アントワープという街は、ヨーロッパの歴史と文化に深く根ざした都市であり、その発展の一翼を担ってきたのが、ダイヤモンド産業です。
Antwerp from Belgium
アントワープ
アントワープはベルギーの第二の都市であり、フランダース地方に位置しています。
また、オランダ語が公用語となっており、フランス語よりもより広く使われています。同様に、ブルージュやゲントでも、フランダース地方に位置しているため、オランダ語が広く使われています。
アントワープの地名の由来についてはいくつかの説があります。
ブラボーの伝説によれば、アントワープの名前は、巨漢のブラボーが巨大な手で投げた切符を受け取ったことから、”hand werpen”(手を投げる)に由来すると言われています。
また、別の説では、アントワープの名前は、スカンジナビア語の”antrwif”(水路を通る場所)に由来するとされています。どちらが正しいのかは定かではありませんが、両方の説が伝えられています。
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名作「フランダースの犬」の聖地
小説「フランダースの犬」は、1872年にイギリスで出版された児童文学作品であり、アントワープを舞台としています。この小説は世界中で愛され、多くの人々がアントワープを訪れるきっかけとなりました。
アントワープには、小説に登場する犬の像があり、また、小説の舞台となった場所や関連施設が残っているため、小説ファンにとっては聖地ともいえる場所となっています。
ユネスコ世界遺産「ノートルダム大聖堂」
アントワープのノートルダム大聖堂は、市内を代表する観光スポットのひとつであり、美しいゴシック様式の建築で知られています。
この大聖堂は、1352年から1521年の間に建設され、高さ123メートルの塔が特徴的です。
内部には、多くの宝物や芸術作品が展示されており、また、大聖堂からは市内を一望できる展望台も設置されています。ノートルダム大聖堂は、アントワープを訪れた際には必見の観光スポットです。
『フランダースの犬』のラストシーンは、アントワープのノートルダム大聖堂が舞台になりました。
このシーンは、主人公の少年ニロが愛犬パトラッシュと共に死に向かっていく場面であり、感動的なラストシーンとして知られています。
小説のファンにとっては特に印象深いものであり、多くの人々がアントワープを訪れてます。
世界一美しい駅「アントワープ中央駅」
アントワープ中央駅は、1905年に開業した駅であり、世界でも有数の美しい駅のひとつとして知られています。
駅舎は、ベルギーの建築家ルイ・ド・ラ・クエストによって設計され、ベルギー王立美術アカデミーの教授であるアントワーヌ・ヴァン・ドイノヴェンによって彫刻が施されました。
駅舎の外観は、ベルギーのルネサンス様式やゴシック様式などを融合させた美しいデザインであり、内装には高い天井、美しいステンドグラスの窓、大理石の床、そして華麗な装飾が施されています。
アントワープ中央駅は、観光客にとっても人気の観光スポットのひとつであり、美しい建築と歴史的価値を持っています。
世界中の船が集まる!貿易の街!
16世紀、アントワープはヨーロッパ有数の貿易都市として栄え、芸術、科学、文学などの分野で繁栄を極めていました。
当時、アントワープはネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を統治するハプスブルク家の一部でした。
しかし、16世紀後半には、宗教改革の影響や政治的な混乱がアントワープの繁栄に影を落とします。
宗教改革は、カトリック教会の権威に対する批判と新しい宗教運動(プロテスタント)が広がり、ヨーロッパ全土で宗教的対立が起こりました。
ネーデルラントでは、プロテスタントが台頭し、カトリック教徒との対立が激化しました。これに対し、スペインのフェリペ2世が厳しい反抗弾圧を行い、八十年戦争(1568-1648)が勃発します。
アントワープは、八十年戦争のさなか、1585年にスペイン軍によって占領されます。
これにより、プロテスタント信者や商人、芸術家らがアムステルダムやイングランド、ドイツへと亡命し、アントワープの繁栄は一時的に途切れることとなりました。
しかし、その後もアントワープは徐々に回復し、18世紀から19世紀にかけて再び繁栄を取り戻します。
そして現在、アントワープ港は、その戦略的な位置から北海とヨーロッパ内陸へのアクセスが容易であり、多くの国際企業が物流拠点として利用しています。
