた商人の家族によって設立された会社で、上海での商業活動を拡大しました。

彼らは上海の国際的な貿易港という地位を生かし、アヘンを含む様々な商品の取引や輸送に携わりました。

イギリスの貿易不満と新たな戦争計画「アロー戦争(第二次アヘン戦争)」

南京条約後、イギリスは中国との貿易から予想された利益を得られずに失望しました。そのため、中国に対して別の戦争を開始する計画を立てました。

「アロー号事件」

1856年10月8日、広州港に停泊していたイギリス船舶「アロー号」がアヘン密輸の容疑で中国の役人によって調査され、乗組員の一部が海賊行為の罪で逮捕されました。

この出来事が新たな戦争の引き金になりました。

イギリスの領事ハリー・パークスは、アロー号が香港の船舶であり、そのイギリスの旗が降ろされたことはイギリスに対する侮辱だと抗議しました。

しかし、事実とは異なり、アロー号は香港に登録されておらず、その登録はすでに期限切れだったことが明らかになりました。旗が実際に降ろされたかどうかも不明でした。

第二次アヘン戦争の勃発

それにもかかわらず、イギリスはこのアロー号事件を理由に、中国が広西省で宣教師を殺害したという問題で中国に対してすでに不満を抱いていたフランスのナポレオン3世を共同の軍事遠征に誘いました。

これが第二次アヘン戦争、またはアロー戦争(1856年-1860年)の始まりとなりました。

戦争の過程で、連合軍は中国の主要な沿岸都市や戦略的地域に対して海上および陸上の作戦を展開しました。清朝の正規軍と地方民兵を含む抵抗勢力と交戦し、重要な戦闘や包囲戦、小競り合いが行われました。

連合軍は優れた火力と軍事技術によって、清朝軍に大きな損害を与え主要な戦闘で勝利を収めると、新たな不平等条約(天津条約)を突きつけました。

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「天津条約」南京条約の延長にある新たな不平等条約

天津条約(または天津和約)は、1858年6月に天津で締結された一連の文書を指します。

清朝、ロシア帝国、第二次フランス帝国、イギリス、アメリカ合衆国が関与し、南京条約の規定を拡大する形で締結されました。

条約の内容

この条約には以下のような規定が含まれています。

  1. 追加の条約港の開放:天津を含む11の追加の条約港が外国との貿易や居住のために開放されました。
  2. キリスト教伝道活動の合法化:条約は中国でのキリスト教伝道活動を合法化し、中国への改宗者に保護を与えました。
  3. 北京への外国公使館の設置:条約は外国列強が北京に公使館を設置することを認め、それらに治外法権を与えました。
  4. 賠償金の支払い:中国は戦争費用の賠償金を外国列強に支払うことが求められました。
  5. 外国船舶の長江航行権:条約は外国船舶に長江およびその支流の航行権を与えました。
  6. 最恵国待遇の付与:条約は締約国に対して最恵国待遇を付与し、ある国に与えられた譲歩がすべての国に拡大されることを保証しました。
  7. 外国軍の駐屯権:条約は外国列強が公使館や領事館の保護のために中国に軍を駐屯させる権利を与えました。

天津条約は中国における外国の影響力の大幅な拡大を示し、清朝の主権をさらに浸食するものでした。

天津条約の反対運動が戦争の再開させる

天津条約が1858年6月に署名された後、1年後には正式に合意される予定でした。

しかし、清朝内部には条約の批准に強い反対意見がありました。

特に、北京に駐在する外国の使節の存在は、皇城に「野蛮人」が近づくと見なされ、大きな反発を引き起こしました。これらの声に押されて、清朝政府はイギリスとフランスの使節の北京入りを拒否しました。

清朝政府に対する圧力をかけるため、イギリス艦隊は天津の外港である大沽で軍事的なデモンストレーションを行いました。これに対して清朝軍が発砲し、戦闘が再開されました。

