【ロスチャイルド陰謀論(13)】通貨戦争と陰謀の舞台裏!マッキンリー大統領暗殺事件の秘密

ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺という悲劇的な出来事は、ロスチャイルド陰謀論において注目される一部です。この記事では、彼の意思と政策がロスチャイルド家にとって脅威だったという主張や、マッキンリー大統領の選挙戦や暗殺事件の詳細について触れています。

また、エマ・ゴールドマンやレオン・チョルゴッシュなど関係者の生涯や関連性にも言及しています。ただし、これらの陰謀論は信憑性に欠けるものであり、モルガン家やロスチャイルド家との関連性も疑問が残ります。

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William McKinley

金の支配者たちとの闘い!マッキンリー大統領の運命

William McKinley Memorial, Columbus, OH

1901年、第25代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーが暗殺された。マッキンリーは黄金標準政策を支持し、アメリカの通貨価値を安定化させるための道筋をつけていましたた。しかし、ロスチャイルド陰謀論の中では、彼の意志と政策が国際金融エリート、特にロスチャイルド家にとって脅威だったとされています。

通貨戦争の火蓋が切って落とされた!1896年大統領選挙の闘い

1896年の大統領選挙は、アメリカの通貨供給という主要な問題を巡る、党派的な闘争だった。これは、アメリカの経済政策の未来を直接決定する重大な戦いとなりました。

共和党候補のウィリアム・マッキンリーは金本位制を維持するという選挙プラットフォームを掲げました。それに対して、民主党候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンは、銀本位制をアメリカの通貨に導入することを提唱しました。

その時、アメリカは大量の金を保有しており、その金を世界の通貨にすることで、国際的な財政力を増強するチャンスがありました。それまでの国際通貨は銀であったため、アメリカは金本位制への移行を推進しようとしていました。

この通貨制度についての論争は、ロスチャイルド陰謀論において、マッキンリー大統領の暗殺につながった可能性を示唆しています。選挙戦中、両陣営はこの複雑な問題について大量の選挙資料を発行し、支持者にそれを積極的に説明しました。

選挙後、マッキンリーは国際的な合意による二重本位制(金と銀の双方)の可能性を探るため、イギリスを含む主要なヨーロッパ諸国に代表団を派遣しました。しかし、銀生産地域では、金本位制への移行が反対されました。

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J.P.モルガンとウォール街の支援がマッキンリーを支える

「政治において重要なものは二つある。一つはお金で、二つ目は覚えていない」という格言は、マーク・ハンナという名のオハイオ州の上院議員の言葉です。ハンナは、ウィリアム・マッキンリーの大統領選挙キャンペーンを指導しました。

大統領選挙の間、金融界の巨頭であるJ.P.モルガンやウォール街の銀行家たちは、金本位制を支持していたマッキンリー候補に対して大量の寄付を行いました。

そして、ウィリアム・マッキンリーは1896年と1900年の大統領選挙に勝利しました。1896年の大統領選挙では、マッキンリーはウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破りました。1900年の大統領選挙でも、マッキンリーは再びブライアンを破りました。マッキンリーが1900年の大統領選挙で勝利したことにより、ウリシーズ・S・グラントが1872年に達成した連続再選以来、初めての連続再選を果たした大統領となりました。

権力、挑戦、そして暗殺

ビジネス界にとって、マッキンリーは反トラスト法を執行しない、経済に対する配慮がある大統領として見られていました。しかし、1900年の再選キャンペーン中に、ニューヨーク州知事を辞職したセオドア・ルーズベルトから挑戦を受けることとなりました。

ロックフェラー、J.P.モルガン、カーネギーといった共和党の主要スポンサーたちは、ルーズベルトを副大統領にすることで彼を牽制する戦略をとりました。その結果、マッキンリーは1900年の選挙で再選され、ルーズベルトは副大統領の地位に就きました。

しかし、1901年には予想外の出来事が起こりました。それはマッキンリー大統領が2期目の任期を開始して間もなくことで、マッキンリーは驚くべきことに暗殺されてしまったのです。この出来事はアメリカの政治史において重大な衝撃を与え、後の政治風土に大きな影響を及ぼしました。

