今回は、アメリカの歴史的な出来事である1835年のアンドリュー・ジャクソン大統領の暗殺未遂事件について掘り下げます。この事件は、中央銀行である第二合衆国銀行に対するジャクソン大統領の反対姿勢と関連しています。
大統領は中央銀行の存在を「怪物」と呼び、その延長特許を拒否しました。この背景には、特定の経済的エリート層を優遇し、地域や集団を疎外する可能性があるという懸念がありました。
【ロスチャイルド陰謀論(4)】米英戦争から見えてきたロスチャイルド家の影…陰謀視点で見る1812年
Second Bank of the United States
失われた勝利の陰にあった銀行の存在…米英戦争の真相
米英戦争(1812年〜1815年)は、米国の歴史において重要な節目の一つであり、その後の国家の財政と経済政策に深く影響を及ぼしました。その最中、アメリカは金融体制の不備という困難に直面しました。中央銀行や大規模な金融業者が存在しなかったために戦費の調達が難航し、結果的に戦争の勝利につながらなかったという見解が存在します。
1816年に第二合衆国銀行がジェームズ・マディソン大統領の下で設立されましたが、これは北部のアレクサンダー・ハミルトンとその支持者たちによる強固な経済信念に基づくものではなく、むしろ米英戦争後の財政危機からの国家信用の回復と通貨価値の安定を目指す緊急避難措置と見なされていました。特に南部共和派にとって、この銀行の設立は国家経済の均衡を取り戻すための必要悪とされました。
中央銀行の存在は、貨幣の安定と国の財政体制を支える重要な要素であり、戦時における戦費調達においてもその有用性が認識されました。しかし、第二合衆国銀行の設立は、必ずしも全ての人々にとって歓迎すべきものではありませんでした。これは、その存在が特定の経済的エリート層を優遇し、他の集団や地域を疎外する可能性を持っていたからです。
そのため、アンドリュー・ジャクソンのような政治家が中央銀行に反対する姿勢を示すことで、中央銀行の問題点とそれが広範な経済体制に与える影響についての議論が巻き起こりました。これは金融と政策、そして権力のバランスについての重要な議論であり、その結果がアメリカの経済史における重要な展開につながっていきます。
お金が命取りに? 米英戦争の敗因と金融体制の闇
米英戦争(1812年6月〜1815年2月)で米国が勝利にいたらなかった原因はいろいろ取り沙汰されていますが、最も大きな理由は、政府に戦費を融通できる中央銀行や大きな金融業者がいなかったので、お金がうまく回らなかったことです。
この投稿をInstagramで見る
アメリカ経済の鍵を握る銀行「第二合衆国銀行」の権力と挑戦
アメリカ合衆国最初の銀行である「第一合衆国銀行」は1791年に設立され、20年の特許状を持ちました。この銀行は連邦政府の財政エージェントとして機能し、税金の収納、政府の資金の保全、政府への貸付、銀行の支店網への政府預金の移動、政府の請求書の支払いなどを行いました。
この銀行は資本金1000万ドルでスタートし、そのうち200万ドルが政府による所有で、残り800万ドルが民間投資家による所有でした。特許状は1811年に期限切れとなり、1812年の米英戦争によって引き起こされた経済・金融危機により、中央銀行の問題が再び持ち上がりました。
そして、1816年にマディソン大統領の下で「第二合衆国銀行」が設立されました。この銀行は第一銀行と同様に20年の特許状を持っており、同じ構造で運営を行っていきました。銀行は25人の取締役から成り、そのうち5人は大統領によって指名され、上院の承認を受けました。
この投稿をInstagramで見る
富裕層と庶民の間の溝…第二合衆国銀行が招いた経済格差の深淵
南部共和派にとって、北部のハミルトンと彼の支持者たちのような確固とした経済政策上の信念に基ずくものではなく、いわば米英戦争後の財政危機の中での国家信用の回復と通貨価値の安定ための緊急避難措置にすぎませんでした。
さらに、第二合衆国銀行は新しい州や領土では当初から人気がありませんでした。州や地方の銀行家たちは、合衆国銀行が国家の信用や通貨に関連する業務を事実上独占していることに不満を持っていました。国中の裕福でない個人たちの間でも、合衆国銀行は一部の富裕層の利益を代表していると見なされ、それが不満を引き起こしました。
