
「生まれで人生が決まってしまう身分制度の時代」この世界のルール資本主義(0)
Feudalism
生まれで人生が決まる封建主義の世界
この投稿をInstagramで見る
封建主義社会は、資本主義社会が発展する以前の社会形態です。中世ヨーロッパにおいて、封建主義社会が主要な社会的・政治的システムとして存在していました。
君主と家来の統治体制!封建主義
産業革命以前のヨーロッパでは、封建主義社会が支配的であり、社会的・政治的システムとして存在していました。この社会システムにおいては、君主や貴族が領土を統治し、地主として農民や小作人を支配することが一般的でした。
統治者は家臣に褒美として「土地」「農民」を与えた
封建主義社会において、支配者は家臣に報酬として土地や農民を与えることがあり、これが封土と呼ばれるものでした。
家臣は、与えられた封土を支配し、そこに住む農民から税金や労働を受け取ることができました。このように、封建主義社会においては、支配者と支配される人々の間に明確な階層構造があり、上位階級はより多くの権力と特権を持っていました。
「国王」「上級貴族」は豊かな生活!一方で大多数の農民は…。
封建主義社会において、国王や上級貴族は豊かな生活を送ることができ、贅沢な生活を楽しむことができました。一方で、大多数の農民は貧しかった。
農民は土地を借りて生計を立てる
国王や上級貴族は、土地や資産を所有し、徴税や貿易などを通じて収入を得ることができました。また、彼らは戦争や外交交渉を通じて権力を拡大し、自らの利益を追求することができました。
一方で、農民たちは土地や資産を持っていなかったため、生活に必要な物資や食料を手に入れるためには、地主に税金や労働を提供しなければなりませんでした。多くの場合、農民たちは貧しい生活を送り、飢えや病気に苦しむことがありました。また、彼らは地主に従属し、支配されることが多かったため、自由な選択をすることができませんでした。
生まれた身分などで人生が決定されてしまう
封建主義社会においては、社会階級が固定されており、出生や家族の地位が将来の職業や教育の選択、または政治的・社会的機会にどのような影響を与えるかを決定することが多かったため、社会的流動性が低く、大多数の農民は貧しいままでした。
土地の所有権が一握りの人々に集中し、農民たちはさまざまな束縛を受け、経済的な負担を強いられていました。農耕に必要な土地は、教会や修道院、貴族の所有物であり、農民たちはこれらの土地を借り受け、地主に税金や労働を提供することで生計を立てていました。
このような状況は、古代ローマ帝国が滅びてから1000年近くにわたって続いたため、中世ヨーロッパの農民たちは、生活水準が向上することはありませんでした。
この投稿をInstagramで見る
Agricultural revolution
「農業革命」利益のために地主が農民から農地をぶんどった!

「農業革命」と呼ばれる社会的・経済的変革が起こった18世紀のイギリスにおいて、地主たちは自らの利益を追求するために、農民たちから農地を奪い取ることがありました。
毛織物の仕事が大発展!!