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コロナで荒れる世相の中、世界権力構造についてのリテラシーある理解の仕方を、メディアに騙されている日本人に解説する。(「Books」出版書誌データベースより)

Assassination of William McKinley

マッキンリー大統領 暗殺事件

MyFootage.com/YouTube

1901年9月6日、ウィリアム・マッキンリー大統領は、ニューヨーク州バッファローで開催されたパンアメリカン博覧会に出席しました。パンアメリカン博覧会は、その年の5月1日から11月2日まで行われた大規模な世界博覧会で、アメリカと中南米諸国との間の貿易の増大する重要性を認識するために開催されました。

博覧会の会場は広大な土地に広がっており、現在のデラウェア公園の西端に350エーカーの会場が設けられていました。デラウェア・アベニューからエルムウッド・アベニューにかけて、そして北へはグレート・アロー・アベニューまで広がっていました。

25ヶ国からの展示が行われ、訪問者は800万人を超えるなど、非常に大きな規模の博覧会となりました。各国の文化や技術の紹介のほか、アメリカと中南米との相互理解と交流の場としても機能しました。

しかし、この博覧会はただの文化交流の場では終わりませんでした。それは、マッキンリー大統領が暗殺されるという歴史的な事件の舞台となったからです。

博覧会での二発の銃弾

1901年9月6日、パンアメリカン博覧会の会場で、ウィリアム・マッキンリー大統領は公式な出迎えの場で一般の人々と握手を交わしていました。その最中、突如として一人の男が大統領に近づき、腹部に銃を2発撃ち込むという衝撃的な事件が起こりました。

犯人はレオン・チョルゴシュという名のアナーキストでした。彼は手袋で覆われたハンカチの下に銃を隠し持っていたため、警備員たちにはその凶悪な意思に気づくことができませんでした。そして、その隙をついて、大統領に銃弾を撃ち込むという恐るべき犯行に及びました。

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銃撃からの回復と急速な衰弱…マッキンリー大統領の最期

マッキンリー大統領は、銃撃された直後にすぐに近くの病院へ緊急搬送されました。体内からは弾丸が取り除かれ、一時は回復の兆しを見せていました。しかし、その状況は一転し、銃撃から6日後、彼は急速に衰弱してショック状態に陥りました。

そして、1901年9月14日、マッキンリー大統領は銃撃から8日後、銃創から発生した壊疽のために生涯を閉じました。彼はわずか58歳でした。

これはアメリカ史上非常に衝撃的な出来事であり、マッキンリーはエイブラハム・リンカーン(1865年暗殺)、ジェームズ・ガーフィールド(1881年暗殺)に続き、暗殺された3人目のアメリカ大統領となりました。

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9日後の裁判での衝撃的展開!驚異の8時間での決着

マッキンリー大統領の暗殺からわずか9日後の1901年9月23日、犯人であるレオン・チョルゴシュは裁判に立たされました。この裁判は驚くほど短時間で行われ、わずか8時間ほどで終了しました。

裁判では、チョルゴシュの有罪を自白しようとする試みは裁判官により拒否され、彼自身も自己弁護を図りましたが、これも許されませんでした。彼は弁護士の助けを一貫して拒否し、弁護側が証人を呼ぶこともありませんでした。

短い審議の後、陪審員たちはチョルゴシュを一級殺人の罪で有罪とし、彼に死刑判決を下しました。その結果、チョルゴシュはマッキンリー大統領の死から45日後の1901年10月29日、ニューヨーク州のオーバーン州刑務所で電気椅子により処刑されました。

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犯人影響を与えた活動家!エマ・ゴールドマンの生涯

ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺犯、レオン・チョルゴシュはポーランド移民であり、彼の行動に影響を与えたのはアナーキストのエマ・ゴールドマンでした。ゴールドマンはリトアニアの中流階級の家庭で生まれ、若くして貧困、不正義、抑圧という社会問題を目の当たりにしました。これらの経験が彼女の活動と世界観に深い影響を与えたのです。

