この記事では、「ワーテルローの戦い」でのロスチャイルド家とナポレオンの対決や、ナポレオンの敗北と賠償金支払い、そしてウィーン会議やアーヘン会議など、19世紀ヨーロッパの歴史的な出来事について解説していきます。
さらに、ロスチャイルド家が金融界で巨大な影響力を持ち、フランスの賠償金取引にも関与したことを紹介します。
Nathan Mayer Rothschild
巨大な影響力!ロスチャイルド家の戦略と「ワーテルローの戦い」
この投稿をInstagramで見る
ロスチャイルド家と「ワーテルローの戦い」の間には、伝説的なエピソードが存在します。1815年、ナポレオンと連合軍との間で行われたこの戦いは、ヨーロッパの歴史を大きく左右しました。
戦争の勝敗が金融市場を揺るがす!ナポレオンとロンドンの金融マインドゲーム
19世紀初頭、ヨーロッパは重要な時期を迎えていました。イギリスとナポレオン率いるフランスとの間で繰り広げられた戦争は、ヨーロッパ全土にその影響を及ぼしました。この時期、イギリスは戦争費用を捻出するため、政府債券の発行により資金を調達していました。
当時のイギリスは、経済大国でありながらも、ナポレオンの力に対抗するには膨大な戦費が必要でした。政府は戦争費用を捻出するために、大量の債券を発行しました。しかし、これらの債券は戦争の結果に大きく影響を受けるもので、イギリスが敗北すれば価値が大幅に下落すると予想されていました。
当然のことながら、この状況は金融市場に大きな不安をもたらしました。当時すでに世界の金融の中心地であったロンドンでは、多くの投資家がこの紛争の結果に不安を感じ、イギリス政府の債券の価値について深刻な懸念を抱いていました。
こうした中、金融市場での情報は非常に重要となりました。戦争の結果が金融市場にどのような影響を及ぼすかをいち早く予見できる者は、大きな利益を得ることができるということを、この時期の投資家たちは痛感していました。
同じ頃、アメリカがイギリスに宣戦布告
この投稿をInstagramで見る
1812年6月、アメリカ合衆国はイギリスに対して宣戦布告しました。この宣戦布告は、両国間の多くの紛争が原因でした。イギリスはアメリカ市民を強制的に王立海軍に従事させるため、徴兵を継続的に行っていました。
また、イギリスはアメリカのフリゲート艦(USSチェサピーク)に攻撃を開始、これは2年前にも戦争の引き金となるほどの事態でした。さらに、北西部領土とカナダとの国境をめぐる争いも続いていました。
ジェームズ・マディソン大統領は、イギリスがアメリカ合衆国に対して犯した数々の不正や違法行為を訴えました。その中には、アメリカの船員を王立海軍に徴募すること、商船への嫌がらせ、商業の封鎖などが含まれていました。また、先住民族と西部へ進出するアメリカの開拓者との間で再び敵対関係が生じていることにも言及しました。
マディソンのアメリカの不満のリストにより、議会はイギリスに対して戦争を宣言する正当な理由を持つこととなりました。下院は賛成49票対反対79票で戦争に賛成し、上院も賛成19票対反対13票で同様に賛成しました。
1812年6月18日、マディソンは宣言を署名して法律にしました。これはアメリカ合衆国が他国に公式に戦争を宣言した初めてのケースでした。
フランスへの恩義とその役割
しかし、ここで重要な点を明確にする必要があります。それは、アメリカがイギリスに戦争を宣言した理由は、アメリカ独立戦争中にフランスが提供した援助に対する恩義から来ているわけではないという事実です。
フランスは、独立戦争中にアメリカに資金、装備、さらには軍隊を提供するなどの援助を行っていました。これにより、新生国家アメリカはイギリスとの長期間にわたる戦争を勝ち抜くことができました。そのため、フランスとアメリカの間には深い絆と感謝の念が生まれました。
しかしながら、1812年の宣戦布告は、この歴史的な恩義によるものではありません。その理由は、アメリカがイギリスに戦争を宣言した主な動機は、イギリスの海上封鎖、商船への嫌がらせ、アメリカ人への強制徴募、北西領土での国境紛争などの具体的な不満点が挙げられていたからです。
「ワーテルロー戦い」世界史を塗り替えたナポレオンとロスチャイルド家の対決
1815年、ヨーロッパはナポレオン・ボナパルトのフランス帝国と、アーサー・ウェリントン率いるイギリス・オランダ連合軍との間で、歴史的な戦争が行われました。この戦争の舞台はワーテルローで、それは世界史の大きな転換点となることで知られています。
