この記事では、19世紀末の朝鮮開国と日清戦争におけるロスチャイルド家の関与について探求します。明治政府が朝鮮の近代化を目指して開国を求めた背景や、日本がイギリスのロスチャイルド兵器メーカーから購入した戦艦が活躍したことなどを取り上げます。具体的な証拠はないものの、一部で語られる主張や陰謀論に触れつつ、歴史的な事実を紹介します。
【ロスチャイルド陰謀論(10)】ガーフィールド大統領の暗殺事件と通貨支配に対する抵抗
The Opening of Korea in 1876
明治政府と朝鮮開国におけるロスチャイルド影
朝鮮の開国は19世紀末、李氏朝鮮が多くの列強からの圧力に直面していた時期に行われました。明確な証拠は存在しませんが、一部ではロスチャイルド家がこうした開国のプロセスに影響を及ぼしたとする説があります。
地政学の変化!欧州列強の植民地化とロシアの南下
19世紀になると、世界は新たな勢力の勃興と既存勢力の衰退という地政学的な変化に直面しました。その中で、イギリス、フランス、オランダなどの欧州列強が東南アジアの植民地化を推進しました。一方で、帝政ロシアはシベリアを制圧し、その影響力を満州、沿海州、さらには朝鮮へと拡大しようとしていました。
この期間に新たに登場した勢力が明治政府でした。明治政府は発足とともに、李氏朝鮮に開国を求めました。当時の朝鮮には資源も購買力も乏しかったため、経済的な利益を追求する目的で開国を求めたわけではありませんでした。むしろ、ロシアの南下を防ぐために、朝鮮の近代化が必要だと認識していたからです。
しかし、清は朝鮮を宗属国と見なしていたため、その独立を認めませんでした。清自体が欧州列強に領土を侵食される状況下では、朝鮮を外敵から守る力はありませんでした。このような状況下で、日本の明治政府は朝鮮の近代化を通じて朝鮮を日本の防波堤とすることを目指しました。
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江華島事件から日朝修好条規へ…日本の意図的な挑発と朝鮮の開国
1875年9月、江華島での日本の軍艦「雲揚」に対する朝鮮側の砲撃事件は、日朝間の関係に重要な影響を与えました。当時、江華島の草芝城砲台から日本の軍艦が砲撃を受け、これが朝鮮の開国へのきっかけとなりました。
一見、事実上の戦闘行為に見えるこの事件は、朝鮮側の反撃を引き出すことで開国のための交渉につなげるための日本側の意図的な挑発とも解釈されています。
日本はこの事件をきっかけに全権大使に黒田清隆、副全権に井上馨を任命し、6隻の軍艦と260人の兵員を率いて朝鮮に派遣しました。朝鮮側には日本の威圧外交に対する反発がありましたが、結局は開国が避けられないと判断し、日本との条約「日朝修好条規」を締結しました。
この際に使用された艦船「日進」は、佐賀藩がオランダから購入したもので、明治政府に献上されたものでした。また、最新式の兵器であるガトリング砲も用いられました。このように、日本はかつて自身がペリー提督の黒船により開国を強制された経験を、朝鮮に対して同様の手法で適用する形となりました。
不平等な「日朝修好条規」朝鮮の開国と日本の特権
1876年(明治9年)に締結された「日朝修好条規」は、日本と朝鮮間の重要な不平等条約でした。この条約は、朝鮮の開国と開港を定めただけでなく、日本は朝鮮王朝の国内で治外法権を行使することも許可されました。
この結果、在留日本人が犯罪を犯した場合でも、朝鮮王朝側ではその裁判を行うことができない状況が生じました。
さらに、この条約により朝鮮王朝は関税自主権も失いました。これにより、朝鮮王朝は貿易における関税を自己の裁量で設定することができなくなりました。これらの規定は、日本が欧米列強から経験した不平等条約の体験を、朝鮮に対してそのまま適用したものでした。
日朝修好条規が締結されて以降、朝鮮は清と日本に挟まれ、政治情勢が不安定化しました。そして、日本はこの隙間をついて朝鮮の政治に頻繁に介入するようになりました。
明治9年(1876)、日朝修好条規が調印されました。外交使節の相互派遣、釜山などの開港、開港場での日本領事の領事裁判権などを規定しました。画像は、日朝修好条規の布告に関する文書です。 pic.twitter.com/NC0J4Bp8cZ
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) February 26, 2016
農民の怒りが爆発!朝鮮の「甲午農民戦争」