また、アントワープ港はヨーロッパの鉄道網とも結ばれており、さまざまな交通手段を利用して効率的な物流が行えることが、その発展に大きく寄与していま
港の発展に伴って、アントワープは物流や工業、商業などの産業が集まる拠点となりました。石油化学産業や自動車産業などの大企業が進出し、経済活動が活発化しました。
また、ダイヤモンド取引の中心地としての地位も相まって、アントワープは国際的な商業都市として成長を遂げています。
Diamond City
光の輝き、ダイヤモンドの都アントワープの物語
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アントワープとダイヤモンド取引の歴史は深く、15世紀からダイヤモンド取引の中心地としての地位を築いてきました。
当時、ヴェネツィアがダイヤモンド市場の主要拠点でしたが、ポルトガル人がインドへの航路を開拓したことで、ヨーロッパとインドとの間でダイヤモンド取引が活発化しました。
この新たな航路により、ダイヤモンドはアントワープへと流入し始め、ベルギーがダイヤモンド産業の中心地へと発展するきっかけとなりました。
ダイヤの街アントワープの始まりは「ブルゴーニュ・シャルル突進公」
アントワープとダイヤモンドの関係は、実際には1400年代、ブルゴーニュ公シャルル突進公の時代にまで遡ります。
シャルル突進公はヴァロワ・ブルゴーニュ家の事実上最後の君主で、ローマ皇帝になることを目指し、生涯を戦いに捧げました。
その一方で彼は貿易によって多くの税収入を得ることに成功し、その利益を用いて豪華な品々を購入していました。
シャルル突進公は、無類のダイヤモンド好きであり、ダイヤモンドが権力の象徴であり幸運をもたらすと信じていました。そのため、彼は常にダイヤモンドを身につけていました。
このことが、アントワープにおけるダイヤモンド取引やダイヤモンド加工技術の発展に影響を与え、その後のアントワープのダイヤモンド産業の発展に繋がっていったと考えられます。
“Point n’est besoin d’espérer pour entreprendre, ni de réussir pour persévérer.” Charles de Valois-Bourgogne, dit Charles le Téméraire, quatrième et dernier duc de Bourgogne, 1433 – 1477 pic.twitter.com/JunFGn9LPh
— JmyLss ن (@JmyLss) March 17, 2020
初のエンゲージリング
ブルゴーニュのマリー(マリー・ド・ブルゴーニュ)は、シャルル突進公の一人娘で、ヴァロア・ブルゴーニュ家の4代目君主でした。
彼女は世界で初めてエンゲージリングのダイヤモンドを贈られたことで有名です。
なんとかダイヤを研磨したい
当時のダイヤモンドは、カットや割ることはできても、研磨や切断ができませんでした。
そこでシャルル突進公は、アントワープで最高の技術を持っていたとされるルドヴィック・ヴァン・ベルケム(Lodewyk van Berken)にダイヤモンド研磨を依頼しました。
試行錯誤を重ね……ついに!
ヴァン・ベルケムは試行錯誤の末、ダイヤモンドをダイヤモンドで磨く新たな方法を開発しました。
彼は皮や木の板ではなく、鋼鉄の回転盤の上で粉末状のダイヤモンドを使用し、大きなサイズのダイヤモンドを磨くことに成功しました。
これにより、ダイヤモンドに明確なファセットを付けることが可能となりました。
多額の報酬
このダイヤモンド研磨技術の報酬として、ヴァン・ベルケムは3,000ダカットを受け取りました。1ダカットはヴェネツィアで発行された純金の金貨で、重さ約3.5gです。
つまり、3,000ダカットは約10,500gの純金に相当します。2018年現在の金1グラムあたり約5,000円の価値があるとすると、彼が受け取った報酬はおおよそ5,250万円に相当します。
ユダヤ人の研磨職人
ユダヤ系ベルギー人のローデウィク・ファン・ベルケンがダイヤモンド研磨用の円盤を発明したことが、アントワープのダイヤモンド産業の発展に大きな影響を与えました。
ユダヤ人の活躍
彼の革新的な技術により、アントワープに多くのユダヤ人ダイヤモンドカット職人が集まり、研磨所が次々と設立されるようになりました。
その結果、アントワープは世界的なダイヤモンド加工技術の中心地として発展し、ユダヤ人コミュニティも繁栄を遂げることとなりました。
今や西のエルサレムと言われている
アントワープ中央駅周辺に集まるユダヤ人は、ダイヤモンド産業を通じて繁栄を築いており、そのコミュニティは「西のエルサレム」と呼ばれるヨーロッパ最大のユダヤ人コミュニティを形成しています。