ナポレオンは一度は失脚したものの、数ヶ月後には力を取り戻してフランスの統治者として復帰しました。しかし、その支配力は以前ほどではなく、英蘭連合軍との戦闘でさらに弱まることとなりました。もしウェリントン公率いる連合軍がワーテルローの戦いで敗北していたなら、フランス軍はドーバー海峡を渡ってイギリス本土を侵略する可能性もあったでしょう。そのため、この戦いの結果はイギリスとヨーロッパ全体の命運を左右するものでした。
これらの歴史的な出来事と並行して、当時の金融業界で力を持っていたのがロスチャイルド家でした。特にネイサン・メイアー・ロスチャイルドはロンドンの金融市場で大きな影響力を持っていました。彼はイギリス政府の戦争資金を提供するために、政府債券を大量に購入していました。
したがって、この戦いは単なる軍事的な対決だけでなく、金融市場におけるネイサン・ロスチャイルドとナポレオンとの戦いでもあったとも言えます。
「ネイサン・ロスチャイルド」金融界の巨人がナポレオン戦争を支える
19世紀初頭、ネイサン・ロスチャイルドはマンチェスターで繊維貿易と金融の事業を立ち上げ、やがて彼はその事業をロンドンに移転させました。彼が1811年に設立した会社、N.M.ロスチャイルド&サンズは、英国の政府債券市場に大きな影響力を持つことになりました。これは、ナポレオン戦争が激しさを増す時期でもあり、ロスチャイルド家はイギリス政府が戦争資金を調達するための主導的な役割を果たしました。
ネイサン・ロスチャイルドはウェリントン公率いるイギリス軍に資金を供給するため、自身が構築した独自のネットワークを活用しました。彼と彼の事務所であるN.M.ロスチャイルドは、金塊と外国為替の取引を行い、これらの分野での顕著な成功により、イギリス政府からウェリントン公への資金供給契約を獲得することができました。
ネイサンは他のロスチャイルド兄弟と共に、硬貨を買い集め、現地通貨としてウェリントン公率いるイギリス軍に送るためのネットワークを構築しました。このネットワークでは騎手、船舶、そして伝書鳩が利用されました。イギリス軍がスペインとポルトガルに駐留している間、ネイサンは軍事行動を支援するために必要な資金を提供し続けました。
ネイサン・ロスチャイルドがイギリス政府の戦争資金調達を支援したことは、金融史上で非常に注目すべき出来事であり、その影響は今日まで続いています。
伝説になった市場操作「ネイサンの逆売り」
ネイサン・ロスチャイルドは、ワーテルローの戦いの結果を知った最初の銀行家の一人であると広く認識されています。彼はこの情報を使って株式市場で大規模な操作を行い、大量の株式を売却し、他の投資家がイギリスが戦争に敗北したと誤解するよう仕向けました。株価が急落した隙に彼は買い戻しを行い、莫大な利益を得ました。現代の通貨に換算すると約2000万ポンドを稼いだと推定されています。
ネイサンの大胆な市場操作は伝説となり、「ネイサンの逆売り」と呼ばれました。ネイサンは「街に血が流れる時に買いなさい」と言う有名な言葉を残していますが、これはナポレオン戦争時代のネイサンに帰される格言です。当時、ネイサンは約100万ポンドという天文学的な利益を上げ、その1日で彼の財産が2,500倍に増えたと言われています
一部の作家は、ネイサンが実際にワーテルローに居合わせ、勝利の最初の知らせを持ち帰ったと主張しています。彼は一晩中馬を乗り継ぎ、ヨーロッパを横断し、真夜中に英国海峡を渡ったとされています。
しかし、ロスチャイルドの財務を詳しく分析すると、これは事実ではないことが判明しています。
ロスチャイルド家とヨーロッパ金融界…影響力の根拠と陰謀論の検証
陰謀論の一つに、ロスチャイルド家がワーテルローの戦いで得た巨額の利益を使ってイングランド銀行の通貨発行権を手に入れ、その後イギリス中央銀行の支配者となったというものがあります。また、各国の財務大臣がロスチャイルド家に取り込まれ、国債発行時にロスチャイルド家に多額の手数料を支払い、資金が必要になればロスチャイルド家に借金をせざるを得ない状況に陥ったともされています。それどころか、ヨーロッパの金融を支配したという陰謀論も存在します。
しかし、これらの主張は事実ではありません。ロスチャイルド家がイングランド銀行やその通貨発行権を獲得したという証拠はありません。さらに、各国の財務大臣がロスチャイルド家によって操作されていたという主張も根拠がないものです。ロスチャイルド家は19世紀のヨーロッパ金融界で非常に影響力を持つ存在でしたが、これは彼らのスキル、洞察力、そして良いタイミングによるものであり、何らかの陰謀によるものではありません。
この投稿をInstagramで見る
「支配しているの私だ」
