【禁断の宝石】恐ろしい力を持つ伝説のブルーダイヤモンド

美しくも神秘的なブルーダイヤモンド。その魅力に取り憑かれた人々が次々と破滅を迎えるという恐ろしい都市伝説が囁かれています。それは、このダイヤモンドを手にした者は必ず不幸に見舞われるという呪い。今回は、その伝説のブルーダイヤモンドに迫ります。

created by Rinker
人々はなぜ、これほどまでにダイヤモンドに魅せられるのか? 新資料を基にダイヤモンドの魅力をあらゆる角度から検証する。 そして、光り輝くダイヤモンドが人間の文化にどのような影響を与え、どのような役割を果たしてきたか。現在に至るまでの「ダイヤ モンドと人々」との語られざる歴史を、わかりやすく紐解く一冊。興味深いカラー口絵写真30点余。(「Books」出版書誌データベースより)

Hope Diamond

「ホープダイヤモンド」

Hope Diamond

「ホープ・ダイヤモンド」は、、深みのあるブルーの色合いが特徴的45.52カラットダイヤモンドで、世界で最も有名なダイヤモンドの一つです。

ホープダイヤモンドの正確な価値は定かではありませんが、一般的には2億ドルから2.5億ドル(約220億円から280億円)と推定されています。ただし、実際に売却された場合の価格は市場の需要と供給によって変動するため、この価値はあくまでも推測値です。

様々な呼び方で知られており、「青いホープ(Hope Blue)」や「青い楕円形のダイヤモンド(Blue Oval Diamond)」「王冠の青」、「フランスの青」、「ブタヴェルニエブルー」などの呼び名もあります。

超貴重なダイヤモンドの1つ

一般的にダイヤモンドは、地表から約160キロメートルの深さにある上部マントルで形成されるとされていますが、貴重な種類のダイヤモンドは、より深い地球の下部マントル、つまり地表から約2900キロメートルの深さで形成される可能性が高いとされています。このようなダイヤモンドは、高圧高温の環境下で形成され、非常に稀少で希少価値が高く、世界中の宝石コレクターや美術館などで高額で取引されることがあります。ホープダイヤモンドも、このような貴重なダイヤモンドの一つとして知られています。

暗闇で赤色に輝く!

ホープダイヤモンドは、内部に微量のホウ素を含んでいることから、ブルーの色合いを帯びています。そして、この特殊な色合いのため、ホープダイヤモンドは非常に珍重され、美術館や宝飾品コレクターの間で高い評価を得ています。

また、ホープダイヤモンドは、紫外線に照射されると、赤色の蛍光を発することが知られています。この性質は、ダイヤモンドの種類によって異なりますが、ホープダイヤモンドのように特殊な性質を持つダイヤモンドは、宝石学や物理学の研究において重要な役割を果たしています。

Smithsonian Channel/YouTube

様々な作品のモデルになった宝石!

アニメ「ルパン三世」や映画「タイタニック」に登場するダイヤモンドは、ホープダイヤモンドをモデルにしたものが使われていることが知られています。

pauric grant/YouTube
created by Rinker
 「ターミネーター」シリーズのジェームズ・キャメロンが、これまでも数々の映画の題材となってきた史上最大の海難事故にラブストーリーをからめて描き出したスペクタクル・ロマン超大作。(「allcinema」データベースより)

The Curse of The Hope Diamond

【呪いの伝説】恐怖!世界最高クラスのいわく付きの宝石

Smithsonian Channel/YouTube

ホープダイヤモンドには「呪われたダイヤモンド」という伝説があります。この伝説によれば、ホープダイヤモンドを所有する者は、不幸や災難に見舞われるとされています。

初めに発見したのはインドの農夫「マデラ」

ホープダイヤモンドの起源については、定かなことは分かっておらず、複数の説が存在します。その中の一つがマデアという農夫が9世紀頃、インド南部のデカン高原のコーラルという町の河川で発見したと言われていることが、起源とされている説です。

