【ロスチャイルド陰謀論(18)】戦争の代償、地獄の刻印!ヴェルサイユ条約が導いた第二次大戦の序章

今回は、第一次世界大戦を終わらせたヴェルサイユ条約がどのように第二次世界大戦への道を開いたのか、その背後にある政治的な複雑さと経済的な力について詳しく解説しています。

ドイツの経済的な混乱、国民の間の不満と憤り、そして極右のナチス党の台頭といった歴史的な出来事を通じて、ヴェルサイユ条約の影響を具体的に理解することができます。

【ロスチャイルド陰謀論(17)】バルフォア宣言とは何だった?ユダヤ国家の起源にまつわる陰謀論
created by Rinker
第一次世界大戦は、アメリカの参戦とドイツ帝国の崩壊を経て休戦が成立し、パリ講和会議が開かれる。だが、「十四箇条」に基づく「公正な講和」を求めるドイツ、「国際連盟」による世界秩序の再編を目指すアメリカ大統領ウィルソン、そして英仏の連合国首脳の思惑には大きな隔たりがあった。それまでの講和のルールになかった「戦争責任」をドイツに求めるべきなのか。人類初の世界戦争の終結をめぐる息詰まる駆引を描く。(「BOOK」データベースより)

Paris Peace Conference

ヴェルサイユ条約の結末が招いた悲劇と陰謀

US National Archives/YouTube

ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦の終結を公式に宣言した1920年の条約であり、その中でドイツに課された重い賠償金と領土の割譲は、間違いなく次の大戦、すなわち第二次世界大戦への序曲となったと言えるでしょう。この条約は、ドイツ国民にとって、地獄のような審判でした。

しかし、条約がなぜそうなったのか、それはどのようにして第二次世界大戦への道を開いたのかを理解するためには、その背後にある政治的な複雑さと、それを煽った経済的な力に目を向ける必要があります。

ヴェルサイユ条約が結ばれた後、ドイツの経済は壊滅的な打撃を受けました。重い賠償金により、ハイパーインフレーションが発生し、多くのドイツ国民が貧困に苦しむこととなりました。この経済的な混乱が、国民の間に不満と憤りを生み、結果的には極右のナチス党の台頭を助けました。

同時に、多くのドイツ人はヴェルサイユ条約を不公平と感じ、これがドイツの名誉を汚したという認識が広まりました。この感情が、再び戦争の道を選ぶ原動力となり、国民の間に蔓延しました。

このように、ヴェルサイユ条約はドイツにとって地獄の審判であり、その結果は第二次世界大戦への序曲となったのです。しかし、このすべてを単一の陰謀論に帰するのは歴史的事実を無視することになるでしょう。それぞれの事件や決定には、その時代の複雑な政治的、経済的、社会的背景が存在し、それらを無視することはできません。

夢と現実の断絶!ウィルソンの平和原則とドイツの降伏

1918年1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンは、大戦終結と世界平和を視野に入れた「14か条の平和原則」を発表しました。その中で彼は、「民族自決」の原則と「国際平和機構」の設立、つまり後の国際連盟の創設を提唱しました。

8つの条項は協商国の勝利に対する領土と政治的解決に関連しており、その中にはヨーロッパにおける民族自決の原則も含まれていました。残りの条項は今後の戦争勃発を防止するための原則で、最後の条項では国際連盟を通じた国際紛争の解決を呼びかけていました。ウィルソンは、この原則を通じて「勝利のない平和」を実現し、「すべての戦争を終結」させることを望んでいました。

しかし、この理想と現実は大きく乖離してしまいました。1918年10月、敗北が見えてきたドイツ政府はウィルソンに訴え、14カ条に基づく交渉を求めました。それから1カ月間の秘密交渉の末、結局ドイツに明確な保証は与えられず、11月11日に休戦協定が調印されました。この休戦協定は形式上は停戦であったものの、事実上はドイツの降伏であり、その内容は後のヴェルサイユ条約の厳しい条項の予告とも言えるものでした。