1894年1月11日から1895年3月29日にかけて、朝鮮全土で「甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)」が発生しました。この反乱は当初、全羅道の古阜郡という地域で発生した小規模なものでしたが、やがて全国的な規模に拡大しました。
この勢いに圧倒された朝鮮の閔氏政権は、清に支援を求めました。一方で、依頼されていないにもかかわらず日本もまた、反乱の鎮圧を名目に出兵しました。日本は清との戦闘の機会を伺っていたのです。
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清との戦争を引き起こすために政権転覆を目指す
朝鮮内部では、政府と反乱軍が和解し、甲午農民戦争は早期に終結しました。これにより日本と清の朝鮮への出兵理由が失われるはずでした。しかし、日本はそれを認めず、何とかして清との戦争を引き起こそうと様々な策略を巡らせました。
その結果、なんと日本は韓国政府を転覆させ、大院君の下で新しい政権を樹立することを目指しました。日本の全権公使大鳥圭介と大島義昌率いる日本軍は、慶北宮を占拠し、高宗の父である興宣大院君を復権させ、金弘集と啓蒙党の政権を樹立しました。この一連の動きは、朝鮮内政への明確な介入でした。
さらに、朝鮮政府を掌握した日本軍は、その後、清軍の撤退を朝鮮政府に要求しました。これが、日本と清の間により深刻な緊張を生じさせ、結果として日清戦争へと繋がっていくことになります。
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The First Sino-Japanese War
日清戦争
日清戦争は、1894年7月25日の豊島沖海戦を発端とし、朝鮮の支配を巡る日本と清国との間の対立から勃発しました。豊島沖海戦に勝利した日本は、その勝利をきっかけに8月1日に清国に対して宣戦布告を行い、日清戦争が正式に始まりました。
日清戦争の勝利!日本国民が喜び沸き立つ
日本軍は続く戦闘でも一貫して優位に立ち続け、9月15日の平壌の戦いや9月17日の黄海海戦などでは大勝を収め、さらに勢いを上げました。翌年の1895年3月には遼東半島を占領し、勢いそのままに台湾へと進撃しました。
戦争は1895年4月17日に日清講和条約の調印が行われ、5月8日に批准書が交換されることで正式に終結しました。この戦争の終結は、日本の明確な勝利となり、全国で祝賀行事が催され、国民の間で勝利の喜びが沸き立ちました。この日清戦争の勝利は、明治日本が国際社会での地位を一段と上げる契機となりました。
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ロスチャイルド系企業から購入した軍艦が活躍
日清戦争の後、日本はアームストロングやヴィッカースといったイギリスのロスチャイルド兵器メーカーからほとんどの戦艦を購入しました。イギリスの工業技術と海軍力が世界的に認知されていたことがその理由で、これらの戦艦の購入は日本の海軍力強化に大いに貢献しました。
加賀型戦艦は、イギリスの造船所で建造された日本帝国海軍(IJN)の最後の戦艦でした。この時期、日本はまだ自国の技術や能力に欠けており、富士型戦艦をイギリスから発注する必要がありました。
しかし、1894年から1895年の日清戦争での戦闘経験を経て、IJNは自身の戦術が不十分であると認識しました。この結果、10年間の海軍建設計画が立案されました。この計画では、6隻の戦艦と6隻の装甲巡洋艦(6・6艦隊)の建造が予定されました。
日本が英国の製造業者から戦艦を購入することは、当時の英国が持っていた高度な海軍技術を日本が取り入れるという意味だけでなく、日本と英国との間の政治的な結びつきをも示していました。
また、日清戦争は日本の帝国主義的膨張の始まりを示すものであり、その影響は各方面に及びました。
特に興味深い事例として、英国内部での事情から見れば、ブリテン島東北部に位置する大砲と軍艦の製造所、アームストロング社が建造した軍艦が、相手となる軍艦と砲火を交え、互いに傷つけ合う様子が挙げられます。これは同時に、当時の世界的な海軍力と工業力を象徴していました。
日本海軍 防護巡洋艦 和泉(Izumi)
— 古い時代の軍艦bot (@ironclad1990) December 28, 2016
日清戦争に伴う海軍力増強のため1894年に日本がチリより購入した。元はチリ海軍の軍艦エスメラルダで1884年にイギリスのアームストロング社で建造された。