マデアは、このダイヤモンドの後に大変な価値が付くことを知らずに、その珍しい石を自宅に持ち帰ったそうです。それは、当時112.5カラットもの大きさだったと言われています。

侵攻してきたペルシアの軍隊が強奪

ホープダイヤモンドがペルシャ軍に奪われたという話は、伝説の一つとして語られています。

インドがペルシャ軍の侵攻を受けた際、ダイヤモンドは強奪されたとされています。インドの伝説では、マデア(もしくは別の人物)がダイヤモンドを渡すことを拒んで、その両腕で頑なに握りしめていたが、最終的に両腕ごと切断されて奪われてしまったと言われています。

ダイヤモンド献上後のペルシアでは不幸の連鎖

ペルシア軍の司令官は、当時のペルシア王にその青いダイヤモンドを献上して喜ばれたが、その後、親族の失敗により処刑、国王もまた、謀反によって殺されてしまいました。

当時のペルシア王は、ペルシア軍の司令官から青いダイヤモンドを献上されて喜んだが、その後、親族の失敗により令官は処刑され、王自身も謀反によって殺害されてしまいました。

フランス王朝のルイ14世は宝石を収集していた

ルイ14世は、フランス王朝の黄金期を築いた絶対君主であり、太陽王として知られています。彼はフランスを近代国家の先駆者として発展させ、ヴェルサイユ宮殿を建てて、その内部を豪華絢爛な宝石や財宝で飾りました。

ルイ14世は、自らの権威と名声を高めるために宝石を好み、多くの宝石やジュエリーを所有していました。彼は自らの肖像画にも宝石を身につけ、その贅沢な生活様式は周囲から賞賛され、後の時代の芸術や文化にも大きな影響を与えました。

お抱え宝石商人「ジャン=バティスト・タヴェルニエ」

ジャン=バティスト・タベルニエは、17世紀にフランス王室の宝石商人として活躍した人物で、ルイ14世の時代に宝石商として有名でした。

タベルニエは、フランス王室において重要な役割を担い、ルイ14世の信頼を得ていました。彼はルイ14世のために多くの宝石やジュエリーを手配し、また、フランスにおいて宝石商人としての地位を確立しました。

vancleefarpelsjapan/YouTube
ルイ14世の依頼でインドのダイヤモンドや宝石を仕入れる

1638年に初めてのインド旅行を敢行しました。以降、1641年から1667年の間に東南アジアを含む7回の旅を行い、帰国の度に様々な商品や宝石を持ち帰りました。

タヴェルニエは、フランス王ルイ14世の依頼により、インドの王族からダイヤモンドや宝石を購入することが多くありました。当時、世界で唯一のダイヤモンドの産地はインドであり、タヴェルニエはそこから多くの貴重な宝石を手配してたのです。

インドの“ラーマ王とシータ妃の像”に埋め込まれていた

「呪いの伝説」によると、ホープダイヤモンドはヒンドゥー教寺院である女神シータの彫像の目に嵌められていた2つのうちの1つを、ダヴェヌリエが盗みルイ14世に売却したことが始まったとされています。そのことを知った僧侶が呪いをかけ、その結果、彼は「直後に熱病で死んだ」「狼に噛み殺されたて死んだ」などといった逸話が語られるようになりました。

この投稿をInstagramで見る

@frenchbluediamondがシェアした投稿 –

この投稿をInstagramで見る

Anukriti Shukla☄(@sanatan___dharma)がシェアした投稿 –

ルイ14世がホープダイヤモンドをカット!