パリ講和会議の結末!ヴェルサイユ条約がもたらした世界の変革

Delegates Leaving The Palace after Sigining the Treaty of Versailles

1919年6月28日、パリ講和会議がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で開かれ五大国の首脳が集まりました。その中にはアメリカのウィルソン大統領、イギリスのデヴィッド・ロイド・ジョージ首相、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相、そして日本からは西園寺公望元首相が全権特使として参加しました。

これらの国のリーダーたちは、条約の内容について数ヶ月にわたり議論を交わし、第一次世界大戦の終結を告げる条約が調印されました。これヴェルサイユ条約です。

その場所がヴェルサイユであったのは偶然ではありません。1871年にドイツ帝国が誕生した同じ場所で、その終焉を告げることに意味があったのです。

ドイツ経済の崩壊!ヴェルサイユ条約がもたらした壊滅的な制裁

このヴェルサイユ条約によってドイツに対する厳しい制裁にさらされ、その中には広範な領土割譲や軍備制限、さらには賠償金の支払いが含まれていました。

賠償金は戦争によって引き起こされた損害を補償するために設けられましたが、それはドイツ経済に壊滅的な影響を与えました。大統領ウィルソンが提唱した平和原則のうち、多くの「十四か条」はパリ講和会議で拒否され、ドイツの苦境を深めました。

The signing of the Treaty of Versailles on June 28, 1919 in the Hall of Mirrors of the Palace of Versailles
世界平和を目指して!国際連盟が設立

しかし、ウィルソンが提案した国際連盟の設立は一部の指導者によって受け入れられました。

ヴェルサイユ条約の第1条は明確に国際連盟の設立を規定しています。

国際連盟は国際的な紛争を平和的に解決し、将来の戦争を防止することを目的とした多国間の機関でした。これはその種の最初の包括的な国際組織でした。しかし、国際連盟の成果は限定的でした。多くの国が参加せず、国際問題での合意形成が困難でした。特に、アメリカ合衆国が孤立主義の立場から国際連盟に加わらないという決定はその影響力を制約しました。

第一次世界大戦と戦間期における金融業界の変遷

第一次世界大戦と戦間期における金融業界の変遷は、世界の金融業界内での勢力のバランスに大きな変化をもたらしました。かつて世界最高の金融王朝であったロスチャイルド家は、次第にロックフェラーやモルガンの台頭する影響力に取って代わられ、彼らはアメリカを世界の経済大国に押し上げる上で重要な役割を果たしました。

アメリカが世界の舞台で主導的な国に成長するにつれて、ロックフェラーやモルガンの力はさらに増大しました。一方で、ロスチャイルド家はアメリカという新興国に進出しました。しかし、この時期において特にモルガンはアメリカで大きな影響力を得ました。

ウィルソン帰国の陰謀論を解明!根拠のなさを検証

1919年7月8日、アメリカ大統領のウィルソンはハウス大佐からの指示を受けて帰国しました。大統領の凱旋を喜ぶ声が高まる一方で、様々な陰謀論が巻き起こりました。その一つとして、ウィルソン大統領が外国の影響下にあったとの主張がありました。しかし、これらの主張はしっかりとした根拠に基づいているとは言えません。

陰謀論によると、立法府のメンバーや民主党のメンバーがウィルソンの帰国に同行していなかった事から、外国の影響下にあった証拠だと主張しています。しかし、帰国時に同行した人々の構成や、政党からの支持のレベルについての情報は確認できません。

また、ウィルソンの顧問団がウォール街の著名な銀行家や国際社会主義者で構成されていたという事実も、外国の影響下にあった証拠と主張しています。これについても、異なるバックグラウンドや視点を持つ顧問が大統領の政権で存在することは一般的であり、特定のグループによる制御を示すものではありません。

陰謀論では、ウィルソンと彼の側近たちがパリ旅行中に100万ドル以上の宝石を贈り物として受け取ったとする主張もありますが、これについても具体的な証拠が提供されていません。贈り物が何であったのか、その価値はどの程度だったのかについての明確な証拠は示されていません。