艦名の「和泉」は ”エスメ” ラルダの音の類似に基づく命名と言われている。 pic.twitter.com/m2CGECkDMn
清国海軍 装甲巡洋艦 靖遠
— 古い時代の軍艦bot (@ironclad1990) August 29, 2019
1887年イギリスのアームストロング社造船所で建造された。
日清戦争では北洋水師の1隻として活動し黄海海戦や威海衛の戦いに参加したが、1895年2月に日本軍水雷艇からの雷撃を受けて沈没した。 pic.twitter.com/RPKQVEJaur
「屈辱の始まり」から「辛亥革命」へ!中国の歴史を揺るがしたアヘン
日清戦争は、中国では「屈辱の始まり」と見なされています。これはその後に日本や西洋列強による重大な侵略が続いたからです。特に、北洋艦隊の乗組員の士気の低さや、アヘンの喫煙が横行していた事実は、海戦における敗北の主な要因とされています。この戦争は当時の中国の停滞と腐敗の象徴ともなっています。
「下関条約の真実」日本と中国の和平交渉の舞台裏と衝撃的な条件とは?
1895年3月19日(明治28年)、清国の使節団が停泊した汽船が関門海峡に到着し、翌日、日中平和会議が下関の春帆楼で開催されました。この会議には、日本の全権代表伊藤博文、陸奥宗光、清国の全権代表李鴻章を含む両国の代表者11名が出席しました。
和平のための一連の会議が行われ、4月17日に和平条約が締結されました。この条約で、清国は日本に対して朝鮮半島の独立の承認、領土の割譲(遼東半島、台湾、澎湖列島など)、200百万両の賠償金の支払いを約束しました。
しかし、会議は一時中断を余儀なくされました。これは、中国の全権代表李鴻章が3月24日午後4時頃、自身の寮である印乗寺へ帰る途中に刺客によって撃たれ負傷したためです。結局、会議は29日間にわたり開催されました。
この下関条約は、日清戦争(1894年から1895年)を終結させるために締結されました。和平交渉は1895年3月20日に正式に日本の下関で開始されました。1871年の日清修好通商条約を続くものでした。
条約は、日本の全権代表である伊藤博文、外務大臣の陸奥宗光、中国の代表である李鴻章と清の使節団の一員である李景方によって署名されました。この条約により、朝鮮の完全な独立と自治が認められ、台湾、澎湖列島、遼東半島が日本に割譲されました。
また、中国は日本に対して200百万両の銀の賠償金を支払うこととなりました。さらに、沙市、重慶、蘇州、杭州の港が日本の貿易に開放されました。
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「列強の野望と日本の挫折」三国干渉が引き起こした極東情勢の激変
下関条約締結からわずか6日後のことでした。ロシア・フランス・ドイツの3国から突如として横槍が入ります。これは「三国干渉」と呼ばれ、日本に対し、遼東半島の清への返還を要求するものでした。1895年4月、この3国は、日本による遼東半島の領有が朝鮮の独立を形式的なものにし、極東の平和の妨害になるとして、清への返還を要求しました。
下関条約で日本が遼東半島を獲得したことは、ロシアにとって、自国の中国進出の妨げとなるものと捉えられました。そこで、ロシアはフランスとドイツを誘い、日本に遼東半島の放棄を求めたのです。ロシアは、「日本による遼東半島の保有は、清国を脅かし、朝鮮の独立を名ばかりのものにし、極東の平和に重大な脅威を与える」と主張しました。さらに、極東艦隊を増強して戦闘も辞さない構えを見せた。ロシアと軍事協定を結んでいたフランスがこれに同調し、かねてから極東に興味を抱いていたドイツも賛同しました。
日本は、イギリスやアメリカに対して働きかけ、三国干渉の撤回を求めましたが、中立以上の期待は持てませんでした。結局、日本は列強の圧力に屈し、同年11月に遼東返還条約を清と結び、還付報償金として庫平銀3000万両(実際には英貨で受け取った)を受け取りました。
しかし、この出来事をきっかけに日本ではロシアに対する反感が高まり、「臥薪嘗胆」を合い言葉に軍備拡張が進められました。
そして、日本が遼東半島を返還した後に清の分割支配が進み、1897年にはドイツが膠州湾を、1898年にはロシアが遼東半島南部の旅順・大連を、そして1899年にはフランスが広州湾を租借するなど、清の領土は次々と列強に奪われていきました。これにより、日露の衝突の危機が近づくこととなります。
驚きの主張!清が銀行の借り入れでロスチャイルド家と関係?”