1885年にアメリカに移住したゴールドマンは、ニューヨーク州ロチェスターでアナーキズム運動に参加し、その活動を開始しました。彼女は1890年代に著名な作家兼講演家となり、アナーキストの哲学、女性の権利、社会問題の啓蒙に勤しみました。彼女の熱意あふれるスピーチは大衆の支持を集め、その名は広く知られるようになりました。

1901年には、ゴールドマンの恋人であるアレクサンダー・バークマンが政治的抗議の一環として実業家ヘンリー・クレイ・フリックを暗殺しようと試みました。ゴールドマン自身は直接的には計画に関与していませんでしたが、彼女の関与が疑われ、逮捕されて2年間の刑を受けました。

第一次世界大戦中、ゴールドマンは戦争と徴兵制度に強く反対し、その活動は再度彼女を投獄につなげ、最終的には1919年にロシアへの追放をもたらしました。ロシアでは彼女は革命を目の当たりにし、初めはボリシェヴィキを支持していましたが、やがてその権威主義に幻滅しました。彼女の著書「ロシアでの失望」ではこの経験を批判的に描写しました。

ロシアを離れた後、ゴールドマンはヨーロッパ各地を旅行し、アナーキズムと社会的正義のために声を上げ続けました。彼女は1930年代にカナダに定住し、その生涯を通じて活動を続けました。

アナーキズムの結びつき…レオン・チョルゴッシュとの関係

エマ・ゴールドマンのアナーキズムの理念に引きつけられたレオン・チョルゴッシュは、1901年5月にクリーブランドでゴールドマンの講演会で初めて彼女に出会いました。彼は彼女の話に深い感銘を受け、講演の後に直接彼女に話しかけ、読書の推奨を求めました。さらに、チョルゴッシュは1901年7月12日の午後、フリーソサエティ紙の発行者であるアブラハム・アイザックの自宅を訪れ、フレッド・Cと名乗り、自己紹介しました。

しかし、後にゴールドマンはこれらの出会いについて全く記憶していないと述べました。チョルゴッシュが1901年9月6日にウィリアム・マッキンリー大統領を暗殺した後、彼女は逮捕され、警察による厳しい尋問を受けました。彼女は暗殺とは無関係であり、一貫して暴力を政治的手段として否定していました。

それにもかかわらず、ゴールドマンは「フリーソサエティ」紙に寄稿した記事で、チョルゴッシュを古代ローマの元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥスと比較しました。ブルトゥスは歴史的にジュリウス・シーザーを暗殺したことで知られています。ゴールドマンはチョルゴッシュの行動を、社会的抑圧と不正義への彼の反応として理解を示しました。

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信憑性に欠ける暗殺の陰謀論

ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺に関する陰謀論の中には、ロスチャイルド家がエマ・ゴールドマンを通じてレオン・チョルゴッシュを操り、大統領の暗殺に関与していたと主張するものがあります。しかし、この説は信頼性のある証拠が欠けており、広く否定されています。

この陰謀論は、単一のユダヤ系銀行家家族が世界の出来事を支配するという考えに基づいていますが、それは根深い反ユダヤ主義の信念に根ざしており、現実に基づいていません。

レオン・チョルゴッシュとJ.P.モルガンの関連性

レオン・チョルゴッシュとアメリカの財界の巨頭、J.P.モルガンとの間に何らかの関係があったという主張もあります。チョルゴッシュは、モルガンが所有する工場で働いていたという説がある一方で、チョルゴッシュの明確な雇用履歴の中には、ペンシルベニア州ナトロナのガラス工場で働いていたという記録があるものの、彼がモルガンの工場で働いていたという確固たる証拠は存在しません。

もしそれが事実であったとしても、それはチョルゴッシュがマッキンリー大統領を暗殺した動機を直接的にモルガンやその企業に結びつける十分な根拠にはなりません。

後任のルーズベルト大統領がモルガンとロックフェラーに立ち向かう

ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺後、副大統領であったセオドア・ルーズベルトが大統領に就任しました。ルーズベルトは進歩主義の精神を体現し、彼の時代において多くの経済的・社会的問題に対応しました。彼は特に、大規模な独占企業、いわゆる”トラスト”の規制に力を注ぎました。