英仏による北京攻撃…清朝の悲劇的な結末

報復として、イギリスとフランスは共同の遠征軍を北京に派遣し、清朝政府に圧力をかけました。

この時期、イギリスとフランスの軍隊は北京の郊外にある円明園を略奪し、焼き討ちしました。清朝軍の死傷者は最大で3万人に達し、一方、イギリスとフランスの犠牲者は約2,900人でした。

清朝の当時の皇帝であった咸豊帝(かんぽうてい)は、戦闘から逃れるために河北省の承徳に逃亡しました。その後、英仏は残った清朝政府との交渉が行われました。

その結果、天津条約が正式に合意され、さらに北京協定も締結されました。

アヘンの貿易の合法化…さらなる不平等条約「北京条約」

1860年に北京条約が結ばれ、これにより第二次アヘン戦争が終結しました。

この条約により、九龍半島がイギリスに割譲され、香港島とストーンカッターズ島が「永遠に」イギリスのものとされました。北京条約にはアヘン貿易の合法化も含まれていました。

38年後の1898年には、イギリスは清朝との間でさらなる協定を結び、九龍に隣接する地域と235の島々を含む新界を99年間租借することに成功しました。

これにより、香港全域が1997年に中国に返還されるまで、イギリスの統治下に入ることとなりました。

経済と社会への影響

北京条約は、中国市場を西洋諸国に効果的に開放しました。農産物価格の低下は、多数の農民をさらに貧困に追い込み、社会的な緊張を引き起こしました。

上海のユダヤ系財閥!サッスーン家とロスチャイルド家の影響力が拡大

北京条約の終結後、中国での西洋の影響力が強まり、中国におけるその侵略の拠点として、上海が注目されるようになりました。

上海はサッスーン家やロスチャイルド家など、いくつかのユダヤ系財閥によって事実上支配されていました。

これらの家系は商業と金融の世界で巨大な影響力を持っており、上海には5000人ものユダヤ人が働いていたといいます。彼らの活動は中国だけでなく、世界中に広がっていました。

サッスーン家はファイナンスやアヘン貿易で蓄積した莫大な富を持つアジアでも最も強力なユダヤ系家族の一つであり、”東洋のロスチャイルド”として知られていました。

彼らは上海や香港に豪華なシナゴーグを建て、それらの多くは現在でも使われています。

不動産に真剣な投資家として上海にやって来たヴィクター・サッスーンは、一連の高級ホテルやアパートビルの建設で都市の姿を変えました。

サッスーン家は世界的に知られており、ビジネス活動から個人的な事柄まで、あらゆる情報が国際メディアに報じられていました。

同時期に中国国内では内乱が勃発!「太平天国の反乱」

この時代、中国は国内の混乱という大きな問題にも直面していました。この時期、最も重要な出来事の一つは、間違いなく太平天国の乱(1850年 – 1864年)でした。

太平天国の乱は中国の歴史上最も血なまぐさく、破壊的な内戦の一つであり、何百万人もの人々が命を失いました。

南京条約(1842年)の締結により、中国は香港をイギリスに割譲し、五つの港を開放することを強制されました。

この条約により、西洋列強の影響力が拡大し、それに伴ってキリスト教伝道師の数も増えました。これは太平天国の乱の背景を形成する要因の一つとなりました。

清朝政府は反乱の勃発後、太平天国の乱を鎮圧しようと努力しましたが、イギリスを含む西洋列強は、自身の貿易利益をさらに拡大するため、新たな不平等条約の交渉を進めていました。

この状況は中国社会の混乱を増大させ、太平天国の乱を一層悪化させる要因となりました。

太平天国の乱の間、反乱軍は中国の大部分を一時的に支配しました。しかし、西洋列強との間に結ばれた不平等条約により、中国は海外からの圧力を絶えず受け続けました。

これにより、国内の混乱はさらに加速し、その結果として、この時期は中国史上最も混沌とした時代の一つとなりました。

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秘密結社「洪門」

太平天国の乱は中国の社会政治的な風景を大きく変えた重大な事件であり、その背後には様々な勢力が関与していました。特に、洪門という秘密結社はその一部を成していました。