歴史上、ユダヤ人は度々迫害を受け、小さくて高価なダイヤモンドが持ち歩きやすい財産として重宝されました。そのため、ダイヤモンドビジネスに深く関与することとなりました。
アントワープのユダヤ人共同体は、自らの伝統や文化に誇りを持っており、繁栄を続けています。
多くのユダヤ人がダイヤモンド産業に直接的に、あるいは間接的に関与しており、その産業から得られる利益が彼らの豊かさにつながっています。
このように、アントワープのユダヤ人共同体とダイヤモンド産業は密接に結びついており、その関係は現在も続いているのです。
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ダイヤモンドのおかげで金融も発展
16世紀にアントワープは、ヨーロッパで重要な金融都市としての地位を確立しました。
当時の金融産業は宝飾と密接な関係にあったため、アントワープはダイヤモンド取引の中心地として繁栄し、その影響で金融産業も急速に発展しました。
アントワープの金融産業は、銀行、証券取引所、保険、投資など、さまざまな分野に及んでいました。また、この都市は重要な貿易ルート上に位置し、当時のヨーロッパ諸国と商業取引を行っていました。
これにより、アントワープは国際的なビジネスや金融のハブとなり、多くの商人や銀行家がこの街に集まりました。
金融産業と宝飾業の繁栄は、アントワープの経済発展に大きく貢献しました。
この時代のアントワープは、ヨーロッパを代表する商業都市のひとつとして、現代においてもその名声を保っています。
ダイヤモンドの中心地がアムスタルデムへ
1582年に設立された世界で最初のダイヤモンド商業団体は、アントワープのダイヤモンド産業の繁栄を象徴していました。
しかし、八十年戦争が勃発し、アントワープが略奪されたことで、プロテスタント派のダイヤモンドカッターたちはオランダのアムステルダムへ亡命しました。
この熟練職人たちの亡命は、アムステルダムでダイヤモンド産業が繁栄するきっかけとなりました。
17世紀には、オランダの海軍と商船隊がポルトガルとの戦いに勝利し、ヨーロッパの覇権を奪取。多くの船乗りが「大洋航行経験者」の称号を得ることで、アジア貿易が盛んになりました。
この結果、ダイヤ原石を含む重要な商品の物流がますますオランダ人の手に渡ることになりました。
アムステルダムは、アントワープとともに、ダイヤモンド産業の中心地として名声を高めていきました。
この時代を通じて、アントワープとアムステルダムは、世界的なダイヤモンド取引の中心地として競い合うことになります。
“ルイ16世”からアントワープにカットの依頼
18世紀後半、アントワープは再びダイヤモンド産業の中心地として活気を取り戻しました。
フランスのルイ16世がアントワープにダイヤモンドのカットを依頼したことが、この躍進のきっかけとなりました。
ルイ16世がアントワープの職人たちの技術を高く評価したことで、アントワープのカット技術は再び世界的な注目を集めるようになりました。
「ダイヤモンド・クラブ」発足!
19世紀に入ると、アントワープのダイヤモンド研磨の経営者たちは、アントワープ中央駅近くのカフェに集まり、相談や情報交換を行うようになりました。
次第にこの場所が商談の場としても利用されるようになり、ダイヤモンド業界のコミュニティが形成されました。
やがて彼らは、ペリカン通りのメインストリートにビルを建て、「ダイヤモンド・クラブ」として正式に発足させました。
ダイヤモンド・クラブは、業界の人々が集まり、商談や情報交換が行われる場所として、アントワープのダイヤモンド産業において重要な役割を担うようになりました。
これにより、アントワープはますますダイヤモンド取引の中心地としての地位を確立していきました。
そして世界一のダイヤモンドの街に!
1980年代から現代にかけて、アントワープはダイヤモンドビジネスにおいて欠かすことのできない街となりました。
アントワープのダイヤモンド産業は、ベルギー政府の国策により税制面で優遇され、より自由な取引が可能な街へと進化していきました。
このような状況が、ダイヤモンド取引に必要なインフラの整備につながりました。
アントワープでは、銀行、運送業者、税制、技術、経験豊富な人材、輸出入の規制など、ダイヤモンド取引に必要なすべてのインフラストラクチャーが高次元で整っています。
これにより、アントワープはダイヤモンド産業において世界的なリーダーの地位を確立し、今日までその地位を維持し続けています。
世界一のダイヤモンド・シティ「アントワープ」を徹底解説!(2)