彼の最初の大きなターゲットは、J.P.モルガンとロックフェラー家が支配する大鉄道持株会社、ノーザン・セキュリティーズ・カンパニーでした。ルーズベルトは彼らがシャーマン反トラスト法に違反していると非難し、その結果、持株会社の解体が命じられました。

この成功により、ルーズベルトはロックフェラーのスタンダード・オイルやアメリカン・タバコなど、40以上のトラストに対して訴訟を起こし、これらの企業に挑戦しました。彼の積極的な行動から、「トラストバスター」(トラストを壊す人)というニックネームがつけられました。

しかし、ルーズベルトの政策は単にトラストを解体するだけではなく、これらの企業を公共の利益に基づいて規制しようとするものでした。彼は連邦政府が州間の事業を規制することにより、公正な競争を保証し、消費者の利益を守るべきだと考えていました。

ルーズベルトの行動は、当時の政治的な風潮を反映していたとともに、アメリカの経済政策とビジネス環境に大きな影響を与えました。

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真実か陰謀か…モルガンとロスチャイルド家の関係に迫る

J.P.モルガンは20世紀初頭の著名な金融家であり、モルガン財閥の創始者として知られています。彼の財閥は巨額の資産を保有しており、その富はアメリカで最大とされていました。その一方で、彼の事業活動と財産についてはさまざまな誤解と陰謀論が巡りました。

特に一つの陰謀論では、モルガンの財産の大部分が実はロスチャイルド家からの投資であると主張しています。具体的には、モルガンの財産の19%だけが彼自身のものであり、残りの81%はロスチャイルド家が所有しているというものです。この説によれば、モルガンはロスチャイルド家からの資金提供によって財閥を築いたとされています。

しかし、この主張には明確な証拠が欠けています。ロスチャイルド家は確かに多国籍の投資銀行および金融サービス企業を運営しており、多くの資産と保有物を持っていまが、モルガンがロスチャイルド家から資金を得ていたという確固とした証拠は存在しません。

したがって、この主張は疑わしいと見るべきであり、追加の証拠が提示されるまで、これらの主張は慎重に検討されるべきです。

20世紀初頭の石油戦争!ロックフェラー vs ロスチャイルド

J.P.モルガンが栄華を極めた20世紀初頭は、石油市場で巨大な財閥による激しい競争が行われていました。その中でも特に目立つのが、アメリカのロックフェラー家とヨーロッパのロスチャイルド家との間での石油市場の覇権争いでした。

ロックフェラー家はスタンダード・オイルを通じてアメリカの石油市場を支配していました。そして彼らは、その影響力をさらに拡大させるためにヨーロッパの石油市場へと視線を移しました。その進出先としてターゲットにしたのは、ルーマニアの石油田を所有するヘンリ・デターディングが率いるロイヤル・ダッチ・ペトロリアム・カンパニーと、マーカス・サミュエルが率いるシェル・トランスポート・アンド・トレーディング・カンパニーでした。これらの会社は1906年に合併し、ロイヤル・ダッチ・シェル・オイルとなりました。

一方、ロスチャイルド家はヨーロッパの石油市場で重要な役割を果たしていました。1914年には、ロスチャイルド家がバクーの石油田をロイヤル・ダッチ・シェル・オイルに売却し、彼らはヨーロッパの石油供給を確保しました。このようにして、ロスチャイルド家はロックフェラーのヨーロッパ市場進出を阻止しようとしました。

しかし、ロックフェラー帝国は中東の石油生産を確保し、その地位を維持しました。しかし、1960年代には、OPEC(石油輸出国機構)の設立と中東諸国の石油産業国有化により、ロックフェラー関連の石油会社が中東から排除されることとなりました。

これにより、ロックフェラーとロスチャイルドとの間での石油市場の覇権争いは新たな局面を迎えました。

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