洪門は、中国の伝統的な秘密結社であり、社会的、政治的変革を目指していました。彼らはしばしば大衆の反乱や社会的動乱に関与し、太平天国の乱でも重要な役割を果たしました。

当時、洪門はアヘン貿易を通じて資金を調達し、これが反乱におけるその影響力を強める一因となりました。

太平天国の乱は、清朝政府と反乱軍との間で発生した大規模な内戦でした。この内戦は1850年から始まり、1871年まで続きました。

その間、約2000万人が命を失い、中国全土は混乱に陥りました。反乱の指導者である洪秀全は、彼自身が創設した太平天国という理想的な国家を作り上げることを目指していました。

その目標は、キリスト教と中国の伝統的な価値観を組み合わせた独自の宗教観を広め、社会の不公平を是正することにありました。

キリスト教伝道師は、太平天国の乱において重要な役割を果たしました。彼らの存在と影響力が反乱の根底にある強固な宗教的・イデオロギカルな信念を鼓舞し、その勢力を拡大するための動機付けを提供しました。

また、後の中国革命の父として知られる孫文も、洪門のアメリカ支部の重要なメンバーであったとされています。

ロスチャイルド家の関与についての疑問

一部の歴史家が提唱する説によれば、洪門はイギリス東インド会社やロスチャイルド家などの世界的な企業から資金援助を受けた可能性があるとされています。

しかし、この主張に関する具体的な証拠や詳細な過程については、現在も議論が続いており、結論が出ていません。

確かに、この頃のロスチャイルド家は、イギリス東インド会社と取引を行い、「ワーテルローの戦い」ではウェリントン公爵がナポレオンに勝利するための資金援助に関与していました。

しかし、これらの出来事は太平天国の乱の数十年前に起きています。ロスチャイルド家が洪門に直接資金を提供したという明確な証拠は存在しません。

2008年に中国銀行がロスチャイルド家の民間銀行および資産管理事業である「La Compagnie Financiere Edmond de Rothschild」の20%の株式を取得しました。

これは中国の金融業界とロスチャイルド家との間の重要な取引であり、中国の金融市場の国際化に大きな影響を与えました。しかし、この取引が洪門や太平天国の乱と直接関係があったという証拠はありません。

「HSBC(香港上海銀行)」アヘンの利益送金から世界の金融サービスへ

HSBC(香港上海銀行)は、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の直後の1865年に、スコットランド人で船舶会社に勤務していたトーマス・サザーランドによって設立されました。

この設立の主要な目的の一つは、アヘン輸出から得られた利益をイギリス本国への送金を容易にすることでした。

しかしながら、HSBCの活動と焦点は設立初期の目的を遥かに超え、時間とともに拡大し続けました。HSBCは業務を拡大し、香港と上海に支店を設立しました。

これは、これらの地域が国際貿易における重要性を増していたことを反映しています。

現在、HSBCは世界最大の金融サービス機関の一つとなり、62カ国と地域で約3,900万人の個人、法人、資産家の顧客にサービスを提供しています。

また、HSBCは香港ドルの発行者としても機能し、事実上の中央銀行としての役割も果たしています。

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日本における長い歴史とビジネスの展開

HSBC(香港上海銀行)は、日本における最も古い外国銀行の一つで、1866年に設立された横浜支店を通じて日本でのビジネスを始めました。

その後、HSBCは神戸、大阪、長崎に支店を展開し、明治時代には日本で最も重要な外国銀行の一つに成長しました。

20世紀初頭には、HSBCは日本の政府や都市に対して大規模な融資を行いました。これらの融資は、鉄道、水道、港湾建設などの産業やインフラプロジェクトの資金提供に使用されました。