「英国の王座にどんなやつがいても気にならない。英国の通貨供給を支配する者が大英帝国を支配する。英国の通貨供給を支配しているのは、私だ」この言葉、はロスチャイルド家の金融支配の象徴として度々引用されますが、これらの言葉の出典は確認できません。
金融界の巨人!ロスチャイルド家のヨーロッパ支配の真実
確かに、ロスチャイルド家は19世紀ヨーロッパの金融界で巨大な影響力を持ち、多くの政府債券の発行や金融サービスの提供において重要な役割を果たしました。
ロスチャイルドはヨーロッパやアメリカの産業化の進展を金融的に支え、鉄道システムやスエズ運河の建設など、重要なインフラプロジェクトの資金提供を行いました。
その金融活動はフランクフルトのマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドから始まり、彼は金融顧問として活動し、ヘッセン=カッセルのランドグラフに仕え、ヨーロッパの君主をイギリス政府から援助する代理人となりました。
その後、ロスチャイルド家はヨーロッパの投資銀行業やブローカージュの主要な力となりました。彼らはロンドンでバロンの地位を得、ロスチャイルド自然史博物館を設立しました。
彼らはヨーロッパ全体で収益性の高い投資を行い、財務管理において確固たる評判を築きました。彼らは国際金融の発展の先駆者となり、フランクフルトを始めとするロンドン、パリ、ウィーン、ナポリなどに支店を展開しました。
ロスチャイルド家は、商品取引や外国為替に関与する小規模事業を皮切りに、商業銀行、プライベートバンキング、資産管理、企業の合併・買収といった事業活動を展開していきました。
しかし、その活動は複雑な金融風景の中の一部であり、一部の伝説が示すような全面的な金融支配とは異なります。その影響力を適切に理解するためには、金融史全体の文脈を理解することが必要です。
Napoleon’s defeat
ナポレオンなき世界
この投稿をInstagramで見る
ワーテルロー以前の転機!ナポレオンのロシア遠征と敗北の結末
ワーテルローの戦いの数年前、1812年にナポレオンはロシア遠征に踏み出しました。しかし、モスクワに到着したものの、冬の寒さに敗れて撤退せざるを得ませんでした。この戦いで初めて正規兵との戦闘で敗北を喫したことがきっかけとなりました。その後、1813年にはライプツィヒの戦い、または「諸国民の戦い」と呼ばれる戦闘が、ナポレオンとヨーロッパの諸国との間で行われました。
この戦争は非常に大規模で、多くの国々が参戦しました。そのため、しばしば「第六対仏大同盟戦争」とも呼ばれています。
敗北と追放!ライプツィヒの戦いからエルバ島流罪へ
ライプツィヒの戦いで、プロイセン、ロシア、オーストリアの連合軍に敗北したナポレオンは、連合軍によってエルバ島に流罪となりました。エルバ島は、ナポレオンの出生地であるコルシカ島の東約48キロメートルに位置しています。
ナポレオンへの流罪条件は比較的寛大でした。彼はエルバ島に居住し、年間200万フランの補助金を受け取り、皇帝の称号を保持し、そして400人の近衛兵を維持することが許されました。
エルバ島への流罪後、フランスの新たな統治者としてルイ16世の兄であるルイ18世が選ばれました。この時期、フランス革命やナポレオンの影響を受け、ヨーロッパ各地では独立を目指す運動が活発化しました。
秩序回復の舞台裏!ウィーン会議とヨーロッパの政治再編
ヨーロッパはナポレオンの遠征によりフランスの支配下に置かれてましたが、ナポレオンの敗北と退位により、各国の国境や政治体制の再編について議論が交わされることになりました。
それが、1814年から1815年にかけて、オーストリアの首都ウィーンで開催された国際会議(ウィーン会議)です。 この会議は、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を回復させるために開催されたものでした。
皇帝と資本家の対立!アレクサンドル1世とロスチャイルド家の闘い
しかし、各国の利害が対立し、会議は混乱状態に陥りました。フランスに課された2500フランの賠償金にもかかわらず、各国は巨大な戦争債務を抱えていました。この時期、最大の債権者であったのはロスチャイルド家で、特にネイサン・ロスチャイルドが注目されました。
ウィーン会議における主要人物としては、ロシアの皇帝アレクサンドル1世も挙げられます。彼は戦後のヨーロッパの秩序回復を試み、キリスト教国の団結による「神聖同盟」を提唱しました。しかし、この提唱はユダヤ教徒を敵視するものであり、ユダヤ人資本家であるロスチャイルド家はこれを嫌悪しました。