ルイ14世は、ホープダイヤモンドをカットして新たな宝石に作り変えるよう宝石商に命じました。

2年後、ダイヤモンドは太陽をイメージした7面69カラットの宝石に変身しました。ルイ14世は「太陽王」と呼ばれるようになり、この新たなダイヤモンドには、7という数字が聖書において神性や完全性を意味するとされ、それが取り入れられたと言われています。

シネマトゥデイ/YouTube
69.03カラットのハート型

ルイ14世が命じたカットによって69.03カラットのハート型のダイヤモンドになりました。

タヴェルニエ・ブルーと呼ばれていたこのダイヤモンドは、ルイ14世が命じたリカットいよって、69.03カラットのハート型のダイヤモンドになりました。

それあはフレンチ・ブルーと呼ばれるようになり、フランスの王冠の宝石の一部となりました。

実際は諸説

この説も、ルイ14世が命じたカットによって、元の112.5カラットから69カラットにカットされたという説もありますが、実際には45.52カラットにカットされたことが確認されています。

呪いの伝説!ルイ14世に不幸な出来事が…。

ルイ14世がホープダイヤモンドを手に入れた頃から、フランスは国家の財政悪化に悩まされるようになりました。

ルイ14世からこのダイヤモンドを借りた大蔵大臣は処刑、リカットに携わったオランダの研磨士も不幸な目にあう。

また、ルイ14世には多くの子供たちがいましたが、長男であり後継者であった夭折した太子ルイ、次男のフィリップ1世、三男のアンジュー公ルイが相次いで死去し、、ルイ14世自身も老齢のために健康状態が悪化し、1715年には天然痘で病死してしまいました。

ルイ15世がペンダントとして所有

最終的には孫のルイ15世が後を継ぐことになりました。1749年に彼はホープダイヤを自分の金羊毛騎士団用ペンダントに付け直した。

「ルイ15世」が天然痘で死亡

ルイ15世は、長男であった夭折した王太子ルイ・フェルディナンに代わって即位しましたが、彼もまた健康問題に悩まされ、1774年には天然痘で死亡してしまいました。

「ルイ16世」と妻マリーアントワネットがフランス革命の結果処刑

そして、ルイ15世の孫であるルイ16世が後を継ぎ、ホープダイヤモンドも彼が受け継ぎました。しかし、彼もまたフランス革命の波に巻き込まれ、1793年には妻であるマリーアントワネットとともに処刑されてしまいました。

シネマトゥデイ/YouTube

フランス革命の時にダイヤは何者かに強奪され行方不明

フランス革命時には、1792年にフランス国内の多くの宝物が国有化され、フランス王室宝物庫に収められました。しかし、1792年9月には、反革命派が起こした襲撃事件で、宝物庫の多くの貴重品が盗まれてしまいました。この際、ホープダイヤモンドも盗まれ、その後の20年間、行方不明となってしまいました。

オランダの宝石研磨師ファルスの手渡る

1800年にオランダの宝石商ファルスがこのダイヤモンドを手にした。

時期は未定だが、ファルスがは盗品であることを隠すためにリカット。現在の45.52カラッとのクッションカットの形状となった。

不幸な出来事が発生

呪いの伝説によると、ファルスの息子がこのダイヤを勝手に売り飛ばしてしまい、そのショックでファルスは死亡。息子はのちに発狂して自殺。ダイヤを買い取った相手は、喉に肉を詰らせて窒息死した。 

ロンドンのダイヤモンド商「ダニエル・エリアーソン」が所有

1812年「フランスの青」のその後 「フランスの青」と見られるこの宝石が出現、ロンドンのダイヤモンド商ダニエル・エリアーソンが所有していたことが確認されている。どのように手に入れたのか、誰にそれを売ったのかは謎のままだ。

エリアソンが持っていた45.52カラットの青いダイヤモンドを宝石商のジョン・フランシロンが見せられ、彼はスケッチを残した。フランシロンはこのダイヤモンドについて、「汚れも傷もない」と表現しています。