15世紀以降のイギリスでは、毛織物産業が急速に発展し、国家の主力産業の1つとなりました。イギリスでは、高品質の羊毛を生産することができたため、毛織物産業が発展したとされています。
この時期、イギリスでは羊毛の生産が奨励され、農民たちが羊の飼育を行うようになりました。また、フランドルやイタリアから技術的な進歩をもたらす職人たちが移住してきたことも、毛織物産業の発展に貢献しました。
島国のイギリスは羊を飼うための土地が不足
しかし、島国のイギリスではそのために必要な羊を飼うための土地が限られていた。
この投稿をInstagramで見る
地主が農民から農地を強制的に没収「第1次囲い込み」
そこで地主たち農民から土地を強制的に奪い、そこで羊を飼うようになりました。
このような行為を「囲い込み」と呼び、第1次囲い込みとして知られています。
第1次囲い込みによって、地主たちは広い土地を所有し、より多くの羊を飼育することができるようになりました。一方で、農民たちは自分たちが耕していた土地を奪われ、自給自足の生活が困難になりました。多くの農民たちは失業し、都市部に移住することが余儀なくされました。
第1次囲い込みは、社会的不平等を生み出す一方で、産業革命の原動力となったとも言われています。産業革命には、農業生産性の向上や、農村から都市部への人口移動が必要であり、第1次囲い込みがその一因とされています。
この投稿をInstagramで見る
この投稿をInstagramで見る
農業技術が飛躍的に発展!結果的に農家が貧困に…。
18世紀には、ノーフォーク農法と呼ばれる輪作農法が考案され、広く普及しました。
ノーフォーク農法
輪作農法とは、同じ耕地で異なる作物を輪番に栽培することで、土壌を休ませ、土壌の肥沃度を維持することができる農法です。
ノーフォーク農法は、特に穀物栽培において効果を発揮しました。伝統的な耕作では、同じ土地で何年も同じ作物を栽培することになり、土壌の栄養分が枯渇し、作物の収量が低下することがありました。しかし、輪作農法を取り入れることで、異なる作物を栽培することで土壌の栄養分を補充し、作物の収量を維持することができました。
さらに農業機械の発明や、科学的な栽培方法の確立などにより、より少ない人数でより広い農地を耕作することができるようになったのです。
農業技術の発展によって、食糧生産が増加し、人口の増加に対応できるようになりました。また、農村から都市部への人口移動が進み、都市の人口が急激に増加することになりました。これも、産業革命の発展にも大きく貢献した要因の1つです。
この投稿をInstagramで見る
農業の生産性が上昇した結果 → 賃金が低下・失業する農民
しかし、一方で、農業技術の発展によって、農民たちの生活はますます困窮するようになりました。効率的な農業生産によって需要が減少し、農民たちは失業したり、賃金が低下したりすることが多くなりました。これによって、農村部の貧困化が進んでいくことになります。
バラバラの農地をまとめよう!地主が農業の効率化を図った「第2次囲い込み」
18世紀以降、イギリスにおいては、効率的な農業生産を目指す地主たちが、農民たちを土地から追い出して、大規模な農地をつくりあげることが増えていきました。これを「第2次囲い込み」と呼んでいます。
農民は農地を奪われる
この囲い込みによって、地主たちはより広い土地を所有し、効率的な農業生産を行うことができるようになりました。しかし、同時に、農民たちは自分たちが耕していた土地を奪われ、失業や貧困化に苦しむことになりました。
第二次囲い込みも、産業革命の進展と密接に関連していました。囲い込みによって効率的な農業生産が可能となり、農村から都市部への人口移動が促進され、工業生産の発展につながりました。しかし、囲い込みによって社会的不平等が生じ、厳しい批判を浴びることになりました。囲い込みは、19世紀に入ってから法的に規制されるようになりました。
この投稿をInstagramで見る
土地を奪われた農民は都市で工場労働者に!
農地の囲い込みによって、多くの農民たちが自らの生計を立てる土地を失い、都市部に移住して工場で働くことを余儀なくされました。
この労働者たちが産業革命を支えることになる
こうして、都市部において工場労働者が増えることになり、産業革命を支える「労働力」を確保することができました。
工場労働者は、低賃金や過酷な労働条件に苦しむことが多く、労働者階級の中でも最も貧困層に属する人々でした。しかし、一方で、工場労働者たちは、新しい技術や生産システムに接することができ、その経験を通じて、後に労働者階級の運動や社会主義思想の発展にもつながっていきました。
農業経営の主体が“地主”から“資本家”に移行!!