また、1817年と1818年にイギリスの個人たちはこの銀行に対して一時的な金貨の貸付を提供し、これが彼らの銀行株式への永続的な投資の基盤となりました。イギリスの銀行株式への投資額は1820年に300万ドル、1828年に400万ドルに達し、1819年には1000万ドルを超えました。
不満が渦巻く開拓地!ジャクソン大統領が挑んだ中央銀行との闘い
19世紀初頭、アメリカは活気に満ちた開拓の時代を迎えていました。その一方で、南西部の開拓農民の数が増加するにつれ、遠く離れた東部地域、特にワシントンD.C.の政治家たちに対する不満が高まっていました。それらの政治家は、産業資本家や大地主の支持を受けており、彼らの政策はしばしば開拓地の農民たちの利益とは一致しないものでした。
この時期、英国に対する1812年の戦争で活躍し、自身も西部の農業出身であったアンドリュー・ジャクソン将軍が、開拓地の人々の声を代弁する存在として台頭しました。彼は開拓地の理想を体現し、開拓地の農民たちから強い支持を得ることができました。
ジャクソンは大統領に就任すると、中央銀行である第二合衆国銀行に対して強い反対の意志を示しました。この当時、中央銀行は国の財政と経済を大いに左右する権力を持っていましたが、ジャクソンはそれを「怪物」と呼び、その存在を深く懸念しました。彼は「銀行業務は常備軍よりも危険である」と語り、未来の世代が払うべきであるお金を現在の資金として使うことは、「大規模な詐欺行為」であるとまで非難しました。
その前任者であるトーマス・ジェファーソンもまた、中央銀行に対する同様の懸念を示していました。特に、彼は紙幣を発行する銀行に対して強い警戒心を持っていました。彼は紙幣に依存する金融体制が、生産的な資本ではなく、商業と農業から抽出した資本を投機的な投資に使うものであると主張しました。彼はこのような紙幣体制が、市民の勤勉さや倫理を促すのではなく、悪徳や怠惰を育み、最終的には立法機関内部での腐敗を招くと懸念しました。
こうしたジャクソンとジェファーソンの見解は、その時代のアメリカ社会における開拓者や小規模農民の声を代弁するものであり、当時としては新興の金融体制への広範な不信感を示しています。
陰謀か真実か?ロスチャイルド家とアメリカの銀行戦争
第二合衆国銀行の特許状の有効期限が迫る4年前、1832年に銀行の大統領であったニコラス・バイドルは特許状の延長を求める決定をしました。しかし、この申請は当時のアンドリュー・ジャクソン大統領によって却下され、これがきっかけとなり、いわゆる「銀行戦争」が勃発しました。
ジャクソン大統領は、特にニューヨークなどの都市における私設銀行家たちと中央銀行の間で戦いを繰り広げました。この争いの中で、バイドルはジャクソンの政策に対抗する手段として財政引き締めの戦略を採用し、それを使って反政府感情を煽りました。
ジャクソンの中央銀行に対する攻撃に反撃するため、バイドルは信用収縮策を取り、借り手に返済を求めて意図的に金融危機を引き起こしました。バイドルの目的は、これによって中央銀行の存在が経済の安定に不可欠であることをアメリカ国民に示すことでした。
なお、バイドルはジェームズ・ロスチャイルドの代理人としてパリで活動していたという記録があります。ロスチャイルド家は、18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパで最も影響力のある銀行家の一家で、多くの国際的な金融取引を支配していました。
このことから、バイドルとロスチャイルドの関係、そしてロスチャイルド家がアメリカの銀行戦争にどのように関与したのか、という問題は、歴史的な陰謀論の対象ともなっています。
アメリカ政治の陰謀を探る!ホイッグ党の謎とロスチャイルド家の関連
1830年代、アメリカ合衆国第二合衆国銀行の再建を主張していた政党がありました。それがホイッグ党で、アンドリュー・ジャクソン大統領と民主党の政策に反対する様々な派閥が結集し、結成されました。