この投稿をInstagramで見る

Nayeli Montoya(@parispeace_conference)がシェアした投稿

ドイツに課された圧倒的な賠償金!ヴェルサイユ条約の衝撃

第一次世界大戦の終結後、ヴェルサイユ条約によりドイツは連合国に対して巨額の賠償金の支払いを求められました。条約によって設立された賠償委員会は、1921年4月27日に1320億金マルクという金額を賠償金として決定しました。この額は、初めて提案された時には2690億金マルクだったものが、債権者間の意見の相違から減額されたものです。

この賠償金はA、B、Cの3つの債券カテゴリーに分けられ、ドイツはAとBの債券に対して500億マルクを無条件で支払うことが求められました。この巨額の賠償金(1320億金マルク)は、当時のドイツのGDPの約3倍に相当し、現在の日本円に換算すると約200兆円になります。

この問題について、ウィルソン大統領は敗戦国に対して大規模な賠償金を課すことに強く反対していました。しかし、彼が不在の間に、J.P.モルガン&カンパニーのトーマス・ラモントが賠償委員会内でリーダーシップを発揮し、英国に貸し出された戦争費用の回収を優先する補償計画を作成しました。

ここで重要な点は、賠償金の金額はウィルソン大統領や一人の個人によって決定されたのではなく、ヴェルサイユ条約によって設立された賠償委員会によって決定されたということです。

賠償金は戦後の復興や戦争で失われた家族への補償を目的としていました。ヴェルサイユ条約の賠償部分の開始条項である第231条は、ドイツに対して補償金の支払いを義務付け、ドイツの責任を民間の被害に制限する法的根拠となりました。この条文は、ドイツの同盟国が署名した条約にも同様に含まれています。

モルガン商会と賠償金の結びつき!陰謀論の信憑性を検証」

陰謀論の中には、ドイツが支払う事になった巨額の賠償金の受取先はモルガン商会であったという説があります。その理由は、英国が戦争中にモルガン商会から多額の借金をしており、ドイツからの賠償金がその返済に充てられたためです。また、米国と英国が設立した賠償委員会は、実際にはモルガン商会などの銀行家が大部分を占めていたとも言われています。

確かに、アメリカとイギリスによって設立された賠償委員会は、J.P.モルガン(モルガン商会)などの銀行家を中心に構成されていました。当時のウィルソン大統領の側近であったバーナード・バルーチは、「J.P.モルガン&カンパニーがショーを運営している」と述べたほどでした。

ウィルソン政権時代には、モルガン家はU.S.スチール、GE、ベルなどの主要企業に融資を提供し、さらなる経済力を獲得しました。ロン・チャーナウによるモルガン銀行の歴史では、彼らが第一次世界大戦において主導的な役割を果たしたことが明らかにされています。

モルガン銀行の歴史を記したロン・チャーナウによれば、モルガンを中心とするウォール街は第一次世界大戦で主導的な役割を果たしました。彼らはU.S.スチール、GE、ベルなどの主要な企業に融資を提供し、当時のウィルソン大統領を超える影響力を持っていました。

しかし、賠償金がモルガン&カンパニーに支払われたり、委員会が特定の銀行に利益をもたらすために作られたという主張を支持する証拠はありません。

「ヴェルサイユ条約によるドイツの領土と軍事への影響」

ヴェルサイユ条約が結ばれた後、ドイツは多くの重要な領土を喪失し、厳格な軍事制限に直面しました。以下にその主な要点を挙げます。

領土の変更
  • ドイツは全ての植民地を失いました。
  • アルザス・ロレーヌはフランスに割譲されました。
  • ドイツは人口の約10%とヨーロッパの領土の約13%を失いました。
軍事制限
  • ドイツ軍は10万人に制限されました。
  • 徴兵は禁止されました。
  • 戦車、潜水艦、航空母艦の保有は禁止されました。
  • 軍用機の開発は禁止されました。
  • 装甲車、戦車、潜水艦、軍用機の製造も禁止されました。
  • 総参謀本部は廃止されました。