18世紀に入り、農業生産の効率化が進んだことで、農業経営は従来の地主に代わって資本家に移行していきました。地主は、土地を所有するだけでなく、農業生産に必要な資金を投資することもできるようになり、資本主義的な農場経営が中心となっていきました。
資本家は、地主から土地を借りて、賃金労働者を雇って農業生産を行うことが多くなりました。農民は従来の自給自足的な生産方法から、市場向けの商品生産に転換していきました。農場経営は、労働者の雇用や資本の投資、市場の開拓など、資本主義経済の原理に基づいて行われるようになりました。
このような資本主義的な農業経営の発展によって、農業生産が効率的に行われ、食糧生産の増加や経済成長を促進することができました。しかし、同時に、農民たちが失業や貧困化に苦しむことも増え、社会的な不平等が生じることになりました。
資本家と労働者が分離していく「資本の本源的蓄積」
資本主義経済において、生産手段を持つ資本家と、生産手段を持たない賃金労働者の分離が進んだことを「資本の本源的蓄積」と呼びます。
資本の本源的蓄積とは、資本家が自らの資本を増やすために、生産手段を集中し、労働力を分離・絶対化することで、新しい市場や生産領域を切り拓く過程を指します。この過程で、生産手段を持つ資本家は、自らの資本を拡大し、経済的な力を強めていきます。一方で、生産手段を持たない賃金労働者は、生産手段を持つ者の支配下に置かれ、労働力を売ることで生計を立てなければなりません。
資本主義経済が発展していく
資本の本源的蓄積は、産業革命期において、労働者の分離・絶対化が進み、労働力が商品化されたことで、労働市場の形成や産業分野の拡大、新たな生産システムの確立など、資本主義経済の発展に大きく貢献しました。
Industrial revolution
「産業革命」の到来!!時代は農業から工業へ!
時代は大きく変わることになります。「産業革命」の到来です。
「産業革命」とは、18世紀から19世紀にかけて起こった、生産に機械を導入することによる効率化と、それに伴う社会の変革のことを指します。
裕福な資本家「ブルジョワジー」の誕生
「ブルジョワジー」という富裕な市民階級が誕生する、この産業革命を支えた資本家である。
ブルジョワジーとは、商工業者や金融業者、工場所有者など、自己資本を持って生産手段を所有し、利益を追求する市民階級のことを指します。彼らは、産業革命において新しい工場システムを確立し、資本を集中・拡大させ、経済的な力を強めていきました。また、ブルジョワジーは、自由主義の考え方や市場経済の発展に貢献し、近代国家や現代の民主主義社会の形成にも大きく関わっています。
資本主義の基盤が作られる
「産業革命」によって、生産活動の中で資本を持つ者が経営者となり、賃金を払って労働者を雇う仕組みが確立され、これが「資本主義(capitalism)」と呼ばれる経済体制の基盤となりました。
さらに経済的な変化だけでなく、社会的・文化的な変革ももたらしました。新しい機械技術や工場制度の導入によって、労働者たちは農村から都市へ移住し、労働条件の悪化や労働時間の長さなど、劣悪な環境下で働くことになりました。これによって、社会問題が顕在化し、労働者階級の運動や社会改革の要求が高まることになりました。
また、産業革命によって、生産や流通、消費の方法が大きく変化し、新しい価値観や文化が生まれていきました。例えば、大量生産によって製品の安価な供給が可能となり、消費者の生活スタイルや価値観に大きな影響を与えました。また、都市化の進展によって、新しい芸術や文化が発展し、社会に大きな影響を与えました。
この投稿をInstagramで見る
この投稿をInstagramで見る
Civil revolution
「市民革命」身分・支配にキレた市民が立ち上がる

「市民革命」は、支配的な社会や絶対王政から、市民中心の社会への歴史的変革のことです。市民革命は、主に18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで起こりました。
市民革命の中心にいたのは「ブルジョワジー」
産業革命によって、国王や商人以外の階層の中から、工場や機械を所有した人たちが資本家(経営者、ブルジョワジー)となり、大金持ちとなりました。彼らは、生産手段を所有することによって、賃金労働者を雇用し、利益を得ることができました。このように、資本主義経済が発展することで、資本家が市民社会で重要な役割を担うようになりました。
産業革命によって経済的に発展したブルジョワジーは、政治的な権利の拡大を求め、封建的な支配から脱却しようとしました。具体的には、議会主権や憲法制定、民主主義、市民的自由、個人の権利や財産権の保護などを要求しました。