不幸な出来事が発生

ダイヤモンド商ダニエルはダイヤを手に入れた数日後に落馬で死亡した。

1830年頃には誰もが知る呪いのダイヤモンドがオークションに出品

そうした中、ホープダイヤモンドは1830年頃、ロンドンで競売に出品されました。当時のダイヤモンド市場は既に成熟しており、競売会場には世界中の富裕層たちが集まっていました。呪いの噂は広まっていましたが、それでもホープダイヤモンドは高額で取引されました。

“ホープ家”が青いダイヤモンドを購入!ホープ・ダイヤモンド」の誕生

ヘンリー・フィリップ・ホープが、1830年の競売で「フランスの青」として知られるブルーダイヤモンドを落札。

長い間ホープ家が所有する事になり、「ホープダイヤモンド」と呼ばれるようになりました。

呪いは続く!?

1839年に、ヘンリートーマスホープがヘンリーの死後未亡人の娘孫フランシスに、姓をホープに変えることを条件として遺贈しました。彼はひとり息子を失ってしまい、ダイヤは甥に相続されましたが、甥は銃撃事件で片足を失うという運命にあり、石を相続していた下院議員のフランシス・ホープは1906年に親しいニューヨークの宝石商ジョセフ・フランケルに売却しましたが、フランケルも破産に追い込まれました。

この投稿をInstagramで見る

Alexander Bagnall(@alexander_bagnall)がシェアした投稿 –

カニトウスキー公爵とローレン・ラデュウの悲劇

伝説のブルーダイヤモンドの次の犠牲者となったのは、ロシア貴族のカニトウスキー公爵と美人女優ローレン・ラデュウでした。カニトウスキー公爵は1910年にダイヤモンドを購入し、その美しさに魅了されました。しかし、第一次世界大戦が勃発する前にスイスの銀行に預けたダイヤモンドは、戦争の混乱の中で行方不明になりました。

カニトウスキー公爵はこのダイヤモンドを、愛人であるローレン・ラデュウに贈りました。彼女はパリの有名劇場フォリ・ベルジエールに所属していた女優で、ダイヤモンドを舞台で胸元に飾りました。しかし、その舞台上で突然事件が起こります。彼女はズドンと音がして倒れ、観客が振り向くと、カニトウスキー公爵がピストルを手に立っていました。彼はローレンが浮気をしていると信じ込み、嫉妬に燃えて彼女を撃ち殺しました。

カニトウスキー公爵自身も、ホープダイヤモンドの呪いに冒されたのか、数日後にロシア革命党によって暗殺されました。彼と彼の愛人の悲劇は、この恐ろしい都市伝説にまた新たな一章を加えることとなりました。

不幸な出来事が発生

彼はこの妖しいダイヤを、愛人である美人女優ローレン・ラデュウにプレゼントした。パリの有名劇場フォリ・ベルジエールに所属していたローレンは、さっそく舞台でこれを胸元に飾った。ところがそのとき、ズドンと音がして、ローレンが倒れた。観客が振り向くと、なんとピストルを手にカニトゥスキーが立っている。ローレンが浮気をしていると信じ込み、嫉妬に燃えて撃ち殺したのだ。そしてカニトゥスキー自身もまたホープの呪いに冒されたのか、数日後、恋人のあとを追うように、ロシア革命党に暗殺されてしまう。

桐生 操. 知れば知るほど残酷な世界史 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1980-1989). Kindle 版.

トルコ大王アブドゥル・ハミトとオスマン帝国の滅亡

伝説のブルーダイヤモンドは、その後、トルコの大王アブドゥル・ハミトの手に渡りました。当時のオスマン帝国は滅亡寸前で、革命の気運が漂い始めていました。危険を感じたアブドゥル・ハミトは、ダイヤモンドを国外に持ち出すよう家臣の一人に命じました。

しかし、あまりにも見事なダイヤモンドを目にしたその家臣は、正気を失い、ダイヤモンドを手に脱走してしまいました。怒り狂ったアブドゥル・ハミトは、秘密警察を使って家臣を捜させましたが、結局、彼は捕まらずじまいでした。