これらの制限は、ドイツの軍事能力を大幅に抑制し、再び強大な軍事力を持つことを防ぐことを意図していました。ヴェルサイユ条約の目的は、ドイツが再びヨーロッパの安全を脅かす存在にならないようにすることでした。ドイツに対するこれらの軍事制限は包括的で、ドイツの軍が攻撃行動を起こす能力を大幅に制限し、国際的な軍備縮小を促すことを目的としていました。

izzitEDU/YouTube

ドイツの国家的屈辱!地獄のハイパーインフレ

ヴェルサイユ条約が締結された後、ドイツは最初に要求された巨額の賠償金に対する抵抗感を抱きました。その金額は彼らにとって非現実的で、ばかげた要求とさえ思われました。しかしこの抵抗が見られたとき、フランスは即座にルール地方を占領しました。その結果、ドイツは、それほどの金額がマルクとして存在しないという現実に直面しました。

賠償金の支払いと国内の財政的な不足を解決するために、ドイツは金融政策の手段に訴えました。その中でも、当時の中央銀行であるライヒスバンクは大量の紙幣を発行しました。この決定はインフレーションを引き起こし、マルクへの信頼を崩壊させ、結果的にはハイパーインフレーションを招くことになりました。

経済的な混乱に対応するため、1924年には年間の賠償金支払額は現実的な水準に大幅に削減されました。ドイツはその後、外部借入を活用して賠償金の支払いを行いました。1919年から1932年までの間にドイツが実際に支払った賠償金は21億マルクに満たず、これは最初に要求された額のほんの一部でした。

賠償金はドイツ人にとって国家的な屈辱と見なされ、ドイツ政府はヴェルサイユ条約の正当性と支払い義務を否定するためにあらゆる努力を尽くしました。賠償金問題とヴェルサイユ条約の経済的影響は、ドイツの戦後復興に深刻な影響を与え、国内で政治的・社会的不安を引き起こしました。

賠償金の重さとドイツ人が直面した経済的苦境は、ナショナリストや過激派運動の団結点となり、その結果、後のドイツの歴史の流れを形成することになりました。

ドイツ人は激怒!その中に“ヒトラー”の姿が

ヴェルサイユ条約が発表されたとき、ドイツの国民は怒りに燃え、その中には、若きアドルフ・ヒトラーもいました。彼はこの時期に政治組織に参加し、その後の人生とドイツの歴史を大きく変えることになる運命に繋がった。

第一次世界大戦後に課された巨額の賠償金と、戦争による大規模な物的破壊は、1920年代のヨーロッパ全体の大規模なインフレーションを引き起こしました。1923年には、これらの影響によりドイツのライヒスマルクは急速なハイパーインフレーションに見舞われました。

さらに、1929年から始まった大恐慌の影響により、ドイツ経済は深刻に不安定化しました。中流階級の個人貯蓄が侵食され、失業率が急速に上昇しました。

この経済的混乱の中で、アドルフ・ヒトラーを指導者とするナチ党は、人々の不満を利用してヴェルサイユ体制の打倒を訴え、その影響力を急速に拡大しました。

ドイツの人々は、ヴェルサイユ条約によって課された賠償金を国家的な屈辱と捉え、その痛みと怒りをナチ党が共鳴し、利用しました。

そして、ヒトラーが1936年にラインラントを再軍備(条約違反)した際、連合国は彼を止めるために何もしなかったことが、1930年代のドイツの軍国主義を助長することになりました。

賠償金問題が時限爆弾!第二次世界大戦の引き金か

ドイツ政府はヴェルサイユ条約の妥当性を問い、賠償金の支払い義務を緩和しようとしましたが、その結果として、ナチ党はナショナリストや過激派の集結地となりました。

さらに、資金提供をした銀行家たちは投資回収を求めており、この賠償金問題が、後の第二次世界大戦へとつながる「時限爆弾」になったという説があります。

特にアメリカの金融界は、ヨーロッパからの債務返済を強く求めました。一部では、この要求が第二次世界大戦を引き起こす「時限装置」だったとも解釈されます。しかし、これが真実かどうかについては議論が必要です。