第二次世界大戦後、HSBCは日本に代表を派遣する最初の銀行の一つであり、1947年には東京と神戸のオフィスが再開されました。

HSBCは日本と英連邦圏との間の貿易再開において重要な役割を果たしました。

最近では、HSBCは日本の造幣事業における一角を担っています。ただし、金融危機の影響を受けて、HSBCは一部地域での事業展開に慎重な姿勢を取っています。

日本の歴史に潜む陰謀?HSBCの疑惑

一方、HSBCが横浜や神戸の支店を通じて不平等条約を利用し、外国紙幣を発行して利益を得たという説があります。

また、その利益を超えて日本の小判をイギリスに送金したとの説もあります。これらの主張については証拠が不十分で、多くの研究者から疑問の声が上がっています。

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禁断のビジネス同盟!?サッスーン家とロスチャイルド家の繋がり

サッスーン家は、ユダヤ系の商人であるデイヴィッド・サッスーンを中心にファイナンスと貿易で巨額の富を築いた家族です。

元々バグダッドに拠点を置いていましたが、第一次世界大戦後にインドのボンベイに移り、1832年にボンベイでサッスーン商会を設立しました。その後中国やイギリスなど他の国々に移住しました。

その後、サッスーンはイギリス東インド会社からアヘン販売の独占権を取得し、アヘンを中国に密輸することで大きな利益を得ました。そのため、「アヘン王」という異名を持つようになりました。

また、サッスーンはイギリスの紅茶輸出の主要な仲介業者でもあり、「東洋のロスチャイルド」としても知られるようになりました。

香港の覇者!サッスーン家とマセソン商会の同盟が築いた支配

アヘン戦争でイギリスが勝利すると、彼の事業はさらに拡大しました。

1870年代には、彼の会社がインドのアヘン貿易の70%を制御し、全盛期にはサッスーン家が上海の総富の20%を占めていたと言われています。

サッスーン家は香港上海銀行(HSBC)の創設メンバーの一人であり、香港におけるもう一つの主要な勢力であるマセソン商会との同盟を結び、徐々に香港を支配下においていきました。

一方、ロスチャイルド家はHSBCの設立には直接関与していませんでした。しかし、2015年にHSBCはロスチャイルドをプライベートバンキング部門の再構築のために任命しました。

ロスチャイルド家とのつながり

デイヴィッド・サッスーンの孫であるエドワード・サッスーンが、1887年にパリのグスタフ・ド・ロスチャイルド男爵の娘であるアリーヌと結婚したことで、サッスーン家とロスチャイルド家は結婚によって関係が深まりました。

エドワードは後に下院議員として選出され、それまでメイヤー・ド・ロスチャイルドが代表していたケント選挙区のハイスの代表となりました。

マセソン商会、ケズウィック家、ロスチャイルド家、サッスーン家の密接な連携

1877年、サッスーン家と激しい競争状態にあったマセソン商会にウィリアム・ケズウィックはジャーディン・マセソンとサスーン・ロスチャイルド同盟との間で家族同士の結婚を通じた和解を提案しました。

こうして、アヘン貿易や他の倫理的に疑わしい活動に関与したこれらの2つの企業が連携することとなりました。

マセソン商会の一族であるウィリアム・ケズウィックはHSBCの取締役に任命され、サッスーン家が株式の大部分を保持している銀行において重要な役割を果たしました。

その結果、マセソン商会、ケズウィック家、ロスチャイルド家、サッスーン家は、複雑な婚姻関係を通じて密接に結びつきました。

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清朝末期。大英帝国の新興資本は、市場を求め中国進出を企てていた。彼らが流入させた阿片の暴利を貪る特権商人、官僚達の中に、国を憂う清廉潔白な実力官吏・林則徐と豪商・連維材がいた。明治維新を始めとした近代アジア史に強烈な衝撃を与えた事件を活写する陳文学の最高峰。(「BOOK」データベースより)
【ロスチャイルド陰謀論(7)】ペリー来航と明治維新!ロスチャイルド家の影響を考える

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