彼らは市民革命を推進し、王様による政治を終わらせ、議会主権の下での政治を実現しました。
この革命によって、ブルジョワジーは政治的な権力を手に入れ、近代国家の基盤を築くことに成功しました。
しかし、一方で、労働者階級や農民など、社会の下層にいた人々は、ブルジョワジーによる支配から解放されなかったという批判もあります。
「ブルジョワジー革命」とも呼ばれている
市民革命という用語は、より広範な意味を持つために用いられる場合もありますが、一般的にはブルジョワジーによる革命という意味で使われることが多い。
「自分のものは自分のもの」今の私たちの当たり前の概念が誕生

「自分のものは自分のもの」という考え方は、市民革命がもたらした価値観の一つです。市民革命によって、封建制度が崩壊し、地主や王侯貴族による支配が弱まりました。その代わりに、個人の自由や財産権が尊重されるようになり、人々は自己責任で生きることが求められるようになりました。このような考え方は、現代においても一般的な価値観の一つであり、私有財産や自己責任、自由市場経済などが支配的な思想として広く受け入れられています。
近代の資本主義の誕生
「自分のものは自分のもの」という言葉は、所有権に関する考え方を表しています。
所有権は、ある物や財産を自分が所有していると主張する権利であり、その物や財産を支配する権利を含みます。所有権は、個人や企業の生産や投資活動を保護するために重要な概念であり、現代の資本主義社会では、私有財産制と呼ばれる全面的な所有権の確保が重視されています。
資本制社会は、全面的な所有権を承認することから始まったのだ。
Capitalism
身分のない自由社会!「資本主義の誕生」

資本主義は、身分のない自由社会を目指す経済・社会システムです。
“貴族・王族”の支配が終わり“資本家”の時代へ
「貴族・王族」の支配が終わり、資本主義社会の時代が到来しました。この社会では、一部の資本家が生産手段を支配し、多数の労働者を雇用して利益を上げる仕組みでした。これにより、労働者たちは生産手段を持たず、自己決定能力を持たない労働者階級としての地位に追いやられ、資本家たちによる経済的支配を受けることになりました。
「もっと自由を!」
産業革命により生産力が飛躍的に向上し、市場経済が発展するにつれて、産業資本家たちは自由放任経済を求めるようになりました。自由放任経済とは、政府が市場経済に介入することを極力避け、市場競争を自由に行わせることを主張する経済理論です。彼らは、自由競争の下で市場が効率的に機能し、経済的な発展が促進されると信じていました。
自由放任経済とは、市場経済の自由競争を前提とし、国家が市場に介入しないことを主張する経済理論のことです。この考え方は、当時のイギリスで広く支持され、政府の経済干渉を最小限に抑え、資本主義の発展を促す政策が取られました。
資本に左右される社会を批判するために生まれた言葉「資本主義」
19世紀半ばの西欧で、資本の論理に左右される当時の過酷な経済社会を批判するために、「資本主義」という呼び方が生まれた。
植民地支配が始まった
産業革命を成功させた欧米諸国は、原料の確保と市場の開拓のために、アジアやアフリカなどの地域に進出し、植民地化していきました。
資本主義と植民地は密接に関係しています。資本主義の発展により、欧米諸国は原料や市場を求めてアジアやアフリカ諸国などに進出し、植民地を形成していきました。これにより、欧米諸国は植民地から安価な原料を得て工業生産を拡大し、さらに植民地を拡大することで市場を確保していました。
植民地支配によって、欧米諸国は植民地の人々を労働力として利用し、植民地の経済を自国のために利用しました。また、植民地支配によって、植民地の文化や政治体制を抑圧し、自国の文化や政治を押し付けることが行われました。
今も問題!都市部の人口集中
産業革命によって工場が生まれ、大量生産が可能になったことで都市部に多くの労働者が集まりました。また、農業革命によって生産性が向上したことで、少ない人数で農業生産が可能になり、農村部から都市部への人口移動も進みました。このように産業革命と農業革命によって、人口の都市集中・都市化が進み、資本主義社会が形成されていったと言えます。
格差が広がり社会主義を生み出すきっかけに
産業革命は生産性を飛躍的に向上させ、豊かな生活をもたらした一方、労働者たちが劣悪な労働条件下で働かされたり、児童労働が広がったりするなど、深刻な社会問題を引き起こしました。このような状況から、資本主義経済の批判が高まり、社会主義思想が発展していきました。社会主義は、生産手段の共有や公平な富の分配を目指す思想であり、19世紀後半から20世紀にかけて、社会主義革命が起こった国もありました。
この記事の続きを読む▼