ロスチャイルド家は戦争中に各国の資金調達に重要な役割を果たし、西欧諸国に中央銀行を設立していました。ロスチャイルド家は、この機会を利用してロシアにも中央銀行を設立しようとアレクサンドル1世に提案しました。しかし、皇帝はこの提案を拒否しました。その後、アレクサンドル1世は1825年に不審死を遂げました。
再び皇帝へ!ナポレオンのエルバ島脱出と返り咲き
1815年、フランス国内では新たに即位したルイ18世に対する不満が高まりました。この機を捉えてナポレオンはエルバ島を脱出し、パリへ戻り皇帝の座に再び就きました。
その脱出の際、エルバ島では彼は「人肉食い」、フランス本土に上陸したときには「コルシカの怪物」と呼ばれていました。パリに近づくにつれて、彼への呼び名は「怪物」「暴君」「簒奪者」と変わり、最終的にパリに到着すると「ナポレオン」「皇帝」として歓迎されました。
しかし、その返り咲きは長くは続きませんでした。ナポレオン軍はワーテルローの戦いで敗北し、1815年7月3日にパリは再度占領され、ナポレオンは再び権力を失いました。彼は当初、アメリカへの亡命を考えていましたが、イギリス軍によって捕えられ、南大西洋の遠隔地であるセントヘレナ島へと流されました。
1815年10月、2ヶ月の航海の末、ナポレオンはセントヘレナ島に到着しました。少数の側近と共に行きましたが、彼の行動はイギリス兵によって厳しく監視されました。その結果、ナポレオンの活動は厳しく制限され、彼は自由な行動を取ることは許されませんでした。
敗戦と賠償金!ナポレオンの終焉と第二次パリ条約の成立
一方、ナポレオンがエルバ島から脱出し、フランスに戻って政権を再び握ったため、ウィーン会議は一時中断されました。
ナポレオンが最終的にワーテルローの戦いで敗北した後、ウィーン会議は再開され、その結果は第二次パリ条約として形式化されました。
1815年のパリ条約(第二次パリ条約)は、ナポレオン・ボナパルトの敗北と2度目の退位の後の1815年11月20日に署名されました。この条約により、フランスは700万フランの賠償金を支払うことが求められ、国境は1790年1月1日のものに戻されました。しかし、フランスがイギリスの同盟国に支払った賠償金の総額は7億フランに達しました。
金融界の支配者!ロスチャイルド家とフランスの賠償金取引
そのフランスの賠償金支払を引き受けたのが、ヨーロッパの金融市場に大きな影響力を持つロスチャイルド家でした。ロスチャイルド家のジェームズ・ロスチャイルドは、フランスのロスチャイルド会社の社長であり、兄弟の中で最も若い者でした。
ジェームズは1817年から1818年にかけて、フランスがイギリスの同盟国に支払う予定の賠償金を保証するための債券を引き受けました。ジェームズは債券の売却収益を投資家への融資に充て、一部の報告によれば、年利率50%を得たとされています。
このような、ロスチャイルド家の行動は、19世紀のヨーロッパの金融市場における彼らの地位と影響力を示しています。
ヨーロッパ再建の鍵!「アーヘン会議」とロスチャイルド家の力
アーヘン会議は、1818年にドイツのアーヘンで開催された国際会議で、1815年のベルギー戦争とワーテルローの戦いの後の状況を解決することを目的としていました。参加国はイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアなどの勝利国とフランスなどの敗北国で、彼らは戦後の状況とフランスからの賠償金について話し合いました。
会議の中で特に注目されたのは、ヨーロッパの金融市場で力を持っていたロスチャイルド家の存在でした。彼らはユダヤ系の銀行家一族で、他の商人たちは彼らを金融市場から排除しようと、旧体制と共謀しました。
しかし、会議の最中、フランスの国債がヨーロッパ全体で暴落しました。これにより、各国の代表たちは、フランスの財政が崩壊すれば、賠償金を回収できなくなるという事態に直面しました。この市場操作はロスチャイルド家によるもので、彼らはそれを可能にするほどの大きな富を持っていました。
この事態に直面した出席者たちは、ロスチャイルド家の力を認識し、アーヘンに来ていたソロモンとカール・ロスチャイルドとの交渉を開始しました。その結果、債券市場は徐々に安定を取り戻しました。
ロスチャイルド家は19世紀のヨーロッパの金融市場において大きな影響力を持っていました。彼らはナポレオン戦争中およびその直後に、オーストリアとイギリスの財政を支援しました。これに感銘を受けたオーストリアのメッテルニヒ宰相とシュターディオン財務大臣は、彼らをオーストリアの貴族に昇格させるよう推薦しました。その結果、ロスチャイルド家は1817年にオーストリア帝国の勅令により、貴族の称号である「フォン(von)」を授与されました。
この投稿をInstagramで見る