陰謀論の一つとして、清(中国)が第一次日中戦争における戦費や賠償金のために借り入れたすべての銀行がロスチャイルド家の関連企業であったという主張も存在します。
第一次日中戦争(1894年7月25日~1895年4月17日)は、中国の清朝と日本の帝国の間の紛争で、主に朝鮮への影響力を巡り争われました。日本の陸海軍が連勝を続け、清国政府は威海衛港の喪失を受けて1895年2月に和平を求めました。この戦争は、清朝が軍事の近代化と主権の脅威に対抗する試みで失敗したことを示しています。その証拠に、特に日本の成功した明治維新と比較すると一層明らかです。
この戦争の結果、東アジアの地域的な主導権が初めて中国から日本へと移ったため、清朝の威信と中国の古典的伝統は大きな打撃を受けました。朝鮮が冊封国としての地位を失った屈辱的な敗北は、前例のない公憤を引き起こしました。中国内部では、この敗北が孫文や康有為らによる一連の政治的な激動を引き起こし、最終的には1911年の辛亥革命へと繋がりました。
また、第二次日中戦争(1937年から1945年)は、中国と日本の間の大規模な紛争でした。中国では「中国人民抗日戦争」として知られており、中国人民にとっては壊滅的な戦争であり、最大で2000万人の犠牲者を出しました。また、国民党と中国共産党(CCP)の両者にとっても重大な政治的な影響を与えました。1930年代初頭の日本の中国侵略とそれに続く日中戦争は、両国の数十年にわたる敵対関係の頂点でした。
謎に包まれた賠償金の行方!ロスチャイルド家との関連を検証”
清の賠償金がイギリス・ポンド建てでロスチャイルド一族のロンドン・シティの銀行に保管されたという説も存在します。
しかしながら、これらの主張には裏付けとなる証拠が存在せず、具体的な根拠が不足しています。1895年4月17日に締結された下関条約に基づき、中国は日本に対して200百万両の銀の賠償金を支払う義務がありました。しかし、この賠償金の支払いに関連してロスチャイルド家やその銀行についての明確な言及は一切見当たりません。
中国が戦費や賠償金のために借り入れたすべての銀行がロスチャイルド家の関連企業であったとする主張についても、確固たる証拠は見当たりません。ロスチャイルド家は、国際金融界で長い歴史を持ち、中国を含む世界各国で銀行業を展開してきたものの、その全てがロスチャイルド家が所有または管理するものであったとは言えません。
確かに、ロスチャイルド家は歴史的にさまざまな金融取引や融資に関与してきたと知られています。その一例として、日露戦争における日本の軍事的取り組みの資金調達に関与した事実があります。
しかし、これは第一次日中戦争およびその後の出来事とは別の出来事であり、このことがロスチャイルド家が第一次日中戦争に関連する具体的な金融取引に関与したという証拠とはなりません。
【ロスチャイルド陰謀論(12)】不死鳥のモルガン家!世界の金融舞台で織り成された陰謀と成功の物語