1908年、若い将校らの決起により、アブドゥル・ハミトは退位に追い込まれました。これによりオスマン帝国は崩壊し、やがてトルコ共和国が誕生しました。ブルーダイヤモンドの呪いは、歴史に名高いオスマン帝国の滅亡にも影を落としたとされるほど、その力は強大でした。

この投稿をInstagramで見る

Кадрианй Б. Джунаеди (Ририн)(@qbayyinah)がシェアした投稿 –

ピエール・C・カルティエとブルーダイヤモンド

1910年には、有名な宝石商の一族であるピエール・C・カルティエがこのブルーダイヤモンドを購入しました。カルティエ家は世界的に知られる高級宝石ブランドであり、当時からその名は広く知られていました。

この投稿をInstagramで見る

Hendrik Thijsen(@hendrik_ath)がシェアした投稿 –

この投稿をInstagramで見る

Francesca Cartier Brickell(@creatingcartier)がシェアした投稿 –

マクリーン家とブルーダイヤモンドの呪い

1912年には、カルティエがブルーダイヤモンドに装飾を施し、アメリカ人実業家エドワード・B・マクリーンが購入しました。マクリーン氏の妻であるエバリン・ウォルシュ・マクリーンは、鉱山業者の大富豪の娘であり、ダイヤモンドを愛好していました。彼女は「ホープ」を見せられると、「呪い」の伝説を笑い飛ばし、すぐにそれを購入したとされています。

しかし、その後マクリーン家にも次々と不幸が訪れました。マクリーン夫人の息子は9歳の時に自動車事故で他界し、夫は政治的問題を起こし彼女と離婚し、狂気のうちに亡くなりました。さらに、娘も自殺し、彼女自身は薬物中毒となってしまいました。

マクリーン家の悲劇は、ブルーダイヤモンドの呪いが現実となったかのように、人々の恐怖心を煽りました。彼女の不幸な人生は、このダイヤモンドの評判を暗く覆い、その呪いを現実のものとしてしまったのです。

この投稿をInstagramで見る

Lisa Frucht(@costumeinspiration)がシェアした投稿 –

この投稿をInstagramで見る

Lisa Frucht(@costumeinspiration)がシェアした投稿 –

宝石商ハリー・ウィンストンと呪い

1949年、有名な宝石商ハリー・ウィンストンは、エバリン・ウォルシュ・マクリーンの遺産からホープ・ダイヤモンドを購入しました。呪いのダイヤモンドと噂されていましたが、彼はこのダイヤモンドを愛し、カットを変更することもなかった。

しかし、その後ハリー・ウィンストンは、事故で4度死にかけ、ビジネスに失敗し、破産するという不運に見舞われました。

現在は「スミソニアン博物館」が所蔵

呪いの影響を受けたハリー・ウィンストンですが、彼は1958年にホープ・ダイヤモンドをアメリカの「Smithsonian Institution(スミソニアン博物館)」に寄贈しました。

贈り物としては、アメリカ合衆国議会に承認された法案に基づき、博物館に譲渡されました。

Smithsonian American Art Museum/YouTube
Smithsonian Channel/YouTube

マリリン・モンローと呪いのダイヤモンド

1953年には、女優マリリン・モンローが映画の中で呪いのホープ・ダイヤモンドを身に着けたとされています。彼女はその美貌と才能で一世を風靡し、多くの人々を魅了しましたが、その後の彼女の人生は波乱に満ちていました。

1962年、わずか9年後に、マリリン・モンローは自宅で謎の死を遂げます。彼女の死は未だ謎に包まれたままであり、様々な憶測が飛び交っています。彼女がホープ・ダイヤモンドを身に着けたことが、その悲劇的な運命の原因だったのかどうかは定かではありませんが、その恐ろしい伝説に沿っていることは確かです。