ホイッグ党は、連邦政府の強化、アメリカ合衆国銀行の復活、最高裁判所と上院の権威の維持を提唱していました。また、「ホイッグ」という名前は、君主制に反対したイギリスのホイッグ党から採用されました。
「ロンドン市の代表として」ライオネル・ド・ロスチャイルドの下院議員就任
1847年、イギリスの総選挙でホイッグ党に所属していた、ライオネル・ド・ロスチャイルドがロンドン市の代表として下院議員に選出されました。
しかし、ロスチャイルド家が出身するユダヤ人には議会での発言権が制限されていました。特に、ライオネル・ド・ロスチャイルド自身は、ユダヤ人として初めて英国議会の議員に選出されたにも関わらず、議会における宣誓がキリスト教のものであったためにその職務を果たすことができませんでした。
しかし、1858年、議会での宣誓式の形式が変更され、ユダヤ教徒が議会で宣誓することが認められるようになりました。これにより、ライオネル・ド・ロスチャイルドは正式に議会での席を占め、議員として活動することができるようになりました。
ホイッグ党とロスチャイルド家の関係を解き明かす
以上の事実から、ホイッグ党とロスチャイルド家、そしてその関連性について考察する余地があります。ただし、ここで重要なのは、ロスチャイルド家とホイッグ党の関連性が、アメリカのホイッグ党と直接的なつながりがあったわけではないということです。
ロスチャイルド家の影響力が、イギリスのホイッグ党との関係を通じてアメリカのホイッグ党に影響を与えた可能性はあると考えられますが、その具体的な証拠は明確には存在していません。
ジャクソン大統領暗殺未遂事件
アンドリュー・ジャクソン大統領は、1835年1月30日に精神に異常を抱えたリチャード・ローレンスという男による暗殺未遂を生き延びました。ジャクソンは国会議事堂で行われた葬儀を後にする際、ローレンスが2丁のピストルを発射しましたが、どちらも不発となりました。ジャクソンはその後、杖でローレンスを打ち、通行人たちが彼を制止しました。ローレンスは後に心神喪失を理由に無罪とされ、生涯を精神病院で過ごしました。
暗殺者と銀行家の影
アンドリュー・ジャクソンへの暗殺未遂と第二合衆国銀行への反対との間に直接の関連は示されていません。ただし、ジャクソンは銀行に強い反対意見を持ち、1832年に特許の延長に拒否権を行使しました。この銀行の支持者は、国際的な銀行家グループを含め、銀行の存続を求めましたが、ジャクソンは彼らに立ち向かいました。
この投稿をInstagramで見る
第二合衆国銀行の終焉とその影響
第二合衆国銀行は、1816年2月から1836年1月まで特許が与えられていました。第一合衆国銀行をモデルにした第二合衆国銀行は、1816年にジェームズ・マディソン大統領によって特許が与えられ、1817年1月7日にフィラデルフィアの本店で営業を開始し、1832年までに全国に25の支店を持つようになりました。
しかし、ジャクソン大統領は、この銀行が私立銀行と国家の間の金融の橋渡しをし、政府の金融政策を適用する権限を持つことに反対し、1832年に銀行の特許延長を拒否しました。
1836年に銀行の特許が失効すると、アメリカ合衆国は中央銀行を持たない金融システムに移行しました。
1836年には特許延長の承認が議会が拒否されたため、期限切れととなった第二合衆国銀行は機能を停止。その後のアメリカ経済は、中央銀行を持たないまま進んでいくことになりました。
これは、国際的な銀行家たちが金融政策の安定が経済発展に不可欠であり、中央銀行が安定した金融政策のために不可欠であると考えていたため、彼らの行動とは逆の結果でした。彼らは世界中の独立国に中央銀行を設立しており、そのため第二合衆国銀行の期限切れは彼らにとって非常に不都合でした。
しかし、その後もアメリカ経済は拡大を続け、1863年には国立銀行法が制定され、連邦政府が国内の銀行を規制する新たな枠組みが設けられました。そして、その約半世紀後の1913年に、現在のアメリカの中央銀行である連邦準備制度が創設されました。この制度はアメリカの金融政策を統括し、アメリカ経済の安定化と成長を目指しています。
【ロスチャイルド陰謀論(6)】衝撃の真実!「アヘン戦争」で明らかになった国家規模の陰謀の全貌