戦間期のヨーロッパの経済状況と債務問題は確かに、政治的不安定性を増大させ、最終的に第二次世界大戦へとつながる要素となりました。しかし、その原因は銀行家の欲望だけにあるわけではありません。多くの要素が絡み合い、この歴史的な出来事を形成しました。

Adolf Hitler saliendo de la sede del partido Nazi (Munich, 1931)

ヴェルサイユ条約の陰謀論に疑問符…事実と虚構のはざまで

パリ講和会議とそれに続くヴェルサイユ条約には、多くの陰謀論が絡みついています。その中でも特に引用されるのが、バーナード・バルーク、フィリップ・サスーン卿、ジョルジュ・マンデル(本名ジェロボーアム・ロスチャイルド)の3人が、条約の主要な決定に関与していたというものです。

陰謀論者は彼らが国際労働者会議を組織し、賠償委員会の設立を準備し、パレスチナをユダヤ人の手に渡すこと、国際連盟と国際裁判所の設立を含むいくつかの重要な決定を行ったと主張します。

しかし、これらの主張は事実に基づいていません。バーナード・バルーク、フィリップ・サスーン卿、ジョルジュ・マンデルの3人が会議や条約の決定に重要な役割を果たしたという確固たる証拠はありません。

また、ヴェルサイユ条約がパレスチナをユダヤ人に割り当てた、またロスチャイルド家が主要な条項の決定に関与したという主張も同様に根拠がありません。

以下は各人個人に関して説明します。

バーナード・バルーク

バーナード・バルークはアメリカの実業家で、ウッドロウ・ウィルソン大統領を含むいくつかのアメリカ大統領の顧問を務めましたが、ヴェルサイユ条約の交渉には関与していません。フィリップ・サスーン卿はイギリスの政治家であり、議員でしたが、彼は条約の交渉に直接関与していません。

ジョルジュ・マンデル

ジョルジュ・マンデルはフランスの政治家で、第二次世界大戦中のレジスタンス運動の指導者でもありましたが、パリ講和会議には関与していませんでした。一方で、彼は戦間期のフランスの政治において内務大臣や郵政・電信・電話大臣を務めるなど重要な役割を果たしました。

ロスチャイルド家

ロスチャイルド家は裕福な東欧(アシュケナージ)系ユダヤ人の家族で、1760年代にメイヤー・アムシェル・ロスチャイルドを起点にして銀行業を創業しました。この家族は国際的な銀行家として知られ、1820年代にはロンドン、パリ、ウィーン、ナポリに支店を設立しました。

また、鉱業、エネルギー、不動産、ワイン製造など、さまざまな事業にも関与してきました。しかし、彼らがヴェルサイユ条約の主要な条項を決定し、パレスチナをユダヤ人に割り当てたという主張を支持する証拠は存在しません。

パレスチナ問題の核心!

最後に、ヴェルサイユ条約がパレスチナをユダヤ人に割り当てたという主張も事実ではありません。パレスチナの政治的運命は、ヴェルサイユ条約ではなく、別の国際協定であるサイクス・ピコ協定とバルフォア宣言の結果として決定されました。

created by Rinker
第一次世界大戦は、アメリカの参戦とドイツ帝国の崩壊を経て休戦が成立し、パリ講和会議が開かれる。だが、「十四箇条」に基づく「公正な講和」を求めるドイツ、「国際連盟」による世界秩序の再編を目指すアメリカ大統領ウィルソン、そして英仏の連合国首脳の思惑には大きな隔たりがあった。それまでの講和のルールになかった「戦争責任」をドイツに求めるべきなのか。人類初の世界戦争の終結をめぐる息詰まる駆引を描く。(「BOOK」データベースより)

You might be interested in …

当サイトではプロモーションが含まれています。また、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、これらの設定や使用に同意したことになります。詳細はプライバシーポリシーをご覧ください

X