ムービーコン – アニメ/YouTube

ただの都市伝説なのか?呪いと所有者たち

実際にホープダイヤを所有した人々のうち、幸いなことに呪いにかかったと言われる人はほとんどいません。ただし、実際にホープダイヤを所有していた人々の中には、呪われたというよりも単に不幸な人生を送った人々もいました。また、呪いに関する話自体が宝石商やマスメディアによって作り出されたものである可能性もあります。

Hope Diamond
カルティエによる伝説の創作説

一説には、宝石商のカルティエが呪いの伝説を作り出したとも言われています。カルティエは、ホープダイヤモンドの購入を検討していたマクリーン夫人に対して、不幸をもたらすものが逆に自分には幸福をもたらすという彼女の信念を利用しました。

カルティエは、マクリーン夫人に呪いの宝石としてホープダイヤモンドを紹介し、彼女を説得して購入させることに成功しました。このカルティエが語った物語が後に「呪いの伝説」として広がり、その影響力は現代にまで及んでいます。

パリ通信員の記事説

他の説では、ホープダイヤモンドの呪いの伝説は、1909年にパリの通信員がでっち上げた「悲惨な最期を遂げた」という架空の所有者を複数報じたことに始まるとされています。この記事がロンドン・タイムズに掲載されたことで、ホープダイヤモンドにまつわる呪いの伝説が広まり、その後数々の話が生まれていったとされています。

メイ・ヨーヘと「ダイヤモンドの謎」

さらに、この伝説が広まるきっかけとなったのは、メイ・ヨーヘでした。彼女はフランシス・ホープと離婚した後、「ダイヤモンドの謎」という著書を出版しました。その中には複数の架空人物が登場し、これがホープダイヤの呪いの伝説に拍車をかける一因となりました。

実際の所有者たちの運命

ホープダイヤモンドの呪いの伝説は、カルティエによる創作説やパリ通信員による記事、メイ・ヨーヘの著書など、さまざまな要因が重なって広まっていったものと考えられます。実際の所有者たちの運命を見ると、呪いの影響は必ずしも真実ではないかもしれませんが、その神秘性と物語性が人々の心を捉え、語り継がれていることは確かです。

現在の所有者「アメリカ」の運命

さて、不幸の宝石と呼ばれるホープダイヤモンドですが、前述のように1958年にハリー・ウィンストンがアメリカの国立博物館であるスミソニアン博物館に寄贈しました。それ以来、同館で展示されており、アメリカがその所有者となっています。

呪いの影響は?

スミソニアン博物館に展示されているホープダイヤモンドは、毎年数百万人の観光客が訪れる大変人気の展示物です。博物館のスタッフや観光客に対して、呪いによる悪影響は報告されていません。これは、呪いの伝説が単なる創作である可能性や、ダイヤモンドが博物館の展示物として扱われていることが呪いを中和しているとも言われています。

アメリカの今後

ホープダイヤモンドがアメリカの所有物であることが、アメリカ全体に悪影響を及ぼすことは考えにくいでしょう。呪いの伝説は、物語性や神秘性が人々の心を捉えるため、今後も語り継がれるでしょう。しかし、現在の状況を考えると、その呪いが実際にアメリカに影響を与えることはないと思われます。むしろ、ホープダイヤモンドは観光資源として、アメリカにとってプラスの効果をもたらしていると言えるでしょう。

created by Rinker
人々はなぜ、これほどまでにダイヤモンドに魅せられるのか? 新資料を基にダイヤモンドの魅力をあらゆる角度から検証する。 そして、光り輝くダイヤモンドが人間の文化にどのような影響を与え、どのような役割を果たしてきたか。現在に至るまでの「ダイヤ モンドと人々」との語られざる歴史を、わかりやすく紐解く一冊。興味深いカラー口絵写真30点余。(「Books」出版書誌データベースより)

You might be interested in …

当サイトではプロモーションが含まれています。また、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、これらの設定や使用に同意したことになります。詳細はプライバシーポリシーをご覧ください

X